ブックラバー宣言


コラムニスト・吉本俊二の書評ブログです。
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カテゴリ:音楽( 24 )


ハーモニーを生きる〜『ピアニストは語る』

●ヴァレリー・アファナシエフ著『ピアニストは語る』/講談社/2016年9月発行

b0072887_9335287.jpg 旧ソ連からベルギーに亡命し、活躍を続ける世界的ピアニストが講談社現代新書のために語りおろした記録。アファナシエフは文筆家としても知られ、二〇〇一年に出たエッセイ集『音楽と文学の間』はとても面白く読んだ記憶が残っている。

 本書では、第一部で旧ソ連からベルギーに亡命するまでのドラマティックな半生を振り返る。第二部ではベートーヴェンへの新たな挑戦を具体例として、近年の演奏の変容を中心に彼の音楽に対する思索と実践を語っている。

 モスクワ音楽院での恩師ヤコブ・ザークとの屈折した師弟関係にまつわる回顧談がとりわけ興味深い。彼はある時、レッスン中のアファナシエフの楽譜に「呪われてあれ」と書きつけたという。「この言葉によって私がさらに強く鍛えあげられることを彼はもくろんでいたのです」。教師からは必要なものだけをもらえばよい。それがアファナシエフの考えであった。

 海外でのコンクール出場、コンサートツアーから亡命に至るまでの経緯もかなり生々しく語られていて映画化すれば面白かろうという内容だ。もっとも亡命後の西側での生活に関しては失望感もあったらしい。
「西側にも、これは日本も含めてですが、コマーシャリズムによる見えない巨大な検閲制度が存在していたのです」という批判は今さら珍しくもないけれど、アファナシエフの口から語られるとやはり重みは違ってくる。

 二〇一五年、アファナシエフはベートーヴェンの三曲のソナタ(『悲愴』『月光』『熱情』)を録音した。そこではハーモニーを重視する新たなアプローチを示したことで話題になった。

 私はいまハーモニーの意味について深く考えています。私の人生にとって、非常に重要な変化ですから、このことについてお話ししましょう。私はここ数年来、ハーモニーという面から、音楽を見つめ直すようになったのです……。(p155〜156)

 ……論理的にというよりも、ハーモニーに沿って多くを聴きとるということが重要です。すると、メロディーそのものが横に延ばされて、時間を拡張したハーモニーになってくる。演奏していると、そのようなことが起こるのです。これを感じとることができると、私ではなく、誰かべつの人が演奏しているように思えてくる。コンサートホール自体が演奏している感じです。これは大切な感覚で、そこから自分のすべきことに熟達していくのです。(p156)


 ハーモニー、メロディー、リズムの要素を、どのように一体のものとしてオーガナイズするのか、という問いには「ただ、ひたすら聴くことです。そして、フランス語の表現にいう『音に無理強いしない』こと。過剰にやりすぎない、音楽から外れない──これが私の信条です」。

 アファナシエフ自身が語った音楽論・文化論としては『音楽と文学の間』に収録されている浅田彰や小沼純一、川村二郎によるインタビューの方が私にはスリリングに感じられたが、自身の半生を回顧し、演奏の変遷をたどる談話として本書もまた意義深い本といえるだろう。
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by syunpo | 2016-10-30 09:36 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

恩人たちへの感謝〜『おわらない音楽』

●小澤征爾著『おわらない音楽 私の履歴書』/日本経済新聞出版社/2014年7月発行

b0072887_19365281.jpg 本書は日本経済新聞の〈私の履歴書〉に連載した文章に加筆修正をほどこしたものである。すでに新潮文庫に入っている『ボクの音楽武者修業』という自伝的な書物があり、当然ながら記述内容に重なる部分も少なくないのだが、本書では「恩人たちを紹介する」ことに重きが置かれているのが特長。

 世界的指揮者として活躍してきた小澤だけあって、音楽畑以外の「恩人」たちも錚々たる顔ぶれであることにあらためて驚かされる。日野原重明、小林秀雄、井上靖、イサム・ノグチ、広中平祐……。

 一九六〇年、ヨーロッパでの活動をあきらめて帰国を考えていた時に「どんなことがあっても、ここにいなさい」と助言してくれたのが井上靖で、その言葉がその後も心の支えになったという挿話はなかなか興味深い。「文学者の場合、外国の人に自分の作品を読んでもらうのは難しいことなんだ。ひどい時には会ったこともない人が翻訳する。音楽なら外国の人が聴いても翻訳なしで理解してくれるじゃないか……」

 音楽仲間との関係では、オペラについて助言をくれたクラウディオ・アバドやコンサート・キャラバンを一緒に始めたムスティスラフ・ロストロポーヴィチらにまつわる話が印象に残った。

 ただ本書はもっぱら社交上のエピソードが中心になっていて、内容的にはやや皮相的で薄味。文体の軽さもそのような読後感を強めている。功成り名遂げた音楽家としての含蓄豊かな文化論的な読み物を期待した私にはいささか物足りない感じがした。
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by syunpo | 2016-10-14 19:38 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

人体と宇宙のハーモニー〜『138億年の音楽史』

●浦久俊彦著『138億年の音楽史』/講談社/2016年7月発行

b0072887_20115081.jpg 音楽から世界をみるのではなく、世界から音楽をみる。ここに書かれてあるのは壮大な音楽のタペストリーである。音楽史はもちろん、宇宙物理学から数学、医学、生物学、考古学、キリスト教神学、政治学、哲学などなど様々な分野から知見を取り込んで、悠久の音楽史を浮かびあがらせる。

 ここでは娯楽とか芸術とか現代的な観点がひとまず括弧に括られ、政治的機能や権力との関係、他の学問分野との関連など、音楽の多面的な性質が万華鏡のように読者の前にあらわれる。著者はパリで音楽学、歴史社会学、哲学を学び、現在は文化芸術プロデューサーとして活躍している人物。並の音楽史研究者にはなし得ない力技といっていいだろう。

 音霊や言霊を媒介に「神との交感」として生まれた音楽の事始め。宇宙の調和と音の関係を考えたピュタゴラスのひらめき。古代の戦場で武器とともに活躍した太鼓やトランペットなどの楽器。古代中国における法としての音律。聖歌を教える苦労から記譜法の考案にいたった修道士の機知。……世界の歴史に刻印された音楽にまつわるエピソードにふれていると、まるで音楽のテーマパークを周遊しているような気分になってくる。

 感情の音楽としてオペラを捉え、それは同時代のデカルトの処女論文『音楽大要』の認識と軌を一にしていると指摘するくだりなどもなかなか勉強になるし、マックス・ウェーバーが『音楽社会学』の未完論文を残していたというのも初めて知った。

 ただし諸手をあげて人に薦めるには躊躇せざるをえない難点がいくつかある。まずブッキッシュな人の記述の常として、先人の著作からの引用が中心になっているので、内容が多彩な割には読み味がやや平板なこと。時に衒学的な匂いがするところも嫌味に感じられる。また現代における音楽と社会との関連を概観する最終章で、疑似科学的な挿話がいくつか紹介されているのも少し引っかかった。むろんそれらを差し引いても一読の価値はあると思う。
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by syunpo | 2016-10-01 20:13 | 音楽 | Trackback(1) | Comments(0)

搦め手から迫る〜『クラシックの核心』

●片山杜秀著『クラシックの核心 バッハからグールドまで』/河出書房新社/2014年3月発行

b0072887_1981957.jpg 片山杜秀とは私にとってはまず現代音楽の批評というジャンルで知ることになった名前である。ナクソス・レーベルのカタログに解説文なんかも書いていて、私などはその影響でCDを買ったりもした。政治学を専攻する学者であることを知ったのは少し後のことである。

 さて本書は編集者相手に問わず語りに喋った内容を一冊にまとめたもの。バッハ、モーツァルト、ショパン、ワーグナー、マーラー、フルトヴェングラー、カラヤン、カルロス・クライバー、グレン・グールド……と九人の作曲家・演奏家が俎上にのせられている。

 カラヤンもフルトヴェングラーも知らない人が入門書的な意味合いで手にとったならば、それなりの役目を果たす本かもしれない。しかし少しでもクラシック音楽に親しんできた読者には失礼ながら新味はほとんどない。どこかで聞いたような紋切型の論評もしくはそのヴァリエーションといった印象を大きく超えることはないのだ。「へそ曲がり」を自称する片山でも、スタンダードな音楽家を語ると批評の言葉もまたスタンダードになってしまうのか。カルロス・クライバー論など伝記的事実に基いて同じことを延々と喋っているだけで退屈極まりない。

 面白味があるとすれば、個人的な随想としての味わいとでもいえばよいか。たとえばテレビ番組との組み合わせで強烈にインプットされてしまった音楽体験(『レインボーマン』におけるバッハ《トッカータとフーガ》!)の懐旧談など、ほぼ同世代の私にも懐かしさを共有できる事例もあったりして、そういうくだりは楽しく読めた。
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by syunpo | 2016-05-01 19:12 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

演奏家はいかに楽譜を無視してきたか〜『クラシック魔の遊戯あるいは標題音楽の現象学』

●許光俊著『クラシック魔の遊戯あるいは標題音楽の現象学』/講談社/2014年2月発行

b0072887_22272620.jpg 大仰なタイトルが付けられているが、早い話が有名な標題音楽の録音聴き比べである。ありきたりの企画ながら類書と一線を画すところがあるとすれば、凡百の専業音楽評論家と違い、その書名からも推察されるように音楽の領域を超えた人文系教養を(ぎこちない身振りながらも)感じさせる点だろうか。プロローグで本書の試みをベンヤミンの翻訳論に準えることに始まって、ヴィヴァルディ《四季〜春》のカラヤンの演奏評にエドマンド・バークを引用してみたり、パイヤールを賞賛するのにフーコーの『性の歴史』を持ち出してみたり、あるいはスメタナの音楽を語るにサイードを参照してみたり。

 本書には全体をとおして貫かれている一つの認識がある。「演奏の歴史とはまったく驚くべきことに、演奏家がいかに楽譜を無視し、自分の感覚や想像力に従ってきたかという歴史である」という命題だ。演奏家の「感覚や想像力」を語ろうとするときに思想家たちの言説がふと紛れ込んだりするわけである。

 ヴィヴァルディ《四季〜春》、スメタナ《わが祖国〜モルダウ》、ベルリオーズ《幻想交響曲》、ムソルグスキー《展覧会の絵》のわずか四曲のCD聴き比べだけで、薄くはない一冊の選書を書いてみせた著者の饒舌には驚嘆すべきかもしれない。

 もっとも著者の「理念」を追求せんとする文章が読者を音楽の楽園へと向かわせる魔力を有しているかどうかは微妙である。オーケストラの特徴を論じるくだりなど紋切型に収まってしまう記述も多く、新たな感興を呼び起こすようなインパクトには欠ける。何よりも高みから演奏家を見下ろすような官僚的な書きぶりからは、書名に示されている「遊戯」の悦楽も恍惚も当然ながらほとんど伝わってこなかった。
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by syunpo | 2016-01-07 22:30 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

良い音楽を人にとどけるために〜『ラジオのこちら側で』

●ピーター・バラカン著『ラジオのこちら側で』/岩波書店/2013年1月発行

b0072887_1925160.jpg 穏やかな語り口ながら時に政治的な話題にも鋭いコメントを発して放送の世界で活躍しているピーター・バラカンの半生記とでもいえる本。編集者相手に問わず語りにしたものを文章にまとめたというスタイルである。個人的には深夜に放送していた《CBSドキュメント》でのキャスターぶりがいちばん印象に残っているのだけれど、本業の音楽番組に関してももちろん日本の音楽ファンに少なからぬ刺戟を与えてきたことは間違いないだろう。

 ピーター・バラカンの体験談は来日した一九七四年以降の日本のポピュラー音楽史の一端を浮き彫りにし、ひいてはメディア論や日本論にもなっていて、さりげない書き方のなかに傾聴に値する問題提起も含まれているように思われる。震災後の萎縮気味のメディアを捉えて「日本のメディア全体に、『インパクトを与えてはいけない』という抑制があり、写真や報道にその判断があらわれるのではないか、と感じるのです」と語っている点など一面の真理をついているように思う。本質的な批判にはあまり応えようとしないが、視聴者・聴取者からの感情的なクレームに対しては必要以上に敏感なことは私も業界でしばらく仕事をして感じさせられたことだ。

 もちろん異論もなくはない。日本での有料放送の伸び悩みについて「資本主義の社会では当たり前の事実ですが、視聴者、つまり消費者がお金を出さなければ、受けられるサービスの選択肢が増えないことに、まだ気付いていない人が多いようです」というのだが、それは逆立ちした見方だろう。日本ではわざわざお金を払ってまで見たいと思う番組があまり作られていないということではないのかな。
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by syunpo | 2014-11-06 19:35 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

人が集まって音楽をすること〜『オーケストラ再入門』

●小沼純一著『オーケストラ再入門』/平凡社/2012年8月発行

b0072887_991793.jpg オーケストラ入門ではなく、再入門となっているのがミソである。クラシック音楽を演奏する楽団にまつわるありがちな概説ではなく、ここではオーケストラが何よりも一つの〈場〉として捉えられている。端的にいえば「大勢の人が集まって音楽をする」ことをめぐって自在に記述された書物といえようか。

 むろんヨーロッパ近代にひとまずの完成形をみたオーケストラに関する歴史的経緯に多くの紙幅が割かれてはいる。西欧列強の帝国主義化とオーケストラの拡大に相関関係をみるのは型どおりだ。が、雅楽やガムランの楽団、ジャズオーケストラやYMOなど、いかにも著者らしく様々なジャンルに目配りしているのが本書の大きな特長となっている。

 日本の大都市圏におけるオーケストラへの補助金の削減などの事例を引きつつ「オーケストラなるものへの無関心、無理解は、とりあえず十八世紀以降につくられてきた、個人個人が参加して社会を成り立たせてゆくありようへの危機であるように考えるのは無理があるでしょうか」と問いかける本書の問題提起は示唆にみちている。
 記述がいささかカタログ的でとくに目新しいことが書かれているわけではないけれど、入門書としては充分におつりのくる内容だと思う。
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by syunpo | 2012-08-31 09:14 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

心の響きを求めて〜『小澤征爾さんと、音楽について話をする』

●小澤征爾、村上春樹著『小澤征爾さんと、音楽について話をする』/新潮社/2011年11月発行

b0072887_19204899.jpg 小澤征爾の対談集はこれまでいくつも出ている。武満徹との『音楽』、広中平祐との『やわらかな心をもつ』、大江健三郎との『同じ年に生まれて』。いずれもおもしろい本。本書が既刊書と異なるのは相手の村上春樹が聞き役に徹していて対談というよりもインタビュー的にまとめられている点だ。

 村上はクラシック音楽にもことのほか造詣が深い。小澤の口にする固有名詞にも逐一的確な反応を示していくので、対話は大いに弾んでいく。ベートーヴェンのピアノ協奏曲第三番の演奏論やマーラーをめぐるかなり突っ込んだ話があるかと思うと「タクトを振るのってむずかしいんですか?」というような素朴にすぎる質問にも小澤は誠実に対応する。小澤の音楽観や楽屋話がざっくばらんに語られていて愉しい本である。
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by syunpo | 2011-12-08 19:25 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

映画は音楽である〜『映像から音を削る』

●武満徹著『映像から音を削る 武満徹映画エッセイ集』/清流出版/2011年9月発行

b0072887_18443158.jpg 武満徹は無類のシネフィルであったと同時に映画音楽の仕事にも積極的に参画した。映画に関する著作としては『夢の引用』と蓮實重彦との対談集『シネマの快楽』を遺している。本書は映画について記したエッセイを中心に編んだもので、単行本未収録のエッセイも少なからず含まれている。

 武満の映画論・音楽論は時に紋切型に陥っている印象もなくはないけれど、読むうちにいつしか武満独特の語りのリズムに引き込まれていく。
 武満は文化の多様性を称揚したが、みずからの態度のうちにも多義性を孕ませてやまない。音楽は聴けばそれでよいはずだと思う一方で、音楽について言葉で語り続ける自分の矛盾した態度を自覚している。テレビ番組が音響を垂れ流していることに強い懸念を示しながらも、その可能性について言及することも忘れない。

 「映画は音楽であるがゆえに好きだ」と言う武満の映画音楽に対する考え方は書名に凝縮されている。その心は以下の引用でさらに鮮明になることだろう。

 無音のラッシュ(未編集の撮影済みフィルム)から、私に、音楽や響きが聴こえてくることがある。観る側の想像力に激しく迫ってくるような、濃い内容を秘めた豊かな映像に対して、さらに音楽で厚化粧をほどこすのは良いことではないだろう。観客のひとりひとりに、元々その映画に聴こえている純粋な響きを伝えるために、幾分それを扶けるものとして音楽を挿れる。むしろ、私は、映画に音楽を付け加えるというより、映画から音を削るということの方を大事に考えている。(p181)
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by syunpo | 2011-10-27 18:48 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

舞台で倒れるのが理想なんて思わないんだよね〜『高橋悠治対談選』

●小沼純一編『高橋悠治対談選』/筑摩書房/2010年5月発行

b0072887_1831731.jpg 同じ編者による『武満徹対談選』も良い本だった。本書も音楽家の対談集としては出色の面白さである。対談相手がバラエティに富んでいる。山口昌男、村上陽一郎、権代敦彦、ピエール・ブーレーズ、柴田南雄、三善晃、尹伊桑、ルイジ・ノーノ、丸谷才一、高史明、鎌田慧、武満徹、浅田彰、長沢哲、渡辺裕。

 安易に話を合わせようとせず、遠慮なく相手に異論をぶつけていく高橋悠治の姿勢は、対話を時に活気づけ、時に停滞させる。良き合いの手にもなれば、シラケた空気を醸しもする。
 ブーレーズとの対論では、そのような高橋の姿勢が二人の間に良き緊張感をもたらして、丁々発止の対話を実現させた。ノーノとの対話になると相手をさらにいきり立たせ、対話というよりも独演会のような語りへと導いた。言語活動もまた一つの表現であり、パフォーマンスでもあるということがここに体現されているかのようだ。

 「武満徹の音楽の解釈者として演奏するのか、あるいは、武満のスコアを一種の台本のように使って高橋悠治の音楽をやるのか」と権代に問われて「『高橋悠治の音楽をやる』のはよくない。それは自分のアイデンティティを押し付けることだし、そうすることで、自分のアイデンティティも決まってしまう。だから『武満の音楽から何が発見できるか』をやる、ということだと思うね」と答える。

 鎌田慧との対話では「自分が変革されていく場というのを、どこに設定するんですか」との素朴な問いに「やはり共同作業の場じゃないかしらね。音楽のなかでも共同作業があるでしょう。もう作曲家が楽譜を書いて、演奏家に渡せば終わりという時代じゃないわけね」と応じている。

 かつてコンピュータを駆使して音楽活動を行なっていた時、プログラミングまで自分でやっていたことを指摘された時には「だから、やっぱりそれがいけなかったのよ。自分ひとりで全部やろうというのは、権力志向ですよ。あらゆる細部まで管理しようということだから」と自省的に振り返る。

 こうして高橋の言葉を並べてみると、高橋は何かを断定的に表現したり、何かを管理しようとしたりすることを極力回避してきた音楽家といえるかもしれない。そこがまた「どこにも回収されない異物」(浅田彰)として存在感を醸し出している所以でもあるのだろう。
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by syunpo | 2011-07-13 18:45 | 音楽 | Trackback | Comments(0)