●沼野充義編著『世界は文学でできている 対話で学ぶ〈世界文学〉連続講義』/光文社/2012年1月発行
ロシア・ポーランド文学の研究者・翻訳者である沼野充義が五人のゲストを相手に対論形式で行なった講義の記録である。ゲストはリービ英雄、平野啓一郎、ロバート・キャンベル、飯野友幸、亀山郁夫。多和田葉子の例を引きつつ、外国語を書くという動機は政治的・経済的な理由だけによるものではなく論じ尽くせないような個人的なきっかけもありうると述べ、「越境文学」の可能性を語るリービ英雄。万葉集以来の膨大な美しい言葉が眠る日本語を拡張することをデビュー作で企図したという平野啓一郎。『土佐日記』などを例に世界文学たりうる自意識がないままに外側に向かって訴求力をもつ日本文学の魅力を語るロバート・キャンベル。ホイットマンの一人称を「おれ」「ぼく」「わたし」と訳しわけた訳業にふれつつ、詩と翻訳の問題について考察する飯野友幸。日本におけるドストエフスキー受容、日本文学への影響などについて具体的に言及する亀山郁夫。 ……といった具合にそれぞれの専門や問題意識に即した興味深い議論が展開されている。議論にややまとまりや深味を欠くきらいはあるけれど、あらためて読書意欲を喚起させるような内容であることは確かである。
●奥泉光著『シューマンの指』/講談社/2010年7月発行
ミステリー小説の体裁をとりつつも、一つのシューマン論としても読める。これは一風変わった面白い作品である。ドイツ・ロマン派を代表する音楽家のひとりロベルト・シューマンは精神を病み、ライン河に身を投げて救われたのち晩年を精神科病院で過ごしたことはよく知られている。また音楽家人生の途上で指に異常をきたしてピアノを弾けなくなったことも周知の事実である。登場人物たちはさながらそのような苦難の人生を歩んだシューマンの分身のごとく、音楽を語り、ピアノに向かい、文章を書き、指を傷つけられ、音楽と格闘する。 シューマンに魅せられた天才ピアニストの永嶺修人、音楽大学に進学しながら挫折した語り手の里橋優、その友人・鹿内堅一郎。彼らを取り巻く教師や女性たち。 里橋優たちが通っていた都立高校の卒業式の夜、学校内で殺人事件が発生する。その時、音楽室でピアノを弾いていた修人、その素晴らしい演奏に耳を傾けていた優と美術教師。そこにあらわれる堅一郎。はたして犯人は誰なのか……? 物語は長い年月を経た後の回想的な手記という形式をとっているが、シューマンと同時期のドイツロマン派文学の主要な形式であった書簡を物語の冒頭と終末においているのが注目されよう。とりわけ終末におかれた里橋の妹の書簡によって、里橋優が語ってきた物語を相対化する手法はなかなか手がこんでいる。 シューマンをめぐる優と修人の音楽談義のくだりは、それに興味を持たない読者にはいささか退屈に感じられるかもしれない。けれども少しでもシューマンのピアノ曲になじんできた者ならば、あらためてシューマンへの関心を掻き立てられることだろう。
●高橋源一郎著『恋する原発』/講談社/2011年11月発行
後半、唐突に挿入される〈震災文学論〉なる論考が本作のいわば自作解説めいた役割を果たしている。「疑いえない真理を『最初』に書く」という文法、「正義の論法」とでもいうべきその原則に対して高橋は再考を促すのだ。9・11の直後、服喪よりも先に傷ついたアメリカへの疑義を呈したスーザン・ソンタグは国内で激しい非難に曝された。だが、と高橋はいう。数千の自国民の犠牲を目にして、なお「テロとは何か。時にテロを必要とする者もいるのではないか」という議論を冷静にできる国家(民)は、如何なるテロによっても毀損されることはないはずだ。ソンタグがいちばんいいたかったのは、そのことではなかったろうか。(p202) 高橋はこの言葉のあと、川上弘美、宮崎駿、山本義隆、石牟礼道子らを引用しながら「通常とは異なった『倫理』から、ものごとを見る」ことの意義を考えている。さらにまた追悼や服喪のあり方についてより突っ込んだ考察を展開してもいる。たとえば「追悼と服喪は、起こったことに対してだけでなく、これから起こることに対してもなされるべき」ではないか、と。 もっともその論考以外の物語はあくまで軽佻浮薄なトーンが全体を通して維持されている。それもまた高橋なりの「倫理」のなせる業であろうし、その態度が真摯なものであることに疑いはないけれど、高橋の根源的な思考がこの作品において十全に結実しているのかどうか、私にはにわかには評価しがたい。
●多和田葉子著『尼僧とキューピッドの弓』/講談社/2010年7月発行
様々な経験をしてきた熟年の女たちが第二の人生を送っているドイツのとある修道院。そこに日本人の作家がやってくる。だが彼女を招いた尼僧院長の姿は見えず弓道の先生と駆け落ちした後だった──。修道院の経営をめぐる尼僧たちの思惑やいなくなった尼僧院長の噂話などなど、日本人にはなじみの薄い女たちの世界が独特の言語感覚で綴られていく。尼僧たちの名は語り手が対面した時の印象により密かなニックネームで呼ばれるのもおもしろい。透明美、貴岸、流壺、河高……。 後半は一転して駆け落ちした尼僧院長の視点からその顛末が語られる。尼僧たちが断片的に話していた尼僧院長の人間像がここでより鮮明にされるわけである。 前作『ボルドーの義兄』は作家の言葉との格闘が前面に出てきた実験的な趣の強い小説だったけれど、本作では物語の流れが重視されていてその意味では読みやすい作品になっている。「人間的に生きるためなら、人間をやめてもいい」──ラストにおける尼僧院長のパラドキシカルな決意表明が強い余韻を残して印象的だ。
●四方田犬彦、石井睦美著『再会と別離』/新潮社/2011年9月発行
二十三年の時間を経て再会した四方田犬彦と石井睦美が往復書簡を取り交わす。互いの人生に起きた出会いと別れ。その赤裸々な体験談をベースに様々なテキストを引用しながら人生の時間をめぐって考察を重ねていく。石井睦美の幸福な出会い──中村真一郎との遭遇──の挿話を受けて四方田が展開する『四季』論はなかなかブリリアントだし、終盤で石井が想起するフィリッパ・ピアスの『トムは真夜中の庭で』に関する二人の読解も興味深い。 そして不幸な「別離」──離婚した元夫の他界──を引きずって罪の意識に苛まれる石井に対する四方田の言葉。 ……きみも理解してくれるだろう。記憶とは人間しかもつことのない不気味で危険な能力であり、場合によっては病気と同様、それを携える者に厄難をもたらすものであることを。……個人の運命に関するかぎり、健康な忘却こそが必要な場合はいくらでもある。(p128) これは石井個人に向けられた助言という次元を超えて、この世に生きる人間にすべからくあてはまるような箴言ではないだろうか。 二人の過去の披瀝は時に生々しさを醸し出しもするし、中村真一郎にまつわる追想で本格的に主題に入っていく手紙のやりとりが最後にまた回帰的に彼に言及するあたりの四方田の筆致にはいささか巧く纏め過ぎの感もなくはない。けれどもいくつかの迂回を経て循環的な時間の感覚に立ち至ることになるこの往復書簡には得も言われぬ滋味がたしかに詰まっているようにも感じられる。
●桂米朝著『桂米朝句集』/岩波書店/2011年7月発行
桂米朝が東京やなぎ句会の同人であることは折りにふれて話題になるが、このたび単独では初めての句集が出た。米寿に先駆けての刊行、まことに悦ばしい。冒頭、東京やなぎ句会宗匠・入船亭扇橋の「序文」が掲げられ、後半に米朝本人の「随筆」と権藤芳一の「解説」を収めるという構成。色紙に書かれた直筆の句もいくつか掲載されている。高座同様に上品な知性やユーモア、お色気がそこここに感じられるような名句(迷句?)揃い。 春の雪誰かに電話したくなり ……仲間うちでも名句といわれている一句らしい。「この句のすばらしさは、かざらぬ心情を詠んでいるところ」(入船亭扇橋)。 パンティはふとんの外に朝寝かな マニキュアの爪でむく桃のみずみずし ……なかなかよろし。俳句ではなくこーゆーシチュエーションが。 舞い初めの孫の手ぶりについつられ ……お正月。家族やら門弟やらが集う米朝家の賑やかな年始の光景が目に浮かぶよう。 百円のテレビ切れせせらぎ涼し ……旅先の旅館で百円を入れて見るテレビ。一時間ほどして切れると、部屋のそばを流れるせせらぎの音が聴こえてくる。テレビを見ている時には気付かなかった、その涼しげな音に思わず耳をすます。「停電で聞こえ出したり虫の声」も同じような味わい。 水着売場値札だけ見て通りけり ……日本橋三越吟行とある。なるほど女の子のビキニなんてわずかな布切れしか使っていないのに、けっこうな値段が付いてございます。ほほう、と妙に感心しつつ値札を見て通りすぎる米朝師御一行。 日陰より日陰へ移る立ち話 ……初夏の一日、偶然遭遇した知人と挨拶だけでは済まず、直射日光を避けながらとりとめのない世間話がつづく。新潟吟行における一句。 ボールペン使い切ったりあたたかし ……ボールペンというものは意外と最後まで使い切ることは少ない。途中で先のボールがとれて使えなくなってしまったり、誰かが勝手に持っていったり。使い切って手のぬくもりが残るボールペン。春の訪れ。 蚊柱の口へはいりしこともあり ……故桂枝雀の高座《軒付け》では、一行が外に出たとき蚊柱がたっている様子をさりげなく描写するくだりがある。爆笑の合間、ちょっとしたフレーズに季節感を織り込んで噺の味を引きたてる枝雀の話芸をふと思い出した。
●柄谷行人、中上健次著『柄谷行人中上健次全対話』/講談社/2011年4月発行
柄谷行人と中上健次の対談(四篇)が一冊の文庫本にまとめられた。もっともそれぞれの筆記録は『中上健次全発言』や『ダイアローグ』などに収録されたもので、二人の愛読者にはすでにおなじみの対話である。こうして一冊になったものをあらためて読んでみると二人の勢いと攻撃的な語り口が懐かしく感じられる。たいした業績も残していない人たちが対談・鼎談で大口を叩いて内輪だけで盛り上がっているというお寒い光景は今やありふれたものになってしまったが、この対談集には何か二人のただならぬ道行きにともなう良い意味での不透明さがにじみでているようで、やはりおもしろい。とりわけ初期の対談では、柄谷からは文芸批評から逸脱して思想的な仕事をやり始めた頃の孤立感が、中上からは才能故の孤絶感のようなものが漂ってくるようだ。 それでも中上が先輩・後輩の作家たちをぶった斬っている合間に「俺が喧嘩する相手は、ほとんどこっちがやきもちを焼いている人間なんだよ」と何度も口にしているところなどとても正直。自分に自信がなければなかなかそうは言えない。 一九七八年初出の対談では、八〇歳まで生きようと思っているという中上に向かって柄谷が「長生きしないね。『枯木灘』みたいな作品を書くと、長生きしないよ」と予言めいたことを言っていて、ドキリとさせられる。末尾に収められた〈中上健次への手紙〉と〈柄谷行人への手紙〉は初めて読んだけれど、どちらも良い文章だ。 中上健次は優れた文学者だと思うが、柄谷行人や四方田犬彦といった良き批評家に恵まれたことも幸運だったように思う。あるいは中上の才気がそうした才気を呼び寄せたということなのかもしれないが。
●奥泉光、いとうせいこう著『世界文学は面白い。文芸漫談で地球一周』/集英社/2009年6月発行
『シューマンの指』を刊行した奥泉光がNHKの音楽番組に出てシューマンについて話しているのを見て、その明朗な語り口にびっくりしたことがある。しかし考えてみれば今さらびっくりしたり感心したりするとは間抜けなことなのだ。彼はそれ以前からいとうせいこうと組んで「文芸漫談」をやっていて、その記録を私も読んでいたのだから。というわけで、本書は奥泉光といとうせいこうによる「文芸漫談」の第二弾である。前回とは違って具体的に作品を一つひとつ吟味していくという構成をとっているほか、渡部直己の野暮ったい脚注をなくしてスッキリスラスラ読みやすくしたのは、漫談のライヴ感を活かす意味でも好ましい。 本シリーズのコンセプトは「翻訳小説の名作を薄い文庫で読む」。取り上げられている作品は、カフカ《変身》、ゴーゴリ《外套・鼻》、カミュ《異邦人》、ポー《モルグ街の殺人》、ガルシア・マルケス《予告された殺人の記録》、夏目漱石《坊っちゃん》、デュラス《愛人》、ドストエフスキー《地下室の手記》、魯迅《阿Q正伝》。 ポーがゴシック小説の枠を超えて後の探偵小説や推理小説というジャンルを切り開いたことや、夏目漱石がロレンス・スターンの影響を強く受けていたことなど、文学史の基本を一応押さえたうえで、二人のユニークな読解が開陳されていく。 「漫談」と称しているとおり、基本的にはギャグやくすぐりがふんだんに盛り込まれ、二人の反射神経の良さも相俟って、おもしろ可笑しく読める展開になっている。とはいえ読み終わればすぐに内容を忘れてしまうような軽佻浮薄なだけの文学談義に終始しているわけではもちろんない。 あくまで「僕たちが無意識に共有してしまっている物語の、その外側をかいま見せてくれる小説」(奥泉)として、不条理の文学というステレオタイプから解放せんとするカフカの《変身》論。見えない自分、想像的な存在としての自分を多角的に見ようとしたテクストとして語られる《愛人》のイマージュ論。文学史上最もプライドの高い男をパロディ風に描き、読み進ほどに痛みが出てくるという《阿Q正伝》論……。いずれの漫談にも鋭い指摘が含まれているように思える。 二人のトークに触れて、これらの作品をあらためて読み直してみようという意欲が喚起される読者は少なくないだろうし、何より批評じたいが一つの(話)芸になるという良い見本にもなっているのではなかろうか。
●古井由吉著『人生の色気』/新潮社/2009年11月発行
本書は古井由吉の一人語りの記録である。何日かに分けて行なわれた「聞き取り」では聞き役として佐伯一麦、島田雅彦らが入れ替わり立ち替わり同席した。若き理解者を前に、古井はみずからの戦時体験をはじめ文壇デビューの頃のことや、男女の色気、街の色気、人生の色気などついてざっくばらんに話している。私は古井の良き読者ではないのだが、彼を高く評価している人たちの本は何故かしら数多く読んできた。佐々木中の『切りとれ、あの祈る手を』でも本書における古井の言葉が引用されていて、それが著作全体の基調を成していたといってもいいくらいだ。 ……戦後からの長い教育が妙な形で結実し、いま現在の自分が理解できないものは価値がないという風潮が定着してしまいました。たいがい、文学など落とし穴だらけでしょう。うっかり理解したら大変だという作品が多いです。読んでいて感銘は受けるけど、読み終わると忘れるというのは、自然な自己防御でした。忘れてもまた本を読むんですよ。読んでもちっとも頭に入らないけれど、なんとなく嫌な感じがするという心地が、読書の醍醐味なんです。(p115) こういう言葉に触れると、自分がいかに「自己防御」的な読書に勤しんできたことかとがっかりさせられる反面、歯が立たないと思っていたあの本この本にもちょっくら挑戦してみようかという気にもなる。ちなみに古井の言葉はさらに以下のように続く。 われわれの作品が読まれなくなったばかりではありません。スタンダールでもバルザックでも、古い本も読まれなくなりました。古典とされるほどのものは、逆に、全部理解したら危ないものです。三十五、六の頃、名作をいくら読み込んでも、どうにも理解できないから、頭が悪いのか、センスがないか、文学に向いてないのか、訝しく思ったものです。でも、よくよく考えてみれば、わかってしまう方が大変です。ドストエフスキーがブームだといいますが、読み込んでしまえば生きていられないような文学じゃないですか。(p115〜116) 男女の出会いの機微に触れたくだりや世評的な発言にはちょっと「理解できない」ところや「頭に入らない」ようなところもあったけれど、そうか、それも読書の醍醐味なのだった。
●加藤周一著『日本文学史序説 上下巻』/筑摩書房/1999年4月発行(文庫版)
加藤周一の代表的著作ともいえる『日本文学史序説』は一九七五年に原書が刊行された。翻訳も数多く出版されていて、日本人のみならず世界の日本文化・文学研究者にとってはバイブル的存在ともなっている名著である。古事記・日本書紀から戦後文学に至るまでの文学史を記述した本書は、文学の範疇にとどまらず芸術文化全般さらには政論にまで目配りする広い視野に支えられ、同時に古今東西の芸術・文化を知悉した著者ならではのグローバルなスケールを併せもった日本文化・思想の通史といえよう。 全体の構造ではなく、それぞれの部分に独立した意味や妙味を見出し、悠久の時間の流れにではなく現在にすべての興味が集中する。端的にいえば「部分の細かいところに遊び、全体の構造を考慮することが少ない」(上巻p21)ところに、加藤は日本文化の精髄を見る。絵巻物しかり、平安朝の物語しかり、連歌しかり、谷崎潤一郎の《細雪》しかり。そうした日本文化観は加藤においては最晩年の著作『日本文化における時間と空間』まで一貫して保持されたものであった。 もちろんそのような認識に対しては当然ながら異論反論もありえよう。が、日本文化を歴史的に貫いているとする基層的なコンテクストを取り出したことは、それを支持するにせよ異説を唱えるにせよ、日本文化論の一つの雛形になったことは間違いない。 本書にみる加藤の叙述はケレンを排した正攻法に拠ってたつ。その分、面白味には欠けるかもしれない。タイプは全く異なるが同じようにブッキッシュな教養人・松岡正剛のように気の利いた語彙を駆使して気の利いた日本論をものしてやろうという色気がこれみよがしには出てこない点にこそ本書の美点が存するように思われる。またそうでなければこれだけの浩瀚な書物をつくることはできなかっただろう。 それに加えて特筆されるのは、洋の東西にわたる加藤の碩学ぶりが遺憾なく発揮されていることだ。 《古事記》にみえる恋の道行きからワーグナーの《愛と死》の管弦楽を想起するかと思えば、《万葉集》の歌にファウストのマルガレーテの思いを重ねたりする。《竹取物語》の空想的な物語の枠組と現実的な描写力の組み合せに、エドガー・アラン・ポーやホフマンの才気を並べてみせたあとには、親鸞の念仏にパスカルの賭の論理との類似点を指摘してみせる。一休宗純の「形而上学的で同時に感覚的」な詩の世界は、一六〜一七世紀におけるヨーロッパの形而上学的詩人であるジョン・ダンらと比較される。 時代が降って江戸期から近代文学へと叙述が進んでくると、当然ながら加藤の文学観や作家評がより鮮明さを増してくる。「文学史においては、文化の一部分としての文学作品の歴史的な面に注目」すると著者があとがきに断わっているとおり、文化史的な系譜におさめやすい作家とおさまりきらない作家との間に加藤の文学観・歴史観や嗜好(?)がおのずとにじみでる。 突然変異的に出現していかなる文学上の系譜にも連なりがたい樋口一葉については簡単に触れる程度(わずか五行)だが、野上弥生子や宮本百合子に関しては多くの字数を費やして、その文学史的な意義付けを試みている。 柳田国男を採って折口信夫をとらず、太宰治については「津軽の旧家の自負と失敗の居直りの証言であり、挫折した人生の美化と自己陶酔の記念碑」と素っ気ない。 また文庫化に際して新たに追加された〈戦後の状況〉の章で最初に出てくる固有名詞が小説家でなく丸山眞男であるのも加藤の問題意識を映し出して興味深いし、鶴見俊輔や小田実には言及しても吉本隆明の名を挙げないのは、加藤の反戦市民運動への共感のあらわれとみるべきなのか。 ただはっきり物足りなく思われたのは、言文一致運動に関する記述の薄さである。日本の近代文学の成立という点でその運動の果たした意味は小さくないと思うのだが、ここでは日本の自然主義を論評するに際しての序章的な扱いで、本格的な検討の対象になっていないのは何故なのか。 無論、このような通史では読者の数だけ注文や不満は出てくるものだろう。いずれにせよ加藤の文章は終始一貫して明晰であり、晦渋を気取った点は微塵もない。 文学研究にかぎっても正規のアカデミズムの世界では専門分化が進む折から、今後この種の力技を示す教養人の出現する可能性はきわめて低いといわねばならないだろう。 < 前のページ次のページ >
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