カテゴリ:歴史( 40 )

権威的な装いを剥がしてみれば〜『「日本の伝統」の正体』

●藤井青銅著『「日本の伝統」の正体』/柏書房/2017年12月発行

b0072887_10465452.jpg「伝統」と呼ばれるものがしばしば近代以降の所産で底の浅いものであることについては、すでに洋の東西を問わず多くの論証研究が存在している。古来行なわれてきたと多くの現代人に信じられている風習やしきたりが実は最近になって始められたということは珍しいことではない。そこではたくましい商魂や仕掛け人の作為が明瞭に見てとれる場合も少なくない。

 本書はそのような「日本の伝統」と考えられてきた事柄の起源や歴史的経緯を検証し、その「正体」を論じるものである。著者の藤井青銅は作家・脚本家として活躍している人物。

 正月に神社にお参りする「初詣」。現在の形になってからの歴史は浅く、百二十年ほどしか経っていない。それ以前は、大晦日から寺社に籠もって元日を迎える「年籠り」、年が明けてはじめての縁日に参詣する「初縁日」、自分が住んでいる場所から、その年の恵方にある寺社に参詣する「恵方詣り」などが行なわれていた。どこでも気軽に好きな神社にお参りする「初詣」は、それらの一部の要素を取り入れて一つになり、鉄道の普及によって定着したものだ。

 神前結婚式の「古式」は二〇世紀に入ってから作られたものだし、夫婦同姓は一八九八年(明治三一年)に旧民法が成立して初めて制度化されたものである。それまでは明治九年の太政官指令で「他家に嫁いだ婦女は、婚前の氏」とされていた。明治以前はいうまでもなく一般庶民には「姓」はなかった。夫婦同姓を一部の政治家は「日本の伝統」と力説しているけれども、いくらなんでも無理な主張だろう。

 古くから歴史を積み重ねてきたと思われがちな有名神社には、明治以降に創建されたものがいくつもある。平安神宮(明治二八年)、橿原神宮(明治二三年)、吉野神宮(明治二五年)、湊川神社(明治五年)などである。

 このほかにも京都三大漬物や国技としての相撲、各地に伝わる民謡などなど、様々な生活の場面から話題をとりあげて、その歴史をたどっている。また、木彫りの熊やけん玉など、比較的新しく外国から入ってきたのに、昔から日本にある伝統のように思える例もいくつか存在する。逆に、ロシアのマトリューシカやハワイのアロハシャツなどは、日本(日本人)に起源をもつという説もあるようで、あわせて紹介されているのも興味深い。

 著者はもちろん「伝統」そのものを否定しているわけではない。長く続いているから素晴らしく、短いから価値がないと言っているわけでもない。
「たかだか百~百五十年程度で、『日本の伝統』を誇らしげに(ときに権威的に)名乗る」というケースに違和感があるといっているだけである。すべては事実を知ることから始まるのだ。

 本書の物足りない点をあえて指摘するとすれば、「伝統」をめぐる言説の政治的利用についての言及がやや薄いと思われる点だろうか。一例だけ挙げれば、「鎖国」という用語・概念に拘泥する論者に対しては、明治維新の開明性を言いたいがために江戸時代の閉鎖性を必要以上に誇張しているとたびたび批判されているのだが、本書ではそうした論争については触れられていない。

 もっともそうした堅苦しい論点はあえて外したのかもしれない。各項目はおしなべて簡潔にまとめられ軽妙な文章で統一されている。雑学書的な読物としてはたいへん面白い本といえるだろう。
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by syunpo | 2018-02-04 10:48 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

〈デュアル構造〉に分け入る〜『日本問答』

●田中優子、松岡正剛著『日本問答』/岩波書店/2017年11月発行

b0072887_10401281.jpg 法政大学の総長で歴史学者の田中優子と編集工学を提唱する著述家の松岡正剛。二人の碩学が日本の歴史について問答を交わした。最近、単行本のみならず新書でも増えてきた対論集のなかでは出色の面白さである。言葉と言葉が互いに刺戟し反応しあいながら新たな言葉を生み出していくという対談の醍醐味を本書では存分に味わうことができる。

 両者に共通しているのは、日本の特徴を「デュアル」な構造に見出していること。〈天皇/将軍〉〈公家/武家〉〈内/外〉〈ワキ/シテ〉〈神/仏〉〈隠す/顕わす〉……などなど様々な局面におけるデュアルなもの・ことを具体的に例示し日本的な方法として議論を展開していく様はスリリングである。

 注目すべきは、それらが「二重性」ではあっても必ずしも二項対立的ではないという点である。相互補完的であり、メビウスの輪のように反転したり融合したりすることもある。

 
序盤で提示される田中の以下の認識は今日にあってはすぐれて含蓄に富むものではないか。

……私は、日本列島がそれほど閉じているとは思っていなくて、つねに異民族は来ていたと思う。むしろ異民族、異文化に早くから慣れていたし、必要としていた。なぜならそれこそデュアルの根源だから。異質なもの、対立するもの、多様性があって、初めて元気になる文化なんです。(p31)

 とりわけ田中が繰り返し強調するのは江戸時代の鎖国政策に対する偏見への異議である。鎖国なる用語が幕府の公式文書にまったく出てこないことはたびたび指摘されてきたように、「徳川時代は鎖国で閉じていたというのはまちがいで、じつは内のなかに外を入れ込み、内を広げようとしていた時代」との認識を示しているのだ。「グローバル化とは、江戸時代にあっては、世界をいったん呑み込んで自らの変化によって世界に対応することでした」。

 松岡が権力の二元性・多元性を「日本独特のリベラルアーツのようなもの」とみなしているのは、そうした歴史観に対する松岡的な応答でもあるだろう。持論である〈ウツ=ウツロイ=ウツツ〉テーゼもまたデュアルな日本のあり方を捉えようとしたアイデアに違いない。「ウツ(空)」と「ウツツ(現)」のあいだをせっせと「ウツロヒ」が動いているという洒落まじりの仮説である。

 
また田中が随所で言及している「やつし」という江戸時代の人々によくみられた特性は日本文化の多様性を個人にも見出すもので、本書のキーワードの一つとなっている。

 日本社会を循環性の観点からとらえるのもきわめて示唆的である。とりわけ華厳経に由来する「融通無碍」の循環経済論を松岡が語るくだりには大いに教えられた。松岡によれば、店や市といってもたんなる流通ではなく、すべて「融通」だったのかもしれないという。

 融通というのは仏教の言葉で、華厳経からきています。華厳経の世界観というのは「重々帝網」、つまり帝釈天の網の目が細かくなって、それらに一個一個パールのような球体がついていて、お互いがお互いを輝きあって映しあっている、だから一個のものは世界をすべて映し出しているというものです。そういうものがつながっている世界のことを「融通無碍」というふうに言う。(p243)

 私たちが現代も日常会話で「お金を融通する」とか「融通しあう」というふうに使っていることの背景には、そういう行為や関係性の一つひとつが社会全体をくまなく反映しているという考えがあったからというのが松岡の考え方である。そのような融通無碍的な相互性や循環性は日本では他の領域でも多くみられるというのは田中も共有している認識だろう。

 本書の歴史観や日本観に触れると、今、日本社会で蔓延っている排外主義的な動きや政治空間での権力一元化は、日本の歴史や伝統からは逸脱しているように感じられてならない。そのような傾向を推進している人たちがしばしば日本の歴史や伝統を歪曲した形で力説するのは笑止千万である。

 一方で日本人はみずからの歴史や民族性を島国根性や閉鎖性という言葉でしばしば自己批判的に語ってもきた。が、二人の対話をとおして日本社会が蓄積してきた歴史の重層性をこれまで以上に肯定的に捉えることも可能ではないかとの思いを強くした。もちろんそれは昨今叫ばれている夜郎自大な「日本スゴイ」言説とは異なった位相のものであることはいうまでもない。
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by syunpo | 2017-12-28 10:45 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

勝ちぬく僕等少国民!?〜『戦時下の絵本と教育勅語』

●山中恒著『戦時下の絵本と教育勅語』/子どもの未来社/2017年11月発行

b0072887_1026262.jpg 戦前、国民に直接的な影響を及ぼしたのは憲法よりもむしろ教育勅語であったことは多くの人が指摘しているところである。本書はそうしたことを明言しているわけではないが、山中恒自身の教育勅語体験をまじえながら、戦時下の絵本を検証し、子供向けの出版物をとおして軍国主義化のプロセスの一端をあとづけるものである。

 山中は一九三一年の生まれ。国民学校における修身の授業で教育勅語の精神を叩き込まれた世代である。天皇の神格化については、文部省が一九三七年に『国体の本義』を出して主導し、教育勅語の精神を盛り込んだ教科書で学校現場に浸透させていった。一方、商業出版では子供向けの絵本などにも国家の方針に協力する姿勢が鮮明にみられるようになった。

 一九三一年の満洲事変から、上海事変、満洲国建国へと進む中で、絵本では軍人の美談が多く取り上げられるようになったという。当時は日本側の策謀などによる侵略的行動が始まっていたため、「日本側の策謀を正当化しようと、陸軍は大衆受けする戦争美談をマスコミに提供」する必要があったのである。美談の代表的な例としては「爆弾三勇士」の話がよく知られているが、戦後になって、勇ましい自爆ではなく、導火線の不備による事故だったことが明らかになった。

 興味深いことに、著者がとくにはっきりと指摘しているわけではないけれど、日本の拡張政策がすすむと、占領した国の子供たちや自然については(上から目線ではあるけれど)批判的な論評を抑えているように見受けられる。悪しざまな表現は、もっぱらその時点で戦っている中国軍や英国軍などに向けられていたようだ。あからさまなアジア蔑視の描出は、当時日本が喧伝していた大東亜共栄圏の建前に照らしてそぐわないという判断が軍にも出版社にもあったのかもしれない。

 本書を一読して感じるのは、出版の営みが時の公権力と結託することの怖さや不気味さだ。とりわけ子供たちに対するビジュアル素材をふんだんに使ったプロパガンダは、大きな影響力を持ったに違いないと思われる。昨今、近隣諸国についての偏見や謬見を煽るような出版物の刊行が相次いでいるが、歴史の教訓から学べることは少なくないはずである。
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by syunpo | 2017-12-26 10:27 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

日本人ならではの知恵がこもる!?〜『愛と狂瀾のメリークリスマス』

●堀井憲一郎著『愛と狂瀾のメリークリスマス なぜ異教徒の祭典が日本化したのか』/講談社/2017年10月発行

b0072887_19315027.jpg クリスマスは今や日本の年中行事の一つとしてすっかり定着した。しかし一部には未だにこのイベントに対して懐疑的な態度をとり続ける大人たちがいる。キリスト教徒でもないのにワケもわからず大騒ぎしている、と。商売人の煽りに乗せられているだけというのもアンチ・クリスマスの常套句のひとつだろう。

 私はかねてからそのような「大人」の態度にこそ違和感をおぼえてきた。そんなことを言い出せば、日本の「伝統行事」の少なからぬものが同じような懐疑や揶揄の対象になりうるからだ。「伝統」と称されているもののなかに日本土着のものがどれほどあるというのか。外国文化の断片的皮相的な摂取というなら、何もクリスマスだけに限らない。クリスマスに対してことさらに違和感を表明することの方が不自然ではないのか。

 堀井憲一郎も私のそれとは文脈をやや異にするもののクリスマスへの違和感に対して違和感を抱いてきたらしい。というわけで、本書は日本におけるクリスマスの受容の歴史をたどるものである。前半は布教者の記録などの文献、明治以降はもっぱら朝日新聞の記事を丹念に読み込むという手法を採って日本のクリスマス受容史にアプローチする。

 クリスマスのありようは時代とともに変遷を遂げてきたが、どの時代を切り取っても当時の社会動向や政治思潮と強く連動していることを示していて興味深い記述がなされている。「日本のクリスマス受容の動きは、『西洋文化を取り入れつつも日本らしさを保とうとする努力の歴史』であり、日本人が世界を相手に生き抜く知恵だと見ることができる」という著者の結論的な認識にとくに異論はない。

 あくまで敬虔な信者だけの集まりだった安土桃山、江戸時代の真面目なクリスマス。「キリスト教の宗教的内容は取り入れない。ただ西洋列強の文化はキリスト教を基盤として成り立っているから、キリスト教も学ばないといけない。宗教部分を抜いた “文化としてのキリスト教” をうまく取り入れ」ようとして今日の年中行事化の土台をつくった明治期のクリスマス。戦勝気分がバカ騒ぎをもたらした日露戦争後のクリスマス……。

 大正天皇崩御の翌年のクリスマスをめぐって上杉慎吉と柳田國男が交わした意見交換などもなかなか興味深い。
「クリスマスは宗教行事なのだから、非信徒である日本人がその日を祝うのはおかしい、ただ子供の日だと考えるとよいのかもしれない」というのが上杉の意見。それに対して柳田は「あれは近年はやりだしてきた “冬の遊び” にすぎない、そもそもクリスマス自体がキリスト教とは関係のない “冬至の行事” である」と応えたのである。ただし天皇崩御の翌年くらいは自粛したらどうかという点で両者は意見の一致をみている。

 そして意外にも満州事変が勃発した昭和六年から三年間は「日本クリスマス史上もっとも狂瀾的に騒いでいた時期」だという。軍事国家化が外地で進むぶんには、国民はクリスマスの熱狂を自粛しようとは思わなかったのだ。そのことを「きちんと記憶しておくべきである」とは重要な指摘だろう。

 一九七〇年代以後は朝日新聞をフォローするだけでは不充分とみなして、女性雑誌の「アンアン」「ノンノ」や男性雑誌の「ポパイ」「ホットドッグ・プレス」などの引用もはじまる。著者自身が同時代的に体験した時代なので、記事に対するアイロニカルな筆致が前面に出てくる。メディア批評的な文章は、前半とはテイストの異なる読み味を醸し出す。

 もっとも文献資料に偏向やバイアスがあるのは当たり前の話。メディア批評の部分を強調されると、特定の記事のみをベースにした本書の記述全体の信憑性が揺らぐパラドックスに陥るわけで、そこにツッコを入れたくなる生真面目な読者ならば本書の評価は辛くなるだろう。

 ついでに記せば、キリスト教の布教に対する物言いが時に辛辣だったりするのはテーマにも沿った記述だから良しとしても、史実の見方が短絡的だったり、政治的な事象には冷笑的だったり……と枝葉の部分で余計な一言が出てくる箇所が少なからずあって、その点も少し鼻についた。

 そんなわけで、歴史や民俗の研究書的なつもりで手にとると、方法的な不備が批判の対象になりそうだが、コラムニストによる主観的な読み物の一つと割り切って付き合うぶんにはそれなりにたのしめる一冊といえるだろう。
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by syunpo | 2017-11-28 19:36 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

日本の政治にも影響を与え続ける!?〜『ヒトラー演説』

●高田博行著『ヒトラー演説 熱狂の真実』/中央公論新社/2014年6月発行

b0072887_197252.jpg ナチスが権力を掌握するに際しては、ヒトラーの演説が大きな役割を果たしたといわれる。本書は、ヒトラーが四半世紀に行った演説のうち合計五五八回の演説文を機械可読化して総語数約一五〇万語のデータを作成し、それらを分析してまとめた労作である。著者は近現代ドイツ語史の研究者。

 ヒトラー自身、「語られる言葉の威力」の大きさを力説していたらしい。「人を味方につけるには、書かれたことばよりも語られたことばのほうが役立ち、この世の偉大な運動はいずれも、偉大な書き手ではなく偉大な演説家のおかげで拡大する」と。マルクス主義が一年で一〇〇万人もの労働者を獲得できたのも、大部の著作によるものではなく「何十万回もの集会」のおかげだとヒトラーは考えたのである。

 それではヒトラーの演説のいかなる点が人々を魅了したのだろうか。高田はヒトラーが多用したレトリックをいくつか挙げている。対比法、平行法、交差法、メタファー、誇張法などだ。それらはいずれも弁論術の理論にかなったものである。

 また高田はヒトラーが好んだ語句をいくつか指摘している。たとえばナチス独裁への足がかりを築いた全権委任法の審議では「国民革命」というキーワードを使うようになった。大がかりな軍事行動が始まると「平和」の語句を頻用するのもヒトラーの特徴であった。味方陣営を「われわれ」で包括する語り方によって、連帯感を形成する説得法も活用した。

 ヒトラーの活躍した時代は選挙が頻繁に行なわれたが、度重なる選挙戦はヒトラーの声帯を酷使した。そのため、ヒトラーはあるオペラ歌手から極秘裏に、発声法だけでなく、キーワードの抑揚の付け方やジェスチャーの仕方まで指導を受けたという挿話も興味深い。

 そしてもう一つ重要なのは、テクノロジーとメディアを積極的に利用したことである。大きな会場におけるマイクとラウドスピーカーの使用。外国メディアへの露出。移動に飛行機を使った遊説も当時としては新しいスタイルだった。さらに移動可能な大規模集会装置としての自動車キャラバン隊を編成したのもいかにもナチスらしいといえるかもしれない。

 ヒトラーの演説を分析することによってナチスドイツの政治手法を浮かび上がらせた本書は、ドイツの近現代史を知るうえでの有力な参考文献の一つとしてリストアップされることになるだろう。読みすすむうちに、そういえば極東の島国にも似たようなことをやっている政治勢力がいるなぁと思ったのは私だけではあるまい。それは偶然なのか。それとも意識して「手口」を真似ているのか。
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by syunpo | 2017-10-17 19:15 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

戦後日本外交の舞台裏〜『日米同盟はいかに作られたか』

●吉次公介著『日米同盟はいかに作られたか 「安保体制」の転換点1951-1964』/講談社/2011年9月発行

b0072887_18312845.jpg 戦後の日本外交の基軸は日米関係にある。日米関係はいつしか日米同盟とも呼ばれるようになったが、それは対等なものでないことは誰もが知っている。その基底にあるのは「負担分担」という大義名分であるが、ではその構図はいかに形成され、定着したのか。本書では、日米安保体制の形成から安保改定を経て、池田勇人政権に至る時代に焦点をあてて、この問いに答えようとする。池田政権期は日米安保体制史上において、目立たないが、きわめて重要な岐路であったというのが本書の認識である。

 米国と日米安全保障条約を結んだのは吉田茂政権期である。吉田首相は、日本が十分な軍備を持つまで、日本の防衛を米軍に委ねるつもりであった。他方で米国はアジア戦略上、占領終結後も日本の駐留させたいと考えていた。その意味では「日米の立場は五分五分のところである」と外務省がみなしていたのは卓見である。

 しかし、できあがった安保条約は「五分五分」ではなかった。在日米軍の日本防衛義務が明記されないばかりか、日本が「日本国内及びその附近にアメリカ合衆国がその軍隊を維持することを希望」し、米国がそれに応じるとの内容になったのである。

 ……吉田茂が大きな問題点を安保条約に内包させてしまったことは、指摘されねばならない。その問題点とは、在日米軍はアメリカが日本に与える“恩恵”であり、日本はそれに見合うアメリカへの「貢献」を求められるという論理構造が、日米安保体制に埋め込まれたことである。(p26)

 真理をついていた外務省の論理が日米交渉で通じなかったのは、日米の力関係とダレス国務省顧問の巧みな交渉術ゆえであったと吉次はみている。

 後任の岸信介首相は吉田の「対米追随」を批判し、対等な日米関係の具現化を目指すことを信条としていた。ゆえに日米安保条約についても対等なものに改定しようとしたのは当然である。新条約で米軍の日本防衛義務が明記されたことは大きな成果であったといえよう。

 しかし国民の間からは大がかりな反対運動がわきおこった。社会党は「日米同盟の強化にほかならない」と批判した。それ以上に国会における岸の強硬姿勢が大きな反発を引き起こす要因の一つとなった。
 また後になって、日米間で事前協議制度に関する密約が取り交わされていたことも明らかになった。事実上、密約のために事前協議制度は形骸化していたのである。そうした意味では新安保の「対等性」は形だけのものだったといえる。

 その後を継いだ池田政権にとっては、安保闘争によって深手を負った日米関係の修復が最大の懸案となったのである。

 池田は所得倍増計画を前面に押し出すなど、国民の関心を政治から経済へとシフトさせたことで一般には知られる。池田政権は「経済の季節」の到来を見事に演出したのだと。
 しかし日米関係の安定化は政権維持のためにも必須の課題であった。その対外政策において「自主独立」問題はすでに後景に退いていた。冷戦構造が顕在化するなかでケネディ大統領のスローガン「イコール・パートナーシップ」と池田の「大国」意識は互いに共鳴しあうものであった。

 かくしてケネディ政権は防衛面での「負担分担」を強く求めるようになる。自衛隊の兵力増強など米国は日本に対して軍備の拡充をいっそう強く求めてきたのである。池田はそれをそのまま受け入れたわけではないが、結果的には米国の要求に沿うような形で政策を決定していったことは否めない。岸政権下で取り交わされた核密約に関しても、大平外相とともに密約の確認を行ない、それを明確に拒否することはなかった。

 さらに重要なのは、池田政権はアジア諸国とも積極的な外交を展開して対外援助につとめたことである。日本はアジア各国との関係において、自由主義陣営の大国として振る舞うことで存在感を示そうとした。米国は日本の防衛政策に満足することはなかったが、日本側はアジアへの対外援助によって「負担分担」をアピールしたのである。

 ……一九五〇年代の日本外交にとって、「敗戦国・被占領国」の残像を払拭し、対米「対等」や「独立の完成」を実現させることが急務であり、再軍備や対外援助はそのための手段と位置づけられていた。それに対して池田政権の対外政策は、アメリカの「イコール・パートナー」である「自由主義陣営の有力な一員」となった以上、それに相応しい「負担」を分担すべきとの論理に立脚していた。池田政権の「大国」志向と日本の経済成長、そしてアジア冷戦の激化とアメリカの苦境により、日米安保の「負担分担」の構図は新たな段階を迎えたといえる。(p191)

 以上みてきたように、本書の考察には教えられるところが多かったけれど、引っかかるところもなくはない。オフィシャルな外交文書などに典拠してもっぱら政権中枢の言動を描出しているため、政権サイドに立った書きぶりにはやや違和感を覚えた。たとえば池田へのメディアからの酷評を「揶揄」といったり、社会党の質問を「レトリック」と決めつける表現などだ。

 また、当時の考えられる選択肢を指摘し、そのなかで政権の選択した政策を吟味するいう記述にこそ歴史を学ぶ面白味があると思うのだが、本書の書きぶりにはそうした歴史への想像力を喚起させる力にも乏しいような気がした。

 むろん、そうした点を差し引いても本書が戦後の日米関係を学ぶに有益な本であることは間違いない。これからの日本のあり方を考える場合、日米関係を抜きにすることはできない。その意味では今日につながる日米同盟の舞台裏を知っておくことは意義深いことであるだろう。
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by syunpo | 2017-07-15 18:36 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

〈慣習の支配〉から〈議論による統治〉へ〜『日本の近代とは何であったか』

●三谷太一郎著『日本の近代とは何であったか ──問題史的考察』/岩波書店/2017年3月発行

b0072887_18542080.jpg 日本の近代とはいかなる経験であったのか。その大きな問題を考えるにあたって本書がまず参照するのは、ウォルター・バジョットである。バジョットはヨーロッパの近代を「慣習の支配」から「議論による統治」への移行とみなした。その変革要因として「貿易」と「植民地化」を挙げている。もっとも前近代から近代への移行には断絶があるわけではなく、前近代においても古代ギリシャや中世イタリアなどを見ればわかるように「議論による統治」の萌芽はみられたという立場をとる。

 この「慣習の支配」から「議論による統治」への移行という近代化の観念は、福沢諭吉を初めとする当時の日本の先進的知識人にも非常に大きな影響を与えました。そして実際に「慣習の支配」から「議論による統治」への歴史的な移行に相当する状況の変化が、当時の「立憲主義」に相当する体制原理の危機の進行に伴って、幕末日本においても見られたのです。(p63)

 三谷はそうした認識を提示したうえで、日本の近代化を「政党政治の成立」「資本主義の形成」「植民地帝国の形成」の過程に注目して考察する。さらに日本独自の君主制としての「天皇制」についても一章を設けている。このような検証をとおして現在の日本が置かれている歴史的位置を見定めようというのが本書の趣旨である。

 まず第一に日本における政党政治とはいかなるものであったのか。
 一見集権的とされた天皇主権の背後には、実際には分権的・多元的な国家の諸機関の相互的抑制均衡のメカニズムが作動していた。したがって、明治憲法に規定されていたような比較的厳格な権力分立制は、立法と行政との両機能を連結する政党内閣を本来排除する志向をもっていた、という。
 逆にいえば、体制を全体として統合する機能をもつ、憲法に書かれていない何らかの非制度的な主体というものが必要とされるだろう。

 そうした主体の役割を担ったものとして、まず登場したのが「藩閥」である。薩長出身者を中心とする藩閥の代表的なリーダーたちが事実上天皇を代行する元老集団を形成した。しかしそれでも衆議院を掌握することはできなかった。衆議院を支配したのは「政党」であった。藩閥と政党はそれぞれの限界を打破するために相互接近が試みられた。そういうなかから複数政党制が出現した、というのが三谷の見方である。

 ただし日本の政党政治は短命に終わった。大正末期から政党政治が本格的に作動し始めたものの、軍部の台頭などによって、その権威は揺るがされていったのである。それにかわる現象が「立憲的独裁」(蝋山政道)であった。

 国民国家の形成を目的として始まった日本の近代は、自立的資本主義の形成をその不可欠の手段とした。日本の近代化を方向づけ、それに沿う資本主義の発展を正当化する有力な論拠とされた学説は、ハーバート・スペンサーの社会学説である。スペンサーは「軍事型社会」から「産業型社会」へという発展段階の図式を示したことで知られる。

 ただ本書の分析でおもしろいのは、権力による近代化=資本主義の形成の心理的促進要因として「恥」の意識を挙げている点だ。内外の笑いものにならないように腐心する、その意識が文明開化を促し、ひいては資本主義を進展させていったというわけである。

 日本が不平等条約を脱し、資本主義の形態が「自立的資本主義」から「国際的資本主義」へと転化した段階で、植民地を有する植民地帝国の構築を目的とする戦略を採用するにいたる。
 その際、より大きなコストを要する軍事力への依存度の高い「公式帝国」の道を歩んだのは何故か。三谷は「先進の植民地帝国に伍する実質的意味の国際社会のメンバーではなかったこと」「日本の植民地帝国構想が経済的利益関心よりも軍事的安全保障関心から発した」ことの二点を指摘する。

 その後、日本の植民地政策は最終的には帝国主義に代わる国際イデオロギーとしての「地域主義」に移っていく。それは「太平洋における地方的平和機構」のようなスローガンに象徴されるものである。しかし現実には「日本の対外膨張によってつくり出された既成事実を追認し、正当化するイデオロギー」としての役割を担ったものであることはいうまでもない。

 日本の近代化には機能主義的な思考様式が推進力としてはたらいた。そこでは、宗教もまた基本的な社会機能としてとらえられる。ヨーロッパではキリスト教がその役目を果たしたのだが、日本ではどうか。キリスト教の機能的等価物として考えられたのが「天皇制」である。

 ただし明治憲法に定める天皇の地位と教育勅語における天皇とは齟齬をきたしている。その問題を意識していた井上毅らの苦肉の策を概説したうえで、三谷は次のように述べている。

 しかし井上毅の苦慮の奇策にもかかわらず、憲法と教育勅語との矛盾、すなわち立憲君主としての天皇と道徳の立法者としての天皇との矛盾は消えることはありませんでした。そしてその矛盾と不可分の「政体」と「国体」との相剋は、日本の近代の恒常的な不安定要因でした。(p241)

 相互矛盾の関係にある両者のうちで、一般国民に対して圧倒的影響力をもったのは憲法ではなく教育勅語であった。すなわち「立憲君主としての天皇ではなく、道徳の立法者としての天皇」が国民の上に屹立したのである。

 以上のように日本近代を振り返った三谷はまとめとして次のように述べている。

 日本の近代は一面では極めて高い目的合理性をもっていましたが、他面では同じく極めて強い自己目的化したフィクションに基づく非合理性をもっていました。過去の戦争などにおいては、両者が直接に結びつく場合もありました。今日でも政治状況の変化によっては、そのような日本近代の歴史的先例が繰り返されないとは限りません。疑似宗教的な非合理性が儀式と神話を伴って再生し、それに奉仕する高度に技術的な合理性が相伴う可能性は残されています。(p251~252)

 そのうえで三谷はワシントン体制を振り返りながら、その重要な遺産を憲法第九条に遺していることの意味を考えるべきだと締めくっている。いささか硬い読み味ながら、日本の近代化を考えるには有益な一冊といえるだろう。
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by syunpo | 2017-06-01 19:00 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

昭和史を貫く「悪の構造」〜『21世紀の戦争論』

●半藤一利、佐藤優著『21世紀の戦争論 昭和史から考える』/文藝春秋/2016年5月発行

b0072887_19123245.jpg 昭和史に詳しい作家・半藤一利と元外交官の佐藤優による対談集。書名からもわかるように、ここで議論されているのはもっぱら戦争を軸とした昭和史の断面についてである。具体的には、七三一部隊、ノモンハン事件、終戦工作、軍事官僚機構などが検証・考察の対象となっている。

 歴史的事実から思考を組み立てようとする二人の対話は「神は細部に宿る」の格言を地でゆくがごとく時に細かな議論にまで立ち入るのだが、薄味な対談が多いなかではそれこそが本書の一つの売りといえるだろう。

 七三一部隊にいた人物が戦後エイズ問題で物議を醸したミドリ十字の社長になったという話はよく知られているけれども、半藤は帝銀事件に関しても松本清張を参照しながら七三一部隊関係者の関与を示唆しており、たいへん興味深く読んだ。

 ソ連軍との戦闘に惨敗したノモンハン事件に関する議論も示唆に富んでいる。とりわけ私が驚いたのは敗戦処理にまつわる事実。作戦を立案した参謀は陸軍の基本方針で厳しく責任を問われることはなかったのに、現場の指揮官たちはみな戦場で自決させられたという。半藤が自決した指揮官の名前を一人ひとり挙げてそのことを指摘したのを受けて佐藤は次のように述べている。

 ……軍法会議で敗因を究明するのではなく、自決を強要したというのですね。現場の指揮官に自決させるというのは戦史研究の上では非常にマイナスです。負け戦に関して徹底的に聴取して、教訓を得なければならない。口封じに殺してしまっては、何の意味もありません。(p234)

 こうした事例に象徴されるように、対話をとおして浮かびあがってくるのは、戦争を遂行した日本のエリートたちがいかに失敗から学ばなかったかというあまたの史実である。そのマインドは現代の官僚組織にも受け継がれているという点でも二人の認識は一致している。とくに言及されているわけではないけれど、原発事故から抜本的なことを何一つ学ぼうとしない政治のあり方などはその典型といえるだろう。

 そうした観点からすれば、戦後日本が外見上は全体主義体制から戦後民主主義に変革を遂げたように見えても「日本に破滅をもたらした因子が、温存されることになってしまった」(佐藤優)ことは否めない。昭和時代は戦争によって断絶があったというよりも、むしろ見事なほどにつながっている。

 さらに昨今の歴史修正主義的な動きに対して、半藤が「歴史修正主義というよりも、歴史を知らないだけじゃないでしょうか。知らないものは、修正しようもない」と辛辣に批判しているのも印象に残った。

 昭和時代の連続性に着目し、そこに組み込まれている「悪の構造」を顕在化させるという本書の狙いは充分に果たされているのではないか。日本のエリートには昔も今も「失敗学」という発想が欠落しているのだなとあらためて感じた次第である。逆にいえば、そうした悪しき昭和の精神をいかに自覚し改善していくかが、二一世紀日本の大きな課題だといえるのかもしれない。
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by syunpo | 2017-05-17 19:17 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

入試問題でアクチュアルに歴史を学ぶ〜『「超」世界史・日本史』

●片山杜秀著『大学入試問題で読み解く 「超」世界史・日本史』/文藝春秋/2016年12月発行

b0072887_1128141.jpg 日本思想史を専攻する片山杜秀が歴史の大学入試問題に挑戦するという企画。編集部選りすぐりの記述式問題に片山が回答の方針を述べた後に専門家の模範解答が示され、その後にまた片山が解説を加えるという形式である。選ばれた入試問題は全部で二十三問。〈世界史〉〈中国史〉〈日本近代史〉〈昭和の戦争〉〈戦国時代〉の五つに章分けされて紹介されている。片山が問題を解いていく過程がそのまま歴史の学習に役立つという仕掛けで、問題に対する論評もスパイスがきいていて面白い書物に仕上がっている。

〈世界史〉では、二〇世紀につくられた国際機構(国際連盟と国際連合)に関する一橋大学の問題に違和感を表明しているのがおもしろい。国際連盟は「何もないところから、第一次世界大戦のあまりにも悲惨な結果を反省した国々が、ウィルソンの理念に共鳴して、集まってできた」ものだが、国際連合の方は第二次大戦の連合国を母体とする。入試問題では両者ともにモスクワ宣言で打ち出された理念を具現化する国際機構として想定、出題しているのだが、片山は「連合国の意向でできた国際連合を平和を求める人類の善意でできたかのよう」に考えるのは「錯誤」であると問題そのものに対して疑義を呈するのである。

〈中国史〉における科挙に関する問題に関連して、中国を手本にした日本が科挙を導入しなかった理由について解説しているくだりも興味深い。「能力主義は身分制や地縁・血縁の論理とは相性が悪く、それを排除しようとする傾向があります。ですから、科挙官僚の批判の矛先は、貴族だけでなく、世襲で君臨している天皇に向かった可能性があります」と片山は推論している。

 日本史関連では「統帥権の独立」の解釈が政治的対立の重要な争点となった事件(ロンドン海軍軍縮会議における統帥権干犯問題)の解説に片山らしさがはっきりと出ている。かねてからの持説である「未完のファシズム」問題の一端に論及しているからだ。
 当時、軍政と軍令は分離されていたが、これは明治憲法の権力分立思想の一面を示す仕組みでもあった。片山の見方によれば、統帥権干犯問題は軍政と軍令が分かれていたことに起因する。明治憲法下の権力分立による統治機構は総力戦時代には適合せず、権力の一元化を旨とするファシズム国家にはついになりえなかったというのが片山の「未完のファシズム」論である。

 このほか、昨今の欧州とイスラム圏との対立の根源に遡らせて十字軍遠征について答えさせる慶応義塾大学の設問と解説も骨太の歴史認識を問うもので勉強になったし、中国共産党と中国国民党との関係を問う問題なども現在の日中関係を考えるうえでは参考になるものだろう。

 片山の歴史観が時に強く押し出された本書の記述には賛同できない点もなくはないけれど、「アクチュアルに歴史を学ぶ」には恰好の新書であることは間違いない。
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by syunpo | 2017-04-08 11:30 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

近代日本の歴史をくぐりぬけてきた歌〜『ふしぎな君が代』

●辻田真佐憲著『ふしぎな君が代』/幻冬舎/2015年7月発行

b0072887_12191238.jpg 一八六九年、英国王子エディンバラ公アルフレッドが来日し、明治天皇に謁見することになった。日本史上初めての西洋王族の来朝である。明治新政府は失礼のないように周到に準備を始める。歓迎の準備が進むなか、横浜に駐屯していた英国陸軍の軍楽隊長が「日本国歌はいかなるものでよろしいか」と問い合わせてきた。外交儀礼として両国の国歌を演奏するというのだ。接伴掛は急遽、古歌「君が代」を用いることを思いつく。曲は鹿児島で愛唱されていた琵琶歌「蓬莱山」の一節を転用することになった。接伴掛の一人が蓬莱山の節で君が代を歌い、軍楽隊長に譜面に起こしてもらった。──これが「君が代」の始まりとされる挿話の一つである。が、定説とはなっていない。様々な異説が今なお存在しているのである。

 いずれにせよ、当時「国歌」が重視されていなかったということは確かである。確実な記録がなく関係者の記憶さえ曖昧で、国家全体として「国歌」に取り組んだ形跡がまったく見当たらない。はっきりしているのは、千年近く「あなた」の健康長寿を祈ってきた古歌が「国歌」に選ばれた時に「天皇」のみを讃える歌へと変貌したということである。

 そのようなスタートを切った歌であるからして、国歌として定着していくには、幾多の試練を経なければならなかった。様々な批判が戦前戦後を通じて寄せられた。「君が代」に代わる国歌が模索されたことも何度かあった。それらをはねのけて現代まで生き延びてきたのである。

 本書はそのような「君が代」の波乱万丈の歴史を丁寧に検証している。歌詞をめぐる解釈が時代に合わせて巧みに変化をとげていったこと。民間による普及活動がその定着に大きく貢献したこと。息つぎの箇所を含めて「君が代」の歌い方が統一されたのはレコードやラジオが普及した昭和時代に入ってからのこと。……などなど本書によって初めて知った史実はたくさんあった。
 著者が結論的に提起している「君が代」運用論には今ひとつ賛成できないけれど、君が代を理解するうえでは良き入門書であることは間違いない。
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by syunpo | 2017-03-10 12:21 | 歴史 | Trackback | Comments(0)