カテゴリ:文学(翻訳)( 37 )

ナチス占領下で作られた詩集の本邦初訳〜『世界』

●チェスワフ・ミウォシュ著『世界 ポエマ・ナイヴネ』(つかだみちこ、石原耒訳)/港の人/2015年9月発行

b0072887_21381138.jpg ポーランドの詩人、チェスワフ・ミウォシュの詩集。たいした予備知識もなく一読したかぎりでは、この詩集がナチス占領下のワルシャワで発行されたことを感じとるのはむずかしいかもしれない。

「そこは緑したたる谷間/道はなかば草におおわれ/花をつけはじめた楢の木立ちをぬけて/学校帰りの子供たちが家路をたどる」(〈道〉より)

 もっぱら穏やかな自然だとか家族との思い出だとかがうたわれているので、牧歌的な雰囲気すら感受したとしても不自然ではないだろう。
『世界』の要点はなにか──これは、世界はいかにあるべきか、という問題をめぐる詩なのです、とミウォシュ本人は語っていたらしい。

 とはいえ時代の暗黒面をまったく感じさせないかといえば、そうでもない。ところどころに戦争の暗い影が表現されていることもたしかである。

「開かれたままの本 一匹の蛾がふるえながら/砂煙をまきあげて疾駆する戦車の上を舞う/触れたとたん 金色の粉をまき散らし/市街を席巻するギリシャ軍の上に落ちる」(〈絵〉より)

 全体をとおして平易な言葉遣いではあるが、なかには私には理解しづらい詩篇もいくつかあった。信仰にまつわるような作品群だ。

「信仰は 水に浮かぶ木の葉や/露のひとしずくを目にして それが/そうあるべくしてあるのだと悟ること……」(〈信仰〉より)

 巻末に解説を寄せている小山哲によれば、それらの詩篇は「聖トマス(トマス・アクィナス)の存在論を詩的なことばで語った注釈として読むこともできます」という。

 何はともあれ、ナチス占領下の苦難にみちた時空間で紡ぎ出された言葉たちが、時を経てわれわれの言葉に紡ぎ直され、とどけられたのだ。この奇蹟のような遭遇こそは文学に触れることの一つの驚きであり歓びであるというのは陳腐にすぎる感懐だろうか。
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by syunpo | 2017-08-10 21:40 | 文学(翻訳) | Trackback | Comments(0)

楽しい言葉の絵本〜『翻訳できない世界のことば』

●エラ・フランシス・サンダース著『翻訳できない世界のことば』(前田まゆみ訳)/創元社/2016年4月発行

b0072887_1035611.jpg 言葉はそれを使う人間の思考様式や世界観とは切っても切り離せないものである。当然のこととして、他の言語に訳すときに適切な訳語がみつからない、各地域固有の言葉というものが存在する。

 本書はそのような「翻訳できない世界のことば」を集め、独自の語釈によって編んだユニークな「単語集」。著者自身の可愛いイラストが一語ごとに添えられていて、絵本をめくるように楽しく読める。二〇一三年にブログで発表した〈翻訳できない世界の11の言葉〉という記事がきっかけで生まれた本らしい。

〈COMMUOVERE=コンムオーペレ〉は、イタリア語で「涙ぐむような物語にふれたとき、感動して、胸が熱くなる」という意味の動詞。〈SAMAR=サマル〉は「日が暮れたあと遅くまで夜更かしして、友達と楽しく過ごすこと」をあらわすアラビア語の名詞だという。

 インドネシア語の〈JAYUS=ジャユス〉は「逆に笑うしかないくらい、じつは笑えない、ひどいジョーク」を意味することば。たしかに日本語にはこれを一語であらわす言葉はないかもしれないが、これに相当する発話行為は多くみられるようになった気がする。

〈RESFEBER=レースフェーベル〉は、スウェーデン語で「旅に出る直前、不安と期待が入り混じって、絶え間なく胸がドキドキすること」。
 独特の郷愁を意味するポルトガル語の〈SAUDADE=サウダージ〉は、最近日本でも映画のタイトルに使われたりして、おなじみの言葉だろう。

 各単語のつづりは英語表記に基いているが、原語文字のつづりもあわせて記されている。著者は日本語にも強い関心を抱いているらしく、四つのことばが登場する。〈コモレビ=木漏れ日〉〈ボケット=ボケっと〉〈ワビ・サビ=侘び寂び〉〈ツンドク=積ん読〉だ。「木漏れ日」を選ぶセンスには感心した。

 ただ〈ワビ・サビ〉の語釈は「生と死の自然のサイクルを受け入れ、不完全さの中にある美を見出すこと」となっていて、やや伝統的解釈とはズレている。が、巻末に「単語の説明は、著者独自の感性により解釈されたもの」との但し書きが添えられていることだし、本書を読んで「本来の意味とは違う」とクレームをつけるのは詮無いことだろう。正統的な語釈を知りたければ、きちんとした辞典を引けばよろしい。

 著者のエラ・フランシス・サンダースは、イラストレーターとしても活躍しているようで、モロッコ、イギリス、スイスなど「さまざな国に住んだ」経験が本書のような企画を可能にしたのだろう。

「言葉は、真実を、人の心がうつしだすわずかなものに減少させてしまう」というエッカート・トールの言葉に疑義を呈して「言葉は、わたしたちにとても多くのものをあたえてくれます」と言い切る。さまざまな言葉との出会いを楽しんできたにちがいない著者ならではの感性が詰め込まれた愉しい本であるといっておこう。
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by syunpo | 2017-07-08 10:38 | 文学(翻訳) | Trackback | Comments(0)

不完全な記憶が文書の不備と出会うところ〜『終わりの感覚』

●ジュリアン・バーンズ著『終わりの感覚』(土屋政雄訳)/新潮社/2012年12月発行

b0072887_9472276.jpg ロンドン郊外で平凡な引退生活を送る主人公のもとに、ある日突然、見知らぬ弁護士から手紙が届く。日記と五百ポンドの遺産を自分に遺した女性がいるらしい。思い出すまでにしばらくかかったその女性は学生時代につき合った恋人ベロニカの母親だった。遺されたのは、高校時代の親友でケンブリッジ在学中に自殺したエイドリアンの日記。ベロニカは彼の恋人となっていた。それにしても、何故その日記が母親のところにあるのか?

 ベロニカの母親が主人公に遺贈しようとしたエイドリアンの日記は、ベロニカが所有している。主人公の「私」はその日記を手に入れようとするところから、物語は動き始める。相手の弁護士とのやりとり、ベロニカの兄とのメール交換、そしてベロニカとの再会……。

 自分の記憶とベロニカから示される過去の事実とのズレ。主人公の語りで話は進行しているので、そのズレは読者をもいきなり直撃する。ミステリ仕立てですすんでいく展開と相まって、後半はページを捲る手が止まらない。作中で語られる「歴史とは、不完全な記憶が文書の不備と出会うところに生まれる確信である」という箴言がいかにも本作の内容を象徴しているかのようだ。

 三角関係をベースにしたお話はもちろん文学史的にはありふれている。日本人読者の私としては、友人が自殺したり手紙でやりとりするところなども含めて、まずは漱石晩年の作品群を想起してしまった。しかし、当然ながらその後の展開も主人公の心の動きも漱石とはまったく違った肌触りで、読み終える頃にはバーンズの世界そのものに浸っていたのだった。
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by syunpo | 2016-10-23 09:47 | 文学(翻訳) | Trackback | Comments(0)

教養の重圧からの解放〜『読んでいない本について堂々と語る方法』

●ピエール・バイヤール著『読んでいない本について堂々と語る方法』(大浦康介訳)/筑摩書房/2008年11月発行

b0072887_2004762.jpg 安直なハウツー本のような書名ではある。たしかにそのような要素も含まれてはいるけれど、基本的にはヒューモアや諷刺精神が随所にまぶされた読書理論、批評論の書といっていいだろう。

 まず驚かされるのは、脚注に記している参照文献についていちいち四つのカテゴリーを明示している点だ。
〈未〉ぜんぜん読んだことのない本
〈流〉ざっと読んだ(流し読みをした)ことがある本
〈聞〉人から聞いたことがある本
〈忘〉読んだことはあるが忘れてしまった本

「ちゃんと読んだ本」という単純なカテゴリーが存在しないことは要注目。この表示によれば、著者はムージルの『顔のない男』は〈流〉で、ジョイス『ユリシーズ』は〈未〉、フロイト『夢解釈』は〈忘〉だそうな。ついでにいえば本書が言及している小説のなかにでてくる架空の書物もリストアップされていて、バイヤールの茶目っ気のほどがうかがえる。

 著者にとって「きちんと読む」「精読する」というような行為はハナからありえないことなのだろうか。いや問い方を変えよう。そもそも読むことと読まないことに明確な境界は存在するのだろうか。著者の答えは「否」である。

「読んでいない」という概念は、「読んだ」と「読んでいない」とをはっきり区別できるということを前提としているが、テクストとの出会いというものは、往々にして、両者のあいだに位置づけられるものなのである。(p8)

 読むという行為はその中身を突き詰めれば様々でありうるし、読んでいない本に関しても人の噂や情報などをとおして何らかのイメージを得ることができる。ゆえに私たちの書物に対する経験は〈読んだ/読まない〉という二分法によって仕切られるのではなく、その両極のあいだにグラデーションをもって分布するということになるだろう。もちろんそうした説明だけではわかりにくいかもしれない。が、とにもかくにも上に引用した認識こそは本書全体をとおして基調となる考え方なのである。

 書物は読まれ方あるいは語られ方によって、様々な相貌を私たちの前にあらわすことになる。本書の見立てでは書物には三種類ある。〈遮蔽幕としての書物〉〈内なる書物〉〈幻影としての書物〉だ。その三つはそれぞれ〈共有図書館〉〈内なる図書館〉〈ヴァーチャル図書館〉に対応する。

〈遮蔽幕としての書物〉とはフロイトから借用した概念で、われわれが日常的に話題にする書物のこと。「現実の」書物とはほとんど関連性をもたない。いわば「状況に応じて作りあげられる」代替物である。
〈内なる書物〉とは「神話的、集団的、ないし個人的な表象の総体」をさす。「われわれが書物に変形を加え、それを〈遮蔽幕としての書物〉にするさいの影響源となるものである」。
〈幻影としての書物〉とは、われわれが話したり書いたりするときに立ち現れる、変わりやすく捉えがたい対象のことである。読者が自らの〈内なる書物〉を出発点として構築するさまざまな〈遮蔽幕としての書物〉どうしの出会いの場に出現する。

 書物がそのようにして多様なかたちをもって存在する以上、私たちは読んでいない本について語ることにネガティブな感情を抱くには及ばない。むしろ読んでしまうことで他人の言葉によって制約を受けることになるだろう。ゆえに読んでいない本についてのコメントが一種の創造的営みにもなりうるとさえバイヤールは主張するのである。

 本書では、そのような書物とのさまざまな関わり方について、夏目漱石やオスカー・ワイルドなどを参照しながら精神分析的な手法を用いて考察していく。ワイルドによれば、批評とは自分自身について語ることであり、「作品は、批評実践の存在理由そのものである主体からわれわれを遠ざける」。

 当然ながら本書の議論の進め方は多分に詭弁的、といって悪ければパラドキシカルであり、生真面目に反論しようとすればいくらでも可能に違いない。しかし一方で、ひとつの教養論ないしは教養共同体を相対化する試みとしては興味深い視座を提起しているのではないかと思う。

 ところで私はこのレビューを書くにあたって本書をどの程度まで読んだといえるだろうか。著者のカテゴリーにしたがえば、どうやら〈流〉〈聞〉に該当していそうであることを告白しておく。
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by syunpo | 2015-12-04 20:06 | 文学(翻訳) | Trackback | Comments(0)

度胸と愛嬌で戦場を渡り歩く〜『母アンナの子連れ従軍記』

●ブレヒト著『母アンナの子連れ従軍記』(谷川道子訳)/光文社/2009年8月発行

b0072887_20111946.jpg《肝っ玉おっ母とその子どもたち》のタイトルで知られている作品の新訳。日本語としてはある種のイメージが固着した「肝っ玉」を表題からも訳文からも追い出した点に、新訳としての一つの意義があるといえるかもしれない。

 今もなお世界中で上演機会の多い本作は、三十年戦争の混乱期、父親の違う三人の子どもを引き連れてたくましく生きていく従軍商人・度胸アンナの奮闘ぶりをとおして、随所にヒューモアをまぶしながら戦争の矛盾と悲惨を浮かびあがらせる。

「……作戦計画のちゃんとした司令官なら、なんで勇敢な兵隊なんぞがいるの? 並の兵隊で十分なはずでしょ。手柄の美談なんぞがたくさん必要だなんて、どこか腐っている証拠よ」というアンナのセリフがおもしろい。

 戦争のビジネス化・外注化がすすむ昨今、この戯曲はその多義的な深みにおいてだけでなく、アクチュアリティーに関してもいっそう輝きを増しているようにも思われる。墓の下に眠るブレヒトがそうした事態を喜んでいるとは到底考えられないのだけれど。
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by syunpo | 2015-05-11 20:16 | 文学(翻訳) | Trackback | Comments(0)

言葉だけがなしうる冒険〜『若い藝術家の肖像』

●ジェイムズ・ジョイス著『若い藝術家の肖像』(丸谷才一訳)/集英社/2009年10月発行

b0072887_10463842.jpg 松宮秀治の『芸術崇拝の思想』は、啓蒙主義以降の神なき近代社会において宗教に代替するものとして芸術が台頭してきたことを歴史的に説き明かした。本作の主人公、スティーヴン・ディーダラスは、さしずめそうした時代思潮を体現するかのような若者として描かれている。ジョイスは、一人の若者(著者自身にも重なる存在)が信仰を捨て藝術家=文学者として身を立てていこうと決意するまでを、様々な文体を駆使して描出していくのである。

 急いで付け加えるなら、スティーヴンは信仰を捨てるだけではない。イギリスの帝国主義はもちろん祖国アイルランドのナショナリズムからも独立しようとする。「一人きり、まったくの孤独」、その危険を冒す道行きを選択したのだ。それはそのまま藝術=文学という営みの孤独を表しているだろう。

 ディーダラスの名はギリシア神話に登場するダイダロスにちなむ。アテナイの「巧みな工人」である。ミノス王によって息子のイカロスとともにラビュリントス(迷路)に幽閉される。ダイダロスは羽と蠟で翼を作り脱出に成功したが、イカロスは戒めに背いて太陽の近くまで飛んだため、蠟が溶けて海に墜落した。

 ダイダロスとイカロスにまつわる神話は全編にわたって通奏低音のように鳴り響いているかのようで、作中、飛翔するもののイメージが要所で立ち現れる。鳥。天使。革の球。それらは時に美しい情景を呈して印象深い。

「一人きり、まったくの孤独」の旅路を踏み出したスティーヴン・ディーダラスは、はたして迷路から脱出することに成功するのか。それとも墜落してしまうのか……。

 丸谷才一は一九六九年に一度邦訳版を出している。その後、二度の改訳を経て、二〇〇九年に新訳版として本書を刊行した。本作の時代背景を文化史的にあとづけた解説と精細な訳注は、難解ともいわれる作品の読解に大きな力を貸してくれる。なお、二〇一四年には同じ版元により文庫化された。
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by syunpo | 2015-01-17 11:01 | 文学(翻訳) | Trackback | Comments(0)

迸る言葉の魅力〜『わたしは英国王に給仕した』

●ボフミル・フラバル著『わたしは英国王に給仕した 〜池澤夏樹=個人編集 世界文学全集Ⅲ−01』(阿部賢一訳)/河出書房新社/2010年10月発行

b0072887_9231681.jpg グラスに注がれるビールの泡がモコモコと盛り上がってくるように、フラバルの言葉は次から次へとほとぼしり出てくる。田舎出身の背の低い給仕見習いの少年が高級ホテルを転々としながらのし上がり、政変を機に没落する…という波乱万丈の人生が改行の少ない一気呵成の語りで紡がれていく。

 背景となっているのは、フラバルの祖国チェコがハンガリー=オーストリア二重帝国からナチス・ドイツの支配下に入り、戦後にはチェコスロヴァキアの社会主義政権にとってかわられるという激動の時代。そんな時代のなかで百万長者を夢見る若者がステップアップしていき、一時の栄華に酔いしれ、そして没落した後に形而上学的な楽しみを見出し内省的な人間へと変貌していく──という物語の流れは文学的にはいささか凡庸かもしれない。「教養小説」の構造を忠実に維持しているかのようなこの作品が、しかし決して陳腐な印象を与えないのは、法螺話的なシュールな展開とユーモアを感じさせる語り口など本作にそなわったいくつもの特質ゆえだろう。
 またホテルの支配人が主人公に言った忠告──「お前は何も見ないし、何も耳にしない」が同時に「ありとあらゆるものを見なきゃならないし、ありとあらゆるものに耳を傾けなきゃならない」──が冒頭に記されているのも何やら示唆に富んでいる。

 祖国で同じように発禁処分を受けたミラン・クンデラとはまた違った味わいのあるフラバルの世界。二〇世紀チェコ文学の充実ぶりの一端を本作からも十分に感じとることができる。
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by syunpo | 2013-04-06 09:51 | 文学(翻訳) | Trackback | Comments(0)

言葉、死に行く母から娘への〜『鉄の時代』

●J・M・クッツェー著『鉄の時代 〜池澤夏樹=個人編集 世界文学全集Ⅰ−11』(くぼたのぞみ訳)/河出書房新社/2008年9月発行

b0072887_213512.jpg 舞台は南アフリカ共和国。この地の大学でかつてラテン語を教えていたインテリ女性の主人公ミセス・カレンがガンの再発を宣告された日から話は始まる。時代設定は、悪名高きアパルトヘイト体制が崩壊に向かう途上の、剥き出しの暴力が荒れ狂っている時期である。

 ミセス・カレンは自宅のガレージに居ついてしまった浮浪者ファーカイルと奇妙な共同生活をする羽目になり、アメリカに移住した娘あてに手紙を死後に差し出してくれるよう、彼に依頼する。本当に娘のもとに届くのかどうか定かでない状況で書き綴られた手記が本作の枠組みとなっている。

 クッツェーは二〇〇三年にノーベル文学賞を受賞した。受賞理由の一つとして「西欧文明のもつ残酷な合理性と見せかけのモラリティを容赦なく批判した」ことが指摘されているが、本作はまさにそうした評価がしっくりあてはまる作品といっていいだろう。

 アフリカーナー民族主義に支えられたアパルトヘイトという体制は、少数の白人が土地と富の大部分を占有し、法律によって人種的な階層を作り上げ、人種差別を合法化した制度だった。もちろんそれ以前から先住民に対する圧政は存在した。彼らの土地所有権を奪い、奴隷のように酷使した歴史のうえにこの制度は確立したのである。

 ミセス・カレンは自分の「遺書」を託すことにしたファーカイルに向かって言う。

 罪は遠い昔に犯された。どれくらいむかしか? わたしにはわからない。でも一九一六年よりずっとむかしよ、もちろん、ずっとむかしだけれど、そのなかにわたしは生み落とされた。それはわたしが受け継いだ遺産の一部なの。それはわたしの一部であり、わたしはその一部なのよ。
 どんな罪にも、かならず代償がついてまわる。その代償は、恥のなかで贖われなければならない、とかつてわたしは考えた──恥のなかで生き、恥にまみれて死ぬ、惜しまれることもなく、いずことも知れぬ場所で。それをわたしは受け入れた。自分だけ切り離そうとは思わなかった。わたしが頼んだために罪が犯されたわけではないけれど、でもそれは、わたしの名において犯されたものだから。……(p196)


 南アフリカ共和国に生まれ育った白人が書いた文学作品における白人の台詞として、これは一つの良心を示すものには違いない。

 だが、どうだろう。〈罪〉は遠い昔に犯されただけなのか。人は生まれる土地を選ぶことができないとはいえ、アパルトヘイトを維持してきた現代の白人たちに〈罪〉はないといえるのか。ファーカイルのように無学でなく自分たちの言葉を持った黒人たちがこれを聞けば、もっと直接的な〈罪〉について問い質したいと思うのではないか。

 この文学全集を編集した池澤夏樹は「クッツェーがうまいのは主人公を黒人にしなかったこと」と論評している。そうかもしれないが、うまい/下手で論じることでもないような気がする。そもそも現実にアパルトヘイトの体制下で特権階級の生活を享受してきた白人の文学者がかかる主題を扱った小説を黒人の視点で書くことは文学的想像力をもってしても困難なことだったろう。

 政治的文脈をいったん括弧に入れてしまえば、この作品のもつ別の味が浮かび上がってくる。私が興味深く思ったのは、クッツェーはこの作品においてヨーロッパの古典文学に目配せしながら、現代の文学が生まれ出ずるところを語っているようにもみえる点だ。たとえばミセス・カレンが暴力闘争に明け暮れる少年に語りかけるくだりは印象的である。

 あなたはことばを信じていないわね。殴るほうがリアルだと思ってる、殴打と銃弾。でも聴いて──わたしが話していることばは、リアルだと思えない? 聴いて! 声は空気にすぎないかもしれない、でもそれはこの心から出ているの、この子宮から。それは『はい』ではない、『いいえ』でもない。わたしのなかで生きているのはなにか、ほかのもの、別のことばなの。わたしはそのために闘っている、わたしなりに、それが窒息させられないよう闘っているの。(p174)

 この言葉が、死に行く者の口から発せられていることにいっそうの重みが感じられるし、そこにクッツェー自身の決意が投影されているようにも思われる。

 もちろん文学といえども政治の場所から自由ではありえない。一義的には(狭義の)政治の場で決着すべき問題を文学が肩代わりすることもできない。この作品は文学の可能性と不可能性を同時に考えさせるという点でも多くの人に読まれるべき作品であると私は思う。
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by syunpo | 2013-03-22 21:13 | 文学(翻訳) | Trackback | Comments(0)

キッチュ、この人間的なるもの〜『存在の耐えられない軽さ』

●ミラン・クンデラ著『存在の耐えられない軽さ 〜池澤夏樹=個人編集 世界文学全集Ⅰ−03』(西永良成訳)/河出書房新社/2008年2月発行

b0072887_20382121.jpg この小説は音楽的──弦楽カルテットのよう──な構成美に貫かれている。主要な登場人物は四人。有能な外科医でドン・ファンのトマーシュ、大学教授のフランツ、トマーシュと同棲することになるテレザ、フランツの愛人サビナ。
 時制が入り乱れ、時にバラバラな断章が並んでいるようにみえて、実は精緻な計算に裏付けられていることが読むほどにそして読んだ後にもじわじわと了解されるような造りとでもいえばよいか。ベートーヴェン最後の四重奏曲の最終楽章にまつわるエピソード(モチーフ)が何度も作中に出てきて「変奏」されるのが何より象徴的であるだろう。

 ここではまた人物たちの行動や心理の描写だけで事が運ぶわけではない。そもそもこの物語の語り手である〈私〉とは作者のことで、ニーチェやプラトンらの哲学について講釈を加えたり、あからさまに作品のなかに介入してきて解説めいたことを語りだしたりするのだ。そのような多重的な作法をクンデラ自身は「小説的対位法」「ポリフォニー」と呼んでいるらしい。

 主な舞台となっているのはボヘミア(クンデラは一貫してチェコスロバキアという呼称を回避している)。第二次世界大戦後の〈プラハの春〉とその後のソ連軍の侵攻という時期を背景としている。
 ちなみにクンデラは〈プラハの春〉の政治活動に関わったために、それまで発表していた作品が発禁処分になったほか、プラハの大学における教職を追われ、一九七五年にフランスに亡命した。本作は亡命後の二作目にあたる。

 ロシア帝国とその傀儡政権による言論弾圧が強まってくるとトマーシュはテレザとともにスイスに逃れて新しい生活を始める。テレザはフォトグラファーとしての仕事の機会を得るがそれを断わり、「六、七か月すぎた」頃に置き手紙を残してプラハに帰ってしまう。後を追うようにトマーシュもプラハに戻る……。

「キッチュ」をめぐるクンデラの考察は本作の重要なポイントであるだろう。キッチュとはドイツ語起源の外来語で、一般に「まがいもの。俗悪なもの」というように解釈される言葉だが、クンデラは「この語の概念をより広く近現代人の非本来的な審美=倫理的価値観・様式・風俗を特徴づけるものと考えている」。(p17、訳者脚注)

「キッチュの王国では、心情の専制が行使されるのだ」「キッチュとは死を隠す屏風のことなのだ」「キッチュ、それは存在と忘却のあいだの乗換駅のことなのだ」……後半、次から次へと繰り出されるキッチュにまつわる隠喩的な箴言は印象的である。それらは四人を取り巻く世界の様子を絵解きしている風にも読めるが、おそらくそれだけにはとどまらない。この作品全体を貫く問題意識がそこに込められているのではないかとも思う。
 当然ながら、共産主義や全体主義を批判する西側諸国の人々の運動もフランツやサビナの眼を通して相対化され、そのキッチュなありようが浮き彫りにされる。

 彼女(=サビナ)は友人たちに言いたかった、共産主義、ファシズム、あらゆる占領や侵攻にはもっと根本的で普遍的な悪が隠されている、その悪のイメージ、それこそまさしく腕を振りあげ、声をそろえて同じ音節を叫びながら行進する行列のイメージなのだと。(p117)

 そのイメージに呼応するかのように後段で〈私〉はいう。
「私たちはだれひとりとして超人ではないのであり、全面的にキッチュから逃れることなどできないのだから。私たちにあたえる軽蔑がいかなるものであれ、キッチュは人間の条件の一部なのである」と。

 キッチュを批判したところで、人間はキッチュから逃れることなどできない。文学とはむしろそこから始まるとクンデラは言いたげである。だからこの作品は単なる体制批判や告発という枠組にはもちろん収まるはずもない。

 とりわけ緩徐楽章に準えられるべき最終部の静謐な筆致のうちに、クンデラ自身が舐めた辛酸を文学的考察へと昇華させた言葉の結晶に触れる思いがした。まさしく次代に伝えられるべき二〇世紀文学の一作だろう。
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by syunpo | 2013-03-15 20:50 | 文学(翻訳) | Trackback | Comments(0)

吾輩はこうして人間になった〜『犬の心臓』

●ミハイル・A・ブルガーコフ著『犬の心臓』(水野忠夫訳)/河出書房新社/2012年1月発行(復刻新版)

b0072887_20263545.jpg 飢えと寒さで瀕死の状態にあった野良犬が一人の紳士によって助けだされ、彼のアパートに保護される。その紳士は医師であった。犬は充分な食事を与えられ栄養失調から回復した後、実験的な手術によって急死した人間の脳下垂体と精嚢を移植される。そして変貌する。犬の心臓をもった人間へと……。

 設定としては別段新奇というほどもでないが、充分に読み応えのあるこの小説は、旧ソ連では体制批判の書として発禁処分になった。ブルガーコフ自身も当時の政治体制に異議を申し立てるつもりで執筆したことは疑えないのだけれど、今さらこの作品をソヴィエトの体制批判という視点のみから読み解いてもつまらない。

 おもしろいのは、漱石の猫と異なって視点が固定されていないことである。犬でいる間は一人称──もっぱら犬の視点──が使われているのだが、人間に変身してからは三人称が貫かれている。シャリコフと命名された犬人間の行動は、一貫して第三者の視点によって描写されることになる。

 それはどういうことを意味するのであろうか。人間にとって人間こそが最大の他者であるから、という解釈はどうだろう。犬から人間に変身していく過程は、犬に手術をほどこしたフィリップ・フィリッポヴィッチ医師の助手・ボルメンターリの「病状記録」という形式で描写が開始されているのはその意味でも興味深い。最初は科学者の目で犬人間の生態が報告されるのである。無論、本作にあっては科学もまた相対化の対象になる。科学=理性によって制御することができない犬人間が生み出されることによって、科学万能主義はここで厳しく審問に付されているのだ。

「病状記録」にはまた犬人間が人間の言葉を獲得していくプロセスも驚きとともに記録されている。人間を人間たらしめるもの。言葉。さりげない描写にはなっているが、この部分は重要だと思う。ある意味では科学の手の届かぬところから発せられる言葉。他者から発せられる言葉。野卑で下品な言葉。やがてその言葉は……。
 ……あえて書いてしまおう。いったん人間世界に解き放たれた言葉は、ふたたび封印される。そして犬人間は言葉を喪失することによって一人称を再び復活させることになるだろう。無論そうした事態もまた言葉によって表現されるほかないものではあるが。ここではメビウスの輪のように言葉は死と再生の不可思議な境界にあらざる境界を往還する。言葉という不思議こそが文学の不思議を生み出す。

 本作が初めて活字になったのは、一九六八年のことだったらしい。ソ連国内で公刊されたのは、さらに遅れて一九八七年。長い雌伏の時を経て「犬の心臓」がまた鼓動を始めたことは世界文学史にとって幸いなことであったと思う。
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by syunpo | 2013-03-05 20:38 | 文学(翻訳) | Trackback | Comments(0)