カテゴリ:文学(詩・詩論)( 28 )

言語の大洋へ漕ぎ出そう〜『俳句いきなり入門』

●千野帽子著『俳句いきなり入門』/NHK出版/2012年7月発行

b0072887_20384428.jpg 日曜文筆家を自称する千野帽子の俳句入門書である。冒頭の一文が千野の俳句観を明快に言い表しているように思われる。

 俳句では作者以上に読者の仕事が大きくて、自分の俳句を作ることよりも句会で他人の俳句を読むことのほうが俳句を支えている。(p20)

 同じようなことをかつて寺山修司も語っていたと記憶する。演劇は完成させちゃいけない、半分は観客の想像力によって補ってもらうのだ、と。そこに共通するのは作者の主体性や万能を相対化する姿勢ではないだろうか。

「俳句とはこういうものである」という錯覚のない者だけが、「自分」という矮小な村を出て言語の大洋に漕ぎ出していくことができるのだ。(p63)

 自分なんて全員同じだが、言葉は無限だ、というフレーズをここに付け足してもいいだろう。そのような安っぽい自分語りを徹底的に自粛しようという態度は本書において一貫している。対話の場に言葉を開いていくこと。言葉の豊かさのなかに漕ぎ出していくという悦楽。俳句に関する技術的なアドバイスもその悦楽を体験するための方策にほかならない。

 ところで、千野は作句における四つの段階を示している。
 第一段階は「自己表現期」である。「こういう内容を言いあらわそう」と考えて言葉を捜す段階。意味がわかりすぎて、「で?」というしかない俳句ができあがる。第二段階は「自動筆記期」。意味不明の自動筆記のような句ができる。第三段階は「前衛俳句期」で、意味不明だが読者たちが想像でいろいろと補える句ができる。最後の第四段階が「伝統俳句期」で、読者たちが想像でいろいろと補って、単一のもしくは複数の意味に回帰する句ができる。千野の考えでは、第三段階以降であれば「堂々と『俳句です』と名乗っていいと思う」ということらしい。

 作句上のアドバイスとしてはタイトルに「入門」をうたっているだけあって、かなり具体的である。
 初めての歳時記は合本を買うこと。季語の説明はしない。季語以外のフレーズをストックしておく。文語俳句を作るときは旧仮名遣いが有利。……などなど実践的な助言が多く、実際に俳句を作る人にはたぶん参考になることだろう。

 いずれにせよ、本書に示された俳句観はその後に書かれた『人はなぜ物語を求めるのか』にもつながっている。俳句を作れば私の人生や思いを他人に承認してもらえる、という考えをまずは放棄すること。
 何者でもない俺らは、「作者(=私)の人生」なしで届く句を作ろうぜ。千野はそのように俳句の世界へといざなうのである。
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by syunpo | 2017-06-24 20:40 | 文学(詩・詩論) | Trackback | Comments(0)

短歌に人生の居場所を見つけた〜『キリンの子』

●鳥居著『キリンの子 鳥居歌集』/KADOKAWA/2016年2月発行

b0072887_18341739.jpg 壮絶というほかない。ここに収められた短歌を読むと、言葉にすがるようにして何とか生きている人もいるのだ、ということを思い知る。

 著者の鳥居は、小学校五年生のとき、目の前で母親に自殺され、その後は養護施設での虐待、ホームレス生活などを体験。義務教育もまともに受けられず、文字を覚えるのも短歌に関してもほぼ独学で学んだとプロフィール欄にはある。自殺をはかったこともあるようで、そのことをうたった短歌もいくつか収められている。

 亡母や祖母との思い出にふれた歌は、美しくも哀しい。母や家に関する歌といえばあの寺山修司を想起するが、それはかなり虚構性や演技性に富んだ、作り込まれたものだっただろう。寺山の真価はまさにそうしたところにあったと思われるが、鳥居の場合はもっと切羽詰ったところから絞り出してきた言葉という印象を受ける。もちろんどちらが良いとか悪いとかいう話ではない。

 いずれにせよ本書に付された「短歌に出会って人生に居場所を見いだせた」というキャッチコピーには誇張はないだろうと思う。

 あたらしいノートの初めの一頁まだぎこちない文字を並べる
 目を伏せて空へのびゆくキリンの子 月の光はかあさんのいろ
 雑草の葉の部分だけむしりつつ祖母の畑に見上げるトマト
 女子生徒たちの自転車石鹸の香り引きつれ隣町まで
 手を繋ぎ二人入った日の傘を母は私に残してくれた

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by syunpo | 2017-02-03 18:35 | 文学(詩・詩論) | Trackback | Comments(0)

引用とコラージュの世界〜『オバマ・グーグル』

●山田亮太著『オバマ・グーグル』/思潮社/2016年6月発行

b0072887_196880.jpg ゴダール映画のセリフは引用の多いことで知られる。インターネット上の画像を集めて一冊の写真集をつくった「写真家」も存在する。……引用。コラージュ。これらは現代の文化シーンにあっては欠かすことのできない方法である。という以上に、そうしたスタイルが一つの思想や考えの表現ともいえるかもしれない。本書もまたそのような系譜に連なる詩集といえるだろうか。

 表題作の〈オバマ・グーグル〉。Googleで「オバマ」を検索した結果表示された上位百件のウェブページの記事を引用してつなぎ合わせた作品である。そこではオバマのプロフィールやら演説の一節やら彼に関する批評文やらが雑多にひしめいている。

 ・・・なお、宣誓に用いた聖書は事前にエイブラハム・リンカーン第一六代大統領が一八六一年の一期目の就任式で使用した聖書を用いると発表した通りオバマ大統領夫人(ミシェル・オバマ)が紫色の包みにて持参。・・・約一四分間のスピーチは全部で四ヶ所に分かれています。・・・わたしがこの政治家を知ったのは春頃に偶然聞いたラジオインタビューによってだったが、最初に感じた印象は「クリントンの再来だ」というものだった。・・・(p50〜51)

〈現代詩ウィキペディアパレード〉も同じような手法で、タイトルどおりウィキペディアの記事からの引用のみで構成する。参照項目は「現代詩」をメインに「田村隆一」「谷川俊太郎」「長嶋茂雄」など多岐にわたる。

〈日本文化0/10〉は「ユリイカ」の目次を利用して書かれ、〈みんなの宮下公園〉は二〇一〇年四月二二日時点に宮下公園内に存在した文字が集められたものである。

 こうして見出され紡ぎだされた膨大な文字の列をみていると〈バーチャル/リアル〉を問わず、私たちの住む空間は「文字」にあふれていることにあらためて驚かされる。いや、それじたいが一つの世界を成している。

 むろんこれに似たような試みは過去にもなされてきただろう。谷川俊太郎に同じ趣向の作品があったし、あるいは「電話帳はこの世で最も分厚い詩集である」といった寺山修司の言葉を想起するのも一興かもしれない。冒頭にも記したように、本書に方法としての斬新さはほとんどないと思う。それでもなお、この詩集には新鮮な何かがうごめいているようには思われる。「何か」が何なのかはうまく言えないのだが、ことばが虫のようにごにょごにょと生きて動いているような感じ、そのありさまがかそけき生の息吹を感じさせるというのは陳腐にすぎるだろうか。

 ただし余談ながら、長編の表題作だけ何故か一昔前の文庫本みたいに文字ポイントが小さいため、視力に衰えのきている私は読み通すのに一苦労した。ちと残念。
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by syunpo | 2016-11-16 19:08 | 文学(詩・詩論) | Trackback | Comments(0)

いざという時に寄り添ってくれるもの〜『詩のなぐさめ』

●池澤夏樹著『詩のなぐさめ』/岩波書店/2015年11月発行

b0072887_20153816.jpg 著者の父・福永武彦に『芸術の慰め』という著作があった。タイトルはそれを意識したものであろう。内容は詩にまつわるエッセイ集とでもいえばよいか。

 漢詩、ギリシア・ローマの抒情詩などの古典から始まり、俳句、シェークスピアのソネット、エリオット、島崎藤村、西脇順三郎などなど古今東西の詩についてリラックスした雰囲気で語っている。

 池澤に言わせれば、ローマの諷刺詩の諧謔は落語に似ているし、マヤコフスキーはロシアのジョン・レノンであり、中原中也の詩は歌謡曲と同じ原理でできている。

「僕たちはみんな谷川俊太郎を模範として生きてきたと思う」と同時代の詩人に最高の賛辞をおくったかと思うと、蕪村の平和な句に照井翠の東日本大震災にまつわる句を並べてみせたりする。

 巻頭に収められた一文の締めに「われわれは他人と口論してレトリックをつくり、自分と口論して詩をつくる」というイェイツの言葉を引いているのも印象に残った。「圧縮された言葉と感情の塊である詩が解凍したときに広がる沃野」を池澤は奔放な読みでわれわれに示してくれる。

 ちなみに本書は岩波書店の『図書』という雑誌に連載していたもので、岩波文庫で読める詩を対象にしている点など版元の宣伝めいた雰囲気もなくはないのだが、それを差し引いても味わい深い好著だと思う。
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by syunpo | 2016-10-27 20:15 | 文学(詩・詩論) | Trackback | Comments(0)

仮定の力〜『もしも、詩があったら』

●アーサー・ビナード著『もしも、詩があったら』/光文社/2015年5月発行

b0072887_2044579.jpg「歴史には〈もしも〉は禁物だ」と歴史の授業で言われたアーサー・ビナードは、〈もしも〉が許される歴史以外の分野に自分は向いているかもしれない、と思ったらしい。そうして彼は詩人になった。実際、詩の世界には〈もしも if 〉が満ちあふれていたのだ。本書は〈もしも〉という発想から生まれた詩論風エッセイである。

〈もしも〉という語句が巧みに使われた詩歌。〈もしも〉という発想をもとに書かれた詩歌。本書では必ずしも有名ではない詩人たちのそのような作品をすくい上げてきては、独自の読解をまじえて紹介していく。ビナードの批評は作品の選択を含めて、ときにシニカルであったりアイロニカルであったりするけれど、けっしてニヒリズムに陥ることはない。

 ビナードは本書の前半部で〈もしも〉の力を次のように解析している。

……詩作りのためにもifは欠かせない存在だ。「仮に」を積み重ねて、狭い常識から抜け出せる階段をつくり、詩人はのぼって想像上の空から眺め回す。最終的に、活字になった作品の文言から「もしも」も「仮に」もifも、すべて削ぎ落とされて残らないにしても、作品の思考回路のあちあこちらには、仮定の力が生きている。(p28)

 そうして、まど・みちお、ジャック・プレヴェール、ヴァーン・ラツァーラ、カール・サンドバーグ、マリアン・ムーア、ヒレア・ベロック、竹内浩三、ベンジャミン・マッサーらの詩が吟味される。

 ローレンスの《女性のみなさんに、言わせてもらえるなら》と古今和歌集の和歌を並べて「平安歌人とローレンスとでは、『理』と『情』の調合の仕方に共通点があるらしく、作品から立ちのぼる匂いが似ているように思えた」という比較論はなかなか興味深いし、二葉百合子の歌った《岸壁の母》の「もしやもしやに ひかされて」の歌詞に強い「引力」を感じとるというのもビナードならではの読みだろう。
 またピート・シーガーがベトナム戦争時に発表した《帰国させよう》を取り上げているところは、ビナードの愛国心に対する姿勢が色濃くあらわれている。

〈もしも〉の力に助けられながら作品を書いている、というビナードが最後に引用している自作の詩もおもしろいが、それは是非本書を手にとってお読みいただきたい。
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by syunpo | 2016-08-08 20:47 | 文学(詩・詩論) | Trackback | Comments(0)

平和とは一杯の飯初日の出〜『平和の俳句』

●金子兜太、いとうせいこう選『金子兜太、いとうせいこうが選んだ「平和の俳句」』/小学館/2016年7月発行

b0072887_203276.jpg 戦後七十年の節目にあたる二〇一五年、東京新聞・中日新聞は「平和の俳句」をスタートした。広く読者から作品を募集し、金子兜太といとうせいこうが選句して一面に掲載するという企画である。本書は一月一日から十二月三十一日まで掲載された句を一冊にまとめたもの。それぞれの句には選評が添えられている。

「平和」というお題だけでかくも多彩な表現が集まるのか。本書を読んであらためて抱いた感想である。それはもちろん俳句という表現の器の深さ、可能性を示しているということでもあるだろう。

 ある人は日々の何気ない営みのなかに平和を見出す。ある人は子や孫の振る舞いに平和を透視しようとする。あるいは初めてデモに参加したときの感慨がそのまま平和への言葉になる。あるいは戦争の切ない記憶が定型詩のなかに凝縮される……。

 戦前、伝統俳句からの脱却をめざした新興俳句運動はその厭戦的な作風から弾圧を受けた。俳句は単に花鳥諷詠だけではない、体制側にとっては脅威的な表現ジャンルでもあったことをあらためて想起せずにはいられない。本書は平和が脅かされる二十一世紀日本の「軽やかな平和運動」の一つの結晶といえよう。

 ひめゆりの娘らにも見せたい夏ロック(桑野厚)
 戦争はすべての季語を破壊する(二村吉光)
 千枚の青田に千の平和あり(浅田正文)

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by syunpo | 2016-07-22 20:06 | 文学(詩・詩論) | Trackback | Comments(0)

もう俳句は怖くない!?〜『芸人と俳人』

●又吉直樹、堀本裕樹著『芸人と俳人』/集英社/2015年5月発行

b0072887_21222570.jpg 又吉直樹と堀本裕樹の対談形式による俳句の入門書とでもいうべき本。雑誌「すばる」に連載されたものがベースになっている。又吉が知ったかぶりをせず素朴に直截に疑問をぶつけ、それに堀本が丁寧に答えていく。定型句の基礎解説に始まり、作句、選句、句会、吟行と回を重ねていくうちに又吉が俳句に対する「怖さ」を解消していき、読者も同じように俳句について楽しく学べてしまう、という趣旨である。

 実際、俳句にさほど詳しくない私としては勉強になることが少なからずあった。歳時記と友達になれという実践的な助言をはじめ、俳句の立ち姿を凛とさせる切字に関する解説などは俳句を読むだけの人にも示唆的だろう。また「季語」という用語はそんなに古いものではないというのも一つの学びだった。江戸時代には「四季の詞」と言われていたものを、明治四一年に俳人の大須賀乙字が季語と呼び始めたのだという。

 句会の様子がとりわけおもしろい。又吉、堀本のほかに、中江有里、穂村弘、藤野可織が参加して、和気あいあいとしたなかにも批判的な感想を交えた選評はそれなりに刺激的でもある。
 また二人で鎌倉に吟行した記録も収められていて、こちらも愉しい。又吉が詠んだ「蟻進み参拝後だと悟りけり」を堀本が「参拝を終へたる蟻かすれ違ふ」と添削しているのはなるほどと思った。
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by syunpo | 2016-06-15 21:26 | 文学(詩・詩論) | Trackback | Comments(0)

ピカドンの遺品たちが語る〜『さがしています』

●アーサー・ビナード、岡倉禎志著『さがしています』/童心社/2012年7月発行

b0072887_1839958.jpg 一九四五年八月六日午前八時十五分、広島に原子爆弾が投下された。理髪店に掛かっていた時計は、その時刻をさしたまま動かなくなった。そこで時は止まってしまったのだ。そしてそのピカドンのあとには、いろいろなものが見当たらなくなったり、すがたを消してしまったりした……。

 本書は広島平和記念資料館が所蔵している遺品たちを語り部とする写真絵本。アーサー・ビナードの文章、岡倉禎志の写真によって構成されている。〈さがしています〉のタイトルが簡潔ゆえに深長な意味合いを投げかけている。

 理髪店の壁に掛かっていた時計はお客さんたちに時を教える役目を果たしていたけれど、ピカドンの朝をさかいに「こんにちは」「こんばんは」と時を告げることはなくなった。〈「おはよう」の/あとの 「こんにちは」を/わたしは さがしています〉。

 お母さんが水を沸かしていたやかんには、あの日、いつもと違うネツがささってきた。〈あんなもので わかしても/お湯は のめっこない……〉。そして〈……ほんものの 火を おれは さがしている〉。

 ここで語り部となっているモノたちには、当然ながら多くの人の思いが深くしみこんでいる。裁縫が得意なセツコさんが自分で紫色に染め上げ自分で縫って仕立てたワンピース。ヒロシマに転校してきたサダコさんがひみつを書き綴っていたノート。トシヒコくんがともだちとともにコロコロころがして遊んでいたビー玉……。

 ピカドンの語り部となった遺品は、すべて広島の石工によって切り出され仕上げられた石の台にのせられて撮影されている。アメリカに生まれ育ったアーサー・ビナードは、語り部たちの息づかいに耳を澄ませながら、持ち主の暮らしに思いをはせる。

 情緒や哀感に訴えるだけでは核兵器の問題は解決できない、と言う人がいるかもしれない。しかし、原爆投下の必要性と正当性を学校で教えられた一人のアメリカ人がこのような絵本をつくりあげることは生半可な気持ちでは出来なかっただろう。原爆を落とした国の文学者が日本語でこのような書を江湖に問うことには大いなる意義があると私は思う。
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by syunpo | 2015-12-07 18:43 | 文学(詩・詩論) | Trackback | Comments(0)

世界の秘密は細部に宿る!?〜『ぼくの短歌ノート』

●穂村弘著『ぼくの短歌ノート』/講談社/2015年6月発行

b0072887_19413726.jpg《群像》誌上で連載中の「現代短歌ノート」をまとめた本。近現代の名作から投稿作品までテーマごとに気になる短歌を集めて解説・講評するというスタイルである。〈ゼムクリップの歌〉〈意味とリズム〉〈天然的傑作〉〈今と永遠の通路〉〈身も蓋もない歌〉〈落ちているものの歌〉などなどテーマ設定に穂村らしさが出ているというべきか。

〈賞味期限の歌〉という章では「賞味期限切れは任せろ俺達は何でも食って生きて来たんだ」(新垣一雄)などいかにも戦前派の歌を掲げた後に「缶詰の消費期限の日の空は晴れか曇りか日本はあるか」(藤原建一)という戦後世代の批評的ユーモアを含んだ作品がリストアップされるなど構成も巧みだ。

 もちろん本書の面白味は、個別具体的に短歌を解説しながら単なる解説にとどまっていない点にある。たとえば〈暗示〉と題された章。「三階の教室に来たスズメバチ職員室は一階にある」(ハレヤワタル)、「廃品を集めてめぐる軽トラはわたしの前でゆっくり止まる」(鈴木美紀子)……などの短歌を紹介した後、次のように書く。

 短歌が実際に書かれていること以上の何かを感じさせることがある。魅力のある歌の殆どはそのような暗示性を秘めている、と云ってもいい。(p133)

 また、日常の何気ない風景や発見を歌ったものが多い昨今の状況について「人間が人間用の意味を読み取らない細部にこそ、世界の在り方の秘密が潜んでいる、とは考えられないか」などと問いかけているところなど穂村の文学観が明瞭に打ち出されているように思う。
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by syunpo | 2015-10-20 19:45 | 文学(詩・詩論) | Trackback | Comments(0)

記憶の森を想う〜『詩の樹の下で』

●長田弘著『詩の樹の下で』/みすず書房/2011年11月発行

b0072887_19235559.jpg 樹や林、森や山のかさなる風景に囲まれて育った幼少期の記憶。それが本書のモチーフだという。福島に生まれ育った詩人として、そうした幸福の再確認の書となるべきものだったが、そうはならなかかった。途中で東日本大震災が発生したからである。

「この国の春の日々にすべもなくひろげてしまった、どう言えばいいか、無涯の感じというか、異様な寂寞だった。あたかも個人の死命さえ悲しむことがかなわないほどの、茫漠とした寂寞」と詩人は書きつける。

 それにしても何という静けさだろう。悲しみや追悼のなかに何と優しい空気が流れているのだろう。長田の記憶に刻まれた風景を一度も見たことがないはずなのに、私には何かなつかしい感じがする。

「過去、現在、未来と、時間を分けるなんて、間違っている。うつくしい時間はどこにあるか。大事なのはそれだけだ」。詩人独特の時間概念を言い切るアフォリズム的なフレーズもけっして押し付けがましい印象はない。
 銀杏の木についてその英語名での由来をたどりながら、少女の髪の木と歌う、柔らかな眼差しも魅力的。

 圧巻は、モディリアーニやコンスタンブル、フリードリヒらの樹木を描いた絵画作品に霊感を得た作品群。短い詩篇のなかに果てしのない想像力の喚起をいざなう絵とことばの美しいアンサンブル。詩の樹の下をことばの風が穏やかに吹き抜けていくようだ。
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by syunpo | 2015-10-15 19:26 | 文学(詩・詩論) | Trackback | Comments(0)