カテゴリ:文学(小説・随筆)( 111 )

翻訳者とは幽霊のようなもの!?〜『8歳から80歳までの世界文学入門』

●沼野充義編著『8歳から80歳までの世界文学入門 対話で学ぶ〈世界文学〉連続講義4』/光文社/2016年8月発行

b0072887_844764.jpg ロシア・ポーランド文学の研究者として知られる沼野充義がホスト役をつとめる「対話で学ぶ〈世界文学〉連続講義」シリーズの第四弾。『世界は文学でできている』『やっぱり世界は文学でできている』『それでも世界は文学でできている』につづくものである。

 今回のゲストは、池澤夏樹、小川洋子、青山南、岸本佐知子、マイケル・エメリックの五人。
 私にはいささか退屈な対話がつづいたなかで、最後に収められているマイケル・エメリックの発言がもっとも面白く感じられた。エメリックは日本の現代文学の翻訳や源氏物語の研究で知られるジャパノロジストである。

「翻訳者というのは二つの世界に属しながら、どちらにも完全には属していない幽霊のようなもの」とエメリックは考える。それは「異文化間の架け橋」というありふれた認識を斥けるものである。翻訳者=幽霊説には大いに惹かれるところがあるのだが、沼野はあくまでも「足がついていないとちょっと困る」という自説に拘泥してしまって、それ以上議論を深めることなく別の話題にうつってしまったのはちと残念。

 マイケル・エメリックには日本語の著作は少ないようだが、彼の存在に関心をもつ契機を与えてくれただけでも本書を手にとった甲斐があったというべきだろう。
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by syunpo | 2017-08-05 08:45 | 文学(小説・随筆) | Trackback | Comments(0)

在所を拝むように想う〜『若狭がたり』

●水上勉著『若狭がたり わが「原発」撰抄』/アーツアンドクラフツ/2017年3月発行

b0072887_19551170.jpg 作家と故郷とは切っても切り離せない関係がある。人の書くものは生まれ育った土地の風土や文化から少なからぬ影響を受けるであろうことは否定しがたいから。その強固な結びつきの例としては、織田作之助&大阪、中上健次&紀州、大江健三郎&四国の山林……などなどいくつものケースが思い起こされるだろう。それに加えて、水上勉&若狭を想起する読書家も多いにちがいない。

 水上の故郷(当人は「在所」という言葉を使っている)は福井県大飯町。今では大飯原発のあることで知られるが、若狭湾一帯ではそのほかにも多くの原子力発電所が作られ「原発銀座」と呼ばれるほどになった。

 生前の水上は在所のことを書くときには必ずといっていいほど原発に言及していたらしい。らしい、というのは私自身は不勉強ゆえ同時代の読者としてそのような文章に触れる機会がなかったからである。本書は、在所と原発に関するエッセイと短編小説二篇を収録している。

 若狭の磯で、針にサナギをさしこみ釣り上げた黒鯛の大目玉とウロコの輝きをきのうのことのように思い出す。夜釣りで働く舟の灯が沖でゆれるのを見ていたら、一瞬、それが御神燈のようにみえて合掌したくなった時を追憶する……。

 ……子どもの頃に親しんだ美しい海や山にまつわるノスタルジックな感懐のなかに、原発が顔をのぞかせる水上の随想は時に詠嘆の調べになり時に憂いを含み告発的な調子をおびる。

 戦争中、岬からニッケルがとれるとかで「山を赤むけにしていた時代」がったという。多くの朝鮮人労働者が徴用されてきて、岬の裾に飯場をつくり、山を切りくずした。それから四十年後、再び原発のために山の切りくずしが始まった、と水上は書く。それが在所の話なのだから、悲観の調子になるのは当然のことだろう。

 新しい戦争がはじまっているような気がしなくもない。いつの世も辺境は国の方針で山野をけずられて生きるか。(p107)

 またチェルノブイリでの事故が水上に与えた衝撃は大きく、そこからあらためて強くなった憂慮の念が随所に表明されてもいる。事故が発生し、住民十五万人に避難命令が出たとき、どこへゆくのか、との懸念から発せられる問いかけはすぐれて具体的だ。

 海岸に一本しかない国道は、夏の海水浴客でさえ一寸きざみのパニックとなる二車線の自動車道路があるだけだ。十五万仞が一気に鍋釜、フトンを背負って列を組んだら、またたくまにパニックだろう。そのパニックをくぐりぬけて、かりに勇敢なのが山坂こえ、綾部や福知山へたどりついても、放射能まみれの若狭人を泊めてくれる家はあろうか。(p99)

 震災に関する警鐘もしっかと鳴らされている。

 ぜったいに安全だと行政はいっているが、人災にはいくら気をつけていても、地震でも起きたら、という考えも凡人ゆえにもつのである。若狭は、昭和のはじめに丹後峰山大地震があり、大きくゆれた。(p118)

 人間はどうして美しい山河を破壊してまで、後世の人々にツケを回す原発のような営みを始めてしまったのだろうか。何故私たちはそれを止めることができなかったのだろうか。
 原発が一つの政治決定の結果もたらされたものと考える時、水上の随想はいささか素朴にすぎるかもしれない。だが、原発の是非が国政選挙のレベルで大きな争点になったことは一度もなかったことを思えば、水上の姿勢をそのような観点で揶揄することはフェアではないだろう。

 水上が他界した後、〈三・一一〉を経験した私たちは、水上が執拗に問いつづけていた憂慮が現実のものとなったことを痛恨の思いで読む。それだけではない。反原発運動に参加している女性の家を訪ねると、警察と役場へ誰かが通報するという挿話が本書のなかで紹介されている。共謀罪法の恐ろしさは、権力が国民を監視すること以上に、国民が国民を監視しあう空気を醸成することにあると言ったのは内田樹だが、その前例がすでに若狭の原発銀座で現象化していたともいえよう。

 水上は「はなやぎ」ということばを好んだ。「文芸をやるということのはなやぎ」という風に。本書にみえる水上の予言的な言葉はけして「反原発」「脱原発」という単純なスローガンにおさまりきるものではない。それらは文学者の、いや、一人の人間の温もりを感じさせる肉声というべきものではないだろうか。
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by syunpo | 2017-07-06 20:05 | 文学(小説・随筆) | Trackback | Comments(0)

人類は二度滅びる!?〜『カタストロフ・マニア』

●島田雅彦著『カタストロフ・マニア』/新潮社/2017年5月発行

b0072887_21365759.jpg 太陽のしゃっくり。コロナ質量放出が起きて、地球表面を覆った電力網、電波網は巨大な磁気嵐によって完全に破壊される。コンピュータ制御された都市インフラは壊滅し日常生活を支える機能はすべて停止してしまう。原発はメルトダウンし放射性物質が大気にばらまかれる。

 それだけではない。島田雅彦はカタストロフをより大掛かりなものにするために、そこにパンデミックを招きよせる。何者かが合成ウイルスによって感染症を大流行させたのだ。大混乱のなか、為政者や大企業経営者たちは当然に生き延びる人間たちを選ぶ。政治とテクノロジーの結託がカタストロフをさらに推し進める。本作において人類は二度滅びるのである。

 カタストロフ後の世界をいかに生き延びていくか。主人公・シマダミロクのサバイバル作戦を軸に物語は展開していく。

 ゲームをする以外に時間を持て余していたミロクはある製薬会社の治験モニターとして臨時的に雇われ「免疫力を著しく高める薬」を投与される。二十四時間の「冬眠」生活から覚めた時、病院はもぬけの殻になっていた。眠っているあいだに世界はカタストロフの局面に突入していたのだ。かくしてミロクは暗中模索のうちに期せずしてサバイバル作戦を開始することになる──。

 商店や民家に残された食糧や生活物資が略奪され底をつくと、あとは自然界から採集してくるか自力で生産していくか。人々は近代以前の人類史をたどるようにして生活を再建していくほかない。そのような原始的な状況下で、無政府状態から小集団が形成され、人々が協同していく様はレベッカ・ソルニットのいう「災害ユートピア」を想起させるものがある。

 ……古代のムラのような集落を作り、小集団で分業をしながら、暮らすのが現時点では最も現実的です。もう一度、古代の暮らしに戻るのは大変ですが、産業文明とそれに続く情報文明に馴らされ、すっかり退化してしまった生存本能と能力を取り戻すしかありません。人類はリハビリテーションの時代に入ったのです。(p131)

 パンデミックをめぐる錯綜した状況は、やがてある特定の権力集団の存在への対抗という形で収斂されていくかにみえるが、むろん簡単には「敵」の姿を見定めることはできない。

 ミロクは病院で出会った看護師・国枝すずの存在に惹かれるものを感じて、彼女への執着心をよすがに生きていこうとしている。高校生の天才ハッカー菊千代や元週刊誌記者のモロボシダンなどとの遭遇もあり、ミロクは彼らにも影響される。
 ネットは遮断されたままだが、ラジオや無線通信での情報伝達は可能というアイロニカルな状況設定は島田の諷刺精神の面目躍如といったところか。短波放送から聞こえてくるエオマイアの声もまたミロクの心を癒し、少なからぬ示唆を与えてくれる。

 生物学や先史考古学、脳科学など先端科学の知見を動員して紡ぎ出される物語は、時に昨今流行のディストピア小説の作りと被るところがある。また最終盤の展開がややありきたりの印象なきにしもあらずだが、全体的には島田らしいスパイスのきいた筆致でおもしろく読むことができた。

 政治の無力に触れている点では本作は〈ポスト3・11小説〉の一つといえるが、政治の陰謀や悪意に言及しているという点を重視するなら〈プレ共謀罪国家小説〉と呼べるかもしれない。
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by syunpo | 2017-06-18 21:40 | 文学(小説・随筆) | Trackback | Comments(0)

透明な膜が俺たちを包む〜『ビニール傘』

●岸政彦著『ビニール傘』/新潮社/2017年1月発行

b0072887_2036829.jpg『断片的なものの社会学』で話題を集めた社会学者の初の小説集。芥川賞の候補にもなった表題作に加えてもう一篇〈背中の月〉を収録している。鈴木育郎の撮った街の写真をふんだんに使って何とか一冊の本にしたという印象なきにしもあらずだが、ふだん小説を読まない人にも手にとってもらいやすい雰囲気をつくりだしているともいえるだろうか。

〈ビニール傘〉は大阪の片隅に住む若者たちの群像を複数の視点から描き出す。タクシー・ドライバーの男、ビルの清掃作業員、コンビニ店員、部品工場で働く派遣社員、解体屋の飯場で働く男……。視点が矢継ぎ早に切り換わっていくスタイルはやはり断片的ともいえる。が、読みすすむうちに彼らと交流のある女性は相互に関係しあい、あるいは人物そのものが重なっているかもしれないという図柄が浮かびあがってくる。あえて明瞭に描かない暈した書き方をしているのは最初から作者が意図したものであるだろう。

 沈滞する大阪を慈しむような岸の筆致には共感するし、大阪弁の会話も楽しい。困難な今を生きようとする若者たちのすがたにもある種のリアリティを感じることはできる。これが文学作品として傑作かと問われれば答えに困るかもしれないけれど、読者の想像力にゆだねる余地をいくつも残しているという点では当然のことながら『断片的なものの社会学』にもまして良い意味で文学的である。

〈背中の月〉は妻をなくした男の心象風景を描いていて表題作に比べるとシンプルな構成を採っている。全体的にやや感傷的な雰囲気が支配していて私はあまり好きになれなかったが、夫婦の何気ない会話などに作者一流のさりげないヒューモアやペーソスが宿っていて捨てがたい味わいがあることも確かだと思う。
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by syunpo | 2017-03-29 20:50 | 文学(小説・随筆) | Trackback | Comments(0)

そしてジャズ者に人類の命運は託された!?〜『ビビビ・ビ・バップ』

●奥泉光著『ビビビ・ビ・バップ』/講談社/2016年6月発行

b0072887_18443980.jpg 物語の舞台は、まもなく二十二世紀を迎えんとする近未来の世界。語り手は夏目漱石よろしく一匹の猫である。ドルフィーという名のその猫は、ビッグバン以来宇宙で生起せる全事象がデータベース化された《超空間》に接続できるというワケで、神様視点を獲得しているのだ。

 肉体が滅んでも電脳内で生きつづけることが可能になった近未来の地球では、リアルと疑似現実環境の境界は曖昧模糊としている。空間の移動もまた現代とは様相を異にするスピードと利便性を得て容易になっている。その一方、貧富の格差は拡大し富者と貧者の棲み分けがすすんでいる。主人公はジャズ・ピアニストで音響設計士のフォギー。

 その世界にパンデミック(大感染)の危機が訪れようとしていた。フォギーを可愛がってくれているロボット製造販売の巨大企業の偉い人、山萩氏との交流をとおして、フォギーは思いがけずその危機の渦中に巻き込まれ中心的な役割を演じることを余儀なくされる。その場その場で臨機応変に対処することをよしとする〈ジャズ者魂〉を発揮しつつ、さて、フォギーは人類の危機を救うことができるのか?

 おもしろいのは、そこに古き良き時代(?)の懐かしい人々がアンドロイドとしてフォギーの眼前に登場することだ。異次元の空間を往還すると同時に、時代もまた錯綜する。エリック・ドルフィーとの共演やら、大山康晴と人間との対局やら、末廣亭での立川談志の高座やら、新宿ゴールデン街のバーで伊丹十三・寺山修司・野坂昭如らと同席するやら……。奥泉はみずからの余技や趣味にまつわる愛着と薀蓄を遺憾なく動員して物語を動かしていく。時おり混じる敬体のセンテンスもヒューモラスな雰囲気を醸し出すのに効果的だ。近未来SF小説という枠組を採りつつ、一九六〇〜七〇年代の日本文化をノスタルジックに批評するという趣向を同時に盛り込んでいるのが本作の特色の一つといえよう。

 そしてフォギーの冒険譚のなかからいくつもの哲学的問題があらためて浮かびあがってくる。自己とは何か。主体とは? 生命とは? 進化とは? 人間とは?……波乱万丈の物語のなかに盛り込まれた人類永遠の問題をめぐる思考の迷路へと真面目な読者ならば誘いこまれるのではないだろうか。
 さらに野暮を承知で付け加えるなら、最終盤に描かれるフォギーと山萩博士とのやりとりには、奥泉の音楽に対する愛、ひいては人間という存在に対する愛が吐露されているように感じられた。
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by syunpo | 2017-01-26 18:45 | 文学(小説・随筆) | Trackback | Comments(0)

権力企業が支配する暗黒世界!?〜『ひょうすべの国』

●笙野頼子著『植民人喰い条約 ひょうすべの国』/河出書房新社/2016年11月発行

b0072887_12461213.jpg「ひょうすべ」とは九州に伝わる妖怪である。「河童の仲間」と言われているらしい。けれども本書に登場する「ひょうすべ」はその妖怪とは無関係。「表現がすべて」略して「ひょうすべ」。というと言論の自由を守っている良いものみたいだけど、実際は違う。

 ひょうすべとは「逆に報道を規制してくる存在」で、しかも「芸術も学問も、売り上げだけでしか評価しないで絶滅させに来る、いやーな存在」で、「世界的権力企業の金庫守護霊」なのである。

 ひょうすべの活躍によって、TPP批准に象徴される強者に有利な自由世界、すなわち大企業と投資家たちに支配される世界になる。世界企業を批判するのは「個人攻撃」として逆にタブーになり、日本ならぬにっほんは「NPOひょうげんがすべて」と「知と感性の野党労働者党」(知感野労)が支配する社会になったのだ。

 千葉県に住む埴輪詩歌。おばあちゃんは膠原病を患い満足な治療を受けられずに死んでしまい、母とは不仲、詩歌はその後女人国ウラミズモへの移住をはかるが失敗する……。詩歌とその家族を軸に描き出すアイロニカルなディストピア小説。

 文学者の荒唐無稽な想像の世界とも言い切れない。世界の現実がこの作品が描きだす社会の様相に近づきつつある、と思ったのは私だけではないだろう。新自由主義への批判的視座、ジェンダー差別や言論統制への対抗的姿勢は明快である。笙野の作品を読むのは初めてだが、設定としては『だいにっほん』三部作の前日譚に相当するものらしい。

 ただしこれ以外の作品を読んでみたいという気はあまり起こらない。文芸作品としては前半の記述が一本調子で、途中で読むのに飽きてしまった。またインターネットの言葉使いを採り入れた意図的な悪文調の文体は別に珍しくはないだろうけれど、私にはどうもなじめなかった。
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by syunpo | 2017-01-07 12:50 | 文学(小説・随筆) | Trackback | Comments(0)

女性ならではの本ですか? いいえ違います〜『ワイルドフラワーの見えない一年』

●松田青子著『ワイルドフラワーの見えない一年』/河出書房新社/2016年8月発行

b0072887_20344583.jpg 掌編小説が五十篇。世の中の常識や規範に対する違和感をベースに自由を謳歌しようとする言葉の小宇宙。表題作〈ワイルドフラワーの見えない一年〉は自分の行動を互いに公表しては「いいね!」のやりとりをするSNS時代へのささやかな抵抗とでもいえばよいか。『原色植物百科図鑑』からの引用を散りばめて不思議な魅力を醸し出している。

〈お金〉は拝金主義をとぼけた味わいで風刺し、〈ヴィクトリアの秘密〉はマイノリティの生きづらさを独特のヒューモアに包んで差し出して面白い味わい。〈バルテュスの「街路」への感慨〉〈水蒸気を永遠なれ〉は、タイトルよりも本文の方が短い素敵な作品。

〈ナショナルアンセムの恋わずらい〉は内容はリベラリズムの紋切型だが、意表をついた視点を導入して片思いの恋愛小説風にまとめた語りの妙にはにんまりさせられた。その後日談ともいうべき〈ナショナルアンセム、ニューヨークへ行く〉では、ふたたび「恋」への希望を抱くというのも爽やかだ。

「この場を借りて、わたしがヨーグルトのふたを舐めなくなった話をしたい」の一節で始まる〈この場を借りて〉は、最近のニューウェーブ短歌の発想をも思わせる日常的な一断面を描いたもので楽しい。

〈ハワイ〉は、語り手が「三年間着ていなかったセーター」で、他に「デザインが古くなったハンドバッグ」やら「また聴きたくなったら買い直せばいいCD」やらが登場するお話。〈男性ならではの感性〉は「女性ならではの感性」という常套句が未だにメスメディアで流通している状況を逆手にとった一篇。

 作者の生のメッセージがそのまま投げ出されたようなアジビラもどきの作品から柔軟な発想と想像力から紡ぎ出された童話調の素敵なショートストーリーまで玉石混淆ながら、独特の才気を感じさせる作品集である。
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by syunpo | 2016-10-18 20:38 | 文学(小説・随筆) | Trackback | Comments(0)

未知のエクスタシーへ〜『伯爵夫人』

●蓮實重彦著『伯爵夫人』/新潮社/2016年6月発行

b0072887_1981363.jpg 内容よりも先に三島由紀夫賞受賞時のいささか晦渋なヒューモアに彩られた著者の言動が話題になったことは記憶に新しい。テクストを読んでもいない人が我先にとこのパフォーマンスについて論じることになったのは、本書にとって良いことだったのか悪いことだったのか。

 主人公は帝大法科入試を控えた二朗。愛欲と戦争が複雑にからみあう、蠱惑的な場面が次々に展開されたあと、ラストに主人公が昼寝から目覚める場面があらわれる。つまりここまで語られてきた不思議な話は二朗が見た夢だったという示唆をもって終わるのである。だが読む前にそうした結末を知ってしまうことが本作を味読するのに支障をきたすとは思えない。むしろ何度も読まなければ本作の面白味を十全に感受することは覚束ないとさえ思う。(といっても私は一度読んだだけでこの文章を書いているのだが。)

 夢オチという古典的な仕掛けながら陳腐な印象を残さないのは、種明かしに至るまでに作中人物たちがこれは夢かもしれぬと意識する場面が頻出することであらかじめ予告されていることにもよる。最初からこの小説は作中事実と登場人物の夢想の境界が曖昧な形で進行していくのだ。

 伯爵夫人とは一体何者であろうか。それは二朗にとっては身近に存在しながらも完全な他者として現前する。異性として。さらにはきな臭い国際政治の舞台裏を知る世間知の象徴として。抱擁されただけで射精してしまう初心な二朗は伯爵夫人に翻弄されながら、時には自己同一性をも揺さぶられながら、未知の世界へヨチヨチと足を踏み入れる。それは未成年者が成人になる通過儀礼のようなものでもあろう。文学史的には定番のテーマ、それを知的な意匠を凝らしてエロティックに語りきってしまうところに、この作品の特質がある。

 ところで、このテクストは他人の言葉の断片的な引用にみちていると蓮實重彦自身が述べている。冒頭の回転扉にまつわる「ばふりばふり」は戦前、中村書店から出ていた漫画雑誌の作品からの引用だというし、帝国ホテルの「焦げたブラウン・ソースとバターの入りまじった匂い」というフレーズはフローベールの《ボヴァリー夫人》から拝借してきたものである。映画史的記憶が本作のあちこちに刻まれていることはいうまでもない。姿形がそっくりの魚屋二人が一騒動起こす場面などは落語《粗忽長屋》を想起させもして、作者の抽き出しの多さがうかがわれる。

 だがこれ以上のこむずかしい講釈はプロの批評家に任せよう。蓮實のヒューモアと遊び心にみちた知的なたくらみを大いに愉しめば良いではないか。
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by syunpo | 2016-09-10 19:09 | 文学(小説・随筆) | Trackback | Comments(0)

言葉の豊かさは世界の豊かさ!?〜『夏目漱石、読んじゃえば?』

●奥泉光著『夏目漱石、読んじゃえば?』/河出書房新社/2015年4月発行

b0072887_21112687.jpg〈14歳の世渡り術〉シリーズの一冊。若年層の読書初心者向けに漱石の読み方を指南するという趣旨の本である。本書全体を貫いているのは「小説とは読者それぞれが面白さを作りだしていくもの」という認識だ。そうした姿勢で漱石のテクストを読み味わっていこうと呼びかける。

 たとえば《坊っちゃん》。コミュニケーション能力のない孤独な人物として主人公を浮かび上がらせ、従来の「坊っちゃん」像を解体せんとする。なるほどテクストを無心に読めば、奥泉のような読みこそ自然ではあるまいか。この視点からすると、ラストの清からの手紙を読む坊っちゃんの孤独がいっそう切なく感じられてくる。坊っちゃんの孤独は現代人のそれにも通じるのかもしれない。

《それから》の読みにも大いに納得させられた。イメージと戯れることを主眼において、冒頭からラストまで死のイメージが横溢していることを具体的に指摘していく。椿、鈴蘭、百合……何より死のイメージが植物のイメージと強く結びついているというのは興味深い。

 漱石の死によって未完に終わった《明暗》は、奥泉によれば「小説として高い完成度がある」という。人間の実存の問題が「これでもか!」というほど書かれているし、大事件がおこるわけでもないのに緊張感があり、複数の人物から見た多面的な世界が描かれているからだ。

 小説の本質は物語にはないという奥泉の小説観からすると、エッセイもまた面白く読めるものである。本当の読書好きはやがてエッセイ好きとなる宣する奥泉は、《思い出す事など》などのエッセイ群は漱石の文章力が発揮されたものとして高く評価するのである。

 若年層を対象にした本ということでかなりくだけた語り口だが、内容的にはなかなかどうして深いものがある。初心者だけでなく漱石の愛読者にも充分読ませるだけの批評になっているのではないか。漱石のテクストはいくらでも多様な読みが可能で、奥泉がいうように汲めども尽きることのない泉のようなものだとあらためて感じずにはいられない。
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by syunpo | 2016-09-07 21:30 | 文学(小説・随筆) | Trackback | Comments(0)

劇場のどこかで映画をみつめる〜『キネマの神様』

●原田マハ著『キネマの神様』/文藝春秋/2008年12月発行

b0072887_2047302.jpg 四十歳を前に突然会社を辞めたヒロイン歩。映画とギャンブルの好きな父は病に倒れ、多額の借金を抱えていることが判明する。父が雑誌「映友」に歩の文章を投稿したのがきっかけで、歩は編集部に採用され、同時に父の映画ブログも映友のサイトでスタートすることに。

「小生は子供の頃より、劇場のどこかで一緒に映画をみつめるキネマの神様の存在を、幾度となく感じたものです」……父の文章は多くの映画ファンの心をとらえる。〈キネマの神様〉は壊れかけた家庭をも救ってくれそうな……。

 肝心の映画批評の文章がやや凡庸だし、説明過多の描写が作品全体を野暮ったくしている感なきにしもあらずだが、シネフィルならば一度読み出せばページを繰る手をとめることはできなくなるだろう。映画への愛に満ちた物語といっておこう。なお本書は同じ版元によって二〇一一年に文庫されている。
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by syunpo | 2016-08-16 20:53 | 文学(小説・随筆) | Trackback | Comments(0)