カテゴリ:経済( 27 )

「蒐集」の歴史のあと〜『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』

●水野和夫著『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』/集英社/2017年5月発行

b0072887_1942698.jpg 資本主義の破綻。国民国家の機能不全。……それらは無関係に生じているのではない。国民国家の基盤である、五〇〇年続いた近代システムそのものが、八〇〇年の資本主義とともに終わりを迎えつつある。これが本書の基本認識である。

 では、新たな時代にはいかなるシステムや社会形態が望ましいのか。エコノミスト・水野和夫は、歴史的な視点をもとに経済学の垣根を超えた知的成果に立脚して、近未来への道標を提示しようとする。

 人類史を読み説くうえでの本書のキーワードは「蒐集」。英国の歴史家、ジョン・エルスナーとロジャー・カーディナルが「社会秩序それ自体が本質的に蒐集的」と述べたことに基づいている。
 水野によれば、現代は蒐集することが限界にいたった時代である。フロンティアはもう地球上には残っていない。すなわち「五〇〇〇年も続いた『蒐集』の歴史の終わり」のときを迎えているのだ。

 平等が要請される国民国家システムと格差を生んで資本を増やす資本主義が矛盾を露呈することなく両立できるのは、「実物投資空間」が無限で経済が成長し続ける場合においてのみなのです。(p183)

「作れば売れる」というセイの法則が成立しない現代において、資本主義と民主主義が結合することはない。この条件を忘れて成長を追い求めれば、そのツケは民主主義の破壊となって現れる、と水野はいう。

 水野はそのような議論を、利子率や経済成長率の世界的変遷やなどを検討し、エビデンスに基いてすすめていく。日本は一九九七年に、一〇年国債の利回りが二・〇%を下回った。超低金利の時代がすでに二〇年続いている。それは端的に資本主義の危機を示すものなのである。

 中世から近代への移行期、ブローデルが「長い一六世紀」と呼んだ大転換期のさなかに超低金利が生じたが、それは「歴史の歯車が動くサイン」だった。同じことは低金利を迎えている現代にもいえる。いわば「長い二一世紀」と呼ぶべき大転換期を迎えているのだ。

 それでは、以上のような歴史的危機を乗り越えるために求められるシステムとはいかなるものであろうか。

 世界を拡張していくような従来のやり方では経済をうまく回していくことは望めない。また現在の国民国家では政治的な要請に対しては充分に対応することができない。世界秩序に対して責任を担うことができないし、地域の細かなニーズを吸収することもむずかしい。

 もはや、無限の膨張が不可能なことは明らかなのですから、ポスト近代システムは、一定の経済圏で自給体制をつくり、その外に富(資本)や財が出ていかないようにすることが必要です。その条件を満たすには、「閉じてゆく」ことが不可欠になります。(p207)

 すなわち「政治的には地域帝国、経済的には定常状態、すなわち資本蓄積をしないという方向性」を提起する。「閉じた帝国」が複数並び立つという世界システム。それこそがこれからの時代を生きていくために適した世界のあり方なのだと水野は結論づける。

 ちなみに「地域的・世界的権威」は地域帝国がもち、「国家・民族の下位にある権威」は地方政府がもつという構想は、水野の創見ではなく国際政治学者のヘドリー・ブルを参照したものである。

「閉じた帝国」の具体例として、水野はEUの例を挙げている。一国単位の主権でおこなうのが難しい政治課題については「帝国のような大きい単位の共同体」で対応すべしというわけである。

 また経済のあり方としては、ブローデルの市場経済論を引用している。ブローデルは市場経済と資本主義を区別した。前者は「予想外のことの起こらぬ『透明』な交換、各自があらかじめ一部始終を知っていて、つねにほどほどのものである利益が大体推測できるような交換」を指す。それは資本家が不透明な取引から富を獲得する資本主義とは異なるものである。水野はこの「市場経済」という概念が、新しい経済システムのヒントになると指摘する。

 留保つきながらも「帝国」を再評価する議論じたいは、文脈がやや異なるとはいえ柄谷行人や佐藤優など何人もの論客が提起してきたもので、とくに斬新というわけではない。また帝国が並び立つ世界秩序は地球全体の秩序に責任をもちうる主体とは言い難く、資本主義の暴走がもたらした地球規模の課題をうまく解決できるのかという点では疑問もなくはない。
 しかしながら、広汎な分野から知見をとりいれたスケール豊かな本書の考察は、熟読に値するものだと私は思う。
[PR]
by syunpo | 2017-10-30 19:15 | 経済 | Trackback | Comments(0)

二世紀前に登場した新しい概念!?〜『経済成長という呪い』

●ダニエル・コーエン著『経済成長という呪い 欲望と進歩の人類史』(林昌宏訳)/東洋経済新報社/2017年9月発行

b0072887_10105951.jpg 人類の壮大な歴史を駆け足で振り返り、「経済成長」という概念を様々な角度から再検討する。コンセプトははっきりしているが、参照される知見は学際的で多岐にわたっていて、さながら知の万華鏡ともいうべき本である。

 コーエンは「経済成長」という概念が近代の産物であって、人類史を通じてつねに追求されてきたものではないないことを指摘する。

 ……経済成長はほんの二世紀前に登場した新しいアイデアなのだ。太古から一八世紀の産業革命前夜までの期間、人類の収入は今日の貧困者たちと変わらない一日一ユーロ程度で低迷していた。(p22)

 ただコーエンの関心は、その「アイデア」をもっぱら心理学的な側面から捉えることにあるようである。人々の不安を和らげるのは「経済成長」という約束であって約束が実現することではないとさえコーエンはいう。

 たとえば心理学者のダニエル・カーネマンとエイモス・トベルスキーは「本人が標準と考える状況と比較」することによって、その人の幸福/不幸が判断されるのだと主張した。

 であるから、人間が成長神話から解放されない理由の一つをその心理的な機制に見出そうとするのも本書の文脈からすれば必然というべきであろう。当然ながらそのような考察を経て提起される処方箋は良くも悪しくも観念論的といえる。

 人間の欲望は、その人が身を置く状況から多大な影響を受ける。ゆえに人間は飽くなき無限の欲望を抱くことになる。そうした人間の欲望を地球の保全と整合性をもたせるためには、新たな転換が必要になる。それは物質的な経済成長の追求ではなく、人々の精神構造の変化によってもたらされるだろう。これが本書の結論的な展望である。聡明なる読者諸氏はこのような見解に、賛同できるだろうか。
[PR]
by syunpo | 2017-10-14 10:12 | 経済 | Trackback | Comments(0)

リスク・決定・責任の一致を〜『ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼』

●松尾匡著『ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼 巨人たちは経済政策の混迷を解く鍵をすでに知っていた』/PHP研究所/2014年11月発行

b0072887_1918277.jpg 昔の自民党のように公共事業で経済を活性化させようというケインズ的な政策はすっかり不人気になってしまった。といって、かつての革新自治体が行なった福祉重視の財政もバラマキの言葉とともに支持されなくなった。
 そこで登場した新自由主義路線も、格差を拡大させ、地方を荒廃させただけの大失敗。英国のブレア政権に象徴される「第三の道」も新自由主義に少し修正を加えたようなもので、人々を幸福な生活へと導いたとはいいがたい。

 そうして世界的に台頭してきたのが極右勢力である。日本も例外ではない。しかし自国中心主義的な経済路線に明るい未来が待っているはずもない。

 では、どうすべきか。本書ではケインズ型政策や新自由主義的路線が行き詰ったあとのとるべき改革を「転換X」として具体的な政策を提示する。キーワードは「リスク・決定・責任の一致」。そして「予想は大事」。
 興味深いのは、本書の文脈では一般的に斥けられるはずのジョン・メイナード・ケインズやフリードリッヒ・ハイエクの経済理論からヒントを見出している点である。

 前半、ソ連型社会主義の失敗について考察するくだりでは、ハンガリーの経済学者コルナイ・ヤーノシュを参照する。通常、競争のないシステムでは皆が怠けてしまうことが社会を停滞させてしまうと考えがちだが、それは事実ではない。コルナイ=松尾はシステム破綻の原因を別のところに見出す。

 ソ連経済は慢性的なモノ不足に悩まされた。企業が機械や工場に設備投資して生産規模を拡大していくことに歯止めがかからなかった。ノルマを達成しなければならないという圧力が働いていたからである。裏返せば、消費財生産の割合を膨らませることができない構造になっていた。

 ソ連型システムの崩壊の大きな原因は「リスクと決定と責任」が重なっていなかったということに尽きる。国有企業経営者は、企業長単独責任制のもとで、資材購入や労働雇用の決定権を持っていた。だが、決定の結果起こることについては責任をとる必要がなかった。資材のためこみにも設備投資にも歯止めがかからないのは当然である。

 リスクのあることは、すべてそのリスクにかかわる情報を持つ現場の民間人に決定をまかせ、その責任は自分で引き受けさせる。公共機関は、リスクのあることには手を出さず、民間人の不確実性を減らして、民間人の予想の確定を促す役割に徹する。この両極分担がハイエクの提唱した図式だと言えるのだが、ソ連型システムは明らかにそれに反していた。

 ソ連の破綻を教訓にして、西側諸国では資本主義をさらに押し進めた新自由主義的な路線を強化することになった。ハイエクは自由主義経済思想の巨匠で、その後の政策はハイエクに基づいているように一般には理解されてきた。しかし彼によるソ連批判が最もよくあてはまる失敗をしたのが皮肉にも新自由主義的政策であったことを松尾は指摘する。

 ハイエクは「競争が有効に働くためには、よく考え抜かれた法的枠組みと政府の介入が必要だ」と考えた。「リスク・決定・責任の一致」が必要だと訴えたのである。また国家がさだめるルールは恣意的なものではなく、計画に及ぼす国家の影響が予測できなくてはならない。

 ところが新自由主義的な社会ではそれらが必ずしも一致していない。すべて民間事業者の競争にゆだねることが社会をうまく回すことになる、と短絡されてしまったのである。

 新自由主義の大御所ミルトン・フリードマンも同様に、人々の予想が経済の動きに影響することを指摘した。政府は民間の人々の予想を不確実にすることに手を出してはならない。人々の予想を確実ならしめるのがその役割でなければならない。それは「不況になっても景気対策も何もせずにほったらかしておくべきだ」という主張ではないのだ。

 以上のような基本認識から松尾は具体的にはインフレ目標政策やベーシックインカムを「転換X」に適した政策として提唱する。

 ベーシックインカムは、景気対策について、そのときそのときの政府の判断に頼る度合いを少しでも減らす方向にある点で、「転換X」の課題にのっとっている、と松尾は指摘する。
 またインフレ目標政策は、デフレ不況の均衡を脱し、好況の均衡を実現するために必要な「人々の予想を確定する政策」として適している、という。

 松尾の構想は、繰り返せば「リスク・決定・責任の一致」を説き、人々の予想を確定することを重視するものである。すなわち本書にいう「転換X」とは、胸三寸の「裁量的政府」から、人々の予想を確定させる「基準政府」への転換を意味する。であるから〈大きな政府/小さな政府〉のように財政規模で二分するような発想とはまったく無関係である。
 また経済学にいう「効率性」とは「少なくとも誰も犠牲にすることなく、誰か一人でも厚生を改善できる余地があるならばそれを実現すべきだ」という意味である、というフレーズが印象に残った。
[PR]
by syunpo | 2017-10-11 19:28 | 経済 | Trackback | Comments(0)

大切なものはお金に換えてはいけない〜『人間の経済』

●宇沢弘文著『人間の経済』/新潮社/2017年4月発行

b0072887_18513572.jpg 二〇一四年に他界した経済学者・宇沢弘文の晩年のインタビューや講演録をまとめた本。当然ながら平易な語り口で、宇沢の学識に触れたことのない読者にも理解しやすい作りになっている。

 宇沢は旧制一高時代は医学部志望クラスに在籍していたが、東大数学科に進んで代数的整数論や数学基礎論を学んだ。しかし数学にも「貴族趣味」のようなものを感じて、悩んだあげくに経済学に転じたという経歴をもつ。「医学が人間の病を癒す学問であるとすれば、経済学は社会の病を癒す学問であると自分に言い聞かせて、経済学の道に移りました」と当時の心境を回顧するくだりはとりわけ印象深い。

 その言葉どおり、本書における発言もまた社会の歪みや疲弊に対する警鐘的な色合いの濃いものになっている。そこでベースになるのは自身が提唱した「社会的共通資本」という概念である。宇沢が一般の読書人にも広く知られることになったのはこの概念の創出によるところが大きいだろう

 本書では厳密に定義している文章は出てこないが、そのものズバリの著作『社会的共通資本』には「一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置」と規定されている。
 こうした社会的装置として、宇沢はおもに自然環境(大気・森林・河川など)、社会的インフラ(道路・交通機関・上下水道・電力など)、制度資本(教育・医療・司法など)の三類型を考えた。注目すべきは農村のような存在もそれを単なる農家の集合体としてのみ考えず、社会的共通資本として捉えている点だ。

 社会的共通資本を維持していくためには「それぞれの職業的専門家が職業的なdiscipline(規範)にもとづいて、そして社会のすべての人たちが幸福になれることを願って、職業的な営為に従事すること」が求められる。しかし戦後世界は必ずしもそのような形で運営されたわけではなかった。世界中が医療や教育など社会的共通資本をも市場原理に組み込む新自由主義的な傾向が高まるにつれて、しばしばそれらは破壊されていったことは宇沢のみならず多くの論者が指摘しているところである。とりわけ日本の場合には、中曽根政権以降、米国の要求によって莫大な公共投資が実施された。それらがもたらしたのは、地域の医療、経済、社会、自然環境の破壊であった。

 そうした経緯を語るときには、おのずと先に記したように社会の病を診断する医師の態度にも似たようなものになってくる。宇沢は言う。「大切なものは決してお金に換えてはいけない」と。
 さらに宇沢はジョン・ラスキンを引いて「富を求めるのは、道を聞くためである」という考えを「経済学を学ぶときの基本姿勢として、これまでずっと大事にしてきました」と結びで述べている。

 農村礼賛や新自由主義批判にステレオタイプの表現が散見されるとはいえ、社会的な運動にも関与した宇沢の識見には温かな息吹を感じとることができるのも確かである。それは凡百の経済学者からは感受できない人間味のようなものといえばよいか。昭和天皇やヨハネ・パウロ二世と面会した時のエピソードなども興味深い。

「人間の経済」を重視した宇沢流国富論は、公正や平等を重視する近代リベラリズムと共同体に根ざした公共的価値を受け継ぎ次代に伝えることを本旨とする正統的な保守思想の交差するところに位置づけられるのではないだろうか。つまり多くの人々によって共有することが可能な考え方ではないかと私は思う。
[PR]
by syunpo | 2017-05-13 19:00 | 経済 | Trackback | Comments(0)

モラル・サイエンスとしての〜『経済学のすすめ』

●佐和隆光著『経済学のすすめ ──人文知と批判精神の復権』/岩波書店/2016年10月発行

b0072887_20213177.jpg 日本で「制度化」された経済学は「数学の僕」と成り果てながら人文知の欠如と批判精神の麻痺を招いた。今こそ文学・歴史学・思想史を学び、経済学を水面下で支える思想信条に基づく批判精神を培わねばならない。本書がすすめる「経済学」復興の内容を要約すればそのようになる。

 そもそも科学が「制度化」されるとはどういうことなのか。佐和は「科学の制度化」のための必要十分条件は以下の四つであるという。

(1)標準的な教科書が「易」から「難」へと秩序正しく整っていること。
(2)査読付き専門誌が存在していて、業績評価は専門誌への掲載論文の質量により定まること。
(3)当該科学を専門的に担う職業集団が存在すること。
(4)当該科学の有用性が社会的に認知されていること。

 米国では以上四つの条件が満たされていて、その意味では経済学は「制度化」されている。しかし日本では事情が異なる。日本ではフェアな査読性が機能している経済学の専門誌は数少ないし、エコノミストの職業集団は存在しない。さらに「有用性」をめぐって日米で大きな違いがあるというのだ。

 アメリカでは、経済現象を論理的かつ数量的に「科学」する経済学の「有用性」が社会的に認知されている。他方、日本では、経済現象を「科学」する有用性よりも、府省の政策を正当化するという意味での「有用性」の方に重きが置かれている点、日本における経済学の制度化は、きわめて特異だと言わざるを得ない。(p144)

 むろん佐和は米国流に制度化された経済学を無批判に信奉しているわけではない。それどころか米国の経済学もまた「人文知と批判精神を失い、数学の僕と化したジャーナル・アカデミズムに現を抜か」しているとみなして批判している。反面教師とすべき米国の経済学と日本のそれを比較衡量するのに紙幅を割いているのは、いささか混乱を招きやすい論じ方だとは思うのだが、日本の現状もやはり佐和の構想する経済学のあり方からはほど遠い。そこで佐和が注目するのはヨーロッパの経済学である。

 ヨーロッパの経済学者の多くは、次のように考えている。「経済学は論理学の一分野であり、一つの思考法である。経済学はモラル・サイエンスであり自然科学ではない」と。モラル・サイエンスとは、イギリス経験論の伝統にしたがえば、自然科学と対をなす、人間的行為を対象とする学問である。モラル・サイエンスとしての経済学は、社会のあるべき姿を想定し、現実社会を、あるべき社会にできるだけ近づけるための手段を研究する学問である。経済学がモラル・サイエンスであるからには、異分野の人文社会科学をよく学び、「社会のあるべき姿」の何たるかについて人社系の知を総動員するだけの心構えが、経済学者には求められるのではないだろうか。(p185〜186)

 佐和はモラル・サイエンティストのモデルとしてジョン・メイナード・ケインズとアンソニー・アトキンソンを挙げつつ、トマ・ピケティの来歴や仕事についても肯定的に言及している。ピケティのベストセラー『21世紀の資本』ではバルザックの『ゴリオ爺さん』なども引用されていて、ヨーロッパのリベラル・アーツの伝統を受け継ぐ姿勢が明瞭に打ち出されているのだ。

 本書の現状認識もそれに基づいた問題提起も明快ではある。ただし世界の経済学に関する佐和の見立てが本当に妥当するのかどうかは私には判断できないし、さらに人文社会科学の必要性を力説するくだりは、すでに誰かがどこかでやっていたような議論でさして新味はない。全体をとおして理念を繰り返しているだけという印象が拭い難く、そのことの意義を否定はしないけれど、やはりお題目よりも具体的な成果を示すことが研究者に一番求められていることではないかとあらためて思う。人文社会科学に対する蔑視は今に始まったことではないのだから。
[PR]
by syunpo | 2016-11-25 20:30 | 経済 | Trackback | Comments(0)

巨大株式会社を解体せよ〜『資本主義という病』

●奥村宏著『資本主義という病』/東洋経済新報社/2015年5月発行

b0072887_194013.jpg 日本における資本主義は基本的に法人資本主義といえるものである。これは奥村が以前から力説してきた持論だ。株式会社を中心とする法人が社会を牽引し回してきた資本主義。それは目覚ましい経済成長をもたらしたが、同時に現在の様々な病理的現象の原因にもなっている。

 日本においては法人はいろいろな意味で法的に保護されている。たとえば法人としての株式会社が行なった違法行為について刑事罰を課すことが困難である。住民に多くの被害を与えた原発事故でも東京電力が刑事罰を受けることはなかった。それは法人には犯罪能力がないとする刑法学説に拠っている。日本の法人主義は誰も責任をとらないシステムで、「無責任資本主義」と奥村が呼ぶ理由もそこにある。

 そこで奥村はいう。「日本でも法人としての会社が行なった行為については自然人である経営者、代表取締役が責任を負わなければなりません」。そのうえで巨大になりすぎた株式会社の解体が必要だと主張する。大きすぎる組織は必然的に管理不能状態をもたらし、そのことが無責任資本主義の諸悪の根源ともなっているからだ。

 しかしここで根本的な疑問が生じる。株式会社の解体は一社だけでやっても意味がないし、やる会社もない。一国だけでやっても意味がないし、やる国もない。つまりその大改革は世界同時的に行なう必要がある。だがそんなことがはたして可能なのだろうか。
[PR]
by syunpo | 2016-02-17 19:07 | 経済 | Trackback | Comments(0)

エリートによるエリート批判〜『グローバリズムが世界を滅ぼす』

●エマニュエル・トッド、ハジュン・チャン、柴山桂太、中野剛志、藤井聡、堀茂樹著『グローバリズムが世界を滅ぼす』/文藝春秋/2014年6月20日

b0072887_18541182.jpg 二〇一三年一二月、京都で行なわれた「グローバル資本主義を超えて」と題する国際シンポジウムでの議論をまとめた本。グローバル資本主義について、経済学だけでなく社会人類学、現代社会論など多様な観点から批判的に検討するという趣旨である。

 エマニュエル・トッドは、自由貿易がもたらす二つの問題──経済格差の拡大と賃金競争がもたらす効果──を指摘。前者は富の再分配で解消・軽減できるかもしれないが、深刻なのは後者の問題だ。「生産の増大に対し、需要全体が一般的傾向として遅延する」ことにいかに対処するか。
 一九五〇年から七五年までは「賃金上昇と経済発展を一対の車輪のように意識しているかのよう」な現象がたしかにみられたのに、現在では企業が「賃金を純粋なコストと見なす」ようになり、賃金コストの削減がすすんでいる。世界は需要不足による本格的な不況に脅かされる段階に入ったのである。自由貿易は経済危機の解決策どころか、その原因といえる。

 ネオリベラリズム的な政策は格差を拡大するのみならず、経済成長にも寄与しないというハジュン・チャンの指摘も重要だろう。金融が重要だと思うがゆえに金融規制の強化を説くという姿勢は理にかなっている。

 トッドにしてもチャンにしてもさして目新しい視点を提起しているわけではないのだが、日本人パネラーの論考・発言はそれに輪を掛けて凡庸で退屈。

 グローバル資本主義を全体主義のあらわれとみる藤井聡の論考は、ハンナ・アーレントを下敷きにしているのは良いとしても、議論の組み立てが粗雑でお世辞にも説得的とは言いがたい。藤井のいうグローバル化全体主義を超えるための方策としてナショナリズムを重視せよという主張も陳腐で拍子抜けした。

 グローバル化を歴史的な視点から分析する柴山桂太は、一八七〇年代から一九一四年までの第一次グローバル化と現在の第二次グローバル化を比較対照しながら脱グローバル化への道を探っていく。一九三〇年代の失敗は保護主義のせいではなく、各国が保護主義をとってもなお各国の共存が可能になるような、新たな国際協調の枠組をつくることができなかったことによる、という。逆にいえば「国ごとに政策の自由度を確保し、独自の制度の発展を保証する」体制が今後は不可欠ということになる。

 中野剛志は新自由主義と保守主義が結びついている現状を珍奇な現象と指摘したうえで、そのような結託が生まれた理由をエリート層の劣化に見いだし、結論として本来的な意味での保守主義の復興を提起している。

 本書に登場するパネラーたちに共通しているのは、良くも悪しくも「民主主義」や「国民主権」という概念をあまり信用していないらしいということである。エリート批判とは裏返せばエリートがきちんと統治してくれさえすれば世の中がうまく回るという発想だろう。
 グローバリズムは民主主義をも危機に追いやるという認識を共有していながら、最後までその対応策に言及されないのはどうしたものか。ここに政治学者がいないと言ってしまえばそれまでだが、民主主義をいかに活性化するのかという論題を脇に追いやったまま、もっぱらエリート論に熱中する本書の議論に私は今ひとつノリきれなかった。
[PR]
by syunpo | 2015-11-23 18:56 | 経済 | Trackback | Comments(0)

市場原理主義に抗して〜『経済学は人びとを幸福にできるか』

●宇沢弘文著『経済学は人びとを幸福にできるか』/東洋経済新報社/2013年11月発行

b0072887_19284657.jpg 宇沢弘文は『社会的共通資本』なる概念で知られる世界的な経済学者である。二〇一四年に他界したが、その文明論的な広い視野に支えられた思考は経済学の地平を超えて影響力を与え続けているといっていいのではないだろうか。

 本書は学究生活を回想するエッセイ、交遊録、書評などを集めたもの。二〇〇三年初版の『経済学と人間の心』を底本として、その後に行なわれた講演録を追加、二〇一三年に新装版として刊行された。

 率直にいって、一冊の本としてはまとまりを欠くことは否めず、大家の雑文集以上のものではない。新自由主義批判にせよリベラルな教育の重要性を説くにせよ紋切り型のスローガン的な文章が目立ち、私にはいささか退屈だった。「社会的共通資本」に関しても数箇所で言及がなされているが、従来の見解を解説的に繰り返すにとどまっている。

 このような形式・内容からすれば、書名の大上段に構えた問いかけはやや羊頭狗肉の感なきにしもあらずといったところ。ノーベル賞候補とまで言われた経済学者の真価を知るには他の本格的な著作を手にとった方がいいだろう。 
[PR]
by syunpo | 2015-04-22 19:40 | 経済 | Trackback | Comments(0)

観念の自己実現〜『貨幣という謎』

●西部忠著『貨幣という謎 金と日銀券とビットコイン』/NHK出版/2014年5月発行

b0072887_19532871.jpg 貨幣という存在の謎。あるいはそれが存続し続ける謎。本書はその謎に対して「観念の自己実現」という概念をもって答える。すなわち「人々が同じようなことを考え、一斉に同じ方向へと働いてしまうと、それによってある観念が現実のものになる、非現実な観念といえども自分自身を支え持ち上げてしまうという事態」が「観念の自己実現」である。ありていにいえば、貨幣に価値があるのは、みんなが貨幣に価値があると思っているから。このような「観念の自己実現」こそがブームやバブルを発生させ、経済を不安定にする一つの原因ともなる。

「観念の自己実現」によって存在し存続している貨幣は市場や商品を成立させるための前提条件であって、市場での商品交換をただ効率的にするための便利な「道具」ではない。貨幣なくしては市場もまた存在しないのだ。ゆえに貨幣を考えることは市場や資本の特性、さらにそうした要素に規定されている経済のみならず、文化や倫理を考えることにもつながる。

 すなわち、現在の貨幣のあり方を変えることは、市場や経済のあり方のみならず、私たちの文化や倫理を変えることにつながるのです。(p227)

 西部は、貨幣経済がもたらす諸問題の根源は貨幣の国営化にあると考える。経済的通貨制度と政治的国家制度の癒着が、市場経済に固有の問題を生み出したり、深刻化させたりしているとみるのである。そこで両者のより望ましい結合が模索されなければならない。本書ではその新たな結合のモデルが明確なかたちで提起されているわけではないが、新たな貨幣──コミュニティ通貨、電子マネー、ビットコインなど──の出現に可能性を見ようとする。

 今後、貨幣の脱国営化と貨幣の競争を目指す自由貨幣運動が進むとすれば、それは自由主義や利己性に基づく交換原理だけでなく、利他性や連帯に基づく互酬原理をも含みうる広さを持っているのではないかと考えられます。(p245~246)

 ここまで読み進んでくると、同じように貨幣や交換原理の問題と格闘した柄谷行人の壮大な思想的営みを想起してしまうが、あくまで進化経済学や貨幣論の枠内で交換原理を考えようとする読者には、本書はよき入門書的な役割を果たしてくれることだろう。
[PR]
by syunpo | 2015-02-18 20:01 | 経済 | Trackback | Comments(0)

不平等の仕組みを解き明かす〜『世界の99%を貧困にする経済』

●ジョセフ・E・スティグリッツ著『世界の99%を貧困にする経済』(楡井浩一、峯村利哉訳)/徳間書店/2012年7月発行

b0072887_10402840.jpg 今回の衆議院議員総選挙に際して、ある全国紙は候補者アンケートのなかに次のような質問項目を設けた。
〈(A)社会的格差が多少あっても、いまは経済競争力の向上を優先すべきだ/(B)経済競争力を多少犠牲にしても、いまは社会的格差の是正を優先すべきだ〉のうちどちらを選ぶかという問いである。この質問作成者は「経済競争力の向上」と「社会的格差の是正」はトレードオフの関係にあると考えているらしい。何よりも本書ではそのような質問の前提にこそ誤りがあることを力説する。すなわち、二つの関係は両立しうる、いや、格差の是正と競争力の向上はコインの裏表である、と。

 市場の力は現在進行中の不平等の生成になんらかの役割を果たしているが、その市場の力を形成するのは究極的には政治である──というのが本書の基本的な立場である。原題《The Price of Inequality(不平等の代価)》に謳われているとおり、スティグリッツは格差を生み出し、それを広げていくような制度やルールを具体的に指摘していきながら、不平等を縮減するような政策こそが結果的には富裕層の生活をも潤していくことを主張するのである。

 現在の米国の社会は「一%の上位者が九九%の下位層から富を吸い上げる」ような構造になっている。それは、アメリカの政治制度が上層の人々に過剰な力を与えるよう機能してきたからにほかならない。そのような構造を作り出したものとは具体的にいかなるものか。
 その大きなものが「レントシーキング」と呼ばれるものだ。「富を創出する見返りとして収入を得るのではなく、自分たちの努力とは関係なく生み出される富に対して、より大きな分け前にあずかろうとする活動」のことをいう。それは様々な形態をとる。政府からの公然・非公然の資源移転と補助金。市場の競争性を低下させる法規。既存の競争法に関する甘い取り締まり──などなど。「本業でイノベーションを達成するより、政治をてなづけるほうが得意」な企業がそのようなレントシーキングで過大な利益を得てきた。

 そのようなレントシーキングを行なうにあたっては、企業や政府は大衆の認識を操作する必要がある。政策をめぐる戦いとは認識をめぐる戦いでもある。認識を操作する側は現代心理学や行動経済学の成果を巧みに取り入れながら、宣伝広告やメディア操作を行なってきたのである。

 スティグリッツは市場をゆがめる政治の失敗を分析したうえで、それを反転させる形で公正な世界を構築するための指針を提起する。それは当然ながら、経済効率性と公平性と機会均等性が同時に高められるような方策ということになるだろう。具体的には「金融部門の抑制」「競争法とその取り締まりの強化」「企業統治の改善」「破産法の包括的改善」「(放送局に対する周波数帯の無償供与、市場価格を下回る鉱物資源の採掘権料などの)政府の無償供与の打ち切り」「企業助成の打ち切り」などが打ち出される。

 あちこちに同じ趣旨の論述が散らばり繰り返される冗長な構成をきちんと整理すればさらに読みやすい本になったと思うが、相も変わらず大企業への迎合的な政策を続けるわが国の現状を見るにつけても、本書の分析と政策提起は日本の読者にとっても意義深いものと思われる。
[PR]
by syunpo | 2014-12-23 10:47 | 経済 | Trackback | Comments(0)