ブックラバー宣言


コラムニスト・吉本俊二の書評ブログです。
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カテゴリ:犯罪学( 3 )


厳罰主義に欠落していること〜『反省させると犯罪者になります』

●岡本茂樹著『反省させると犯罪者になります』/新潮社/2013年5月発行

b0072887_7562872.jpg 挑発的な書名がかえって読者を遠ざけてしまうのではないかといらぬ心配をしてしまうのだが、内容的にはきちんとした本である。言葉を補足して本書のメッセージを一言で示すとすれば「ムリに反省させようとする方法が受刑者をさらに悪くさせ、安易に反省させない方法が本当の反省をもたらす」ということになろうか。著者は殺人などの重大な犯罪を起こした受刑者が収容されている刑務所で、受刑者に個人面接や更生プログラムをつくって授業するなどの支援活動を行なっている臨床教育学の専門家。

 議論の出発点となるのは、犯罪を行なった者はまず被害者のことより自分自身のことを優先するという認識である。それは「人間の心理として自然な流れ」と岡本はいう。ゆえに「裁判という、まだ何の矯正教育も施されていない段階では、ほとんどの被告人は反省できるものではない」。仮に反省の弁を述べるとしても、それはたとえば刑罰を軽くしてもらおうという計算にもとづいたもので「それは自分にとって都合のいい言い訳にすぎない」だろう。

 犯罪者の更生を第一に考えるのなら、ではどうすべきなのか。
「被害者の視点」ではなく、「加害者の視点」から始めること。その方が、一見遠回りのように思えて、実は本当の更正への道に至る近道なのだと著者は言い切る。

 受刑者は、例外なく、不遇な環境のなかで育っています。親からの虐待、両親の離婚、いじめの経験、貧困など、例を挙げればキリがありません。受刑者は、親(あるいは養育者)から「大切にされた経験」がほとんどありません。そういう意味では、彼らは確かに加害者ではありますが、「被害者」の側面も有しているのです。被害者だからと言って、人を殺したり覚醒剤に手を染めたりすることはけっして許されることではありません。しかし支援する立場になれば、加害者である受刑者の、心のなかにうっ積している「被害者性」に目を向けないといけません。このことが分かれば、最初から受刑者に被害者のことを考えさせる方法は、彼らの心のなかにある否定的感情に蓋をしてさらに抑圧を強めさせることになるのは明らかです。したがって、まずは「加害者の視点」から始めればいいのです。そうすることによって、「被害者の視点」にスムーズに移行できます。(p119)

 自分の心の痛みに気づくことから真の反省が始まる。性急に反省文などを書かせるのは「百害あって一利なし」、反省文は反省文を書かされた人の本音を抑圧するだけでかえって逆効果になる。そのような指導を繰り返しても、読む人を納得させるような反省文の書き方に熟達するだけで、真の更生にはつながらない。矯正教育の現場で活用されている「内観療法」やロールレタリングにしても、「反省ありき」の考え方が先行した場合、本来の効果を失うだろう。
 まずは親や周囲の人々への不満を思いのまま語らせること。そして自分は何故問題行動を起こしたのかを考えさせること。被害者のことを素直に考えられるようになるのは「受刑者が、自分の悲しかった過去を吐き出した後」のことなのである。

 殺人などの凶悪犯罪をおかした者などに生きる価値はない、だから更生などする必要はない、という意見も少なからずある。そうした感情的な声に対する岡本の態度も明快である。

 人の存在の大切さを感じることは、同時に自分が殺めてしまった被害者の命を奪ったことへの「苦しみ」につながります。皮肉なことに、幸せを感じれば感じるほど、それに伴って、苦しみも強いものになっていきます。この2つの矛盾した感情のなかで生き続けることは、私たちが想像できないくらい苦しく辛い「罰」となり得るのです。(p136)

 彼らが真の更生の道を歩んでいるのであれば「幸せ」と「苦しみ」の二つの矛盾する感情を抱きながら命の重みを理解している人間といえる、そういう意味では、彼らこそ「命の重み」を語れる存在になり得るのではないか。そこで岡本はそうした更生者こそ受刑者支援のサイクルの中に入ることを提唱するのだ。
 このようにみていくと本書の主張は受刑者に甘いとか、キレイごとにすぎるという批判は当たらないだろう。それどころかむしろ犯罪者に対して最も厳しい後半生の道のりを求めるものといえなくもない。

 むろん、犯罪者の行動機制をもっぱら親子関係に還元してしまう本書の考え方には異論もありうるだろう。また、いきなり反省を求める方法に無理があるとしても「加害者の視点」から始める矯正プログラムが実際にどの程度効果をもたらしているかの客観的なデータや研究報告が提示されているわけでもない。他の同業者の見解を是非ききたいと思う。

 ただいずれにせよ、実体験に基づいた記述、揺らぎのない一貫した論旨にはそれなりに説得力を感じるのも事実。犯罪者に対しては厳罰化をもって対処せよという国民感情が強くなり、法改正もその方向でなされてきている昨今の状況に対して、現場からの一つの問題提起として本書は意義深いものと考える。
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by syunpo | 2014-11-02 08:08 | 犯罪学 | Trackback | Comments(0)

犯罪社会学の最前線〜『グローバル化する厳罰化とポピュリズム』

●日本犯罪社会学会編『グローバル化する厳罰化とポピュリズム』/現代人文社/2009年4月発行

b0072887_19323285.jpg 刑事政策における厳罰化の流れは世界的にみられる一般的傾向である。本書は、昨今の厳罰化について“Penal Populism”(刑罰のポピュリズム)をキーワードにして国際比較の観点から考察・分析した論考を集めたものである。

 Penal Populismとは、ニュージーランドの刑罰社会学者ジョン・プラットが提唱しているもので、昨今、犯罪学の分野ではしばしば引用される概念である。それは要約すれば以下のように特徴づけられる。

 戦後の刑事政策を形作っていた多くの前提がひっくり返され、刑罰を運用・執行する権力構造の劇的な再構成が行なわれる。そこでは刑事司法の専門家による研究成果よりも、犯罪被害者などの個人的な体験や逸話といったものが重視されるようになり、複雑な問題に対して分かりやすい言葉で解決策を語る者に対する信頼感が高まっていく……。

 米国での峻厳な刑罰政策の背景を検証したマイケル・トンリーの論文は、Penal Populismといった観点よりも米国独自の歴史文化を重視し「政治的偏執病」「プロテスタントの原理主義と不寛容」「憲法の構造」「人種問題」の四つの観点から説明を試みて米国の特殊性を浮かびあがらせる。

 ジョン・プラットはニュージーランドの厳罰化を文字どおりPenal Populismの視点から分析して本書の根幹を成す考察を展開している。彼によれば、メディアなどの発達によって犯罪情報が増え、被害者支援活動家やメディアの提示する「常識的」で分かりやすい議論が統計などを駆使した犯罪学者や司法実務家の「複雑」な議論を凌駕して、市民感情に応えようとする政治家の厳罰化政策を促す結果となった。

 デイビッド・ジョンソンの「国際比較から見た日本の刑罰」は、アジア諸国で死刑適用の減少傾向がみられることを指摘して日本の刑事政策の転換の可能性を探ったもので、示唆に富む内容である。
 浜井浩一とトム・エリスが日本におけるPenal Populismについて検証した論考には教えられるところ大であった。客観的にみた治安情勢は悪化していないにも関わらず、日本で厳罰化が進んだ背景には何が考えられるのか——。二人はメディアの扇情的な報道や被害者支援活動などをめぐって冷静に分析を加える。結論として、日本の刑事政策の舵を握っているのは、今も昔も市民や世論ではなく検察官であり、日本の急速な厳罰化はそれを求める市民感情を司法官僚が巧みに利用した結果であるとする。その意味ではプラットのいうPenal Populismの一つの特徴——司法実務家の決定権が相対的に低下する——という要素は日本ではみられない。

 拘禁刑の活用をめぐる国家間の差異を検証するタピオ・ラッピ=ゼッパーラは「犯罪との戦い」より「貧困との戦い」を重視する福祉的国家ほど犯罪者に対して寛容な政策を採っており、受刑者率の低いことを指摘する。また二大政党による劇的な政権交代が行なわれる「多数決民主主義」よりも比例代表制を基盤とした複数政党による連立政権に象徴される「合意形成的民主主義」の方が一般にPenal Populismに対する耐性は強い、という。

 本書に寄稿している論者はおしなべて厳罰化にもPenal Populismにも批判的である。
 とりわけ裁判官や検察官が選挙によって選出される米国の「民主的」司法制度がポピュリズムを招きやすいとしてやり玉にあげられているのはまことに興味深い。
 考えてみれば、市民の感情や個人的挿話が科学的知見をさしておいて政策決定に反映されるという「ポピュリズム」的現象は何も刑事政策にかぎった話ではないだろう。とりわけ日本では教育においても福祉政策においても程度の差こそあれ、ポピュリズム的過程がみられる。(安倍政権時に発足した教育再生会議には教育学の研究者は一人も入っていなかった。)

 その意味では、民主政国家においてはほとんどの政治決定が多かれ少なかれポピュリズム的な色合いを帯びざるをえない。また社会科学の知見は常に一つの結論に集約されるわけでもなく、実際日本では(説得力の程度は別にして)アカデミズムの名において治安の悪化を指摘しそれを前提に厳罰化を主張する学者も存在する。さらにいえば第三者のチェックがほとんど入らない現在の日本の検察のあり方には批判の声も少なくない。
 すなわち、結果において論者の歓迎すべき決定がなされれば、その過程の「民主主義」的側面が賞賛され、逆の場合には「ポピュリズム」の汚名をきせられて糾弾される、ということではないのか。
 そのことを考えれば、本書にみられる考察は寄稿者たちの意図を超えて、「民主政」そのもののあり方についても再考に導くような根本的な問題提起をはらんだ内容をもっているのではないかと思った。
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by syunpo | 2010-01-26 19:57 | 犯罪学 | Trackback | Comments(0)

法社会学者の描く犯罪者の実像〜『日本の殺人』

●河合幹雄著『日本の殺人』/筑摩書房/2009年6月発行

b0072887_20405596.jpg 評判が良いようなので手に取ってみたのだが、かなり粗雑な本である。
 文字どおり「日本の殺人」について冷静に分析を試みた「第一章〜殺人事件の諸相」はそれなりに読ませるものの、後半の記述には首を傾げたくなる箇所が多い。著者の専門は法社会学ということらしいが、警察組織や司法制度の現状に対する認識がかなり甘いのと、警察=メディアの腐れ縁についてもいささか無知な点が見受けられる。

 日本の警察組織というものは、冤罪が確定した後の事後処理や裏金問題をみればわかるように、立法府や政治の監視が働きにくく最も腐敗した官僚組織の一つとなっていることは周知の事実である。当然ながら、そのような警察の発表をそのまま垂れ流しているに等しい日本の事件報道もまた最も信頼のおけない官製情報の一つであることはメディア学の研究者なら誰でも知っている。

 著者もまた扇情主義に流れがちな事件報道についてはメディア・リテラシーの必要性を強調していながら、新聞報道のみに依拠して畠山鈴香被告による秋田県二児殺人事件について「捜査上のエラーはなかった」と断定したり、現在、検討が進められている「取調べの可視化」についても「それでは、殺人犯と刑事が一対一で、取調べ室で対決するドラマがなくなってしまう。……責任逃れのための妙案でしかなく、刑事さんのやりがいを奪う愚策である」(p186)などとトンチンカンな主張をしている。このあたりでマトモに付き合うのもバカらしくなり、以降は適当に読み流した。
 学者センセイの本にしては全般的に言葉遣いも荒っぽく、私には充足感よりも違和感・不快感の残る本であった。
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by syunpo | 2009-10-19 23:12 | 犯罪学 | Trackback | Comments(0)