カテゴリ:歴史( 36 )

日本の政治にも影響を与え続ける!?〜『ヒトラー演説』

●高田博行著『ヒトラー演説 熱狂の真実』/中央公論新社/2014年6月発行

b0072887_197252.jpg ナチスが権力を掌握するに際しては、ヒトラーの演説が大きな役割を果たしたといわれる。本書は、ヒトラーが四半世紀に行った演説のうち合計五五八回の演説文を機械可読化して総語数約一五〇万語のデータを作成し、それらを分析してまとめた労作である。著者は近現代ドイツ語史の研究者。

 ヒトラー自身、「語られる言葉の威力」の大きさを力説していたらしい。「人を味方につけるには、書かれたことばよりも語られたことばのほうが役立ち、この世の偉大な運動はいずれも、偉大な書き手ではなく偉大な演説家のおかげで拡大する」と。マルクス主義が一年で一〇〇万人もの労働者を獲得できたのも、大部の著作によるものではなく「何十万回もの集会」のおかげだとヒトラーは考えたのである。

 それではヒトラーの演説のいかなる点が人々を魅了したのだろうか。高田はヒトラーが多用したレトリックをいくつか挙げている。対比法、平行法、交差法、メタファー、誇張法などだ。それらはいずれも弁論術の理論にかなったものである。

 また高田はヒトラーが好んだ語句をいくつか指摘している。たとえばナチス独裁への足がかりを築いた全権委任法の審議では「国民革命」というキーワードを使うようになった。大がかりな軍事行動が始まると「平和」の語句を頻用するのもヒトラーの特徴であった。味方陣営を「われわれ」で包括する語り方によって、連帯感を形成する説得法も活用した。

 ヒトラーの活躍した時代は選挙が頻繁に行なわれたが、度重なる選挙戦はヒトラーの声帯を酷使した。そのため、ヒトラーはあるオペラ歌手から極秘裏に、発声法だけでなく、キーワードの抑揚の付け方やジェスチャーの仕方まで指導を受けたという挿話も興味深い。

 そしてもう一つ重要なのは、テクノロジーとメディアを積極的に利用したことである。大きな会場におけるマイクとラウドスピーカーの使用。外国メディアへの露出。移動に飛行機を使った遊説も当時としては新しいスタイルだった。さらに移動可能な大規模集会装置としての自動車キャラバン隊を編成したのもいかにもナチスらしいといえるかもしれない。

 ヒトラーの演説を分析することによってナチスドイツの政治手法を浮かび上がらせた本書は、ドイツの近現代史を知るうえでの有力な参考文献の一つとしてリストアップされることになるだろう。読みすすむうちに、そういえば極東の島国にも似たようなことをやっている政治勢力がいるなぁと思ったのは私だけではあるまい。それは偶然なのか。それとも意識して「手口」を真似ているのか。
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by syunpo | 2017-10-17 19:15 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

戦後日本外交の舞台裏〜『日米同盟はいかに作られたか』

●吉次公介著『日米同盟はいかに作られたか 「安保体制」の転換点1951-1964』/講談社/2011年9月発行

b0072887_18312845.jpg 戦後の日本外交の基軸は日米関係にある。日米関係はいつしか日米同盟とも呼ばれるようになったが、それは対等なものでないことは誰もが知っている。その基底にあるのは「負担分担」という大義名分であるが、ではその構図はいかに形成され、定着したのか。本書では、日米安保体制の形成から安保改定を経て、池田勇人政権に至る時代に焦点をあてて、この問いに答えようとする。池田政権期は日米安保体制史上において、目立たないが、きわめて重要な岐路であったというのが本書の認識である。

 米国と日米安全保障条約を結んだのは吉田茂政権期である。吉田首相は、日本が十分な軍備を持つまで、日本の防衛を米軍に委ねるつもりであった。他方で米国はアジア戦略上、占領終結後も日本の駐留させたいと考えていた。その意味では「日米の立場は五分五分のところである」と外務省がみなしていたのは卓見である。

 しかし、できあがった安保条約は「五分五分」ではなかった。在日米軍の日本防衛義務が明記されないばかりか、日本が「日本国内及びその附近にアメリカ合衆国がその軍隊を維持することを希望」し、米国がそれに応じるとの内容になったのである。

 ……吉田茂が大きな問題点を安保条約に内包させてしまったことは、指摘されねばならない。その問題点とは、在日米軍はアメリカが日本に与える“恩恵”であり、日本はそれに見合うアメリカへの「貢献」を求められるという論理構造が、日米安保体制に埋め込まれたことである。(p26)

 真理をついていた外務省の論理が日米交渉で通じなかったのは、日米の力関係とダレス国務省顧問の巧みな交渉術ゆえであったと吉次はみている。

 後任の岸信介首相は吉田の「対米追随」を批判し、対等な日米関係の具現化を目指すことを信条としていた。ゆえに日米安保条約についても対等なものに改定しようとしたのは当然である。新条約で米軍の日本防衛義務が明記されたことは大きな成果であったといえよう。

 しかし国民の間からは大がかりな反対運動がわきおこった。社会党は「日米同盟の強化にほかならない」と批判した。それ以上に国会における岸の強硬姿勢が大きな反発を引き起こす要因の一つとなった。
 また後になって、日米間で事前協議制度に関する密約が取り交わされていたことも明らかになった。事実上、密約のために事前協議制度は形骸化していたのである。そうした意味では新安保の「対等性」は形だけのものだったといえる。

 その後を継いだ池田政権にとっては、安保闘争によって深手を負った日米関係の修復が最大の懸案となったのである。

 池田は所得倍増計画を前面に押し出すなど、国民の関心を政治から経済へとシフトさせたことで一般には知られる。池田政権は「経済の季節」の到来を見事に演出したのだと。
 しかし日米関係の安定化は政権維持のためにも必須の課題であった。その対外政策において「自主独立」問題はすでに後景に退いていた。冷戦構造が顕在化するなかでケネディ大統領のスローガン「イコール・パートナーシップ」と池田の「大国」意識は互いに共鳴しあうものであった。

 かくしてケネディ政権は防衛面での「負担分担」を強く求めるようになる。自衛隊の兵力増強など米国は日本に対して軍備の拡充をいっそう強く求めてきたのである。池田はそれをそのまま受け入れたわけではないが、結果的には米国の要求に沿うような形で政策を決定していったことは否めない。岸政権下で取り交わされた核密約に関しても、大平外相とともに密約の確認を行ない、それを明確に拒否することはなかった。

 さらに重要なのは、池田政権はアジア諸国とも積極的な外交を展開して対外援助につとめたことである。日本はアジア各国との関係において、自由主義陣営の大国として振る舞うことで存在感を示そうとした。米国は日本の防衛政策に満足することはなかったが、日本側はアジアへの対外援助によって「負担分担」をアピールしたのである。

 ……一九五〇年代の日本外交にとって、「敗戦国・被占領国」の残像を払拭し、対米「対等」や「独立の完成」を実現させることが急務であり、再軍備や対外援助はそのための手段と位置づけられていた。それに対して池田政権の対外政策は、アメリカの「イコール・パートナー」である「自由主義陣営の有力な一員」となった以上、それに相応しい「負担」を分担すべきとの論理に立脚していた。池田政権の「大国」志向と日本の経済成長、そしてアジア冷戦の激化とアメリカの苦境により、日米安保の「負担分担」の構図は新たな段階を迎えたといえる。(p191)

 以上みてきたように、本書の考察には教えられるところが多かったけれど、引っかかるところもなくはない。オフィシャルな外交文書などに典拠してもっぱら政権中枢の言動を描出しているため、政権サイドに立った書きぶりにはやや違和感を覚えた。たとえば池田へのメディアからの酷評を「揶揄」といったり、社会党の質問を「レトリック」と決めつける表現などだ。

 また、当時の考えられる選択肢を指摘し、そのなかで政権の選択した政策を吟味するいう記述にこそ歴史を学ぶ面白味があると思うのだが、本書の書きぶりにはそうした歴史への想像力を喚起させる力にも乏しいような気がした。

 むろん、そうした点を差し引いても本書が戦後の日米関係を学ぶに有益な本であることは間違いない。これからの日本のあり方を考える場合、日米関係を抜きにすることはできない。その意味では今日につながる日米同盟の舞台裏を知っておくことは意義深いことであるだろう。
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by syunpo | 2017-07-15 18:36 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

〈慣習の支配〉から〈議論による統治〉へ〜『日本の近代とは何であったか』

●三谷太一郎著『日本の近代とは何であったか ──問題史的考察』/岩波書店/2017年3月発行

b0072887_18542080.jpg 日本の近代とはいかなる経験であったのか。その大きな問題を考えるにあたって本書がまず参照するのは、ウォルター・バジョットである。バジョットはヨーロッパの近代を「慣習の支配」から「議論による統治」への移行とみなした。その変革要因として「貿易」と「植民地化」を挙げている。もっとも前近代から近代への移行には断絶があるわけではなく、前近代においても古代ギリシャや中世イタリアなどを見ればわかるように「議論による統治」の萌芽はみられたという立場をとる。

 この「慣習の支配」から「議論による統治」への移行という近代化の観念は、福沢諭吉を初めとする当時の日本の先進的知識人にも非常に大きな影響を与えました。そして実際に「慣習の支配」から「議論による統治」への歴史的な移行に相当する状況の変化が、当時の「立憲主義」に相当する体制原理の危機の進行に伴って、幕末日本においても見られたのです。(p63)

 三谷はそうした認識を提示したうえで、日本の近代化を「政党政治の成立」「資本主義の形成」「植民地帝国の形成」の過程に注目して考察する。さらに日本独自の君主制としての「天皇制」についても一章を設けている。このような検証をとおして現在の日本が置かれている歴史的位置を見定めようというのが本書の趣旨である。

 まず第一に日本における政党政治とはいかなるものであったのか。
 一見集権的とされた天皇主権の背後には、実際には分権的・多元的な国家の諸機関の相互的抑制均衡のメカニズムが作動していた。したがって、明治憲法に規定されていたような比較的厳格な権力分立制は、立法と行政との両機能を連結する政党内閣を本来排除する志向をもっていた、という。
 逆にいえば、体制を全体として統合する機能をもつ、憲法に書かれていない何らかの非制度的な主体というものが必要とされるだろう。

 そうした主体の役割を担ったものとして、まず登場したのが「藩閥」である。薩長出身者を中心とする藩閥の代表的なリーダーたちが事実上天皇を代行する元老集団を形成した。しかしそれでも衆議院を掌握することはできなかった。衆議院を支配したのは「政党」であった。藩閥と政党はそれぞれの限界を打破するために相互接近が試みられた。そういうなかから複数政党制が出現した、というのが三谷の見方である。

 ただし日本の政党政治は短命に終わった。大正末期から政党政治が本格的に作動し始めたものの、軍部の台頭などによって、その権威は揺るがされていったのである。それにかわる現象が「立憲的独裁」(蝋山政道)であった。

 国民国家の形成を目的として始まった日本の近代は、自立的資本主義の形成をその不可欠の手段とした。日本の近代化を方向づけ、それに沿う資本主義の発展を正当化する有力な論拠とされた学説は、ハーバート・スペンサーの社会学説である。スペンサーは「軍事型社会」から「産業型社会」へという発展段階の図式を示したことで知られる。

 ただ本書の分析でおもしろいのは、権力による近代化=資本主義の形成の心理的促進要因として「恥」の意識を挙げている点だ。内外の笑いものにならないように腐心する、その意識が文明開化を促し、ひいては資本主義を進展させていったというわけである。

 日本が不平等条約を脱し、資本主義の形態が「自立的資本主義」から「国際的資本主義」へと転化した段階で、植民地を有する植民地帝国の構築を目的とする戦略を採用するにいたる。
 その際、より大きなコストを要する軍事力への依存度の高い「公式帝国」の道を歩んだのは何故か。三谷は「先進の植民地帝国に伍する実質的意味の国際社会のメンバーではなかったこと」「日本の植民地帝国構想が経済的利益関心よりも軍事的安全保障関心から発した」ことの二点を指摘する。

 その後、日本の植民地政策は最終的には帝国主義に代わる国際イデオロギーとしての「地域主義」に移っていく。それは「太平洋における地方的平和機構」のようなスローガンに象徴されるものである。しかし現実には「日本の対外膨張によってつくり出された既成事実を追認し、正当化するイデオロギー」としての役割を担ったものであることはいうまでもない。

 日本の近代化には機能主義的な思考様式が推進力としてはたらいた。そこでは、宗教もまた基本的な社会機能としてとらえられる。ヨーロッパではキリスト教がその役目を果たしたのだが、日本ではどうか。キリスト教の機能的等価物として考えられたのが「天皇制」である。

 ただし明治憲法に定める天皇の地位と教育勅語における天皇とは齟齬をきたしている。その問題を意識していた井上毅らの苦肉の策を概説したうえで、三谷は次のように述べている。

 しかし井上毅の苦慮の奇策にもかかわらず、憲法と教育勅語との矛盾、すなわち立憲君主としての天皇と道徳の立法者としての天皇との矛盾は消えることはありませんでした。そしてその矛盾と不可分の「政体」と「国体」との相剋は、日本の近代の恒常的な不安定要因でした。(p241)

 相互矛盾の関係にある両者のうちで、一般国民に対して圧倒的影響力をもったのは憲法ではなく教育勅語であった。すなわち「立憲君主としての天皇ではなく、道徳の立法者としての天皇」が国民の上に屹立したのである。

 以上のように日本近代を振り返った三谷はまとめとして次のように述べている。

 日本の近代は一面では極めて高い目的合理性をもっていましたが、他面では同じく極めて強い自己目的化したフィクションに基づく非合理性をもっていました。過去の戦争などにおいては、両者が直接に結びつく場合もありました。今日でも政治状況の変化によっては、そのような日本近代の歴史的先例が繰り返されないとは限りません。疑似宗教的な非合理性が儀式と神話を伴って再生し、それに奉仕する高度に技術的な合理性が相伴う可能性は残されています。(p251~252)

 そのうえで三谷はワシントン体制を振り返りながら、その重要な遺産を憲法第九条に遺していることの意味を考えるべきだと締めくっている。いささか硬い読み味ながら、日本の近代化を考えるには有益な一冊といえるだろう。
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by syunpo | 2017-06-01 19:00 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

昭和史を貫く「悪の構造」〜『21世紀の戦争論』

●半藤一利、佐藤優著『21世紀の戦争論 昭和史から考える』/文藝春秋/2016年5月発行

b0072887_19123245.jpg 昭和史に詳しい作家・半藤一利と元外交官の佐藤優による対談集。書名からもわかるように、ここで議論されているのはもっぱら戦争を軸とした昭和史の断面についてである。具体的には、七三一部隊、ノモンハン事件、終戦工作、軍事官僚機構などが検証・考察の対象となっている。

 歴史的事実から思考を組み立てようとする二人の対話は「神は細部に宿る」の格言を地でゆくがごとく時に細かな議論にまで立ち入るのだが、薄味な対談が多いなかではそれこそが本書の一つの売りといえるだろう。

 七三一部隊にいた人物が戦後エイズ問題で物議を醸したミドリ十字の社長になったという話はよく知られているけれども、半藤は帝銀事件に関しても松本清張を参照しながら七三一部隊関係者の関与を示唆しており、たいへん興味深く読んだ。

 ソ連軍との戦闘に惨敗したノモンハン事件に関する議論も示唆に富んでいる。とりわけ私が驚いたのは敗戦処理にまつわる事実。作戦を立案した参謀は陸軍の基本方針で厳しく責任を問われることはなかったのに、現場の指揮官たちはみな戦場で自決させられたという。半藤が自決した指揮官の名前を一人ひとり挙げてそのことを指摘したのを受けて佐藤は次のように述べている。

 ……軍法会議で敗因を究明するのではなく、自決を強要したというのですね。現場の指揮官に自決させるというのは戦史研究の上では非常にマイナスです。負け戦に関して徹底的に聴取して、教訓を得なければならない。口封じに殺してしまっては、何の意味もありません。(p234)

 こうした事例に象徴されるように、対話をとおして浮かびあがってくるのは、戦争を遂行した日本のエリートたちがいかに失敗から学ばなかったかというあまたの史実である。そのマインドは現代の官僚組織にも受け継がれているという点でも二人の認識は一致している。とくに言及されているわけではないけれど、原発事故から抜本的なことを何一つ学ぼうとしない政治のあり方などはその典型といえるだろう。

 そうした観点からすれば、戦後日本が外見上は全体主義体制から戦後民主主義に変革を遂げたように見えても「日本に破滅をもたらした因子が、温存されることになってしまった」(佐藤優)ことは否めない。昭和時代は戦争によって断絶があったというよりも、むしろ見事なほどにつながっている。

 さらに昨今の歴史修正主義的な動きに対して、半藤が「歴史修正主義というよりも、歴史を知らないだけじゃないでしょうか。知らないものは、修正しようもない」と辛辣に批判しているのも印象に残った。

 昭和時代の連続性に着目し、そこに組み込まれている「悪の構造」を顕在化させるという本書の狙いは充分に果たされているのではないか。日本のエリートには昔も今も「失敗学」という発想が欠落しているのだなとあらためて感じた次第である。逆にいえば、そうした悪しき昭和の精神をいかに自覚し改善していくかが、二一世紀日本の大きな課題だといえるのかもしれない。
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by syunpo | 2017-05-17 19:17 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

入試問題でアクチュアルに歴史を学ぶ〜『「超」世界史・日本史』

●片山杜秀著『大学入試問題で読み解く 「超」世界史・日本史』/文藝春秋/2016年12月発行

b0072887_1128141.jpg 日本思想史を専攻する片山杜秀が歴史の大学入試問題に挑戦するという企画。編集部選りすぐりの記述式問題に片山が回答の方針を述べた後に専門家の模範解答が示され、その後にまた片山が解説を加えるという形式である。選ばれた入試問題は全部で二十三問。〈世界史〉〈中国史〉〈日本近代史〉〈昭和の戦争〉〈戦国時代〉の五つに章分けされて紹介されている。片山が問題を解いていく過程がそのまま歴史の学習に役立つという仕掛けで、問題に対する論評もスパイスがきいていて面白い書物に仕上がっている。

〈世界史〉では、二〇世紀につくられた国際機構(国際連盟と国際連合)に関する一橋大学の問題に違和感を表明しているのがおもしろい。国際連盟は「何もないところから、第一次世界大戦のあまりにも悲惨な結果を反省した国々が、ウィルソンの理念に共鳴して、集まってできた」ものだが、国際連合の方は第二次大戦の連合国を母体とする。入試問題では両者ともにモスクワ宣言で打ち出された理念を具現化する国際機構として想定、出題しているのだが、片山は「連合国の意向でできた国際連合を平和を求める人類の善意でできたかのよう」に考えるのは「錯誤」であると問題そのものに対して疑義を呈するのである。

〈中国史〉における科挙に関する問題に関連して、中国を手本にした日本が科挙を導入しなかった理由について解説しているくだりも興味深い。「能力主義は身分制や地縁・血縁の論理とは相性が悪く、それを排除しようとする傾向があります。ですから、科挙官僚の批判の矛先は、貴族だけでなく、世襲で君臨している天皇に向かった可能性があります」と片山は推論している。

 日本史関連では「統帥権の独立」の解釈が政治的対立の重要な争点となった事件(ロンドン海軍軍縮会議における統帥権干犯問題)の解説に片山らしさがはっきりと出ている。かねてからの持説である「未完のファシズム」問題の一端に論及しているからだ。
 当時、軍政と軍令は分離されていたが、これは明治憲法の権力分立思想の一面を示す仕組みでもあった。片山の見方によれば、統帥権干犯問題は軍政と軍令が分かれていたことに起因する。明治憲法下の権力分立による統治機構は総力戦時代には適合せず、権力の一元化を旨とするファシズム国家にはついになりえなかったというのが片山の「未完のファシズム」論である。

 このほか、昨今の欧州とイスラム圏との対立の根源に遡らせて十字軍遠征について答えさせる慶応義塾大学の設問と解説も骨太の歴史認識を問うもので勉強になったし、中国共産党と中国国民党との関係を問う問題なども現在の日中関係を考えるうえでは参考になるものだろう。

 片山の歴史観が時に強く押し出された本書の記述には賛同できない点もなくはないけれど、「アクチュアルに歴史を学ぶ」には恰好の新書であることは間違いない。
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by syunpo | 2017-04-08 11:30 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

近代日本の歴史をくぐりぬけてきた歌〜『ふしぎな君が代』

●辻田真佐憲著『ふしぎな君が代』/幻冬舎/2015年7月発行

b0072887_12191238.jpg 一八六九年、英国王子エディンバラ公アルフレッドが来日し、明治天皇に謁見することになった。日本史上初めての西洋王族の来朝である。明治新政府は失礼のないように周到に準備を始める。歓迎の準備が進むなか、横浜に駐屯していた英国陸軍の軍楽隊長が「日本国歌はいかなるものでよろしいか」と問い合わせてきた。外交儀礼として両国の国歌を演奏するというのだ。接伴掛は急遽、古歌「君が代」を用いることを思いつく。曲は鹿児島で愛唱されていた琵琶歌「蓬莱山」の一節を転用することになった。接伴掛の一人が蓬莱山の節で君が代を歌い、軍楽隊長に譜面に起こしてもらった。──これが「君が代」の始まりとされる挿話の一つである。が、定説とはなっていない。様々な異説が今なお存在しているのである。

 いずれにせよ、当時「国歌」が重視されていなかったということは確かである。確実な記録がなく関係者の記憶さえ曖昧で、国家全体として「国歌」に取り組んだ形跡がまったく見当たらない。はっきりしているのは、千年近く「あなた」の健康長寿を祈ってきた古歌が「国歌」に選ばれた時に「天皇」のみを讃える歌へと変貌したということである。

 そのようなスタートを切った歌であるからして、国歌として定着していくには、幾多の試練を経なければならなかった。様々な批判が戦前戦後を通じて寄せられた。「君が代」に代わる国歌が模索されたことも何度かあった。それらをはねのけて現代まで生き延びてきたのである。

 本書はそのような「君が代」の波乱万丈の歴史を丁寧に検証している。歌詞をめぐる解釈が時代に合わせて巧みに変化をとげていったこと。民間による普及活動がその定着に大きく貢献したこと。息つぎの箇所を含めて「君が代」の歌い方が統一されたのはレコードやラジオが普及した昭和時代に入ってからのこと。……などなど本書によって初めて知った史実はたくさんあった。
 著者が結論的に提起している「君が代」運用論には今ひとつ賛成できないけれど、君が代を理解するうえでは良き入門書であることは間違いない。
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by syunpo | 2017-03-10 12:21 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

普遍的な概念でストーリーを語る〜『げんきな日本論』

●橋爪大三郎、大澤真幸著『げんきな日本論』/講談社/2016年10月発行

b0072887_1957078.jpg 今や講談社新書の名物コンビとなった橋爪大三郎と大澤真幸の対談シリーズ第三弾。テーマは日本史である。時流に媚びたような書名にはあまり共感できないが、ここにいう「げんき」とは「自分なりのストーリーを見つけること」。具体的には「普遍的な概念をもって説明」することで「科学的な検証にたえる」ようなストーリーを再発見するという意味らしい。
 社会学者二人による議論なのであくまで「仮説」の提起というレベルにとどまるものの、歴史の読み物としてそれなりにおもしろいことは確かである。

 全体を古代・中世・近世に対応する〈はじまりの日本〉〈なかほどの日本〉〈たけなわの日本〉と三部構成にしたうえで、それぞれに六つの問題を配して二人が語りあっていくというスタイルをとる。

「なぜ日本では、大きな古墳が造られたのか」を考える一章では、「余剰労働を『非軍事的に消費する』こと自身が、目的だったのでは」と推察したり、平安時代における古典文学の成立によって「日本という文化的空間の、アイデンティティ(自己同一性)が揺るぎないものになった」といった橋爪の発言はなるほどおもしろい。

 承久の乱の画期性を指摘するあたりの議論も勉強になったし、戦国大名は統治権が伝統に基づかないという橋爪の指摘を受けて「日本史上初めて出現した事実上の政府」と大澤が受けるやりとりも異論はありそうだが、興味深く読んだ。

 安政の不平等条約について「条約の内容は不平等かもしれないけれども、条約という形式は、両者の対等性を前提にしている」という認識にもなるほどと思う。二人の認識によればこの条約のおかげで日本の独立が保障され、ヨーロッパ列強による植民地化を免れたということになる。

 日本史学の専門家であればもっと精緻な議論が求められるだろうが、専門外の気楽さから自由闊達に仮説を披瀝している点に良くも悪くも本書の特質があるといえるだろう。
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by syunpo | 2017-02-24 20:01 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

戊辰戦後デモクラシーとしての〜『自由民権運動』

●松沢裕作著『自由民権運動 〈デモクラシー〉の夢と挫折』/岩波書店/2016年6月発行

b0072887_9143625.jpg「戦後デモクラシー」といえば、アジア・太平洋戦争後の民主化・民主主義運動のことを指すが、戦後史研究者の三谷太一郎は、日本近代史においては、それぞれの戦争がそれぞれの戦後になんらかの政治参加の拡大を引きおこしていることに注目し、複数の「戦後デモクラシー」が存在することを指摘した。
 松沢裕作は、この指摘をさらに一つ前の時期にさかのぼらせ、戊辰戦争という内戦の後に発生した政治参加の拡大要求として自由民権運動を位置づけようとする。すなわち「戊辰戦後デモクラシー」としての自由民権運動である。

 戊辰戦争という、二百数十年ぶりの全国的軍事動員は、近世の身分制秩序を大きく揺るがした。とくに戦場での功績は、武士から都市下層民に至るまで、戦後のしかるべき処遇を求める動きを生み出したのである。(p23)

 河野広中、板垣退助、尾張の博徒たち、のちに自由民権運動に參加することになる彼らに共通するのは、戊辰戦争における勝利の経験であった。その意味では自由民権運動とは高邁な理念に駆られた行動とは必ずしも言いがたい。本書の観点からいえば、民撰議員設立建白書は失脚政治家たちの「わりこむ」ための道具だった。

 近世社会は身分制秩序に基づいて、それぞれの階級はそれぞれの共同体にまとめられて統治されていた。それぞれが所与の「袋」の中で生活していたのだ。それが同時に彼らの安心や安定を保障していたともいえる。しかし明治維新はそれらの共同体を解体した。「袋」がやぶれてしまったのである。

 自由民権運動とは、何よりも所属すべき「袋」からあふれ出した人びとが拠り所を求めた運動であったといえる。各地に創設された結社がそうした人びとの不安に応えるものとして機能した。ゆえにそれぞれの結社がかつての封建制に基づいた身分の保障をしたとしても不思議はない。それはたとえば「結社に入れば兵役を免れる」「永世禄が支給される」「税金が免除される」などの宣伝としてあらわれる。松沢は人びとが結社や運動に託した思いを〈「参加=解放」型の幻想〉と呼び、自由民権運動の重要な要素であったことを指摘する。この認識は本書の核を成すものといってよい。

 ところが政府が国会開設や憲法制定を宣言したことで自由民権運動は大義を失うことになった。自由民権運動の衰退期には暴力的な事件がいくつも発生したが、それも戦後デモクラシーという文脈でみれば理解可能である。

 暴力に訴えてでも新しい秩序を自分たちの手で創出するというのは、自由民権運動の中心となった自由党の存在意義そのものであり、自由党の思想の中核にあった。そうした思想の淵源には、実際に暴力で旧秩序を打ち倒した戊辰戦争の体験があった。

 以上のように要約すれば、本書の記述は身も蓋もない史実を明らかにしたということになるのかもしれない。といって過去の国民的な運動を後世の高みから冷たく突き放して眺めているというのでもない。松沢は結びで述べている。「少しでも生きやすい世の中を自分たちの手でつくりたい、という自由民権運動を支えていた人びとの欲求は、また私のなかで完全に失われていない欲求」でもあるのだと。自由民権運動について新たな視点をもたらしてくれる好著である。
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by syunpo | 2016-09-03 09:15 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

あるシベリア抑留者の軌跡〜『生きて帰ってきた男』

●小熊英二著『生きて帰ってきた男 ──ある日本兵の戦争と戦後』/岩波書店/2015年6月発行

b0072887_1945366.jpg 小熊謙二は満州に出征し、ソ連軍侵攻にあって四年間のシベリア抑留生活をおくった後、生還を果たした。帰国後は職業を転々としながら高度経済成長の波にのってビジネスを成功させ、晩年は中国在住の元日本兵が起こした戦後補償裁判の共同原告となって裁判を闘った。波乱万丈の人生を息子・英二がオーラル・ヒストリーの形でまとめたのが本書である。

 シベリアでの収容所暮らしで注目すべきことの一つは「民主運動」であろう。捕虜たちのあいだで共産主義思想に基いてお互いを糾弾しあうという運動が生じたのだ。それにはソ連側の働きかけがあったことは事実だが、捕虜たちがみずからすすんでそのような運動を行なった側面も否定できない。小熊は、日本の捕虜たちが「過剰適応」した部分も大きかったと分析している。謙二自身はそうした運動からは距離をおいていたらしいのだが。

 それにしても謙二の人生は様々な意味で人間のたくましさを感じさせる。戦後、結核を患い長期にわたって療養所暮らしを体験し、外科手術のために片肺の状態になってしまうのだが、それでもその後の人生をビジネスマンとして生き抜いた。また後年、戦後日本国籍を失った元日本兵には政府の補償を受ける権利がないことに理不尽さを感じ、中国在住の元戦友が起こした裁判をともに闘うすがたは感動的でさえある。

 ──シベリアや結核療養所などで、未来がまったく見えないとき、人間にとって何がいちばん大切だと思ったか、という息子の問いに対する父・謙二の回答はシンプルゆえに印象深い。「希望だ。それがあれば、人間は生きていける」。

 一般に戦争体験の記録は学徒兵や将校など学歴や地位に恵まれた者たちによって記されたものが多い。「生活に余裕がなく、識字能力などに劣る庶民は、自分からは歴史的記録を残さない」。その意味では、とくに学歴に優れているわけでもなく、軍隊で恵まれた境遇にいたわけでもなく、戦後もインテリとして生活したわけでもない人物にまつわる本書の記録はこれまでの戦争体験記の隙間を埋めるものであるかもしれない。

 さらに類書と異なっている特色として、著者もいうように戦前と戦後の生活を詳細に記述している点が挙げられるだろう。「戦前および戦後の生活史を、戦争体験と連続したものとして」描くことで「戦争が人間の生活をどう変えたか」「戦後の平和意識がどのように形成されたか」といったテーマにも応えるものとなった。力作といえるだろう。
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by syunpo | 2016-03-18 19:06 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

重い十字架を背負って〜『戦争をしない国』

●矢部宏治、須田慎太郎著『戦争をしない国 明仁天皇メッセージ』/小学館/2015年7月発行

b0072887_1921575.jpg 東京裁判で絞首刑を宣告されたA級戦犯七名が処刑されたのは、一九四八年十二月二十三日。明仁皇太子十五歳の誕生日だった。ちなみにA級戦犯が起訴されたのは、一九四六年四月二十九日、昭和天皇の誕生日である。それらの合致はもちろん偶然ではない。そこには明らかに占領軍の政治的意図がこめられていた。一九四八年にはすでにドイツ、イタリア、ハンガリーなど欧州の敗戦国の王室はすべて廃止されていた。天皇の戦争責任を問う声が連合国側に少なくなかったなかで、日本の皇室だけが温存されたのである。

「おそらく明仁天皇は、その後、自分の誕生日を爽やかな気持ちで迎えられたことは一度もなかったでしょう」と矢部はその心中を推し量っている。「それはひとりの中学生が背負わされるには、あまりに重い精神的な十字架でした」。

 本書は、明仁天皇が戦後憲法の制約のなかで(皇太子時代を含めて)これまで発してきた言葉を取り上げ、戦後民主主義や平和主義について再考しようとするものである。象徴天皇制に反対する者も賛同する者も、基本的人権を奪われた一人の人間としての天皇の言葉にあらためて耳を傾けてみるのもけっして無駄ではないだろう。須田慎太郎の印象的な写真がふんだんに使われていて美しい本に仕上がっている。

 普通の日本人だった経験がないので、何になりたいと考えたことは一度もありません。皇室以外の道を選べると思ったことはありません。(p8、1987年9月/アメリカの報道機関からの質問に対する文書での回答)

 政治から離れた立場で国民の苦しみに心を寄せたという過去の天皇の話は、象徴という言葉で表すのに最もふさわしいあり方ではないかと思っています。(p44、1984年4月6日/結婚25周年の記者会見)

 沖縄の問題は、日米両国政府の間で十分に話し合われ、沖縄県民の幸せに配慮した解決の道が開かれていくことを願っております。(p100、1996年12月19日/63歳の誕生日会見)

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by syunpo | 2015-10-28 19:06 | 歴史 | Trackback | Comments(0)