カテゴリ:生物学( 13 )

生物たちのささやきに耳を澄ます〜『生命の逆襲』

●福岡伸一著『生命の逆襲』/朝日新聞出版/2013年4月発行

b0072887_20184470.jpg 雑誌「AERA」に連載中のコラムをまとめた本で『遺伝子はダメなあなたを愛してる』の続編にあたる。

 人間は進化の頂点に立っていると自負しているけれど、実際には地球上における新参者である。ほとんどの生物はヒトの大先輩であり、より長い時間を経験している分、完成度もより高いといえる。本書はそうした認識に立って「人間の思惑に対して、生物たちがどんなふうに逆襲を果たすかについて、あれこれ考察」する。むろん逆襲といっても「攻撃や復讐ではありません。つねに教訓と展望を含んだ諭しであり、寛容さの表れなのです。私たちはドリトル先生のように、彼らのささやきに耳を澄ませ、そしてリスペクトを示さなければならないのです」。

 書名にも関連する〈生命は逆襲のチャンスを待っている〉と題した文章はコモドオオトカゲの狩りを論じて大いに示唆的である。
 自分たちよりも大きな水牛をいかに仕留めるのか。まず一瞬のすきをついて水牛の後ろ脚をひと噛みする。そしてすばやく退却。脚の咬み傷から細菌が侵入し、水牛は徐々に弱っていく。衰弱して反撃する力を失った頃を見計らって集団で襲いかかる──。その間、コモドオオトカゲは「待つ」ことができるのだ。それは「待つ」ことの意味を理解しているということでもある。

 私たちヒトは、自分たちだけが高度な知性を持つ生命体だといつも自負しています。人間だけに心の働きがあると信じています。でもそんなことはありません。待つというのはなかなか高等な心の作用です。生命はいつも逆襲のチャンスを狙っているのです。(p105)

 本書にはこのような生命をめぐる洞察への手引きとなるような興味深い生物の生態や生物学的知見がさりげなくちりばめられている。

〈ホタルが光るまでの長い長い道のり〉を概説した一文は、生態系のなかで「動的平衡」がかろうじて成立していることを教えてくれる。
 細胞が次々に分裂して増殖していく単細胞生物の死について思いをめぐらすかと思えば、メスとオスの違いを生物学的に考察して、男という性は「遺伝子の運び屋として進化の途上に後から発明されたもの」という男性不完全論も興味深い。

 脳ですら再生できる両生類・ウーパールーパーの生態にも驚かされるし、多摩川の下流域におりて、ささやかな生き物の生態に触れ〈境界の豊かさに目を向けよう〉と呼びかける小文も良い味を醸しだしている。

 メディアの寵児ということもあり、他の単行本とネタ的にかぶっている文章も少なからず含まれているが、それにしても引き出しの多い優れた書き手という印象に変わりはない。
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by syunpo | 2015-11-19 20:23 | 生物学 | Trackback | Comments(0)

人間からの離脱と帰還〜『理不尽な進化』

●吉川浩満著『理不尽な進化 遺伝子の運のあいだ』/朝日出版社/2014年10月発行

b0072887_2032727.jpg ダーウィンが提唱した進化論(ダーウィニズム)は、適者生存の教えとして知られている。しかし「これまでに地球上に出現した生物種のうち、じつに九九・九パーセント以上はすでに絶滅してしまっている」という。ならば現在残っている種は、厳しい生存競争を勝ち抜いてきたスーパーエリートたちなのだろうか。そうではない。「千にひとつの僥倖に恵まれた」だけである。つまり進化の根底には理不尽な偶発性が横たわっているのだ。著者はいう。

 栄光の軌跡はたしかにいいものだけれども、生存に失敗することが生物としてむしろ標準的なありかたなのだとしたら、そうした失敗からこそ多くを学ぶことができるはずなのだ。(p27)

 かくして本書では「理不尽な進化」という概念を理解するために、進化論の俗流解釈や誤解のあり方を概観したのち、それらとも連関する専門家による激しい論争のプロセスをあとづけていく。

 進化論が社会に広く行き渡ったとき、それは社会ダーウィニズムとして強い影響力をもつことになった。優勝劣敗、弱肉強食などダーウィン以前の発展的進化論にまつわる言葉がダーウィニズムの名のもとに様々な局面で転用されていったのである。いわく「ダメなものは淘汰される」「電子出版の時代における出版社の生存戦略はなにか」などなど。そうした物言いはもっぱら資本主義における効率主義や競争原理の正当化に一役買ってきた。そのような進化論理解は素人の勝手な解釈とも言い切れず、自然淘汰説のトートロジカルな性質によって導かれるものである。

 一般には、「ダーウィン革命」によって近代人の思想にダーウィン進化論がインストールされたと考えられているが、実相は異なる。革命の名において人びとの思想に住みついたのは、ダーウィン進化論ではなく、それ以前から醸成されていた近代的進歩史観の進化論版である「発展的進化論」であった。つまりそれは実際には「非ダーウィン革命」であった。(p164〜165)

 専門家の間で戦わされた論争においても、自然淘汰説は問題の焦点となった。本書ではスティーヴン・ジェイ・グールドとリチャード・ドーキンスの論戦にスポットがあてられ、その顛末が詳細に吟味されている。そこに本書のエッセンスが詰まっているといえよう。

「自然の説明」と「歴史の理解」の中間に位置する進化論は、科学的方法としては卓越している一方で、生命史の理不尽さに対するアプローチとしては優れているとはいえない。著者の見立てによれば進化論の適応主義を批判したグールドはその中間で苦しんだ進化論者である。科学的論争においては論破されることは必然だったが、彼の残した敗走の軌跡は今なお無視することができないのではないか。グールドは、まさしく進化の理不尽さに執着しながら「進化論が進化論であるための条件を原理的に確保しようとする姿勢」を維持し続けた科学者だったのだ。

 どうしてグールドが困った立場に陥ったのか。私は次のように考える。それは彼が、進化論(ダーウィニズム)が私たちに呼び覚ます魅惑と混乱の源泉を正しく見定めたからだと。(p273)

 本書がよく出来た進化論入門というレベルを超えて読者に強く訴えかけてくるのは、グールドをとおして進化の理不尽さに思いを致し、そこに進化論の両義的な性質を再確認したことによる。その作業から「自然の説明」と「歴史の理解」という人間の二つの営みの葛藤を浮かび上がらせ、科学では捉えきれない人間存在の理不尽さへの想像力を喚起させるところが本書を滋味豊かなものにしているといえるだろう。ただし著者の幅広い知見をちりばめた饒舌な筆致は好悪を分かつかもしれない。
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by syunpo | 2015-06-25 20:41 | 生物学 | Trackback | Comments(0)

チンパンジーの研究から考える人間らしさ〜『想像するちから』

●松沢哲郎著『想像するちから チンパンジーが教えてくれた人間の心』/岩波書店/2011年2月発行

b0072887_2162523.jpg 本書の著者である松沢哲郎は〈アイ・プロジェクト〉とよばれるチンパンジーの心の研究で知られる学者。アフリカの野生チンパンジーの生態調査も行なっていて、チンパンジーの研究をとおして人間の心や行動の進化的起源を探究している。

 人間の体が進化の産物であるのと同様に、その心も進化の産物である。いったんそう理解してしまえば、教育も、親子関係も、社会も、みな進化の産物であることがわかる。チンパンジーという、人間にもっとも近い進化の隣人のことを深く知ることで、人間の心のどういう部分が特別なのかが照らしだされ、教育や親子関係や社会の進化的な起源が見えてくる。それはとりもなおさず、「人間とは何か」という問いへの一つの解答だろう。(p2〜3)

 そのようにして著者たちが切り開いたのは比較認知科学とよばれる新しい研究領域である。「毎日、新しい何かをチンパンジーが教えてくれる」という研究によって明らかになってきたチンパンジーの特徴はじつに興味深いものだ。互恵的な役割分担はしない。親が子どもに何かを教えることはせず、子どもは大人の真似をすることで学習する……。
 人間にもっとも近いチンパンジーとの相違点から著者は人間の特徴を以下のように導き出す。

 人間とは何か。その答えは「共育」、共に育てるということだ。共育こそが人間の子育てだし、共育こそが人間の親子関係である。(p42)

 人間は、進んで他者に物を与える。お互いに物を与え合う。さらに、自らの命を差し出してまで、他者に尽くす。利他性の先にある、互恵性、さらには、自己犠牲。これは、人間の人間らしい知性のあり方だといえる。(p78〜79)

 今ここの世界を生きているから、チンパンジーは絶望しない。「自分はどうなってしまうんだろう」とは考えない。たぶん、明日のことさえ思い煩ってはいないようだ。
 それに対して人間が容易に絶望してしまう。でも、絶望するのと同じ能力、その未来を想像するという能力があるから、人間は希望をもてる。どんな過酷な状況のなかでも、希望をもてる。
 人間とは何か。それは想像するちから。想像するちからを駆使して、希望をもてるのが人間だと思う。(p182)


 科学者としての合理的思考を突きつめつつ、チンパンジーに対する愛情がそこここに感じられもする文章で、楽しみながら読み進むことができた。
 人間を特徴づけるものとしての〈想像するちから〉。文学者なども〈想像力〉という言葉をよく使うけれど、〈想像するちから〉とあらたまって科学者から発せられると、また違った意味合い・重みが感じられる。
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by syunpo | 2015-06-04 21:16 | 生物学 | Trackback | Comments(0)

ヒトの社会性を見直す〜『「サル化」する人間社会』

●山極寿一著『「サル化」する人間社会』/集英社インターナショナル/2014年7月発行

b0072887_2041920.jpg 人間は「家族」と「共同体」の二つの集団に所属して生きている。これは霊長類学的見地からみると、非常に複雑で不思議な現象なのだという。家族は身内を一番に考えるえこひいきの集団なのに対して、共同体は平等や互酬性を基本とする。成立の原理が異なる二つの集団を人間は自在に往還して生きている。人間以外の動物は二つの集団を両立させることはできない。人間だけが二つの集団を上手に使いながら進化してきたのだ。

 ところで、ゴリラには群れの仲間の中で序列を作らないという特徴がある。喧嘩をしても、誰かが勝って誰かが負けるという状態にならない。じっと見つめ合って和解する。ゴリラの社会には勝ち負けという概念がない。他方、サルはゴリラとは正反対で、まさに勝ち負けの世界を作り出している。サル社会は純然たる序列社会で、もっとも力の強いサルを頂点にヒエラルキーを構築していることは周知の事実だろう。
 家族と共同体をもつ人間社会はどちらの部分も備えている。かかる人間独自の社会性の発揮は、人類の卓越した共感能力に拠るものではないかと著者はみる。
 強いものが弱いものに食べ物を分け与えるという行為は、類人猿に特徴的なものだが、人間はさらに、シンパシーつまり同情という感情をもつようになったのである。これはほかの霊長類には希薄な情緒だという。

 ……共感以上の同情という感情を手に入れた人間は、次第に「向社会的行動」を起こすようになります。
 抗社会的行動とは、「相手のために何かをしてあげたい」「他人のために役立つことをしたい」という思いに基づく行動です。人類が食べ物を運び、道具の作り方を仲間に伝えたのも、火をおこして調理を工夫したのも、子どもたちに教育を施し始めたのも、すべて向社会的行動だろうと私は思います。(p161~162)


 このような特殊な社会性をもって営まれてきた人間社会ではあるが、昨今は家族の解体がすすみ個食化現象も一般化してきた。加速的にサル社会化している、というのが著者の認識である。すなわち本書の表題は、著者が憂慮する未来の姿をたとえたものなのだ。

 日本に発祥した霊長類学の学統を受け継ぐ山極寿一の知見にはやはり学ぶべきところは多い。が、本書に関しては率直にいってまとめ方がやや陳腐という印象を拭えなかった。
 フェイス・トゥ・フェイスを基本とするゴリラ社会のコミュニケーション・スタイルを引きながらIT社会に対する懐疑を示しているところなどは、SNSの実態を知らないのだろう、ピント外れの批判に終わっている。
 また家族の解体を嘆息しつつ述べている「人間がひとりで生きることは、平等に生きることには結びつかない」というテーゼを強引に一般化するのもいささか乱暴ではないか。共食から個食化への移行が進む現状を憂うことには生物学的な正当性が一定程度あるとしても、そこから安直に旧套な家族制度を称揚するにいたる結論には今ひとつ「共感」できなかった。
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by syunpo | 2015-03-20 20:12 | 生物学 | Trackback | Comments(0)

越境的に生命を考える〜『せいめいのはなし』

●福岡伸一著『せいめいのはなし』/新潮社/2012年4月発行

b0072887_2020525.jpg 福岡伸一の対談集としては『エッジエフェクト』『動的平衡ダイアローグ』との間に刊行されたもの。相手は内田樹、川上弘美、朝吹真理子、養老孟司の四人。福岡の提唱する「動的平衡」をベースに多角的に生命をめぐる対話が交わされている。

 ただ本書に関してはゲスト側の発言が総じて凡庸で、とりわけ内田、養老の男性二人は粗雑な一般論に流れがちなのが引っ掛かった。そういう展開では福岡の良さもあまり出てこない。このあとに出た『動的平衡ダイアローグ』の面白さに比べると本書の内容はいささか大味という感じがする。

 そのなかで印象に残ったやりとりを書きとめておこう。
 内田との対談のなかで、福岡は周囲の細胞とコミュニケーションできなくなって永遠の「自分探し」を始めた細胞としてガン細胞を擬人化している。ES細胞(胚性幹細胞)も同種のコミュニケーション不全に陥った細胞だと考えられる。そこで福岡はいう。

 細胞分化をコントロールすることは基本的にできないので、ガンをコントロールできる程度にしか、ES細胞を私たちはコントロールできないのです。ES細胞に、バラ色の未来を描くことについて、私は非常に懐疑的です。(p36~37)

 福岡は末尾に添えられたまとめの文章のなかでこの部分に注釈を加えていて、新しい治療を待っている患者の期待を承知したうえで「応用を急ぎすぎるな」と注意を促している。その後の理研のiPS細胞に関する論文撤回騒動などをみていると、福岡の懐疑は一面の真理をついているのではないかと思う。
 ちなみに書名はバージニア・リー・バートンの『せいめいのれきし』へのオマージュがこめられている。
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by syunpo | 2014-10-16 20:25 | 生物学 | Trackback | Comments(0)

記憶は不思議ならせん階段である!?〜『生命と記憶のパラドクス』

●福岡伸一著『生命と記憶のパラドクス 福岡ハカセ、66の小さな発見』/文藝春秋/2012年9月発行

b0072887_2011682.jpg 文筆の才でも名を馳せる分子生物学者の福岡伸一。本書は週刊文春に連載しているエッセイを編んだもので『ルリボシカミキリの青』につづく第二弾である。内容的には雑多な題材を扱っているが、標題にあるとおり生命と記憶の逆説的な事象をめぐる科学者らしい随想が全体をとおしてちりばめられている。「散らばった記憶の断片。消えてしまった記憶の痕跡。このエッセイ集もまた、かつてそこにあり、今や失われてしまった何かを紡ぎ合わせるために書かれたものである」と著者はいう。

 微生物や植物ならほとんど自前で作り出すことができる「必須アミノ酸」を食物から摂取しなければならなくなったヒトの不自由さにヒトの動物性の所以を見出したり、一見女王バチのもとで酷使されているかのように見える働きバチこそ「生の時間を謳歌している」と主張したり。
 腸内細菌の種類もまた人の住む風土に由来することを述べて「生まれ育った場所のものを食べることは生物学的にも合理性がある」と結論づける一文なども昨今推進されている「地産地消」を生物学の見地から支持するものとして興味は尽きない。

 小さい頃から読者家だったらしく書物をめぐる追想もなかなかに面白いし、フェルメールの絵画をはじめアートにも造詣が深い福岡ハカセの美質も随所ににじみでている。さりげない筆致のなかに深い内容を具えた、読み応え充分のエッセイ集だ。
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by syunpo | 2014-04-26 20:15 | 生物学 | Trackback | Comments(0)

自由であれ、と遺伝子は言う〜『遺伝子はダメなあなたを愛してる』

●福岡伸一著『遺伝子はダメなあなたを愛してる』/朝日新聞出版/2012年3月発行

b0072887_20241960.jpg 日常生活のふとした場面でわきおこるささやかな疑問。職場や家庭で遭遇する様々な悩み。それらに生物学者の福岡伸一が応答する。本書はそのような形式で週刊誌アエラに連載されたエッセイを集めたものである。疑問や悩みに対して直接的に答えているものもあるが、むしろそれを前フリにして生物学的見地から一文を草するといった趣が強い。文化全般にも広いアンテナをもつ学者のこと、けっこう楽しい読み物になっていて、福岡の持ち味がよく発揮された本といえる。

「食うか食われるかの競争社会。これが生き物のさだめかと思うとむなしくなります」という問いかけに対して、クロレラと共生するミドリゾウリムシの例を引いて、生物界には競合関係を止揚するような「美しい」事例もあることを紹介する。

 花粉症対策を問う声には、イサム・ノグチの彫刻作品〈ヴォイド〉をマクラに振って免役システムを大雑把に解説したあとに「免役系にとって自己とは、うがたれた空間、すなわちヴォイドです」と結論して、含蓄に富む掌編に仕立てている。

 庭のカラタチがアゲハの幼虫に食われたことを「憎らしい」とする意見には、蝶の幼虫の棲み分けの実態を説いたうえで、むしろ人間社会に苦言を呈す。「人間だけが共有ではなく占有を求めています」。

 あとがきにかえて綴られた末尾の一文に本書のエッセンスが詰まっているというべきかもしれない。福岡はそこで、蟻のコロニーでは常に一割程度のサボる蟻が出現するという研究結果を紹介している。何故蟻のコロニーはそのようなサボタージュを許容しているのか。──働かない蟻がいると、環境が急変したり、危機に瀕したとき、遊軍をすぐに振り向けることができ、組織の存続にとっては有利であるから、と一般的には説明される。
 しかし、よく考えてみると、そのような遊軍を常備しておくことは「いざ」という時には役立つだろうが、その「いざ」がいつやってくるかはわからない。サボる蟻が常に出現することは適応的な考え方だけからは説明できないと福岡はいう。

 生物の特性や容態を、部分的に切り取ってそこだけを適応的に説明すると、しばしば無理な議論や作り話になってしまいがちで、生命が本来的にもつ自由度が見失われてしまうのではないか。そんなふうに私は感じるのです。むしろ、生命のありようには、言葉のほんとうの意味での「遊び」があり、しばしば環境に対して中立的であり、ある種の寛容性・許容性を持っていると思います。
 産めよ増やせよ。勤勉は美徳で、怠惰は悪である。これは遺伝子の命令というよりは、支配者が作り出した物語、為政者が編み出した労働と徴税のロジックではないでしょうか。(p234〜235)


 それゆえに遺伝子は「産めよ増やせよといっているのではなく、むしろ自由であれ、といっているのだ」と福岡は宣言する。遺伝子はダメなあなたを愛しているのだ、と。
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by syunpo | 2013-02-01 20:30 | 生物学 | Trackback | Comments(0)

動的平衡の美しさ!?〜『ルリボシカミキリの青』

●福岡伸一著『ルリボシカミキリの青』/文藝春秋/2010年4月発行

b0072887_18315461.jpg 当代売れっ子の生物学者・福岡伸一が週刊文春に連載したコラムを一冊にまとめた本。総合週刊誌の読者といえば今やオジサン層がコアだと思うのだが、ここでは若者向けの媒体でリラックスして語りかけるような文体が採られている。もっぱら使われる一人称は「私」や「筆者」ではなく「福岡ハカセ」。
 ここまでくだけてしまうと文人・福岡の魅力がかえって削がれてしまうような気がしないでもないが、そこは福岡ハカセ。自説のキーワードである「動的平衡」や「できそこないの男」について様々なアングルから接近していく筆致にはやはり巧みを感じさせる。

 風邪のウイルスから動的平衡を説き起こしたかとおもえば、文楽人形の様式的な動きにも動的平衡の美を見出す。政治問題化した臓器移植に対して動的平衡の観点から懸念を表明し、ハチミツの大量死や狂牛病に動的平衡への人間の介入の傲慢さをみる。
 生物学的に「少しだけ足りない」存在としての男性を語る姿勢もまたしかり。Y染色体の発見物語を簡潔に紹介したあとに、男の子に顕著にみられる「蒐集癖」に関して「蒐集行動は、不足や欠乏に対する男の潜在的な恐怖の裏返しとして生まれ」たのではないかと面白おかしく推察したりするのだ。
 
 センス・オブ・ワンダーこそがハカセの原点、というのも本書を貫く福岡ハカセの基本認識である。末尾におかれたルリボシカミキリの青について語った一文での締めの言葉がキマっている。

 ある年の夏の終わり、楢の倒木の横を通り過ぎたとき、目の隅に何かがとまった。音を立てないようゆっくりと向きをかえた。朽ちかけた木の襞に、ルリボシカミキリがすっとのっていた。嘘だと思えた。しかしその青は息がとまるほど美しかった。……こんな青さがなぜこの世界に存在しているのだろう。
 福岡ハカセがハカセになったあと、ずっと続けてきたことも基本的には同じ問いかけなのだと思う。こんな鮮やかさがなぜこの世界に必要なのか。いや、おそらく私がすべきなのは、問いに答えることではなく、それを言祝ぐことなのかもしれない。(p234)

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by syunpo | 2011-02-02 18:38 | 生物学 | Trackback | Comments(0)

世界は分けないことにはわからない、しかし〜『世界は分けてもわからない』

●福岡伸一著『世界は分けてもわからない』/講談社/2009年7月発行

b0072887_18254320.jpg 「わかる」とは「分かる」であり、それは当然「分ける」とつながっている。博物学や動植物学の初期段階では、それぞれの種類を分類する、つまり「分ける」ことに情熱が傾けられた。動物や植物をカテゴリー化し、それぞれの差異を見分けること。それが「分かる」ことの第一歩であった。無論、今でも様々な局面で「分かる」ために「分ける」ことが日々実践されている。

 福岡伸一は本書の末尾で結論的に述べている。
 「世界は分けないことにはわからない。しかし、世界は分けてもわからないのである」。
 そしてそのすぐ後でこう付け加えることも怠らない。「分けてもわからないと知りつつ、今日もなお私は世界を分けようとしている。それは世界を認識することの契機がその往還にしかないからである」と。
 本書は、みずからがよって立つ足場にたえざる懐疑の目を向けながら仕事を続ける分子生物学者のエッセイである。

 ロスアンジェルスにあるゲティ美術館に展示されている一枚の絵。ヴィットーレ・カルパッチョ作《ラグーンのハンティング》。遠浅の海で貴族たちが舟遊びをしている様子を描いた絵だ。そしてヴェネツィアのコッレール美術館に飾られている同じくカルパッチョの《コルティジャーネ》。二人の女性がテラスのような処で所在なげに座っている、いささか頽廃的な感じのする作品である。この二つの作品はもともと一枚の絵だった。いや正確には一枚の絵だったものが四分割されてしまったものの二片だということが最近の調査で明らかになった。つまり《ラグーンのハンティング》も《コルティジャーネ》も「全体から切り取られたほんの部分にすぎなかった」のだ。

 顕微鏡で生物組織を観察すると、細胞が整然と並んでいる様子を見ることができる。倍率を上げると細胞の一粒が、一気に近づいて見える。しかしその瞬間、観察者は元の視野のどの一粒が拡大されたのかを見失う。拡大された映像はなるほど解像度を一段と高められたものだが、それと引き換えにこれまで見えていた部分が見えなくなる。

 カルパッチョの絵画にまつわるエピソードを語り終えた後に、福岡は、自然科学の観察に不可避の「分ける」という営みに思いをめぐらせて「今見ている視野の一歩外の世界は、視野内部の世界と均一に連続している保証はどこにもないのである」と結ぶ。
 このように要約してしまうと、福岡の文章にただよう微妙なニュアンスが失われてしまうようでいささか気が引けるのだが、とにもかくにも本書における福岡の自在なイマジネーションの飛翔ぶり、それらを一つの命題に緩やかに集約せんとする構成力には、素直に納得させられるものがあった。

 コンビニで販売しているサンドイッチから説き起こされる腐敗と腸内細菌の話。渡辺剛の写真集から展開されていく臓器移植、さらには動的平衡論。コンピュータ・グラフィック技術と〈脳の中の古い水路〉との関わり。……どれもこれも読み応え充分だ。

 さらに後半では、エフレイム・ラッカーと若き学究マーク・スペクターのエネルギー代謝に関する研究データ捏造事件について多くの紙幅が費やされている。その記述内容じたいがたいへん興味深いものだが、福岡はその最後に、やはり「切り取られた絵と、それにまつわるさまざまな物語に思いを馳せる」のだ。ラッカーという指導教授の仮説を実験で実証してみようとしたスペクターは「ラッカーが見たいと願った絵を切り取っただけなのだ」と述べ、同業者として、彼らに強い憤りを示す代わりに捏造事件から自戒の契機を引き出そうとするのである。

 そうした後半部の複数の章を除けば、個々の文章は原則的に一話完結的で様々な題材やトピックスを扱っている。が、全体を通して世界を分けることに対する福岡の一貫した知的懐疑が通奏低音のように響いているので、バラバラのエッセイを無理やり一冊にまとめたというような印象はまったく受けなかった。

 倒置法を多用した達者な文章は、かなり専門的な話題に踏み込んでも決して読者を弛れさせることはない。本書は、多方面に伸びていく福岡の知的好奇心が巧い具合に織り合わされた面白い本であると思う。
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by syunpo | 2010-11-18 18:32 | 生物学 | Trackback | Comments(0)

異分野との遭遇が生み出す新たな世界〜『エッジエフェクト』

●福岡伸一著『エッジエフェクト 福岡伸一対談集』/朝日新聞出版/2010年7月発行

b0072887_95021.jpg 今をときめく分子生物学者の対談集。書名のエッジエフェクト(界面作用)とは「二つの生態系が出会う場所で生成される現象」をさす生物学上の術語である。広く一般化すれば「異なる分野の出会いが生み出す、新たな世界」というオビの宣伝文句となる。その書名どおり、対談相手は桐野夏生、柄谷行人、森村泰昌、小泉今日子、鈴木光司、梅原猛と多士済々。

 もっともこの種の対談は双方がなんとか話を合わせようと大雑把なアナロジーが必要以上に強調されがちで、当人たちの盛り上がりはともかく、第三者が後から読む場合には粗雑で抽象的な対話になっている場合が少なくない。
 エッジエフェクトの効能に充分自覚的な福岡であってみれば、相手の言辞から自分の分野に話題を引きつけて巧みに対話を膨らませていく聡明ぶりはさすがだが、いかんせん、森村にしても鈴木にしても梅原にしても対談相手の発言が概して陳腐で、目からウロコが落ちるような「界面作用」が作動したとは言い難い。

 そのなかでは〈科学の限界〉と題された柄谷行人との対話がとびぬけて刺戟的だ。
 環境問題に関して、柄谷は二酸化炭素のみを温暖化の主因とする説に疑問を呈したうえで「未来の他者」を前提した「自分自身の倫理性」に基づく行為を力説しているのが印象に残った。また、科学者は人間と自然の関係に注目するが、「人間と自然の関係は、常に、人間と人間の関係を通して実現される」。人間と人間の関係とは現代でいえば資本主義的な関係であり、ゆえにテクノロジー批判が「資本主義経済を無視した議論」になってしまうと意味はない、と言い切る。このあたりは交換様式から社会のあり方を探究してきた柄谷のここ数年来の「トランスクリティーク」的な洞察の跡を強く感じさせるものだ。

 また、福岡は、最近の生物学者が提唱している生命の始まりの定義(人の生命の始まりを脳の機能が始まる時とするもの)を認めると「脳死の議論が臓器を利用できることを可能にしたように、脳の機能が始まる脳始以前であれば人でないので、ヒト未満の単なる細胞の塊としての胚をES細胞などに利用できる」ことを指摘しつつ「科学技術が先端化するに従って、延命できるのではなく、人間の時間を両側から縮める分節化が起きている」と述べているのは、まことに鋭い警鐘ではないかと思う。

 蛇足ながらキョンキョンに対する福岡のただならぬオマージュには読んでいるこちらが赤面しそうになったにゃ〜。012.gif
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by syunpo | 2010-07-30 09:09 | 生物学 | Trackback | Comments(0)