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素朴な疑問から始まるアート体験〜『美術ってなあに?』

●スージー・ホッジ著『美術ってなあに? “なぜ?”から広がるアートの世界』(小林美幸訳)/河出書房新社/2017年9月発行

b0072887_9444928.jpg 目も鼻もない棒みたいな人の絵が、なんでアートなの?
 アートってどうしてはだかの人だらけなの?
 頭がよくないと、アートのすばらしさはわからないの?

 素朴な疑問を見出しに掲げ、それに答えていくというスタイルで、美術の楽しさ面白さを伝える──作り手たちの美術への愛情が伝わってくるような楽しいアート入門書である。原書はイギリスで刊行され、すでに世界十五カ国語に翻訳されたという。

 ちなみに「アートってどうしてはだかの人だらけなの?」という疑問には「『はだかは美しいもので、芸術作品として鑑賞するのにふさわしい』と考えていた」という古代ギリシャ人の考えを提示して、今日の人体デッサンへと話をすすめていく。例示されている作品はボッティチェリの《ヴィーナスの誕生》だが、それには「美術の世界では、はだかは “新しい命” を表現している場合が多い」との解説も加えられる。

 明快な解説文と工夫を凝らした構成は、大人の初心者が読んでも楽しく学習できる本に仕立てている。古典作品にかぎらず現代アートにもたくさん言及しているのも好ましいし、スーラやシニャックらの点描図法を解説しているページに草間彌生の水玉の作品を並べるセンスもおもしろい。

 ただし疑問符をつけたい記述も。デュシャンの《泉》に関して「新たな視点」で物事を見ることの重要性を言うのは良いとしても「(デュシャンは)芸術的なテクニックよりも独創的なアイディアのほうが価値があるとみとめてほしかった」とするコメントはいささか凡庸で、デュシャンの問題提起を矮小化しているように感じられなくもない。
 また芸術が担ってきた負の側面(公権力者への奉仕、古いイデオロギーの固定化など)には目を瞑って、肯定的な面ばかりを押し出した記述にも改善の余地はあるように思われる。

 むろんそうした点をあげつらって本書の価値を貶めるつもりは毛頭ない。何だかんだいっても美術作品に触れる喜びは格別のものであるし、美術館は愉しい空間である。一人でも多くの人が本書をとおしてアートの楽しさを感じ取ることができれば一美術愛好者として私もうれしく思う。
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by syunpo | 2017-12-30 09:45 | 美術 | Trackback | Comments(0)

非難の声とともに美術史の歯車は回転する〜『近代絵画史 増補版』

●高階秀爾著『近代絵画史(上)増補版 ロマン主義、印象派、ゴッホ』『近代絵画史(下)増補版 世紀末絵画、ピカソ、シュルレアリスム』/中央公論新社/2017年9月発行

b0072887_18535790.jpg 高階秀爾といえば西洋美術の通史を学ぼうと思った人なら必ず見聞する名前だろう。上下巻から成る本書は、ロマン派から第二次世界大戦までにいたる「近代絵画」の歴史を主要な画家や芸術運動の事跡をたどりながら記述したものである。初版は一九七五年に刊行されたが、新たな研究で明らかになった史実や作品の基本的情報について必要な補訂を施したほか、掲載図版をすべてカラーにしたのが増補の主な内容。

 上巻ではロマン派からナビ派まで、下巻では世紀末絵画から抽象絵画へと至る道筋をふりかえる。通常、近代絵画を語る場合には印象派から始めることが多い。しかし本書のスタンスは違う。

 ルドルフ・ツァイトラーは、一九世紀とは「様式」という概念が通用しなくなった時代だと規定した。芸術家たちは形式上の統一性よりも、自己の個性と内面性と主観性を追求するようになったからである。ならば近代絵画の出発点をロマン派の時代にまでさかのぼる必要があると高階秀爾はいう。「個性の追求といい、内面性、主観性の表現というものは、何よりもまずロマン派の画家たちが求めたものだからである」。ヴィクトール・ユゴーがロマン主義を「遅れてきたフランス革命」だと定義したこともこの文脈において極めて示唆的である。

 ゆえに本書では「近代絵画史」をロマン派から語り起こすのである。ゴヤはその意味で近代絵画の先駆者であった。宮廷画家から告発者的な作品を経て「黒い絵」に至る道程は、近代の夜明けが直面した矛盾や葛藤を体現していたからである。

 その後につづくターナー、コンスタブルの風景画と近代性との関連を考察するくだりも興味深いし、コンスタブルの風景画は印象派に強い影響を与えたという指摘も重要だろう。

 もっともデカルト以来の普遍的な理性に対する信仰は、新古典主義に顕著にみられるものであった。フランスにおける新古典主義の総帥ダヴィッドは「芸術家は哲学者であらねばならない」と考えていたらしい。

 それに対してロマン派の「近代性」はいささかスタンスが異なる。

 ……ロマン派は、理性に対しては感受性を、デッサンに対しては色彩を、安定した静けさに対してはダイナミックな激しさを、普遍的な美に対しては民族や芸術家の個性を、優位に置いた。つまり、ひと言で言えば、「古代」に対して「近代」を主張したのである。(p44)

 ロマン派、新古典主義と近代思想との連関は、高階の見立てによればいささか錯綜しているというか一筋縄ではいかないように感じられる。それもまた歴史のおもしろいところではあるだろうが。

 写実主義の観点からはもっぱらコローが重点的に論じられている。「富も名誉も求めず、ただひたすら自然の歌を歌い続けたコローは、その長い生涯のあいだに、フランス絵画を新古典派から印象派の入口まで、いつの間にか持ってきてしまった」という。

 そして、クールベ、マネ、ドガの登場となれば、そのモティーフからいってもより近代絵画らしくなってくる。もちろん高階はマネについて近代的な風俗を超えたところに魅力のありかを見出している。「われわれが今日マネの作品に惹かれるのは、それが第二帝政や第三共和制時代の風俗を伝えてくれるからではなくて、色彩と形態による詩の世界が歌い上げられているからである」と。

 そうして印象派の時代が到来する。いうまでもなくこれは美術史における画期的な出来事であった。印象派に関しては新印象派を含めてかなりの紙幅を費やしているのは当然だろう。筆触分割などの技術的な問題を論じたうえで「印象派によって色彩は「解放」され「自律性」を与えられたのである」と論じるくだりが文字どおり印象に残った。
 さらに印象派はその運動の後期の過程において、みずからを否定するような動向を示した点で美術史のダイナミズムを感じさせる。

 ……一八八六年の第八回印象派グループ展は、形式的には印象派の最後の展覧会であったが、実質的には、「反印象派」の最初のマニフェストであったと言ってよい。(p162)

 印象派の美学の影響のもとに育ったゴーギャン、ゴッホ、ルドンらは、やがて反印象派ともいうべき方向へと舵を切る。眼に見える世界をそのまま再現するだけでなく、眼に見えない世界、内面の世界にまで探求の眼を向ける。象徴主義と括られる傾向である。

 その後に登場したナビ派も、画面を「自然に向かって開かれた窓」たらしめようとした印象主義に反対して、自然とは別の画面それ自体の秩序を求めたゴーギャンの考えをそのまま受け継ぐものであった。
 モーリス・ドニの絵画の定義はそれを端的に表現している。すなわち「絵画作品とは、裸婦とか、戦場の馬とか、その他何らかの逸話的なものである前に、本質的に、ある一定の秩序のもとに集められた色彩によって覆われた平坦な表面である」と考えたのである。

 魂に形を与えることを志向したドラクロワらのロマン主義から、目に見えるものだけを描く印象派へ、そして再び内面の世界の探求を旨とする象徴主義へ。 ……こうした流れをみていると、近代における西洋絵画の歴史は行きつ戻りつしながら今日へと至ったことがよくわかる。

b0072887_18542780.jpg 下巻では世紀末の絵画の概説から始まる。
 西洋絵画の世紀末は「ヨーロッパ全体が二十世紀になだれこもうとする豊かな混乱と胎動の時代」であった。そのなかでは、セザンヌ礼賛で知られるモーリス・ドニやルドンらの名前を挙げることができる。

 ドイツ表現主義は、二〇世紀初頭に顕著になった芸術動向を指すが、高階はもともとドイツでは表現主義的傾向が強く存在したことを指摘することを忘れない。ただしそうした傾向を「民族的性格」と規定する安直な記述には疑問が残るけれども。

 同じ頃、フランスでも表現主義的な傾向を示していた。フォーヴィスムはその一つのあらわれである。マティスをはじめヴラマンク、ドラン、ルオーらが活躍した時代である。もっともフォーヴィスムはあくまでも純粋な造形芸術運動であったという点で、ドイツ表現主義とは異なるものであった。

 ついでピカソ、ブラック、レジェ、グリスらによるキュビスムの時代がおとずれる。

 ……キュビスムがなしとげた変革は、単に表現様式上のものというよりも、もっと深く人間の世界認識にかかわることであった。統一的な視覚像の崩壊は、とりもなおさず画家の視点の持つ特権的な位置の否定を意味するものであり、人間中心の世界から対象中心の世界への移行を予告するものであった。(p96)

 アンリ・ルソーは一般に素朴派の代表格と目される。先行者の絵画との格闘ぶりをふりかえるならば、なるほど一見したかぎりでは素朴な印象を受ける。しかし今日的な視点からみると、写実主義の破産の後に台頭し、画家自身の「心の状態」を反映した画風はキュビスムの映像世界とも結びつくなど、素朴なる概念だけでは捉えきれない美術史的にも極めて意義深い存在であることは疑いえない。

 ルソーの心酔者であったアポリネールが、シャガールのなかにも同様の詩的世界を見出したことは注目に値する。当時のパリにはさらにモディリアーニ、パスキン、キスリングら錚々たる顔ぶれが集まってくる。こうしてエコール・ド・パリの時代が花開く。多くの才能がパリに集まったこの時代は、芸術の都の名にふさわしい様相を呈していたというべきかもしれない。

 機械文明への賛美を始めたのは未来派である。

 機械文明の勝利を造形表現の上においても確認しようとするこの未来派の運動は、ある意味で、産業革命以後十九世紀を通じて積み重ねられてきた科学技術の発展の当然の帰結であったとも言える。(p142)

 しかしながら、まもなくそれに反発する人々もあらわれる。ダダイズムである。詩人たちを中心にして始まったその運動は、ピカビアとデュシャンが登場するに及んで美術史においても一つの運動として明確な形をとるようになった。それは「大胆に既成の価値を否定しながら、同時に現代文明に向かって、痛烈な批判を投げかけるものであった」。

 ダダの運動に参加した人たちのなかから、シュルレアリスムの担い手があらわれる。偶然性の利用やオートマティスムなど、後にシュルレアリストたちが好んで用いる手法は、実はいずれもダダの仲間たちによって試みられていたものであったという。

 ドイツにうまれたバウハウスも近代美術史において軽視できないものである。それを主導したグロピウスの基本的な意図は「社会からあまりにも遊離してしまった芸術活動をふたたび社会のなかに正しく位置づけようとする」ものであった。

 そしてついに人類の絵画は抽象絵画の時代へと突入する。「純粋な色と線との純粋な関係」こそが「純粋な美」と考えたモンドリアンの考え方に、現代の抽象絵画の理念が詰まっているといえるのかもしれない。

 想像力をキーワードにして、ロマン派から象徴派へ、そしてシュルレアリスムへと進む美術史の流れを簡潔に語る本書の記述は一つの確かな美術史といっていいのだろう。それにしても印象派もフォーヴィスムもキュビスムも、それが始まったときにはいずれも激しい非難や嘲笑を浴びたという史実の繰り返しはまことに興味深い。

 芸術上のあらゆる創作は文脈依存性を有する、と言ったのは古典作品のパロディで知られる森村泰昌である。そういう意味では作品を鑑賞することと美術史の学習とは切り離せない。難解といわれる現代の抽象画でも、美術史を学ぶことでより親近感をもって鑑賞できるようになるのではないかと思う。美術史を学ぶこともまた知的な悦楽である。
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by syunpo | 2017-12-15 19:10 | 美術 | Trackback | Comments(0)

印象派と日本美術的な感性〜『モネのあしあと』

●原田マハ著『モネのあしあと 私の印象派鑑賞術』/幻冬舎/2016年11月発行

b0072887_18235110.jpg 本書はアートを主題にした作品で知られる作家の原田マハの講演記録に加筆修正したもの。モネに魅せられた原田がモネの魅力を存分に語っている。個人的なモネとの出会いの回想にはじまって、モネの生涯、彼が生きた時代の背景、印象派の美術史的な意義づけなどを要領良く解説していく。

 話の内容は、日本の浮世絵からの影響やチューブ入り絵の具の開発と風景画との関連など、毎度おなじみのもので特に斬新な視点が打ち出されているわけではない。ただ個展というスタイルの展覧会を始めたのがニューヨークにおけるモネ展だったというのは初めて知った。

 原田は「草や花を、命が宿っているように」描いている点に日本人との共通の感覚を見出し、「ひょっとしたらモネが感じ取って作品に表現しようとしていることを、私たちはモネ以上にキャッチしている、そんなふうに思えてならないのです」と締めくくっている。印象派絵画の日本での人気はよく指摘されるところだが、睡蓮を一つのモチーフとして描いたモネはことのほか日本人の感性と親和性が高いといえるのかもしれない。

 末尾にはモネを収蔵するミュージアムについての一覧も付されており、実際的な情報も含まれている。初心者にとってはモネ鑑賞の指南書として有益な本といえるだろう。
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by syunpo | 2016-12-22 18:32 | 美術 | Trackback | Comments(0)

人間の営みを結びつける架け橋〜『虹の西洋美術史』

●岡田温司著『虹の西洋美術史』/筑摩書房/2012年12月発行

b0072887_1131443.jpg 虹は西洋の絵画史において繰り返し描かれてきた。神話や宗教の恰好の題材となってきたと同時に、気象学や光学、色彩学、生理学など諸科学によって解明される対象でもあった。「虹はまさに、神話と宗教と科学と芸術という、人間の主要な営みを結びつける架け橋なのである」。

 美術史的にみると絵画に描かれる虹は様々なことがらを象徴したり暗示したりしてきた。その変遷をたどると、なるほど人類が真理と美をめぐって試行錯誤してきた歴史の一端が浮かびあがってくるようにも思われる。

 ノアの方舟をモチーフにした絵に登場する虹は「繰り返される天災に直面した人間の、救済への願いと希望を象徴している」という。
『黙示録』の虹は、神々しくてかつ畏怖の念を抱かせるもの、神秘的でかつ驚異に満ちあふれているものとしてあらわれる。虹が崇高なるものと結びつくようになるのは、主に十八世紀のロマン主義においてであるが、その起源のひとつは黙示録的な虹のイメージにあった。

 ギリシア・ローマ神話のなかに出てくる虹の女神イリスは、天上と地上を橋渡しする存在であり、絵画にもたびたび描かれるところとなった。またルネサンスの時代には虹は芸術の霊感源でもあった。
 肖像画にも虹はあらわれる。エリザベス女王の肖像画に描かれた虹は権力のシンボルであり、ルイ十四世の公妾の肖像画に描かれた虹は美とはかなさの象徴といえる。

 ルーベンスの《虹のある風景》は、色の基本原理を示すものであったと同時に人間の歓びや幸福、自然の恵みの象徴でもあった。
 イギリスの風景画にあらわれる虹はどうであろうか。たとえばターナーにとって虹は、詩人ワーズワースにとってそうだったように、自然の神秘と力と美しさの象徴である。しかし反対に空しさやはかなさの象徴ともなった。

 刻々と変化する陽光の効果を生の色彩によってとらえようとした印象派の作品には意外と虹を描いたものはかぎられているらしい。「印象派の絵においては、画面の全体がいわば虹のような効果を醸し出しているため、あえて虹そのものを描こうという発想にはならなかったのではないか」という。

 二十世紀の前衛的絵画でも虹は重要なモチーフになっている。カンディンスキーやマルクの作品群においてそれは顕著である。

 虹は古来より天上と地上、見えない世界と見える世界、精神的なものと物質的なものとを結びつけてきた。二十世紀の前衛画家カンディンスキーやマルクが革新的な手法によって好んで描きだした虹には、それにもかかわらず、こうした虹の伝統がしっかりと息づいているように、わたしには思われる。(p194)

 ところで、虹の色は美術史上の最初期には三色に描かれた。アリストテレスの『気象論』における虹の記述が後世まで多大な影響を与えたものと考えられる。その後、ニュートーンは『光学』において光の七つのスペクトルを提起した。これを受けて、たとえばアンジェリカ・カウフマンの《絵画》の虹は七色に描かれることとなった。

 美術と科学とは常に影響や刺激を与えあってきた。それは虹の描き方ひとつとってみてもうかがうことができる。そうして画家たちは虹に託して人間世界の様々な様相をとらえようとしてきたのである。
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by syunpo | 2016-12-11 11:07 | 美術 | Trackback | Comments(0)

作家を買い、時代を買う〜『現代美術コレクター』

●高橋龍太郎著『現代美術コレクター』/講談社/2016年10月発行

b0072887_9374333.jpg 精神科医である高橋龍太郎は現代アートのコレクターとしても知られる。草間彌生、森山大道、会田誠、山口晃、村上隆、奈良美智、横尾忠則、森村泰昌など所蔵作品は約二千点にも及ぶ。高橋コレクション展は独立の企画展として何度も開催されているほどだ。

 高橋はアート作品を購入する喜びを率直に書きしるす。初めて草間彌生の作品を買ったときにはひとつの絵が自分を「祝福」し「興奮」を与えてくれたと述懐するのだが、それは単に「鑑賞」するだけではもたらされることのない喜びであるらしい。後段では作品購入を異性と付き合うことになぞらえたりしていて、自らの俗物根性(?)を隠そうとはしない。コレクション展に来訪してくれた安倍首相を表敬訪問し、現代アート振興をお願いしたこともあるのだという。

 日本の現代アートの特色を「ネオテニー」「マインドフルネス」「なぞらえ(ミラーニューロン)」などのキーワードで語るくだりが私にはいちばんおもしろかったけれど、ことさらに「日本」ばかりを意識している点には引っかかった。そもそも最初から特定の国のアートに肩入れするのは「マインドフルネス」の態度とは相容れないだろう。著者の現代アートにかける情熱には敬服するに吝かではないが、それを国家間の「闘い」と煽る姿勢には共感できない。自分を感動に導いてくれる作品の作者が日本人だろうが外国人だろうが、私にはどうでもいいことである。
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by syunpo | 2016-11-23 09:38 | 美術 | Trackback | Comments(0)

「下手くそ」だから面白い!?〜『ヘンな日本美術史』

●山口晃著『ヘンな日本美術史』/祥伝社/2012年11月発行

b0072887_912880.jpg 小林秀雄賞を受賞したということもあって手にとってみたのだが、いささか期待ハズレだった。肝心な部分の語彙が如何せん貧困かつ凡庸で「ヘンな美術史」を標榜するならもっと弾けた語彙を駆使してほしいところ。江戸末期から明治初期にかけて活躍した三人の画家(河鍋暁斎、月岡芳年、川村清雄)に再評価を試みる最終章も漱石から〈内発性/外発性〉という概念を借用してきているのだが、訴求力は今ひとつだ。

 とはいえまったく退屈したというわけでもない。たとえば有名な《鳥獣戯画》においては近代以降の絵画では前提となる「作家性」、もっと単純にいえば絵の著作者に関しては「どうでもいいと考えられて」いたらしく、その成り立ちについて語るくだりは興味深い。また雪舟の絵の顔をキュビズムになぞらえたり、長徳寺の六道絵をヘンリー・ダーガーと並べてみたり、著者ならではの「ヘンな」視点が記述に活気をもたらしている箇所もあることは書き添えておこう。
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by syunpo | 2016-04-10 09:18 | 美術 | Trackback | Comments(0)

鑑賞のためのよき手引き書〜『浮世絵』

●大久保純一著『浮世絵』/岩波書店/2008年11月発行

b0072887_18515975.jpg 浮世絵版画を鑑賞するための手引のような本。浮世絵の歴史、浮世絵における多彩なジャンル、図像の読み解き方、制作過程や彫り・摺りの技法などについてわかりやすく解説している。

 浮世絵が今日的な美術作品というよりも、今日のブロマイド写真のような庶民的な機能をもっていたこと、さらには報道的な役割をも担っていたという史実からは、浮世絵の大衆的・多面的な性格が浮かびあがってくる。今日ミュージアムで仰々しく展観されるような作品鑑賞のあり方が浮世絵のコンセプトに適ったことなのかどうか。

 江戸時代には子供でも充分に見る機会のあった浮世絵が絵葉書にその座を譲ったという指摘も、メディア史的観点から興味がそそられるものである。

 近年の研究では、絵双紙屋の店頭で錦絵にとってかわったのは、日露戦争後にブームとなった絵葉書であるとされる。……絵葉書という写真技術と新しい印刷技術とを用いたメディアに席を譲らざるをえなかったとみることもできるだろう。(p30~31)

 何はともあれ本書を読むと浮世絵の何気ない表現のなかにも絵師や摺り師たちの知恵と工夫がこめられていることがわかるし、写真ではよくわからない「空摺り」の技巧について知れば実物への関心がいっそう喚起されるだろう。著者は国立歴史民俗博物館研究部教授。カラー図版も数多く掲載されていて、入門書としてはとても良く出来た本だと思う。
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by syunpo | 2014-03-28 19:01 | 美術 | Trackback | Comments(0)

芸術から遠く離れて〜『反アート入門』

●椹木野衣著『反アート入門』/幻冬舎/2010年6月発行

b0072887_19583288.jpg〈反(=アンチ)〉を唱える身振りによって、そのジャンルは延命をはかっていく。それはアートの諸分野に限らず、文学の領域でも政治勢力においても日常的に観察しうるありふれた光景である。本書にみえる〈反〉の態度もまたしかり。細部にキラリと光るフレーズもなくはないが、基本姿勢においては一つの紋切型の反復であり、その意味では退屈な本である。

 しかもこの退屈さと戯れようにも論旨があまりにも混乱しすぎている。たとえば美術作品が投機の対象として隆盛している現状を概観した後、美術作品と貨幣経済との関係を経済学のタームを駆使して壮大に論じるという大立ち回りを演じたうえで、椹木は「いまアートの世界で起こっていることは芸術の堕落ではなく、それがもともと持つ野性が、思うがままに解き放たれた生の状態」と大見得を切る。そうであるならば、これからも村上隆や奈良美智のような市場価値満点の作品を愛でて芸術の野性あふるる「生の状態」を謳歌すればよろしいはずである。

 ところが最終章にいたって、椹木は芸術の現状に不満を示し、その行く末を深刻に憂えている様子なのだ。しかも問題がすっかり通俗化された形で。

 現在の社会は、政治・経済の難問に始まり、環境破壊、疫病の蔓延、戦争の恒常化、そして生活のこまごましとした次元に至るまで、解決がむずかしく先行きの見えない多くの問題を抱えています。元来であれば、こうした閉塞状況に希望や新しい可能性を兆すのがアートの役割であるはずです。けれども現在のアートは、そうした答えを持っていません。(p245)

 政治・経済の難問や環境破壊などの課題に明解な「答え」を示したアート作品が過去にあったというなら、それは具体的に誰の何という作品なのか是非知りたいと思うが、それに言及した箇所は残念ながらみつからない。そもそも経済の難問も環境破壊も端的に資本主義下での貨幣経済が生み出しているものなのだから、「芸術作品と貨幣経済とは元来は同じもの」だったという認識に同意を示している論者が芸術作品に答えを期待することじたいがマヌケというものだろう。
 もっとも椹木自身はみずからの現状認識に含まれる矛盾した態度には触れることなく、ハイデッガーを引用して「即座に有効な処方箋を求める渇望自体が、問題を抱えた社会に固有の特徴」だとして「思索の余裕」を取り戻すべきだと陳腐な「答え」で片付けている。

 では、何が問題なのか。
 続いて椹木は「アートや芸術の復興」について問いかけ、さらに後段では「日本ではアートが社会に根づく余地はないのでしょうか」とも思案している。

 それらの問題に対しても参照されるのはハイデッガーだ。彼の「隠れ・なさ」なる概念に着目して、それを柳宗悦の「民藝」運動や水墨画・禅画などに見出そうとする。しかしすでに東西の多くの論者によって言及されてきた東洋的な美術を引っ張り出してきて西洋哲学風味の理論で再武装を図ったところで、いやそれゆえに、オリエンタリズムの紋切型をオリエント側から反復することにしかなるまい。
 もとより不思議なのは、本文において椹木自身が明確に繰り返し採用している「西洋/東洋」という議論の図式について、〈あとがき〉では「いまやほとんど意味をなさない枠組」とみずから無効を宣言していることだ。

「アートが社会に根づく」ことを妨げているのは、何よりもこういうアカデミズムの意匠をまとった支離滅裂な言説ではないか。本書の壮大な空転ぶりに現代美術批評の混迷の一端が「あらわれ」ているように思う。
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by syunpo | 2013-03-07 20:06 | 美術 | Trackback | Comments(0)

時代を再生させる対話の火花!?〜『なにものかへのレクイエム』

●森村泰昌著『対談集 なにものかへのレクイエム 二〇世紀を思考する』/岩波書店/2011年10月発行

b0072887_1983120.jpg 森村泰昌は二〇一〇年から二〇一一年にかけて〈なにものかへのレクエイム/戦場の頂上の芸術〉展を開いた。本書はその個展にあわせて行なった対談をまとめたものである。対談相手は、鈴木邦男・福岡伸一・平野啓一郎・上野千鶴子・藤原帰一・やなぎみわ・高橋源一郎。なかなかバラエティに富んだ顔ぶれだ。

 特定の展覧会にちなんだ対談ではあるけれど、そこにはおのずと森村の芸術そのものに対する態度や認識が随所ににじみでる。話し相手が様々なジャンルから選ばれたこともあって、多角的に美術家・森村の像が浮きあがってくるような対談集となっている。

 森村の作品にはパロディ的なものが多い。それは上野によって「ハイコンテクスト性」「文脈依存性」と言い換えられるわけだが、それに対して森村は「ハイコンテクスト性のないものはない」と言い切る。芸術上のあらゆる創作は文脈依存性を有する、それが程度の差としてあらわれるにすぎないというわけだ。
 古いものを懐かしんで「昔はよかった」と懐古するわけでもなく、新しい時代の新しいイメージに追随するのでもない。「古いものと新しいものとの新しい関係を見出すことによって、何かを産み出す」こと。森村が目指すのはそういうものである。

 高橋源一郎との対談で森村が大震災後の「シンプル」な言葉の氾濫に異議を唱えているくだりも興味深い。「頑張れニッポン」「社会貢献」「いま私たちに何ができるか」……震災後にあふれた紋切型のフレーズ。イエスかノーかが端的に問われてしまうような風潮に対して「それは本当にあなたの言葉なんですか」と問いかける。

 音楽でも美術でも、芸術は人を勇気づけるようなものじゃないとぼくは思っています。「頑張れニッポン」じゃないと思うし、「頑張れキミ」でもない。「私が悪うございました」ってひたすら謝ることに徹するのは芸術の本分じゃないかな。(p179〜180)

 「正しさへの同調圧力」に抗う姿勢を隠そうとしない森村の一見自虐的な言葉に美術家としての矜持を見る思いがした。
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by syunpo | 2012-07-02 19:21 | 美術 | Trackback | Comments(0)

天才アーティストの魂の軌跡〜『無限の網』

●草間彌生著『無限の網 草間彌生自伝』/新潮社/2012年4月発行

b0072887_10472538.jpg 水玉と網目模様。反復と増殖。一見単調なモチーフの繰り返しの中に人間の不安と癒しとが共存しているかのような独特の世界が見えてくる。この不思議なクサマ・ワールドはいかにして形成されてきたのか。みずからの芸術観を語る草間自身の言葉はところどころ紋切型におさまっているようにも感じられるが、それでもやはり一気に読まされてしまう。
 現代において心身の病いを彼女ほど切実かつポジティブに創作活動に昇華しえた例を私は他に知らない。二〇一二年一月から四月にかけて大阪で開催され、その後各地を巡回している《草間彌生 永遠の永遠の永遠》展も並外れた創造力を感じさせるものだ。

 ところで本書には自身の作品に関する批評家のコメントが随所に引用されている。前衛アーティストとして自由奔放に創作活動を続けてきた草間の自伝としてはいささか意外に感じられないでもない。しかし幼少の頃から母には絵を描くことを禁じられ、時には罵詈雑言を浴び、また米国での活動を扇情的に報じる日本のメディア報道をもとに母校の同窓会除名の署名運動まで起こされたという草間にとって、他者から承認を得ることはやはり重要なことだったのだろう。

 いつも私を元気づけていた 君のやさしさに打ちのめされて
 心の底から私は「幸福への願望」を道づれに
 探し求めてきたのだった
 それは「愛」という姿なのだ
 (p270、「落涙の居城に住みて」)

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by syunpo | 2012-06-20 10:52 | 美術 | Trackback | Comments(0)