カテゴリ:社会学( 20 )

他者への想像力をきたえるために〜『「今、ここ」から考える社会学』

●好井裕明著『「今、ここ」から考える社会学』/筑摩書房/2017年1月発行

b0072887_2032337.jpg『排除と差別の社会学』『戦争社会学』などの著作で知られる好井裕明による社会学の入門書である。ちくまプリマー新書の一冊。

 導入部で六人の社会学者を紹介しているのが本書の良き羅針盤となっている。行為の社会性に注目したマックス・ウェーバー。相互行為に焦点をあて闘争の社会学を論じたゲオルグ・ジンメル。「構造」という視点から秩序や道徳を考えたエミール・デュルケーム。主我(I)と客我(me)のダイナミクスによる自己の形成を考えたジョージ・ハーバート・ミード。「日常生活世界」を再発見しそれを重要な課題としたアルフレート・シュッツ。互いに差異をもった「人々の方法」論としてエスノメソドロジーを提唱したハロルド・ガーフィンケル。

 本書のタイトル「今、ここ」はシュッツの日常生活世界に拠る。ただし本書の解説を読んでも、その意味や画期性は私には今ひとつ理解できなかったのだが。

 この世界は、私という人間存在を中心として空間的、時間的に位相を変えて構成されています。そしてその世界のゼロ点であり、意味を生きている私の存在を確認できる原点が「今、ここ」という瞬間なのです。(p36)

 この箇所に限らず全体を通して理念やお題目が先行していて、私にはいささか退屈な読み味だったというのが正直なところ。
 スマホを中心とするIT時代の考察も紋切型の域を超えているとは思えないし、障害者の問題に関してもとくに異論はないものの優等生的な記述がつづき、私的には社会学の醍醐味を充分に感じるまでには至らなかった。

 考えてみればすぐわかるように、私たちが普段生きているとき、具体的に出会う人々よりも出会わない人の数の方が圧倒的に多いのです。とすれば出会わない人々と自分が「今、ここ」で生きているとはどういうことなのかなどを考え、「見たことのない、会ったことのない他者」が同じ時間を生きていることへの想像力を鍛え他者理解のセンスを磨くことは、けっこう面白い営みではないでしょうか。(p189)

「今、ここ」と「会ったことのない他者」とをいかにつなげて考えていくのか。口でいうほど簡単なことだとは思えないが、具体的にそれを思索し実践するのは読者自身ということなのだろう。
[PR]
by syunpo | 2017-03-23 20:36 | 社会学 | Trackback | Comments(0)

人をもう少しだけ利口にする環境を〜『感情で釣られる人々』

●堀内進之介著『感情で釣られる人々 なぜ理性は負け続けるのか』/集英社/2016年7月発行

b0072887_2014392.jpg サブタイトルにある「なぜ理性は(感情に)負け続けるのか」という問いは、米国大統領選のドナルド・トランプの勝利でますます切実なものとなってきている。あからさまに女性や移民を蔑視する下品な男が超大国の政治リーダーの座につこうとしているのだ。その結果について「理性が感情に敗れた」とする論評はすでにたくさん出回っている。本書は大統領選の結果が出る前に刊行されたものだが、まことにタイムリーな主題を扱ったものといえよう。

 もともとアカデミズムの世界では「理性」と「感情」の関係は昔から定番のテーマとして考察されてきた。最近では「理性よりも感情の方が大事なのではないかということがあらためて議論になっている」という。その流れのなかで「感情」のポジティブな面を評価する見解もさまざまに提起されているらしい。

 ……感情的になること自体は否定されるべきでもないし、その必要もない。むしろ感情的であることが足りない場合さえあるかもしれない。大切なのは、感情的であることと同時に、それを自覚することであり、無自覚にならないための予防をすることだ。(p29)

 堀内は、感情の動員に関して、動員「される側/する側」それぞれの視点から、広告やマーケティングの手法などを検証していく。また政治における感情の動員についても歴史的に概観している。

 昔も今も、労働・消費・政治のそれぞれにおいて感情の動員が存在している。うまくいっている社会には必ず感情の連帯がある。それゆえ、感情的な連帯であるところのコミュニティに期待する論者が近代において数多く生まれてきたのである。アレクシ・ド・トクヴィル、ロバート・パットナム、マイケル・サンデル、ロバート・N・ベラーらがそうである。

 そして最新の社会学の教えるところによれば、次のようになる。
 必ずしも、感情の連帯が豊かになれば、社会がより健全になるということはできない。感情の連帯はよい社会に必要だが、それだけでは十分ではない。結局、感情の連帯はよい社会であればよりよく、悪い社会であればより悪く、その社会の構造を強くしてしまうだけだからだ。

 では私たち一人ひとりはどのようにすればよいのか。感情の動員が一定の成果をおさめてきたことを見た以上、あらためて理性の復権をストレートに説くことが有効でないことは明らかである。そこで重要になってくるのは「ナッジ」である。

 「ナッジ」とは行動経済学で「多過ぎる選択肢を体系化して選びやすくする技術」を指す言葉である。〈iNcentive=インセンティブ〉〈Understand mappings=マッピングを理解する〉〈Defaults=デフォルト〉〈Give feedback=フィードバックを与える〉〈Expect error=エラーを予期する〉〈Structure complex choices=複雑な選択を体系化する〉の頭文字をとって「ナッジ」と呼ばれる。

 たとえばトイレの男性用便器。尿はねを防ぐために適切な場所に標的を表示しているものを見かけることがある。標的以外には何も記されてはいない。感覚的についつい標的を狙ってしまう人間の習性を利用して、尿はねを防止するのだ。

 権力者が尿はねを嫌うならば、絶対に尿はねしないようにしなければ用を足せない仕組みを作りあげることもできるだろう。選択肢を狭めることで人々を管理しようとする環境管理型権力とはそのようなものである。それに対してナッジには選択の余地が十分に残っている。堀内はナッジに期待する理由を以下のように説明する。

 ……トイレに描かれた標的は尿はねがもたらす掃除の苦労に思いを馳せながら便器の前に立つことを私たちに要求しない。また、立つ位置、目がける位置を側に立って教えてくれる補助員を必要としない。そして何よりも重要なのは、私たちの理性と意志が適切に働くことを前提としたシステム設計である点だ。つまり、コストを可能な限り抑え、選択の余地のないパターナリズムを避けることをナッジは可能にしてくれるのだ。(p200)

 むろん、ナッジを可能にする制度に対しては、アーキテクチャーによる支配、パターナリズムではないかという批判はありうる。ならば、ナッジを権力者のパターナリズムに転化させないことが必要だ。「ナッジであることを明記する」などナッジを自覚的に使うこと。堀内はささやかながらそのように提案している。それは、理性を助ける「環境」をちょっとした「やり方」でととのえること、と敷衍していいだろう。

 正直、結論的に述べられているナッジの効用については、私には今ひとつピンとこないものがある。わかったようなわからないような、とでもいえばよいか。しかし、感情の動員がいかに行なわれ、いかに効果を発揮してきたかを知ることは無駄ではない。理性が負け続けるメカニズムを知っておくことは、理性の力を信ずることと矛盾しない。

 感情による動員が必要だという人々は、まるで私たちの社会が理性を中心に回っているかのようにいう。しかし、繰り返し述べてきたように、理性的過ぎることが問題になるほど人類が理性的であったことは一度もない。理性それ自体への批判は重要だが、それは、いまだ十分に理性的でないことへの批判であるべきではないだろうか。だからこそ、私たちは、人間の非合理性を解決しようとしてきた。それなのに、「理性の時代は終わりだ、これからは感情の時代だ」などと言うのは楽観的過ぎる。(p210〜211)
[PR]
by syunpo | 2016-12-07 20:25 | 社会学 | Trackback | Comments(0)

社会構造の変化を見極める〜『私たちはどこへ行こうとしているのか』

●小熊英二著『私たちはどこへ行こうとしているのか 小熊英二時評集』/毎日新聞出版/2016年6月発行

b0072887_20372787.jpg 小熊英二の時評集としては『私たちはいまどこにいるのか』につづく第二弾。二〇一一年から二〇一五年にかけて公表した時評類を収めている。

 反原発デモに関する論考は、あくまで前向きな論調が良くも悪しくも印象的。東日本大震災後に行なわれた衆議院選挙で、反原発を訴える政党が伸びず投票率が振るわなかった点にもポジティブな要素を見出そうとする。

……棄権が多かったのは、入れたい党や人がどこにもいない、そもそも今の政治の制度に納得できない、と思う人が多いこととほぼ同義です。政治の正統性が落ちているということですから、国としては危機ですよ。でも、今の「民主主義」のあり方に対する疑問が広がるのは、悪いことではない。考え直したり、変わったりすることにつながりますからね。(p67)

 率直にいってこのような認識には必ずしも同意できない。棄権の多くは単に政治に無関心なことのあらわれではないのか。しかもこの後の政治動向はますます民主政から離れ、政権の横暴に歯止めがかかっていないことを考えれば、本書に示された小熊の見立てが読者を勇気づける可能性は残念ながらいっそう低くなっているのではないか。

 地域の再活性化のヒントになりそうな題材を扱った次の章では、話が具体的であるだけに読み応えを感じた。とりわけ朝鮮学校のルポルタージュ的な文章は示唆に富んだ内容である。

 憲法問題や戦後史について考察した一連の文章も文献を丹念に読み込む小熊の良さが出ているように思う。なかでも〈改憲論の潮流〉がおもしろい。善き生の追求という観点から憲法問題を考えることを提起していて、憲法学者にはない切り口で興味深く読んだ。
[PR]
by syunpo | 2016-08-12 20:40 | 社会学 | Trackback | Comments(0)

好きでけんかに強くなったわけではありません〜『上野千鶴子のサバイバル語録』

●上野千鶴子著『上野千鶴子のサバイバル語録』/文藝春秋/2016年1月発行

b0072887_21195728.jpg これまでの上野千鶴子の著作や講演記録のなかから編集者が「光ることば」を選んで編集した本である。世に優れた社会学者はたくさんいると思うが、こういう語録モノが商品として成立する人はそんなにいないだろう。

 十代のころからわたしの本の愛読者だった……という女性に会うと、「そうなの、そんなにつらい人生を送ってきたの」と、わたしはそのひとを抱きしめてあげたくなります。だって幸せな女性はわたしの本など手に取らない、と思うから。わたしが書いた本は、わたし自身が生き延びるための悪戦苦闘の産物でした。(はじめに)

 というわけで、本書には著者自身の悪戦苦闘の記録が刻まれている。それはまず女が女を励ますことばとなり、オトコに自省を促す叱咤の声とも聞こえ、人を新たな思考や行動へと導く道標ともなりうるだろう。上野を愛読してきた編集者が選りすぐっただけあって切れ味鋭い箴言が並んでいる。

「おばさん化」するって、男の年齢のとり方でいちばんすてきなやり方じゃないかとわたしはひそかに思っている。(『ミッドナイト・コール』)

 あなたたち、みんな忘れているのが、労働基準法だって雇用均等法だって、天から降ってきたわけではないってこと。みんな、裁判などで闘争して勝ち取ってきたのよ。(〈東洋経済オンライン〉)

 オリジナルは情報の真空地帯には発生しない。(『差異の政治学』)

 マルクスの絶対的窮乏化論がなぜ誤りかというと、被支配階級というのは、抑圧し、抑圧し、抑圧し抜くと、反発して立ち上がるのではなく、抑圧に慣れるからです。(『結婚帝国』)


 ところでこういう本を手に取ってしまった私もまた不幸せな人間なのだろうか。
[PR]
by syunpo | 2016-07-01 21:25 | 社会学 | Trackback | Comments(0)

素晴らしき哉、無意味な人生!〜『断片的なものの社会学』

●岸政彦著『断片的なものの社会学』/朝日出版社/2015年6月発行

b0072887_20132651.jpg 自身の体験談や著者の友人、インタビューした人たちにまつわる断片的なエピソードの連なりのなかに誘われるままに入っていくと、その何気ない語りによって、いつしか無限に広がるかのような不思議に魅力的な視界のなかを彷徨っている自分に気づく。

 小さな植木鉢をいくつもくれ、四回目に断ったら自宅の前に勝手に置いていった隣のおばあちゃん。路上でギターの弾き語りをしながら十六人ほど弟子にとったおっちゃん。朝鮮半島で生まれ奄美大島に数ヶ月過ごした後、沖縄にやってきて「私は奄美の人間ですから、沖縄は肌に合いません」と繰り返すタクシー運転手。アメリカでロックスターになるために大学を中退した教え子……。

 何か明快な社会学的命題が提示されているわけではない。ある事象について社会学的な分析がほどこされているわけでもない。むしろ、ああでもない、こうでもない、と著者の思考は挿話のあいだを行きつ戻りつする。自由について。他者との関係について。普通について。著者なりの思考の軌跡がしたためられていることは確かだが、それはあやふやな形で無造作に投げ出されているばかりである。

 本書をとおして浮かびあがってくる主題らしき主題があるとするなら、人生の無意味さということであろうか。と書けばニヒリズムに傾いた書物と思われるかもしれないが、そんなことはない。本書の態度はむしろニヒリズムとは対極にあると思う。人の人生などは、それだけを取り出せば無意味なことの連続であるかもしれないが、だからこそ、生きていく価値があるのかもしれない。まぁ、そんな陳腐なことを著者は言っていないけれど、無意味について考える本書の思考=試行はけっして無意味ではないだろう。

 かけがえのない自分、というきれいごとを歌った歌よりも、くだらない自分というものと何とか折り合いをつけなければならないよ、それが人生だよ、という歌がもしあれば、ぜひ聞いてみたい。(p194)
[PR]
by syunpo | 2016-02-08 20:15 | 社会学 | Trackback | Comments(0)

オネオネと考える〜『人間の条件』

●立岩真也著『人間の条件 そんなものない』/イースト・プレス/2011年7月発行

b0072887_19445883.jpg 上方落語には〈オネオネの佐助はん〉というキャラクターが存在する。話がオネオネと回りくどくて、いまいち要領を得ないのだ。そのオネオネぶりを逆に見込まれて人から交渉事を任されたりもするのだが。
 本書の文章もああでもないこうでもないと何やらオネオネ感が濃厚なのである。もっとも〈オネオネの佐助はん〉と違ってこちらは確信犯。では必ずしも読みやすいとは思えないオネオネ文体で著者は何を言おうとしているのか。

 この世界では、正しいとされていることがよく考えてみれば正しくはない、あるいは正しいといえるほどの根拠がないことはしばしばある。そのことを「確認しておくことにやはり意味はある」というのが本書の肝になる基本認識である。
 そうした認識にたって、今日の社会では一定の支持を得ていると思われる能力主義に対して疑義を呈したりするわけである。すなわち「社会の仕組みによって“弱者”は生み出されている」「能力によって人を分けるのも差別につながる」と。

 本書では、そうした個人の能力一般をめぐる考察から始まって、生存権にまつわる問題、マルクス主義やベーシックインカム(それらの用語は本文中では周到に避けられているが)などの問題が論じられていく。

 ただし私には本文のオネオネ記述には最後までなじめなかった。後半に付されている〈補〉の文章やインタビュー記録にふれて何とか一息ついた感じ。と書けば失礼になるだろうか。無論そのオネオネぶりに思考することじたいの醍醐味と苦味の双方が込められているわけだが、本書の結論的な命題だけを取り出そうとするなら、後半の平易な文章から引用した方が伝えやすいと思う。

 経済学では、市場経済がうまくいかないところ、市場にまかせない方がよい場合に政治が登場するというふうに言う。そのような筋で考えてもわるくはないのだが、もっと単純に考えてみてもよい。政治が決めることがそれ以外で決まることと違う一番大きなことは、政治には強制があるということだろう。……だから、私たちは政府になにをさせるかを考えるなら、人を強制してでもすべきことはなにかと考えた方がよい。(p320)

 さらに競争原理や失業の問題など、資本主義に付随する問題に関する発言も興味深い。

 ……刺激しないと消費が増えないなら、あるいは刺激しても増えないなら、その部分は足りていると考えたらどうか。またものはあるのに失業があるということは、少ない人数で多くを生産できるということであり、それ自体は大変けっこうなことだと考えてみたらどうか。ものもものを作る人間の数も足りている、工夫すればこれからも足りると私は考える。「国際競争」の圧力はたしかに無視できない。しかしごく原則的に言えば、それは競争に勝つことで対応すべきでなく、競争しなくてすむ方向で解決がはかられるべきなのだ。(p363)

 むろん言うは易し行なうは難し、だろう。だがものの考え方として、こういう方向性もある、ということを知ることは無駄ではない。
[PR]
by syunpo | 2015-05-20 19:50 | 社会学 | Trackback | Comments(0)

社会が完全じゃないから生きていける〜『14歳からの社会学』

●宮台真司著『14歳からの社会学 これからの社会を生きる君に』/世界文化社/2008年11月発行

b0072887_21242985.jpg タイトルが示すとおり十四歳向けに書かれた社会学的思考の入門書。趣旨からして人生訓話めいた論調になっているのは当然だが、それなりに大人の読書にも堪える面白い本である。

 著者の立場が明快にあらわれているのは功利主義について解説しているくだりだ。行為功利主義と規則功利主義に二分した後、まずは「どんなルールがみんなを幸せにするか」を考える後者を支持する立場を明言する。みんなを幸せにするルールを知るためには「ものごとを広く長く見通す必要がある」。ただしそんなことができるのは特別に優れた人(エリート)だけ。そこで宮台は「卓越主義的リベラリズム」を説くのである。実社会では(ルール決定の中身はどうあれ)現実にみんながみんなのルールを決定しているわけではないことは否定しがたい事実だが、理念レベルではっきり「エリート」の重要性を確言するところに良くも悪しくも宮台らしさが発揮されているというべきか。

 学ぶうえでの「感染動機」の重要性を強調している箇所も印象に残った。通常、人が学ぶ動機としてはいくつか考えられる。ライバルと競いあって勝つことに喜びを見出す「競争動機」や、ものごとを理解する喜びに基づく「理解動機」などだ。
 宮台はそこにもう一つ付け加える。「自分もこういうスゴイ人になってみたい」と思う「感染動機」。感染動機に基いて「何か」をする場合、「何か」自体が喜びになる。やることなすことが喜びだ。そのような内発性こそが大切なのだ、と。

 もう一つ面白かったのは、歴史をみるときに誰もが否定的に口にする“if”の重要性に言及しているところ。学問的に意味のある〈歴史〉のとらえ方は、どんなものか。〈自由〉との関連で考えるとわかりやすい。よく「歴史にif(もしも)はない」というけれど、実は歴史にはifはある。そのときどきにどんな選択肢があり、それが選ばれたことが何を意味するか──。そのことを考えるのが重要なのだ。

……近代国家ではどこでも敗戦についての「失敗の研究」をする。「歴史のif」を考える学問だ。日本だけがそれをしない。だからぼくたちは〈歴史〉を学ぶ意味がわからない。(p194)

 カントやチョムスキーなどを参照した本書の記述は思いのほか深い内容をそなえたものになっている。また末尾には「社会学とSFは相性がいい」ということで、宮台が影響を受けたSF小説や映画作品がリストアップされていて、これもなかなか興味深い。
[PR]
by syunpo | 2015-04-15 21:31 | 社会学 | Trackback | Comments(0)

本を読まずに空気を読む時代になっちゃった〜『教養主義の没落』

●竹内洋著『教養主義の没落 変わりゆくエリート学生文化』/中央公論新社/2003年7月発行

b0072887_21414190.jpg 教養主義の時代は終わった。多くの人がそのように感じている。では、それはいかにして人々を魅了したのか。そして何故、衰退していったのか。本書は教養主義の輝きとその後の没落過程を教育社会学者が考察したものである。

 教養主義とは、何よりもまず「万巻の書物を前にして教養を詰め込む預金的な志向・態度」である。読書をつうじた人格形成や社会改良を目指すという意味での教養主義は大正時代に始まったとされている。その発祥地は旧制高校であり、帝大文学部において深められた。戦後はその性質を変えながら再興し、一九七〇年ころまでの大学キャンパスにおいて規範文化となった。だが、七〇年代以降、「新中間大衆社会」が到来し「凡俗に居直る」サラリーマン文化が蔓延するに及んで、それは没落する。

 本書ではその盛衰を各種の統計や文献によって検証していく。その点では社会学的なアプローチを採っているのだが、随所に個人的な随想風の記述もみられ、新書としての読み味を工夫した書きぶりになっている。

 教養主義に《世界》や《中央公論》などの総合雑誌が果たした役割やマルクス主義との共依存関係、都市対農村の構造に注目している点などなど、その分析はなかなかに興味深い。教養主義のエッセンスを知るには最適の一冊といえるだろう。
 本書が刊行されたのは十年以上も前だが、現政権による実学志向の大学改革などをみていると、教養主義について考えを及ぼすことの意義は決して失われてはいないと思われる。その意味では本書の価値はけっして色褪せてはいない。
[PR]
by syunpo | 2015-03-30 21:57 | 社会学 | Trackback | Comments(0)

内から湧き上がる力を〜『キミがモテれば、社会は変わる。』

●宮台真司著『キミがモテれば、社会は変わる。 宮台教授の〈内発性〉白熱教室』/イースト・プレス/2012年5月発行

b0072887_2157273.jpg きみたちはこの先、今のままではたぶん幸せにはなれません。……それはきみたちが、この日本という最高の「クソ社会」に生まれ、育ち、生きていかなければならないからです。(p8)

 このような残念なお知らせから始まる本書ではあるけれど、否、それゆえに内容的にはいたって前向きな世直しの本といえる。本編では「クソ社会」の実態を大雑把に解説したあと、それをいかに変えていくべきかを説き、個人が変わっていくことが根本的な世直しにつながっていくことを若年層に向けてわかりやすく語りかける。

〈任せてブーたれる〉社会から〈引き受けて考える〉社会へ。〈依存〉から〈自立〉へ。〈小さな政府、大きな社会〉のもとで〈共同体自治〉を目指せ──という主張内容はかねてからの自説を繰り返したものである。その文脈で、個人の生き方としてイタリアのスローフード運動などの例を挙げながら〈ライフスタイル〉の選択から〈ソーシャルスタイル〉の選択への転換を訴える。
 なかでも印象に残ったのは、環境倫理学者のベアード・キャリコットの「人を主体にするな、主体は人でなく場所だ」という箴言。これは〈大きな社会〉を再構築していくうえで参考になる考え方であるだろう。

 以上をまとめあげる概念として、宮台は人間の〈内発性〉について言及する。「良い社会」とは「徳」のある者たちがあふれる社会のこと。宮台はアリストテレスを引いて、そのような社会を顕揚する。「徳」とは「内から湧き上がる力」のこと。すなわちそれが〈内発性〉なのである。

 宮台をよく知る読者からすればとくに本書で新たな発見や驚きを体験することはないと思われるが、精緻さを犠牲にしても歯切れ良く要点を大掴みにした書きぶりは現時点での宮台入門には適した一冊といえるかもしれない。
[PR]
by syunpo | 2013-05-24 22:05 | 社会学 | Trackback | Comments(0)

自己内省的近代へ〜『危険社会』

●ウルリヒ・ベック著『危険社会 新しい近代への道』(東廉、伊藤美登里訳)/法政大学出版局/1998年10月発行

b0072887_105388.jpg 原著が刊行されたのは一九八六年。奇しくも世界中を震撼させたチェルノブイリ原発事故が発生したのと同年である。こののち日本では二度の大震災を経験し、二度目の震災時には原発事故が重なった。幸か不幸か本書が引用される機会も増えたように思われる。

 本書にいう危険(Risiko;risk)とは、核エネルギーによる環境破壊や化学化合物の害毒などをさすが、家族の紛争や雇用問題における危険も含まれる。
 ベックによれば、近代における産業社会は多くの危険を生み出した。それは〈危険社会〉と名付けうるものである。そこでは近代が近代についての問題を自己言及的に考察せざるをえない状況がおとずれる。それが〈自己内省的近代〉である。人によっては〈第二近代〉とか〈ポスト・モダン〉と呼ぶのと同じような問題意識による命名といえるだろう。

 産業を支えてきた科学もまたみずからが生み出した種々の危険についての対処を迫られるようになってきた。〈単純な科学化〉から〈自己内省的科学化〉への移行である。このような段階では科学はそれ自身の基盤に対しても懐疑の目を向けていくことになり、その懐疑に耐え得ない場合にはごまかしや真理の追求という使命の放棄が発生するだろう。

 近代社会にあっては富をいかに分配するかが大きな課題であったが、危険社会では危険をいかに処理し分配するかが大きな問題となる。そこでは〈社会/自然〉という対立は無効化され、自然もまた社会環境の一部に組み込まれる。

 危険社会の到来はまた政治の変化を伴うことはいうまでもない。危険社会の下では、科学・技術・企業・医学など、かつては政治的な権能をもっていなかったセクションがさしたる監視もないままに政治的決定を行なうようになる。従来の〈政治〉に対して〈サブ政治〉の存在が相対的に力をもつようになるのである。

 ベックの分析は当時のドイツの社会状況を色濃く反映したものと思われるが、原子力の危険性に関する警告のみならず、政治の機能低下や完全就業から部分就業への移行(日本では非正規雇用の増大という形で社会問題化している)といった事象を含めて、二十五年後の日本においてますますリアリティを帯びてきている。

 もっとも最後にベックが提起する対策は、危険に対抗するようなサブ政治──司法や市民運動──の強化を促すといういささか拍子抜けするようなものである。
 またベックが指摘した危険社会のその後の推移は、おそらくベック自身もあまり想定していなかった展開をみたのではあるまいか。すなわち危険どうしの競合という局面がせり出してきたのである。そこでは一つの危険が強調されることで別の危険が隠蔽されるという現象が生じた。端的にいえば、地球温暖化という危険が原子力エネルギーの危険を等閑視するような役割を果たしたのである。地球温暖化の警鐘を鳴らした人間すべてが原発を肯定したわけではもちろんないけれど、原発推進派が地球温暖化の問題を悪用したことはまぎれもない事実である。少なからぬマスメディアもその世論形成に貢献した。
 その意味では、ベックが肯定的に評価した「マスメディアの受け手としての強力かつ独立した大衆」の存在もまた不確かなものといわざるをえない。他のサブ政治の主体と同様に、独立した大衆にもまた自己内省が求められるだろう。
[PR]
by syunpo | 2013-01-14 10:17 | 社会学 | Trackback | Comments(0)