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●唯円著、親鸞述『歎異抄』(川村湊訳)/光文社/2009年9月発行
『歎異抄』は、親鸞聖人の弟子唯円が、聖人の死後、その教えが歪められ、異なったものになってゆくことを憂え歎じて、それを正すために書いたものとされている。親鸞の生前の発言内容を唯円が記憶のままに記した前半部と、唯円が親鸞と交わした対話、親鸞の教説を唯円が解釈したり敷衍した後半部とから成る。現代語訳はすでに何種類も出ているが、「いま、息をしている言葉で、もういちど古典を」というコンセプトで注目を集めている光文社古典新訳文庫の一冊ということで、本書は思い切った策に出てきた。全編コテコテの関西弁風スタイルで現代語訳しているのだ。 これは親鸞が京都に生まれ比叡山で修業を積んだことに拠るものだが、著者と目されている唯円は常陸国の人とされているから、関西弁に置き換えるという試みじたいに無理を感じる読者のいることは当然予想される。何より非関西人にしてみれば従来の普通の現代語訳の方が読みやすいには違いない。 もっとも関西人で仏教にさほど詳しくない私としては、いささかバイアスのかかった現代語訳本ということを承知のうえで、それなりに面白く読めた。 ちなみにどのような訳文かというと、たとえばあの有名なフレーズ「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」は「善え奴が往生するんやさかい、ましてや悪い奴がそうならんはずがない」となる。その後段部分「煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるをあはれみたまひて、願をおこしたまふ本意、……」は以下のような具合である。 アホで悩みっぱなしのワテらは、いくら何をやったところで、悟りなんかひらけるもんかいな。それを見越してアミダはんが、可哀想なやっちゃ、こらあ、いっちょう救ったろかいなと、願かけしてくれはったんや。(p18) 無論、親鸞の考えはたとえ平易な言葉と文章によって再現されようとも、われわれ凡夫には必ずしもわかりやすいものではない。が、自力による思考や「はからひ」といったものは不要だと親鸞が考え、法然の教えを「もっと庶民的に、一般人に向けて押し広げたもの」とする川村の認識は訳文からもそれなりに伝わってきた。 ただ、問題の「本願他力」を「人まかせ」としているのは、いくら何でもやりすぎではないか。親鸞は自力による善行に見返りを期待する心に傲慢を見出してそれを戒め、仏の力に帰依することをとなえたのであって、「人まかせ」ではそのようなニュアンスからますます遠ざかってしまう。この言葉は歎異抄のキーワードであり、本文中でその概念の意味するところは繰り返し説明されている。従来の現代語訳──梅原猛にしても五木寛之『私訳歎異抄』にしても──その多くがそのまま「本願他力」で通しているのもそのためだろう。無理に噛み砕いてインパクトにも欠ける訳語に置き換えるくらいなら「本願他力」のままでも良かったように思う。 また、「ライブ感あふれる関西弁」を前面に打ち出しのはいいけれど、全般的にギクシャクしたガラの悪い関西弁なのが惜しまれる。とくに「……になるんや」という語尾が頻出するのが気になった。そこだけを取り出せばなんだか関西人のオヤジが競艇場でくだを巻いているような口調ではないか。たしかにいまどきの坊さんにも威張って品のない人もいるかもしれないが、ここはやはり「……になりますのや」くらいにしてほしかった。 案の定、川村湊は非関西人、北海道の出身らしい。どういう経緯で本書が刊行されたのかは知らないが、このアイデアでいくならやはりネイティブ関西人で仏教にも詳しい人間が手がけるべきではなかったかと思う。
●末木文美士著『日本宗教史』/岩波書店/2006年4月発行
宗教全般にわたってその通史を記した本というのは、意外とこれまであまりお目にかかったことがないように思うのだが、本書は、仏教学・日本思想史を専門とする研究者がその難題に挑戦したものである。それぞれの宗教が、相互に関連し影響を与えあいながら変遷をたどってきた流れが手際よくまとめられていて、大変勉強になった。本書の核を成す基本認識は、歴史以前から歴史を一貫して貫く日本的発想の〈古層〉なるものを否定し、〈古層〉自体が歴史的に形成されてきたもの、と考える点にある。 そのような観点からすれば、日本独自の伝統的な信仰と目される神道も古くから連綿と続いてきたものではなく、時代とともに内実を変化させてきたものとして捉えられる。『古事記』や『日本書紀』などの神話も仏教との関連抜きには語れない。 古代から中世にかけては、まさに神仏を中心に複合的な形で宗教が展開した。一般に神仏習合といわれる現象であるが、それ自体が多様な形式をとるものである。時に、仏教側の神祇不拝や神道側からの神仏隔離などの思潮も見られはしたものの、仏教の影響を受けながら神道理論が形成されるようになった。 近世になると、武士階級のイデオロギーとなった儒教を含めた神仏儒の交渉の時代になる。また、この時期には国学から復古神道が台頭してくるなかで、再び記紀神話への傾注がみられるが、その中に純粋で理想的な日本の〈古層〉を発見するということは、むしろ新たな〈古層〉の創出と見るべきだ、と著者は主張する。 明治時代から戦前にかけては、国家神道が宗教の枠を超えることによって、その他の宗教は制約を受けることになったが、キリスト教、仏教、新宗教などそれぞれが心の問題や社会問題への対応をめぐって、宗教としての活動を展開した。 興味深いのは、日本を神国とする優越的な認識も、末法思想的な国家観が後に逆転したもの、という指摘である。 末法の辺土には、仏がそのまま現われて衆生を救うことができないから、そこで日本の神として垂迹することが必要になる。……(中略)……こうして、神でなければ救われないから、日本は神国なのであり、神国説はもともと必ずしも日本の優位を言うわけではなかった。それがやがて逆転して、日本は神によって守護された特別の国であるという意に用いられるようになるのである。(p65〜66) 著者は宗教史の最大の課題は「表層から隠れて蓄積してきた〈古層〉を掘り起こして顕在化させ、その〈古層〉がいかにして形成されてきたかを検証すること」と述べている。本書はそれを概観することによって充分にその役割の一翼を担っている、と言っていいと思う。 < 前のページ次のページ >
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