カテゴリ:文化全般( 24 )

クヨクヨすることから表現は始まる!?〜『コンプレックス文化論』

●武田砂鉄著『コンプレックス文化論』/文藝春秋/2017年7月発行

b0072887_1964470.jpg コンプレックスについて語る。といっても本当に切実そうなものからネタ的なものまで種々雑多。リストアップされているのは〈天然パーマ〉〈下戸〉〈解雇〉〈一重〉〈親が金持ち〉〈セーラー服〉〈遅刻〉〈実家暮らし〉〈背が低い〉〈ハゲ〉の十項目である。

 それぞれの項目について、該当者へのインタビューをはさんで、関連するテクストを読み込み文化全般に目配りのきいた武田の批評的なエッセイを配する、という趣向。

 本書を読んであるある的な実感を得て安心するというような人がどれだけいるのかわからないが、かといって語られている内容に対して生真面目に反論したり違和感を表明したりする本でもないだろう。武田のクネクネした文章芸を楽しめばよろしいと思う。

 もっとも身体や生育環境に起因するコンプレックスがなにがしかの表現活動を産出する原動力になるというテーゼは、それじたいが一つの紋切型ではある。そういう意味では〈解雇〉とか〈遅刻〉など、通常なら「コンプレックス」の範疇に入ることのない異なった次元にあるものをテーマに採った場合に、武田の批評精神がいっそう活きているように思われる。

 たとえば〈解雇〉の場合、ロックバンドにまつわる解雇の事例を概観したうえで、所属事務所から契約解消され「ハイパー・メディア・フリーター」として活動している黒田勇樹へのインタビューをはさんで、シモーヌ・ヴェイユなんかを引用して「切実な表現は残酷な解雇から生まれる」と結論する展開は武田ならでは。

 これが〈遅刻〉話になると、仕事が遅れ気味だった宮崎駿の例をもちだし、中谷宇吉郎の随筆を引いて時間厳守することの精神的疲弊を指摘した後に、遅刻の常習犯・安齋肇のインタビューにすすむという寸法。主張の中味よりも道具立ての面白さで読ませるといったおもむきである。

 つけ加えれば〈親が金持ち〉コンプレックス論などは、貧乏人の私にはほとんどシュールレアリスムの世界をのぞいたような異様な読後感をもたらしてくれた。

 デビュー作の『紋切型社会』の切れ味には及ばないけれど、各界のコンプレックス文化人の語りと武田節がほどよくハーモニーを奏でた奇妙で興味深い本といっておこう。
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by syunpo | 2017-08-24 19:10 | 文化全般 | Trackback | Comments(0)

人と本との出合いを邪魔しない〜『本屋、はじめました』

●辻山良雄著『本屋、はじめました 新刊書店Title開業の記録』/苦楽堂/2017年1月発行

b0072887_18304329.jpg 二〇一六年一月、東京・荻窪で『Title』という名の本屋をはじめた辻山良雄の奮戦記ともいうべき本である。いや奮戦記という表現は誤解を与えるかもしれない。その語が発散する汗臭さのようなものは記述からはほとんど感じられないところが本書の美点なのだから。

 幼少期の本にまつわる原風景的な記憶から語りおこし、リブロ勤務時代の挿話、退社を決意して開店準備を並行的に進めた時期の裏話、開店後の仕事のあらましや店作りにおける考え方などが順を追って綴られていく。

 一般的に個人が古書店を始めるのはよくあることだが、新刊書の書店を開くのは珍しいようだ。商品を仕入れるためには取次を利用するのが一般的で、書店が取次と口座を開く際には、最初に仕入れる商品の金額とは別に「信任金」を預けなければならず、初期費用が莫大にかかるのが個人で開業する場合に足かせになるらしい。辻山はリブロ時代の人脈を活かして、大手取次の日販と契約を交わすことができた。事前に詳細な事業計画書を作っていたことなども奏功したのではないかと辻山は振り返っている。

 辻山の本屋に関する考え方はとてもおもしろい。一時、どこの本屋に行っても同じような本が並んでいるということが「金太郎飴書店」といわれ、本屋が面白くなくなったことを指す代名詞のように使われた。しかしそれに対抗するように店主が厳選した品ぞろえをする「セレクト書店」というものにも抵抗があったのだという。

 ……自分も客として、さまざまな「セレクト書店」に足を運びましたが、特に最近ではその品ぞろえが似てくる傾向にあり、新しい店なのだけれど既視感が強い店が増えてきたようにも思います。(p95)

 セレクト書店もまた陳腐化してきたということなのだろうか。そこで辻山が目指す店作りは「現在世の中で売れているベストセラーを混ぜながらも、ある価値観で統一された品ぞろえを核としていくということを基本としました」。

 本の売り方についての辻山の姿勢にはもっと深く共感できるものがある。Titleでは販促用のPOPを置いていない。それにははっきりとした理由がある。

 ……店頭に並んでいる本を選び、気に入ればそれを購入するのはお客さまなので、本屋にできることは、なるべくお客さまと本との出合いがスムーズにいくように、邪魔をしないということです。(p150)

 また他業種の店舗にブックセレクションする仕事について語っている箇所で、本というモノの価値にあらためて思いをいたしているくだりもじつに印象深い。「通常本を置いていない店にとって、本というのはそれ一冊で、店の哲学を表してくれるような、店のアイデンティティに深くかかわるような商材」だというのだ。

 不特定多数の〈みんな〉のための店では、結局誰のための店でもなくなってしまう。これからの町の本屋は、町にあるからこそその個性が問われるという。そのためには、店を構えている土地の文化とも何らかの交わりがなくてはならないだろう。
 本書では巻末に細かな事業計画書や初年度の営業成績表も添付されている。これから書店を始めようと考えている読者を意識したコンテンツであるが、同時に全体としては誰が読んでもおもしろい記述内容になっている。この絶妙の匙加減こそは、まさにTitleの店作りとも重なりあうものではないか。

 ところで今はどんな本が売れているのだろうか。「切実な本」というのが辻山の答えである。

 マーケティングから売れる本の何が良くないかと言えば、必ず違う似たような本に取って変わられるからです。言ってみれば「替えがきく」という事なので。本は、元は一冊一冊が「替えがきかない」はず。替えがきかない「切実な本」にこそ、人の興味はあると思います。(p183)

 このような認識は、おそらく文化的な商材全般にあてはまりそうな気もする。本を映画や音楽に置き換えても言えることではないだろうか。いずれにせよ、地域で顔の見える客と常に対面している人だからこそ書きえた、という意味では、本書もまた「替えがきかない」本といえるかもしれない。
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by syunpo | 2017-06-26 18:38 | 文化全般 | Trackback | Comments(0)

偽物は本物の対立物に非ず!?〜『ニセモノ図鑑』

●西谷大編著『ニセモノ図鑑 贋造と模倣からみた文化史』/河出書房新社/2016年10月発行

b0072887_1221674.jpg 国立歴史民俗博物館が二〇一五年に開催した企画展《大ニセモノ博覧会─贋造と模倣の文化史!》の展示内容をベースに編集した本。ニセモノ(フェイク、イミテーション、コピー、レプリカなど)の意義や価値を文化史の観点から再考しようという試みである。

 人をもてなすうえで重要な空間だった大家の「床の間」を歴史的に再検証したり、偽文書の時代背景を考察したり、コピー商品の価値を天目茶碗を実例として吟味したり、人魚などの架空の存在を博物学的に振り返ったり……と内容は多岐にわたる。

 全体をとおしてニセモノ文化に対して寛容な態度、という以上に積極的な価値を見出そうとする姿勢が貫かれている。たとえば偽文書の研究をとおして当時の社会状況や時代背景を個別具体的に知ることができるし、博物館におけるレプリカには、実際に見聞することのできない物事を時空を超えて展観できる大きなメリットがあるだろう。

〈本物/偽物〉という旧套な二項対立を相対化・無効化するような論考はジャン・ボードリヤールをはじめこれまでにも提起されてきたので、本書のスタンスに独創性があるわけではない。が、基本的には本物を志向しているはずの博物館の企画展示という点では、冒険的なものであった様子がうかがわれる。そのあたりの楽屋話も後半に披瀝されていて興味深い。

 いささか散漫な印象は拭えないが、写真やイラストなどビジュアル素材がふんだんに掲載された作りは「図鑑」の名にふさわしく、楽しい本であると思う。
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by syunpo | 2017-04-14 12:28 | 文化全般 | Trackback | Comments(0)

文化の自己決定能力を〜『下り坂をそろそろと下る』

●平田オリザ著『下り坂をそろそろと下る』/講談社/2016年4月発行

b0072887_1152418.jpg 日本はこれから衰退期を迎える。これから日本人は三つの寂しさと向き合わねばならない。そのように平田オリザは言明する。

 日本はもはや工業立国ではない。
 日本はもはや成長はせず長い衰退期を戦っていかなければならない。
 日本はもはやアジア唯一の先進国ではない。

 以上三つの寂しさを受け止め、受け入れること。本書はそのための方策やヒントとなる事例を記した書物である。結論的にいえば、平田は「文化の自己決定能力が地域の競争力を決定する」と言い切る。第三次産業の比率が大きくなっている現状から考えれば、地域に人を呼び戻し人を集めるためには文化の力をおいてない、そしてその政策は中央に決めてもらうのではなく地元のことを最もよく知っている自分たちが決めること。そこに活路を見い出せというわけである。著者自身も書くようにこれは藻谷浩介の『里山資本主義』の文化版というべき趣の本といえよう。

 本書では具体的に取り組んでいる豊岡市や善通寺市の実例を細かく報告している。いずれも平田自身が関与しているのでやや手柄話めくが、それなりに説得力を感じさせるものだ。

 豊岡市は、志賀直哉の小説〈城崎にて〉で知られる城崎の温泉街をもっている強みを活かした町づくりを実践。平田の提案で城崎国際アートセンターを創設し、演劇人たちの拠点となるような施策を行なっている。アートセンターに滞在するアーティストたちは低料金で外湯に入れるなどの特典を与えられる。アーティストたちに安く温泉を利用してもらうために条例改正まで行なったという。
 善通寺市は四国学院大学を核とした町おこしを行なっている。この大学に本格的な演劇コースを設置し、学生たちを全国から集めているのだ。文化資本は「本物」に触れることでしか育たない。地域間格差を解消するためには「地方こそ教育政策と文化政策を連動させて、文化資本が蓄積される」環境をつくっていかなければならないというワケである。

 とはいえ疑問も残る。もともと歴史的に文化資本が伝承されてきた地方はいいけれど、これといってセールスポイントがない場合、ゼロから文化を発信していくのは口でいうほど簡単ではないとの反論もあるかもしれない。
 また「文化の自己決定能力が地域の競争力を決定する」というテーゼじたいは論理的には否定しがたいことは認めるけれど、結局は苛酷な地域間競争にさらされるしかないのかと思うと、やはり気が重くなる。限られたパイを奪いあう競争では勝者のカゲにそれ以上の敗者があらわれる。敗者はただ下り坂を転げ落ちていくだけではないか。これといって対案があるわけではないけれど、みんなで「下り坂をそろそろと下る」こともまた容易なことではないような気がする。
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by syunpo | 2016-10-08 11:55 | 文化全般 | Trackback | Comments(0)

日本の文化を考えぬいた生涯〜『加藤周一最終講義』

●加藤周一著『加藤周一最終講義』/かもがわ出版/2013年12月発行

b0072887_2041434.jpg 標題が示すとおり加藤周一の「最終講義」をまとめた本。四つの講義記録からなる。

 佛教大学での講義〈マルキシズム、仏教、朱子学とその日本化〉では、マルクス主義や仏教、朱子学の受容ぶりをとおして、日本の現世主義・個別主義・実際主義・唯物論が浮き彫りにする。とくに面白味のある講義ではないが、代表作『日本文学史序説』で提示した日本論を終生維持していたことがよくわかる。

 加藤を囲む勉強会である白沙会の〈何人かの歴史上の人物について〉は中華料理店で行なわれたもので、全編にわたって質疑応答の形式をとっている。ピカソや富岡鉄斎、漱石研究のあれこれやメキシコ体験談など、いささかとりとめのない内容。

 北京・清華大学での〈私の人生、文学の歩み〉は本書のなかにあっては比較的まとまった文章で、自身の来歴を語りつつ『日本文学史序説』の自己解説的な話が展開される。

 どうしてばかげた戦争をしたのか、あるいは、一五年戦争をはじめてから無条件降伏まで続けるということは、いったいどういう文化がそれを可能にするのかということ。それが根本的な問題。私は生涯をあげてその点に答えようとした……(p114)

 そこで『日本文学史序説』では一つの回答を提出した。日本文化とは何かという問いへの答えはひとことで言えば「集団主義プラス超越的価値の不在」。集団主義は、どういう集団の成員の一人も超越的価値にコミットせず、集団の一致した多数意見があらゆる問題に対しての最後の答えになる、というものである。ゆえに集団の構造、枠組み、目的は動かすことができない。「日本社会のなかにおこるほとんどすべての現象は、いま言った根本的原理によって動かされていると思います」。

〈京都千年、または二分法の体系について〉と題した立命館大学における講義は、持続と変化をめぐって京都という場所に引きつけながら語ったもの。ヨーロッパから帰国したとき、自分自身の文化的アイデンティティを確かめる場所としては京都しかなかったという回想は、やや紋切型の域を出ないものの、加藤の日本文化論を理解するうえでは興味深い挿話といえるかもしれない。
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by syunpo | 2015-11-11 20:10 | 文化全般 | Trackback | Comments(0)

複数の速度、複数の歴史〜『視覚文化「超」講義』

●石岡良治著『視覚文化「超」講義』/フィルムアート社/2014年6月発行

b0072887_22411218.jpg 紀伊國屋じんぶん大賞二〇一五年度の第二位にランクインした本。著者によれば「視覚文化論は、作品批評を含めた文化論であり、哲学や芸術論に隣接した分野」ということらしく、ハリウッド映画、絵画、ポップミュージックのPV、アニメ、ゲームなどなど、視覚文化全般への目配りの広さにはなるほど感心させられる。引用・参照される文献も、ボードリヤールやマクルーハン、ドゥルーズは当然として、リオタール、ガルブレイス、荒木飛呂彦、千葉雅也をはじめ「デジタルゲームの教科書制作委員会」なるユニットの著作まで幅広い。

 ただその博覧強記が本書の面白味につながっているかというと疑問符がつく。概論的な能書きにけっこうな字数が費やされているうえに、作品名が具体的に次々と挙げられていくくだりはクリティックというよりも紹介文に毛の生えたレベルだったりする。むろんそうしたカタログ的な記述が一種の批評性を具えていると言えなくもないけれど。本書のハイライトともいえる《バック・トゥ・ザ・フューチャー》に関する分析も私にはいささか退屈だった。

 とはいえジャンルの垣根を超えシニカルな懐疑を排してあれもこれもと視線を滑らせていく軽さはやはり貴重なものだろう。インターネットが加速させた「文化の民主化」のなかから必然的にあらわれた書物とでもいえばよいか。またその豊富な参考文献リストは視覚文化を学ぼうとする読者には文字どおりガイダンス的な役割を果たしてくれるかもしれない。
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by syunpo | 2015-02-08 22:43 | 文化全般 | Trackback | Comments(0)

アウトサイダーの視点〜『こんにちは、ユダヤ人です』

●ロジャー・パルバース、四方田犬彦著『こんにちは、ユダヤ人です』/河出書房新社/2014年10月発行

b0072887_20293819.jpg 小説・劇作・演出など多方面で活躍中のユダヤ人、ロジャー・パルバースとイスラエルに滞在経験をもつ四方田犬彦の対談集。ユダヤ人とシオニズムをテーマに「抽象的で頭デッカチの哲学談義」ではなく、「どこまでも自分が体験し、邂逅した人々の話から出発する」ことを原則に交わされた二人の対話はなるほど具体的でおもしろい。オーストラリア国籍でイスラエルに行ったことのないパルバースが四方田にイスラエルの国内事情を尋ねるなど、時に出現する捩れた場面がいっそう本書に興趣を添えている。

 二人に共通しているのは政治的シオニズム、ひいてはイスラエルという国家の建設そのものに対してともに批判的であること。そのうえでパルバースは繰り返しユダヤ性に関する自身のポジティブな考えを力説している。

 ユダヤ人とは何かというと、ユダヤ人という一つの媒体を通して、他の民族、他の人たち、自分と違う人たちの悩みを癒そうとすることです。それがユダヤ人ではないでしょうか。(p43)

 アウトサイダーの目をもって、人間の悲しみ、犠牲になっている人たちの悲しみがどう乗り越えられるかについて悩む人を、本当のユダヤ人だと思いたいですね。(p136)

 自分がいかに他人、そしてかなり悪意のある他人に自分のことを説明できるか。いかに好意的に対応してもらえるか。ユーモアとかドラマとか日常のことを表現した芸術や美術を通してやっていこうと思ったのがユダヤ人ですね。(p155)


 言葉をかえて反復されるパルバースのこうした発言を読めば、イスラエル批判がただちに反ユダヤを意味するものでないことは当然ながら理解しうる。パルバースは以上のようなユダヤ性を米国で体現した人物として、モリー・ピコン、ファニー・ブライス、ゲルトルード・バーグの三人の女性を挙げている。
 それを受けた四方田はハリウッドに顕著なユダヤ性のもう一つの側面を浮き彫りにして議論の立体化を試みる。すなわちハリウッド映画におけるユダヤ人の自己言及の乏しさを問題にして、彼らはユダヤ性を脱色しながらアメリカンドリームを表現してきたことを指摘する。

 ユダヤ人はアメリカに過剰な同一化をはたしたと言われたけど、むしろ確実にWASPのドリームがあってそれに同一化したというよりも、彼らがWASPの夢をつくってきたような気がするんです。(p165)

 また後半で、四方田が三人のユダヤ人──マルクス、シェーンベルク、フロイト──に言及するくだりはパルバースが充分に対応できずに物足りなく感じられる箇所が散見されるものの、ユダヤ知識人試論として本書のハイライトともいっていいのではないか。

 マルクスについては批判的に論評している。彼はドイツの中心から排除され、同時にユダヤ人のコミュニティからも逸脱した人物だった。《ユダヤ人問題に寄せて》と題する論文で、ユダヤ教の根拠とは暴利と貪欲と利己主義だと述べ、資本主義とは貨幣=ユダヤの神様に支配された社会であり、ユダヤ人を世界から解放するのではなくて、世界をユダヤ人から解放しなければならないと主張した。四方田はこの点を捉えて「こうした偏見的修辞が彼の資本主義批判の前提になっていることをなぜ誰も問題にしないのか」と提起する。

 シェーンベルクは若い時にユダヤの信仰を捨てたものの、ヒトラーが政権をとったときにユダヤ教に入り直した。そしてオペラ《モーセとアロン》を書こうとしたが未完に終わった。

 ……ユダヤ教のユダヤ主義の神様に向かって今の芸術家が何ができるか。最後まで未完成だろうとも、覚悟していたのかもしれません。描いてはいけない神様を描くという、初めから失敗する、負けることをわかっている勝負に関わった。これはぼくは勇気ある、尊敬すべきことだと思います。この失敗に感動するんです。(p221)

 ユダヤ人がこれから迫害され虐殺されて大変だというときに、ユダヤ人をやめましたと言えばまだ助かるかもしれないときに「俺こそユダヤ人だと宣言してモーセのオペラをつくろう」としたシェーンベルクのユダヤ人としてのありかたを四方田は熱く肯定するのである。

 フロイトは文化的シオニズムに対してはある種の期待を持ちつつも、政治的シオニズムには否定的だった。「自分はヘブライ語の知識もなくて、ユダヤ教も信じていない。それどころか、あらゆる宗教を信じていません。民族という考え方も理解できない。民族という理念も共有できない。にもかかわらず、自分は本質的にユダヤ人だ。ユダヤ人である同胞と縁を切ったことは一度もない」と書いて、みずからのユダヤ性と向き合った。四方田の熱弁を受けて、パルバースが「これは二〇世紀における新ユダヤ人の原型」と評して共感する場面は印象的だ。

 またスピルバーグの《シンドラーのリスト》では、収容所で歌われる曲が一九六〇年頃のイスラエルの流行歌で、イスラエルでのプレミア上映では失笑をかったという挿話は本書で初めて知った。当然、四方田のスピルバーグ評は辛辣である。また原節子が反ユダヤ主義的な発言を残していることにも話は及び、小津=原節子の現代における無批判な受容を「日本の危険なノスタルジー」と警戒する四方田の発言は注目に値するだろう。

 とにもかくにもユダヤ性の何たるかを考察することは必然的にマイノリティやアウトサイダーをめぐる世界史的な思考へと読者を導かずにはおかない。野暮ったいタイトルで損をしているが、内容は濃密である。異論反論もあるだろうけれど様々な問題提起を孕んだ刺戟的な対談集であることは間違いない。
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by syunpo | 2014-11-10 20:51 | 文化全般 | Trackback | Comments(0)

秩序ある混沌の美〜『動的平衡ダイアローグ』

●福岡伸一著『動的平衡ダイアローグ』/木楽舎/2014年2月発行

b0072887_11242231.jpg 二〇世紀前半に活躍した生化学者、ルドルフ・シェーンハイマーは「生命とは代謝の持続的変化であり、この変化こそが生命の真の姿である」と宣言した。われらが福岡伸一はその命題をさらに拡張して生命を「動的平衡にあるシステム」だと定義づける。秩序は守られるためにたえまなく壊されなければならない、生命とは互いに相反する動きの上に成り立つ同時的な平衡=バランスである、と。
 本書はそのような認識を共有する人々と福岡が対話した記録である。相手は、カズオ・イシグロ、平野啓一郎、佐藤勝彦、玄侑宗久、ジャレド・ダイアモンド、隈研吾、鶴岡真弓、千住博……と多彩な顔ぶれ。ここに登場する人々はアプローチの方法こそ異なるものの、いずれもそれぞれのやり方で動的な世界を表現しようと格闘している人たちということができるだろう。

 生命が動的平衡にあるシステムとするなら、私たちはどうやって「私は私である」という自己同一性を保つことができるだろうか。その一つが「記憶」なのではないか。カズオ・イシグロとの対談ではそれがメインテーマとなる。「記憶は死に対する部分的な勝利」というイシグロの発言などは文学者にしてはいささか陳腐ではあるけれど、科学と文学(芸術)の相補性に関する福岡の言葉には本書のコンセプトそのものが凝縮されているようにも思われる。
 その意味では仏教者でもある小説家・玄侑宗久との対話にはより深長な読み応えがあった。福岡の生命観と仏教のそれとの類似性に言及しながら玄侑はいう。

 現代人にとって、自分が観察者となって移りゆく世の中を眺め、「世界は変化し続けている」と思うことは難しくないと思うんです。でも、「そう思う自分も、無常に変化しつつある」と知ることは決して簡単ではない。(p108)

 そのうえで言明する。「いくらでも揺らいでいい、いや、むしろ揺らいだほうがいい。そう思えたら、いまよりずっと楽に、そして強く生きていける」と。

 ジャレド・ダイアモンドとの対論では、福岡がダイアモンドの人類学的な知見に関心を向け、「他人に迷惑をかけない」という日本に根付いている規範が世界共通のものではないことが確認される。生存競争の厳しい社会では「独立性」や「タフで強いこと」などサバイバルに必要な規範が優先されるのである。

 美術文明史家・鶴岡真弓とのケルト文化論も示唆に富む。ケルトの渦巻き文様に生物の成長と同時に諦念の象徴を見出したうえで、福岡は「この世界に一貫性や整合性を求めるのは人間だけで、生命がしていることは、常に自らを壊して新たにつくり替えることだけ。むしろそこに、生命が本来もつ自由の源泉もある」との認識を示す。

 千住博との対話では生命の色としての青にまつわる話に始まり、プロセスの積み重ねとしての芸術、ケオティック・オーダー(秩序ある混沌)としての生命体……という具合に、やはり「動き」が鍵言葉となる。「人間は、動きに反応することはできても、動き続けているものを記述することはできない。だから、科学は、生きているものを殺し、それを止まった情報にすることで対象を理解しようとしてきたわけです」という福岡の自省的な言葉が印象に残る。

 文化・芸術全般に対する福岡の並々ならぬ素養と好奇心がうまい具合に対談相手と絡んで、互いに発話が熱を帯びてくる様が読者にも伝わってくる。福岡のいう「エッジエフェクト(界面作用)」の効いた、じつにおもしろい対談集である。
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by syunpo | 2014-06-21 11:47 | 文化全般 | Trackback | Comments(0)

未来を探る旅〜『縄文聖地巡礼』

●坂本龍一、中沢新一著『縄文聖地巡礼』/木楽舎/2010年5月発行

b0072887_1932367.jpg 諏訪、若狭・敦賀、奈良・紀伊田辺、山口・鹿児島、青森。日本に残された縄文的文化の聖地に音楽家と宗教学者が巡礼する。本書はその旅と対話の記録である。
 それにしても今、何故「縄文」なのか? 縄文的文化を称揚する声はこれまであまた発せられてきたが、本書における縄文への関心は現代社会に対する危機感の裏返しによるものである。九・一一が象徴するような「圧倒的な非対称」、グローバリゼーションがもたらした世界的規模における貧富の差の拡大を目にするとき、等価交換原理に基づく貨幣経済を中心に回っている現代文明の限界を見出さずにはいない、というのが二人の共有する認識である。そこで国家をもたず贈与経済で動いていた縄文的文化を見直すことの可能性があらためて浮上してくるというわけだ。中沢はいう。

 私たちがグローバル化する資本主義や、それを支えている国家というものの向こうへ出ようとするとき、最高の通路になってくれるのが、この「縄文」なのではないでしょうか。(p10)

 縄文の聖地を歩くことで見えてきたものは何か。たとえば中沢は諏訪地方に死とエロスの残存を見いだして、現代のシステム論に読み替える。「死とエロス、つまり腐敗と再生の要素が入ると、循環・浄化のシステムができる。それがないと廃棄物が過剰になっていく」。
 過剰な廃棄物の深刻な例の一つが核廃棄物であることは言を俟たない。「坂本さんと一緒に縄文の聖地を歩きながらそのことを考えていると、原発のようなものを根源的に乗り越えていく発想をつくっていくことが可能なんじゃないかという気がするんです」という中沢の発言はいささか素朴にすぎるのではないかとの批判もあるかもしれない。しかしこうした二人の対話の基本的な枠組みは、その数年後に中沢と國分功一郎との間で交わされた『哲学の自然』にも受け継がれていて、その意味では超原発的な発想が福島での事故によって出てきた俄拵えのものではないことが理解されるだろう。

 坂本もアーチストとしての直観的発言もさることながらスティーヴン・ミズンやピエール・クラストルを引きつつ知的な対応ぶりをみせていて議論をうまく展開させてる。むろん〈アースダイビング〉的な二人の対話はアカデミズム的見地からすると粗雑で誤謬も含まれているかもしれないが、未来に向けての示唆が多分に盛り込まれていることもたしかだろう。
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by syunpo | 2014-01-06 19:08 | 文化全般 | Trackback | Comments(0)

未来なき日本を語る〜『村上龍と坂本龍一 21世紀のEV.Café』

●村上龍、坂本龍一著『村上龍と坂本龍一 21世紀のEV.Café』/スペースシャワーブックス/2013年3月発行

b0072887_9221848.jpg 村上龍と坂本龍一の対論、それにゲストを加えて一九九八年から一九九九年にかけて行なったトークセッションの記録が計七篇。巻頭に二〇一二年に語りおろした村上龍と坂本龍一の対談を収めている。ゲストとして参加しているのは、北野宏明、浅田彰、伊藤穣一・竹中直純、赤尾健一、塩崎恭久。一九八〇年代に刊行された前回の『EV.Café 超進化論』が、柄谷行人、蓮實重彦、山口昌男、浅田彰ら錚々たる顔ぶれだったのに比べると、今回のゲスト陣はいささか小粒といったら失礼か。また座談後十年以上が経過しているということもあって、伊藤・竹中とのインターネット論や塩崎を迎えての政治談義などは賞味期限切れの感なきにしもあらず。

 そのなかでかろうじて面白く読んだのは、前回に続いて登場している浅田彰との鼎談。世紀末における世界の動向を政治・経済・文化・思想の諸観点から大掴みに交通整理していく浅田の手際はそれなりに振るっている。悠久の生物史・人類史を踏まえたうえで(単なる現状追認ではなく)「偶然の選択であっても、これでいいのだと肯定できる思想」を、ニーチェやドゥルーズや赤塚不二夫を引いて語っているくだりが印象に残った。
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by syunpo | 2013-04-26 22:10 | 文化全般 | Trackback | Comments(0)