カテゴリ:経済( 24 )

大切なものはお金に換えてはいけない〜『人間の経済』

●宇沢弘文著『人間の経済』/新潮社/2017年4月発行

b0072887_18513572.jpg 二〇一四年に他界した経済学者・宇沢弘文の晩年のインタビューや講演録をまとめた本。当然ながら平易な語り口で、宇沢の学識に触れたことのない読者にも理解しやすい作りになっている。

 宇沢は旧制一高時代は医学部志望クラスに在籍していたが、東大数学科に進んで代数的整数論や数学基礎論を学んだ。しかし数学にも「貴族趣味」のようなものを感じて、悩んだあげくに経済学に転じたという経歴をもつ。「医学が人間の病を癒す学問であるとすれば、経済学は社会の病を癒す学問であると自分に言い聞かせて、経済学の道に移りました」と当時の心境を回顧するくだりはとりわけ印象深い。

 その言葉どおり、本書における発言もまた社会の歪みや疲弊に対する警鐘的な色合いの濃いものになっている。そこでベースになるのは自身が提唱した「社会的共通資本」という概念である。宇沢が一般の読書人にも広く知られることになったのはこの概念の創出によるところが大きいだろう

 本書では厳密に定義している文章は出てこないが、そのものズバリの著作『社会的共通資本』には「一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置」と規定されている。
 こうした社会的装置として、宇沢はおもに自然環境(大気・森林・河川など)、社会的インフラ(道路・交通機関・上下水道・電力など)、制度資本(教育・医療・司法など)の三類型を考えた。注目すべきは農村のような存在もそれを単なる農家の集合体としてのみ考えず、社会的共通資本として捉えている点だ。

 社会的共通資本を維持していくためには「それぞれの職業的専門家が職業的なdiscipline(規範)にもとづいて、そして社会のすべての人たちが幸福になれることを願って、職業的な営為に従事すること」が求められる。しかし戦後世界は必ずしもそのような形で運営されたわけではなかった。世界中が医療や教育など社会的共通資本をも市場原理に組み込む新自由主義的な傾向が高まるにつれて、しばしばそれらは破壊されていったことは宇沢のみならず多くの論者が指摘しているところである。とりわけ日本の場合には、中曽根政権以降、米国の要求によって莫大な公共投資が実施された。それらがもたらしたのは、地域の医療、経済、社会、自然環境の破壊であった。

 そうした経緯を語るときには、おのずと先に記したように社会の病を診断する医師の態度にも似たようなものになってくる。宇沢は言う。「大切なものは決してお金に換えてはいけない」と。
 さらに宇沢はジョン・ラスキンを引いて「富を求めるのは、道を聞くためである」という考えを「経済学を学ぶときの基本姿勢として、これまでずっと大事にしてきました」と結びで述べている。

 農村礼賛や新自由主義批判にステレオタイプの表現が散見されるとはいえ、社会的な運動にも関与した宇沢の識見には温かな息吹を感じとることができるのも確かである。それは凡百の経済学者からは感受できない人間味のようなものといえばよいか。昭和天皇やヨハネ・パウロ二世と面会した時のエピソードなども興味深い。

「人間の経済」を重視した宇沢流国富論は、公正や平等を重視する近代リベラリズムと共同体に根ざした公共的価値を受け継ぎ次代に伝えることを本旨とする正統的な保守思想の交差するところに位置づけられるのではないだろうか。つまり多くの人々によって共有することが可能な考え方ではないかと私は思う。
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by syunpo | 2017-05-13 19:00 | 経済 | Trackback | Comments(0)

モラル・サイエンスとしての〜『経済学のすすめ』

●佐和隆光著『経済学のすすめ ──人文知と批判精神の復権』/岩波書店/2016年10月発行

b0072887_20213177.jpg 日本で「制度化」された経済学は「数学の僕」と成り果てながら人文知の欠如と批判精神の麻痺を招いた。今こそ文学・歴史学・思想史を学び、経済学を水面下で支える思想信条に基づく批判精神を培わねばならない。本書がすすめる「経済学」復興の内容を要約すればそのようになる。

 そもそも科学が「制度化」されるとはどういうことなのか。佐和は「科学の制度化」のための必要十分条件は以下の四つであるという。

(1)標準的な教科書が「易」から「難」へと秩序正しく整っていること。
(2)査読付き専門誌が存在していて、業績評価は専門誌への掲載論文の質量により定まること。
(3)当該科学を専門的に担う職業集団が存在すること。
(4)当該科学の有用性が社会的に認知されていること。

 米国では以上四つの条件が満たされていて、その意味では経済学は「制度化」されている。しかし日本では事情が異なる。日本ではフェアな査読性が機能している経済学の専門誌は数少ないし、エコノミストの職業集団は存在しない。さらに「有用性」をめぐって日米で大きな違いがあるというのだ。

 アメリカでは、経済現象を論理的かつ数量的に「科学」する経済学の「有用性」が社会的に認知されている。他方、日本では、経済現象を「科学」する有用性よりも、府省の政策を正当化するという意味での「有用性」の方に重きが置かれている点、日本における経済学の制度化は、きわめて特異だと言わざるを得ない。(p144)

 むろん佐和は米国流に制度化された経済学を無批判に信奉しているわけではない。それどころか米国の経済学もまた「人文知と批判精神を失い、数学の僕と化したジャーナル・アカデミズムに現を抜か」しているとみなして批判している。反面教師とすべき米国の経済学と日本のそれを比較衡量するのに紙幅を割いているのは、いささか混乱を招きやすい論じ方だとは思うのだが、日本の現状もやはり佐和の構想する経済学のあり方からはほど遠い。そこで佐和が注目するのはヨーロッパの経済学である。

 ヨーロッパの経済学者の多くは、次のように考えている。「経済学は論理学の一分野であり、一つの思考法である。経済学はモラル・サイエンスであり自然科学ではない」と。モラル・サイエンスとは、イギリス経験論の伝統にしたがえば、自然科学と対をなす、人間的行為を対象とする学問である。モラル・サイエンスとしての経済学は、社会のあるべき姿を想定し、現実社会を、あるべき社会にできるだけ近づけるための手段を研究する学問である。経済学がモラル・サイエンスであるからには、異分野の人文社会科学をよく学び、「社会のあるべき姿」の何たるかについて人社系の知を総動員するだけの心構えが、経済学者には求められるのではないだろうか。(p185〜186)

 佐和はモラル・サイエンティストのモデルとしてジョン・メイナード・ケインズとアンソニー・アトキンソンを挙げつつ、トマ・ピケティの来歴や仕事についても肯定的に言及している。ピケティのベストセラー『21世紀の資本』ではバルザックの『ゴリオ爺さん』なども引用されていて、ヨーロッパのリベラル・アーツの伝統を受け継ぐ姿勢が明瞭に打ち出されているのだ。

 本書の現状認識もそれに基づいた問題提起も明快ではある。ただし世界の経済学に関する佐和の見立てが本当に妥当するのかどうかは私には判断できないし、さらに人文社会科学の必要性を力説するくだりは、すでに誰かがどこかでやっていたような議論でさして新味はない。全体をとおして理念を繰り返しているだけという印象が拭い難く、そのことの意義を否定はしないけれど、やはりお題目よりも具体的な成果を示すことが研究者に一番求められていることではないかとあらためて思う。人文社会科学に対する蔑視は今に始まったことではないのだから。
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by syunpo | 2016-11-25 20:30 | 経済 | Trackback | Comments(0)

巨大株式会社を解体せよ〜『資本主義という病』

●奥村宏著『資本主義という病』/東洋経済新報社/2015年5月発行

b0072887_194013.jpg 日本における資本主義は基本的に法人資本主義といえるものである。これは奥村が以前から力説してきた持論だ。株式会社を中心とする法人が社会を牽引し回してきた資本主義。それは目覚ましい経済成長をもたらしたが、同時に現在の様々な病理的現象の原因にもなっている。

 日本においては法人はいろいろな意味で法的に保護されている。たとえば法人としての株式会社が行なった違法行為について刑事罰を課すことが困難である。住民に多くの被害を与えた原発事故でも東京電力が刑事罰を受けることはなかった。それは法人には犯罪能力がないとする刑法学説に拠っている。日本の法人主義は誰も責任をとらないシステムで、「無責任資本主義」と奥村が呼ぶ理由もそこにある。

 そこで奥村はいう。「日本でも法人としての会社が行なった行為については自然人である経営者、代表取締役が責任を負わなければなりません」。そのうえで巨大になりすぎた株式会社の解体が必要だと主張する。大きすぎる組織は必然的に管理不能状態をもたらし、そのことが無責任資本主義の諸悪の根源ともなっているからだ。

 しかしここで根本的な疑問が生じる。株式会社の解体は一社だけでやっても意味がないし、やる会社もない。一国だけでやっても意味がないし、やる国もない。つまりその大改革は世界同時的に行なう必要がある。だがそんなことがはたして可能なのだろうか。
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by syunpo | 2016-02-17 19:07 | 経済 | Trackback | Comments(0)

エリートによるエリート批判〜『グローバリズムが世界を滅ぼす』

●エマニュエル・トッド、ハジュン・チャン、柴山桂太、中野剛志、藤井聡、堀茂樹著『グローバリズムが世界を滅ぼす』/文藝春秋/2014年6月20日

b0072887_18541182.jpg 二〇一三年一二月、京都で行なわれた「グローバル資本主義を超えて」と題する国際シンポジウムでの議論をまとめた本。グローバル資本主義について、経済学だけでなく社会人類学、現代社会論など多様な観点から批判的に検討するという趣旨である。

 エマニュエル・トッドは、自由貿易がもたらす二つの問題──経済格差の拡大と賃金競争がもたらす効果──を指摘。前者は富の再分配で解消・軽減できるかもしれないが、深刻なのは後者の問題だ。「生産の増大に対し、需要全体が一般的傾向として遅延する」ことにいかに対処するか。
 一九五〇年から七五年までは「賃金上昇と経済発展を一対の車輪のように意識しているかのよう」な現象がたしかにみられたのに、現在では企業が「賃金を純粋なコストと見なす」ようになり、賃金コストの削減がすすんでいる。世界は需要不足による本格的な不況に脅かされる段階に入ったのである。自由貿易は経済危機の解決策どころか、その原因といえる。

 ネオリベラリズム的な政策は格差を拡大するのみならず、経済成長にも寄与しないというハジュン・チャンの指摘も重要だろう。金融が重要だと思うがゆえに金融規制の強化を説くという姿勢は理にかなっている。

 トッドにしてもチャンにしてもさして目新しい視点を提起しているわけではないのだが、日本人パネラーの論考・発言はそれに輪を掛けて凡庸で退屈。

 グローバル資本主義を全体主義のあらわれとみる藤井聡の論考は、ハンナ・アーレントを下敷きにしているのは良いとしても、議論の組み立てが粗雑でお世辞にも説得的とは言いがたい。藤井のいうグローバル化全体主義を超えるための方策としてナショナリズムを重視せよという主張も陳腐で拍子抜けした。

 グローバル化を歴史的な視点から分析する柴山桂太は、一八七〇年代から一九一四年までの第一次グローバル化と現在の第二次グローバル化を比較対照しながら脱グローバル化への道を探っていく。一九三〇年代の失敗は保護主義のせいではなく、各国が保護主義をとってもなお各国の共存が可能になるような、新たな国際協調の枠組をつくることができなかったことによる、という。逆にいえば「国ごとに政策の自由度を確保し、独自の制度の発展を保証する」体制が今後は不可欠ということになる。

 中野剛志は新自由主義と保守主義が結びついている現状を珍奇な現象と指摘したうえで、そのような結託が生まれた理由をエリート層の劣化に見いだし、結論として本来的な意味での保守主義の復興を提起している。

 本書に登場するパネラーたちに共通しているのは、良くも悪しくも「民主主義」や「国民主権」という概念をあまり信用していないらしいということである。エリート批判とは裏返せばエリートがきちんと統治してくれさえすれば世の中がうまく回るという発想だろう。
 グローバリズムは民主主義をも危機に追いやるという認識を共有していながら、最後までその対応策に言及されないのはどうしたものか。ここに政治学者がいないと言ってしまえばそれまでだが、民主主義をいかに活性化するのかという論題を脇に追いやったまま、もっぱらエリート論に熱中する本書の議論に私は今ひとつノリきれなかった。
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by syunpo | 2015-11-23 18:56 | 経済 | Trackback | Comments(0)

市場原理主義に抗して〜『経済学は人びとを幸福にできるか』

●宇沢弘文著『経済学は人びとを幸福にできるか』/東洋経済新報社/2013年11月発行

b0072887_19284657.jpg 宇沢弘文は『社会的共通資本』なる概念で知られる世界的な経済学者である。二〇一四年に他界したが、その文明論的な広い視野に支えられた思考は経済学の地平を超えて影響力を与え続けているといっていいのではないだろうか。

 本書は学究生活を回想するエッセイ、交遊録、書評などを集めたもの。二〇〇三年初版の『経済学と人間の心』を底本として、その後に行なわれた講演録を追加、二〇一三年に新装版として刊行された。

 率直にいって、一冊の本としてはまとまりを欠くことは否めず、大家の雑文集以上のものではない。新自由主義批判にせよリベラルな教育の重要性を説くにせよ紋切り型のスローガン的な文章が目立ち、私にはいささか退屈だった。「社会的共通資本」に関しても数箇所で言及がなされているが、従来の見解を解説的に繰り返すにとどまっている。

 このような形式・内容からすれば、書名の大上段に構えた問いかけはやや羊頭狗肉の感なきにしもあらずといったところ。ノーベル賞候補とまで言われた経済学者の真価を知るには他の本格的な著作を手にとった方がいいだろう。 
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by syunpo | 2015-04-22 19:40 | 経済 | Trackback | Comments(0)

観念の自己実現〜『貨幣という謎』

●西部忠著『貨幣という謎 金と日銀券とビットコイン』/NHK出版/2014年5月発行

b0072887_19532871.jpg 貨幣という存在の謎。あるいはそれが存続し続ける謎。本書はその謎に対して「観念の自己実現」という概念をもって答える。すなわち「人々が同じようなことを考え、一斉に同じ方向へと働いてしまうと、それによってある観念が現実のものになる、非現実な観念といえども自分自身を支え持ち上げてしまうという事態」が「観念の自己実現」である。ありていにいえば、貨幣に価値があるのは、みんなが貨幣に価値があると思っているから。このような「観念の自己実現」こそがブームやバブルを発生させ、経済を不安定にする一つの原因ともなる。

「観念の自己実現」によって存在し存続している貨幣は市場や商品を成立させるための前提条件であって、市場での商品交換をただ効率的にするための便利な「道具」ではない。貨幣なくしては市場もまた存在しないのだ。ゆえに貨幣を考えることは市場や資本の特性、さらにそうした要素に規定されている経済のみならず、文化や倫理を考えることにもつながる。

 すなわち、現在の貨幣のあり方を変えることは、市場や経済のあり方のみならず、私たちの文化や倫理を変えることにつながるのです。(p227)

 西部は、貨幣経済がもたらす諸問題の根源は貨幣の国営化にあると考える。経済的通貨制度と政治的国家制度の癒着が、市場経済に固有の問題を生み出したり、深刻化させたりしているとみるのである。そこで両者のより望ましい結合が模索されなければならない。本書ではその新たな結合のモデルが明確なかたちで提起されているわけではないが、新たな貨幣──コミュニティ通貨、電子マネー、ビットコインなど──の出現に可能性を見ようとする。

 今後、貨幣の脱国営化と貨幣の競争を目指す自由貨幣運動が進むとすれば、それは自由主義や利己性に基づく交換原理だけでなく、利他性や連帯に基づく互酬原理をも含みうる広さを持っているのではないかと考えられます。(p245~246)

 ここまで読み進んでくると、同じように貨幣や交換原理の問題と格闘した柄谷行人の壮大な思想的営みを想起してしまうが、あくまで進化経済学や貨幣論の枠内で交換原理を考えようとする読者には、本書はよき入門書的な役割を果たしてくれることだろう。
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by syunpo | 2015-02-18 20:01 | 経済 | Trackback | Comments(0)

不平等の仕組みを解き明かす〜『世界の99%を貧困にする経済』

●ジョセフ・E・スティグリッツ著『世界の99%を貧困にする経済』(楡井浩一、峯村利哉訳)/徳間書店/2012年7月発行

b0072887_10402840.jpg 今回の衆議院議員総選挙に際して、ある全国紙は候補者アンケートのなかに次のような質問項目を設けた。
〈(A)社会的格差が多少あっても、いまは経済競争力の向上を優先すべきだ/(B)経済競争力を多少犠牲にしても、いまは社会的格差の是正を優先すべきだ〉のうちどちらを選ぶかという問いである。この質問作成者は「経済競争力の向上」と「社会的格差の是正」はトレードオフの関係にあると考えているらしい。何よりも本書ではそのような質問の前提にこそ誤りがあることを力説する。すなわち、二つの関係は両立しうる、いや、格差の是正と競争力の向上はコインの裏表である、と。

 市場の力は現在進行中の不平等の生成になんらかの役割を果たしているが、その市場の力を形成するのは究極的には政治である──というのが本書の基本的な立場である。原題《The Price of Inequality(不平等の代価)》に謳われているとおり、スティグリッツは格差を生み出し、それを広げていくような制度やルールを具体的に指摘していきながら、不平等を縮減するような政策こそが結果的には富裕層の生活をも潤していくことを主張するのである。

 現在の米国の社会は「一%の上位者が九九%の下位層から富を吸い上げる」ような構造になっている。それは、アメリカの政治制度が上層の人々に過剰な力を与えるよう機能してきたからにほかならない。そのような構造を作り出したものとは具体的にいかなるものか。
 その大きなものが「レントシーキング」と呼ばれるものだ。「富を創出する見返りとして収入を得るのではなく、自分たちの努力とは関係なく生み出される富に対して、より大きな分け前にあずかろうとする活動」のことをいう。それは様々な形態をとる。政府からの公然・非公然の資源移転と補助金。市場の競争性を低下させる法規。既存の競争法に関する甘い取り締まり──などなど。「本業でイノベーションを達成するより、政治をてなづけるほうが得意」な企業がそのようなレントシーキングで過大な利益を得てきた。

 そのようなレントシーキングを行なうにあたっては、企業や政府は大衆の認識を操作する必要がある。政策をめぐる戦いとは認識をめぐる戦いでもある。認識を操作する側は現代心理学や行動経済学の成果を巧みに取り入れながら、宣伝広告やメディア操作を行なってきたのである。

 スティグリッツは市場をゆがめる政治の失敗を分析したうえで、それを反転させる形で公正な世界を構築するための指針を提起する。それは当然ながら、経済効率性と公平性と機会均等性が同時に高められるような方策ということになるだろう。具体的には「金融部門の抑制」「競争法とその取り締まりの強化」「企業統治の改善」「破産法の包括的改善」「(放送局に対する周波数帯の無償供与、市場価格を下回る鉱物資源の採掘権料などの)政府の無償供与の打ち切り」「企業助成の打ち切り」などが打ち出される。

 あちこちに同じ趣旨の論述が散らばり繰り返される冗長な構成をきちんと整理すればさらに読みやすい本になったと思うが、相も変わらず大企業への迎合的な政策を続けるわが国の現状を見るにつけても、本書の分析と政策提起は日本の読者にとっても意義深いものと思われる。
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by syunpo | 2014-12-23 10:47 | 経済 | Trackback | Comments(0)

コモンズに生きる人間〜『社会的共通資本』

●宇沢弘文著『社会的共通資本』/岩波書店/2000年11月発行

b0072887_193408.jpg ゆたかな社会を実現するための経済体制はどのような特質をもつべきなのか。それはどのようにすれば実現できるのか。この課題に対して社会的共通資本を中心とした制度主義の考え方をもって答えようとするのが本書の基本コンセプトである。制度主義とは一九世紀末期にソースティン・ヴェブレンが提唱したもので「百年以上も経った現在にそのまま適用されうる」という。

 社会的共通資本とは「一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置」のこと。自然環境(大気、森林、河川、水、土壌など)、社会的インフラ(道路、交通機関、上下水道、電力・ガスなど)、制度資本(教育、医療、司法、金融制度など)の三つに大別できる。

 制度主義経済体制における政府の経済的機能は、統治ではなく監視にある。そして「社会的共通資本の各部門は、それぞれの分野における職業的専門家によって、職業的規範にしたがって、管理・維持されなければならない」というのが基本的な考え方である。

 本書においては農村のような存在をも社会的共有資本と捉え、農村におけるコモンズのあり方を考察しているのが私には興味深く感じられた。宇沢によれば、農村とは個々の農家や農業に還元されるものではなく、またそれらを合算したものでもない。コモンズとしての農村は、農業活動を「統合的に、計画的に実行する一つの社会的組織」として存在すべきものなのである。ちなみに柄谷行人は宇沢のこのような農村コモンズ構想に関して、「共同自助」の観点から経世済民を考えた柳田国男の農政学を回復するものと見なして肯定的に言及している。(※)

 むろん瑕疵がないわけではない。農村におけるコモンズの一例として宇沢が期待をこめて紹介している三里塚農社の試みは、その後成功したとは言い難い。また教育や医療などの分野では全般的に理念的な記述が目立ち、いかにも研究者の書いた本だなぁという印象なきにしもあらずである。
 しかし市場経済や競争原理の弊害が深刻化してすでに多くの時間を経た今、あらためて社会的共通資本という概念を学び直すことは意義深いことには違いない。本書はそのための恰好の入門書といえるだろう。
 

※柄谷行人著『遊動論』を参照。
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by syunpo | 2014-01-26 19:06 | 経済 | Trackback | Comments(0)

近代の労働観を超えるために〜『仕事と日本人』

●武田晴人著『仕事と日本人』/筑摩書房/2008年1月発行

b0072887_10241925.jpg 現代人は生きていくために「労働」したり「働く」ことがあたりまえのことだと思っている。働かざる者食うべからず、という格言に正面から異論を唱えることはむずかしい。しかし「労働」という言葉は近代に生まれた言葉で、翻訳語として日本語に定着したものである。「労働」という概念が近代に生まれたということは「働き方」がそれ以前と以後とで変化したことを意味するのではないか。本書は「労働」や「仕事」をめぐって日本経済史の研究者が歴史的に検討を加えたものである。

 歴史的検証を通じて本書が明らかにするところは、近代以降、会社の成立とともに労働者は裁量権や自由が剥奪され、労働にマイナスのイメージがいっそう付加されたということである。端的にいうなら労働は生きていくためのお金を得る営みという意味に縮減されてしまった。
 そうした考察のうえにたって、労働=生活費を得る営みという以外の意義の復権を提起する、いわば近代の労働観を超える道筋を探るというのが本書の趣旨である。

 ただ本書の企図が充分に実現されているかといえば疑問符を付けざるをえない。「働くことについての考え方を根本的に考え直さなければならない」という著者が具体案として例示しているのは、有給休暇制度の拡張や非営利組織の活動への政策的支援といった比較的恵まれた労働環境にある人や団体に向けたものが中心。貧困層の労働に対する関心がそれこそ貧困なのに拍子抜けしたのは私だけではないだろう。

 そもそも労働のあり方を根本的に変革していくためには、個人の意識や企業の改革のみに訴えるだけでは無理な話で、貨幣経済を基盤とする社会全体の根本的な改革が伴わなければならないこと必定である。武田が結論部で掲げているようなパッチワーク的な対策は無効とはいわないけれど「根本的」とは言い難い。
 むろんこのような大きな課題への展望を日本経済史の知見のみに求めることじたい酷というものだろう。それこそ政治哲学など社会科学の成果を総動員して取り組むべき話に違いない。

 というわけで著者の最終的な主張にはさして得るものはなかったが、あとがきにもあるように本書の大部分は「先行する諸研究に依拠」しており、本文中に参照文献を挙げてくれている。その点では労働問題に関するブックガイドとしての価値は有するのではないかと思う。
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by syunpo | 2013-11-26 10:31 | 経済 | Trackback | Comments(0)

成長なき未来を展望する〜『資本主義という謎』

●水野和夫、大澤真幸著『資本主義という謎 「成長なき時代」をどう生きるか』/NHK出版/2013年2月発行

b0072887_10115199.jpg 世界史的な観点から経済を語ることで昨今引っ張りだこの水野和夫が社会学者の大澤真幸と対論した記録。ほぼ同じような趣向で哲学者の萱野稔人と語り合ったものが集英社新書から出ていて、その学際的な世界の捉え方には感心させられたものである。

 しかしここでの水野の発言は今一つ冴えない。前半部で資本主義とキリスト教との関連について、大澤は型通りにウェーバーに依拠してプロテスタンティズムの倫理である「禁欲」の観点から資本主義の動因を見るのに対して、水野はジョン・エルスナーを引いて資本主義の本質を「蒐集」や「強欲」にみようとする。
 大澤のみならず多くの研究家が未だにウェーバーを引用することが多いのは、やはりその説に説得力があるからだ。水野はそれに異議を唱えて「蒐集」という概念をしきりに持ち出すのだが、その概念の凡庸さもあってかウェーバー説を覆すほどの切れ味は感じられなかった。

 成長なき資本主義の行く末や「未来の他者」とどう向き合うかを論じる後半部も、大まかな方向性としては二人の見解にとくに異存はないけれど、何か茫漠とした読後感が拭いきれない。「蒐集」の行動・思考様式からの撤退を繰り返し提言している水野の議論に同調するとしても、それを具体的に政治や社会の場でどう実現していくのか本書を最後まで読んでも判然としないのだ。
 壮大なテーマに対して真正面から大上段に構えたまでは良かったが、議論は抽象論と具体論を行ったり来たりで今一つ噛み合わないし、二人の学識がかえって議論を散漫にしてしまったような印象である。
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by syunpo | 2013-07-27 10:25 | 経済 | Trackback | Comments(0)