ブックラバー宣言


コラムニスト・吉本俊二の書評ブログです。
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カテゴリ:教育( 6 )


人間は演じるサルである!?〜『わかりあえないことから』

●平田オリザ著『わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か』/講談社/2012年10月発行

b0072887_21125949.jpg コミュニケーション能力とは何か。本書はサブタイトルにもなっているその問いに対して、演劇の専門家の立場から応答しようとするものである。演劇のノウハウを活かした教育活動を初等教育から大学院レベルまで長きにわたって行なってきた著者ならではの具体的な挿話を織り交ぜて一気呵成に読ませる。

 平田はまずコミュニケーション能力というものに特段の価値を置かない。人格とは関係のないものと考える。
 そして平田のコミュニケーションとは何よりも「人間とはわかりあえない」という認識から出発する。「みんなちがって、みんないい」は金子みすゞの有名な詩のフレーズだが、平田はそれを否定するのだ。
「みんなちがって、たいへんだ」。この「たいへんさ」から目を背けてはならない。

 わかりあえない中で、少しでも共有できる部分を見つけたときの喜び。コミュニケーションの困難と楽しさは、そこにあるのではないか。その程度のものではないか。それが平田のいうコミュニケーションだ。

 グローバルに考えた場合、日本社会におけるコミュニケーションは「わかりあう文化」「察しあう文化」だとすると、ヨーロッパのそれは「説明しあう文化」といえる。そこに優劣はないが、力関係の非対称性はあるだろう。

 コミュニケーション教育、異文化理解能力が大事だと世間では言うが、それは別に、日本人が西洋人、白人のように喋れるようになれということではない。欧米のコミュニケーションが、とりたてて優れているわけでもない。だが多数派は向こうだ。多数派の理屈を学んでおいて損はない……(p148〜149)

 人間はまたいろいろな役割を演じる生き物でもある。本当の自分などというものはない。

「いい子を演じるのに疲れた」という子どもたちに、「もう演じなくていいんだよ、本当の自分を見つけなさい」と囁くのは、大人の欺瞞に過ぎない。
 いい子を演じることに疲れない子どもを作ることが、教育の目的でなかったか。あるいは、できることなら、いい子を演じるのを楽しむほどのしたたかな子どもを作りたい。(p220)


 全体的にやや大づかみな展開なのでツッコミどころもなくはないが、どこかでつい引用したくなるような箴言がちりばめられている。おもしろい本だと思う。
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by syunpo | 2015-05-30 21:16 | 教育 | Trackback | Comments(0)

タテの行政系列を解体せよ〜『教育委員会』

●新藤宗幸著『教育委員会 ──何が問題か』/岩波書店/2013年11月発行

b0072887_19193957.jpg こと教育に関しては人は誰でもなにがしかの意見をもっているものだが、日本でその重要な役割を担っているはずの教育委員会についてそのしくみや実態を知悉している人は少ないだろう。詳細を知らずして、やれ解体せよ、やれ改革せよ、と主張し合ったところで実りある議論には到底なりえない。本書は教育委員会のしくみや実態、その歴史的経緯などを概観したうえで教育委員会制度に代わる新たな教育行政システムを提起する、という内容である。

 日本の教育行政は、戦後、一般行政からの分離・独立を旨としてGHQの統治のもと教育委員会制度を構築した。それは教育に対する民衆統制と教育の地方分権の実現を目指すものであったといってよい。しかしながら、実態は当初から建前とはいささか異なるかたちで進展した。中央官庁たる文部省の影響力を拭いさることができなかったのである。

 教育委員会が基礎教育に「全権」を握ったかのような制度においても、文部省はいうところの「サービス・ビューロー」なるあらたな装いのもとに、地方教育行政に影響力をもちつづけることができ、それが強まることによって地方教育行政は、中央と自治体の「分離型」から両者の「融合型」に変容していったといってよいのである。(p104)

 教育委員会法にかわる地方教育行政法が施行されて文部省の力はいっそう強化された。教育委員会法時代の指導・助言・勧告をある意味で「素朴」なものというならば、地方教育行政法はこれを担保する措置要求を法制化することによって、「指導・助言」といった語感とは裏腹の「統制」に転化したといってよいと新藤は指摘する。

 当然ながら新藤が現在の教育行政に対して最も問題としているのは、文部科学省ー都道府県教育委員会ー市町村教育委員会という「タテの行政系列」がもたらしている弊害である。学習指導要領をはじめとして様々な局面で画一的教育が行き渡ることになった。それは戦後の教育改革が目指した民衆統制や地方分権とはほど遠いものである。
 ゆえに、これからの教育行政改革を考える場合、そうしたタテの行政系列を解体する視点は不可欠となる。

「教育の一般行政からの分離・独立」論に当初より「欠落」しているのは、自治・分権のありかたや地方政府(自治体)の行政組織についての洞察ではないだろうか。(p161)

 そこで主張されるのが以下のような改革案である。
 文科省初等中等教育局を廃止し、中央教育委員会を創設する。地方に関しては、教育委員会制度の「必置規制」を廃止し、首長のもとの組織に統合する。教育委員会にかわるものとして学校区ごとに「学校委員会」を設置して、教育の地域分権を図る、等々。

 この場合の「学校委員会」とは、自治体における教育行政の「先端」として決定権をもった組織として定義づけられる。むろん首長のもとに教育行政組織を統合した場合、首長の独善によって教育現場にかえって混乱をきたすというケースも生じうる。大阪府市では実際にそういう現象が発生した。それを防ぐ手だてとして、地域レベルにおける教育の共同統治にしっかりしたしくみをつくることこそ肝心である、というのが著者の主張するところである。

 もちろん本書の改革案には異論もありうるだろう。新藤のいう「学校委員会」は、学校の数だけ委員会が生まれることを意味するわけで、こうしたしくみが全国的にくま無く十全に機能するとは考えがたい。地域によって極めて直接民主主義的な運営が行なわれるケースもあれば、一部の勢力が学校委員会を牛耳って独善的な学校運営が行なわれることもないとはいえない。教育の地方分権は文字どおり各地域の民主主義的実践の成熟度が問われることになり、結果としては基礎教育の地域間格差が大きくなる懸念は拭いきれない。
 とはいえ、これからの教育行政のあり方を議論していくうえで本書の問題提起が意義深いものであることもまた否定しない。

 なお本書の刊行後、第二次安倍内閣のもとで改正地方教育行政法が成立した。施行は二〇一五年からとなるが、首長の権限が強化されるなどの点で批判も出ている。著者が洗い出した問題点に応えるような改正とは言い難いものである。それだけに本書に述べられているような教育行政の歴史や実態を知ることは重要であることに変わりはない。
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by syunpo | 2014-10-09 19:32 | 教育 | Trackback | Comments(0)

「不平等」を正すために〜『格差社会と教育改革』

●苅谷剛彦、山口二郎著『格差社会と教育改革』/岩波書店/2008年6月発行

b0072887_1020968.jpg 岩波ブックレット・シリーズの一冊で、前半に苅谷の講演記録、後半に苅谷と山口の対談が収録されている。社会の格差拡大が進行していくなかで教育行政はいかにあるべきか、教育学と政治学という二つの立場から相互に連関しあいながら簡潔に提起した好著といえる。

 苅谷は、日本の教育現場における格差拡大の一例をPISA(OECDによる国際学力比較テスト)の調査結果から読み取る。生徒の学力をボトムクラスからトップクラスまでいくつかに階層化して二〇〇〇年と二〇〇三年の数学のテスト結果を比較してみると、ボトム二五%以下のクラスで四〇ポイント近く学力が低下している。つまり「一番の問題は平均点が落ちたことではなく、この学力の低い子どもたちの学力が、より低下したということ」だと指摘する。

 また、日本の教育の議論の多くは「あれも必要、これも必要」と望まれる機能をリストに加えていくこと、すなわちポジティブリストの発想が強いが、それが教育のキャパシティを超えているために教育現場に過重な負担がかかっていることに警鐘を鳴らす。

 元来、戦後日本のとってきた教育行政は、全国で教育の質を均等に平等にしようとする「標準化」政策であり、そうした政策が教育の「平等」を支えてきたのだが、昨今の競争原理に基づく「メリハリ」の効いた予算配分などは、その標準化政策を根底から変えるものである。だが、その正当性を裏付けるようなエビデンスもなければ、政府にそれ相応の覚悟もみられない。

 山口はそれを受けて「新自由主義」的な政策を国民が支持しているわけではないとの認識を示しながら、消費者主権的な発想に基づく「学校選択の自由」のような政策がもたらす弊害(地域格差の拡大など)に注意を喚起している。教育においては公的セクター(公立学校)の役割は依然として重要であり、「委任という基本的なかたちは前提としつつ、専門家集団の使命感と誇りを作り直していく必要」を力説する。

 昨今注目を集めているフィンランド型の教育について、苅谷が人口規模や教育と職業構造との接点の相違が大きいことを挙げて「モデルとしては難しい」と述べ、日本独自のモデルでやっていく方が現実的との認識を示しているのも注目すべき点だろう。

 教育問題に関する議論は、たとえば教育基本法改正をめぐる議論に象徴的に見られたように、ややもすると観念的な議論に終始するケースも少なくないのだが、ここでは具体的なデータや事象に基づいた主張がなされていて、その点では説得力のある議論が展開されているように思った。
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by syunpo | 2009-01-15 10:30 | 教育 | Trackback | Comments(0)

多彩な人材が教壇に立つ〜『教育立国フィンランド流 教師の育て方』

●増田ユリヤ著『教育立国フィンランド流 教師の育て方』/岩波書店/2008年7月発行

b0072887_1923752.jpg 日本では「教育崩壊」が叫ばれて久しい。「教育再生会議」なる会議まで発足したものの、一体いかなる教育機能が壊れ、何を再生しようとするのか、誰も明快に整理しないまま、それぞれが勝手な思いつきの「教育再生」論をうたっただけだった。エビデンスに基づかない行き当たりばったりの教育行政が現場の混乱に拍車をかけている。

 本書は、高校で世界史・日本史を教える傍ら教育ジャーナリストとしても活躍している増田ユリヤがフィンランドの教育現場をレポートしたものである。日本をはじめ世界各国からこの国に視察団が訪れるようになった大きな理由の一つは、経済協力開発機構が三年ごとに行なっている学習到達度調査(PISA)で常に上位の成績をあげていることだ。直近の二〇〇六年調査では「科学的リテラシー」が一位、「数学的リテラシー」「読解力」がともに二位になっている。
 もっともフィンランドでは、生徒個人の個性や性格、習熟度を尊重して臨機応変に授業を進めていくという当たり前の教育が行なわれているだけであって、PISAを意識したカリキュラムが特別に組まれているわけではない。熱烈教師が「競争に打ち勝て」と生徒の尻をたたいているわけでもない。PISAの好成績はあくまで一つの結果にすぎないのだ。

 書名が示すとおり、本書は「教師の育て方」に力点をおいた記述になっている。これは、著者自身が教育者であるという点に加えて、学力世界一になった秘訣を取材現場で聞いた際に、異口同音に返ってきた「教師、教師、教師」という回答に導かれた結果でもある。

 このレポートを通じて浮かびあがってくるフィンランドの教育の特色の一つとして、現場の学校や教師に多くの裁量権が与えられている、という点がまずあげられる。すべての学年をとおして教科書の選択をはじめ、どのような教材を使ってどのように教えるか、個々の教師に委ねられているのだ。教科書の採択がしばしば政治的問題になる日本とは大きな違いといえる。
 さらに、教師の経歴が実に多彩であることも見逃せない。一度社会に出てビジネスマンとして仕事をした経験のある者が教壇に立つことは珍しくないようである。本書で著者が取材した教育実習生をみても年齢は様々。造船会社に勤務経験のある三十二歳の女性、携帯電話会社でマーケティングの仕事に携わったことのある三十歳代の女性をはじめ、職業学校で化学を教えている五十三歳の男性教師が新たに数学の教師資格を取るために実習を受けていたりする。

 著者は、教室で給食をともにしたり、教師の自宅に泊めてもらったりしながら、いささか素朴なタッチで彼の国での取材成果を綴っている。余計な分析は極力控えて、見たまま聞いたままを素直に報告しようとする姿勢が一貫していて、とても読みやすい。

 ただし、日本の現役教師が本書を読んでもむしろ現状への絶望感が増すだけかもしれない。日本ではこれほど個々の教師に裁量権が与えられていないうえに、煩雑な事務作業が増える一方で生徒と濃密に関わりをもちたくても物理的に不可能という声はよく聞かれる。そもそも教育のシステムそのものがフィンランドと日本とでは大きく異なる。日本から視察にやってきた教育者が「日本で同じことを実践するのは無理」と言い残して帰っていくというのも「むべなるかな」という気がする。その意味では、「競争、競争」とバカの一つ覚えのように唱えているどこかの首長や教育行政に携わっている者がまず第一に読むべき本ではないかと思う。
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by syunpo | 2008-12-09 19:20 | 教育 | Trackback | Comments(0)

教育は商品ではない〜『教師格差——ダメ教師はなぜ増えるのか』

●尾木直樹著『教師格差——ダメ教師はなぜ増えるのか』/角川書店/2007年6月発行

b0072887_10193061.jpg 教育は子どもたちのもの、という基本認識を大前提に、教師崩壊の現状にスポットをあて、教師を再生させることが教育再生につながることを説いた本である。教師バッシング渦巻く中、そうした視点からの教育論もまた必要であろう。

 全体の基調としては、安倍政権下で発足した教育再生会議の提言や、教員免許更新制、教師への目標管理型評価などの施策に対して批判的論評を加え、同時に教師の「同僚性」など伝統的な学校文化のメリットを強調している。

 社会の学校への過大な責任の押しつけやモンスターペアレンツなど、昨今の教師をめぐる過酷な状況については、すでにマスコミでも報道されていることが多く、本書で認識を新たにするということはあまりなかったものの、現場の実態から教育を論じるべきだという尾木のスタンスには揺るぎはなく、データに基づいた主張にはそれなりの説得力を感じさせる。
 ただ、現在進みつつある一連の教育改革への批判に力点を置きすぎたあまり、今後いかなる方途で「教師格差」を解消していこうとするのか、その具体的構想を少し欠いているように思われ、物足りなさをおぼえた。
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by syunpo | 2008-07-29 19:06 | 教育 | Trackback | Comments(0)

〈心の教育〉を考えるために〜『良心の自由と子どもたち』

●西原博史著『良心の自由と子どもたち』/岩波書店/2006年2月発行

b0072887_11143911.jpg 憲法第一九条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
 
 本書は、基本的人権としての「思想・良心の自由」と教育とはいかなる関係を取り結ぶべきか、憲法学の立場から概説したものである。

 通知表の評価項目にも載せられ着々と推し進められようとしている「愛国心教育」。あるいは逆にマルクス主義的イデオロギー教化を実践していた社会科教師。このような極端な学校現場の動向を例示しながら「思想・良心の自由」の観点から、あるべき教育の姿を問題提起していく著者の筆致はなかなか説得的だ。
 教育権を誰がもつのかという「国家の教育権説」と「国民の教育権説」の対立、性教育における知識伝達と性道徳との微妙な関係、宗教に対する「寛容」と「中立」……などなど、思想・良心の自由を考える上で重要な問題が丁寧に論じられていて、学ぶところが多かった。

 「憲法は、国家権力を作り出すとともに正当な権力行使を限定するための法規範」というオーソドックスな立憲主義にたつ著者にとって、基本的人権とは「民主的に決定された国家意思であっても踏み込めない個人の領域を定義する」ものとしてある。その意味で「思想・良心の自由は、民主主義の限界線に関わるものであって、民主主義そのものとは違った原理に基づいている」。

 思想・良心の自由とは、何よりも自分の生き方・考え方の拠りどころとなる思想・良心をいかに形成していくかを自分で判断し決めていく、ということである。
 学校は、その際に、ある特定の思想や宗教を唯一「正しい」ものとして、押しつけたり、誘導したりしてはならない。その軛から逃れるために「思想・良心の自由」という基本的人権が根拠となる。

 教育とは、おしなべて子どもたちの考え方を特定の方向に向けて変えていくことであり、この作用が個人の信条に関わる問題に触れていってしまうのを完全に回避することはできない。それでも、学校教育の内容が個人の信条に関わる問題に関して、原理的には中立でなければならないことを西原は強調する。

 また、中立性の例外として学校教育に取り込み得る憲法価値の伝授については、「民主主義体制の核となる価値を子どもに伝達し、政治のプロセスにおいて相手を尊重した討議に参加できるような能力を子どもにつけさせることが学校教育の本質である」(p166)とするエイミー・ガットマンの「討議民主主義の教育理論」をやや批判的に紹介している点なども、なかなか興味深く読んだ。

 公権力による子どもや親の教育権に対する侵害が懸念される一方で、親の教育権放棄とも思える風潮も蔓延っている。著者は、学校への過剰な責任転嫁の風潮を批判して「根本的なところで親こそが子どもの道徳的指導の中核を担うという決断なしに、子どもたちの道徳的発達に対する支援は本当に可能なのだろうか」(p186)と親の役割について再確認をしている。
 印象として、現実に学校が直面している親の責任放棄(しつけの学校への委任、給食費の未払い等々)のようなアクチュアルな課題に対しては、本書の主張は些か弱い。ただし、本書にその処方箋を求めるのはないものねだりというべきであり、今後の多方面からの議論をまつよりほかない。
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by syunpo | 2007-06-16 11:18 | 教育 | Trackback | Comments(0)