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コラムニスト・吉本俊二の書評ブログです。
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カテゴリ:思想・哲学( 153 )


近代日本のアイロニー考〜『未完のファシズム』

●片山杜秀著『未完のファシズム 「持たざる国」日本の運命』/新潮社/2012年5月発行

b0072887_1985033.jpg 片山杜秀のいう「未完のファシズム」とはいかなる意味か。
 明治憲法は権力分立の思想が徹底しており、一元的な独裁政治に陥る危険性をあらかじめ排除するものだった。国家を一つの意志に束ねて戦争するには不都合な仕組みだったのである。東条英機は首相になってそのことを悟り、一人で複数の役職に就いて言論弾圧などを行なったものの、一元的な総動員体制を構築することは完全にはできなかった。未完のファシズムとはそのような状態を指している。

 むろんファシズムの定義は多様であり、権力の一元性を重視した場合に日本のそれは「未完」であったというにすぎない。その意味では片山の命題にさして独創性があるとも思えないけれど、現代政治史の一つの見方を示したものには違いなかろう。

 さて、大正から昭和の敗戦へと至る道を考える時、一つの不思議がある。時代が下れば下るほど、近代化が進展すればするほど、日本人は神がかっていったという事実だ。
 片山は第一次世界大戦に注目する。その大戦に衝撃を受けた軍人たちがそれぞれに戦争哲学を組み立てていったからである。それらが「未完のファシズム」体制下で、様々な葛藤や対立の結果、はからずも一つの神がかった流れを作りだすことになる。本書はそのような近代日本のアイロニカルな過程を描き出していく。

 日本の軍部は第一次世界大戦を契機に今後の戦争は肉弾戦から火力優位・物量重視の近代戦へと変化していくことを感じとっていた。そこで日本の採るべき戦略については、二つの系統が現れる。

 一つは、荒木貞夫、小畑敏四郎、鈴木率道らのちに「皇道派」と呼ばれることになる人々が提唱した、精神主義を基盤とする「即戦即決・包囲殲滅戦」の思想である。それは「持たざる国」の苦肉の戦略ともいえるものだが、その考えを柱にして出来たのが『統帥綱領』『戦闘要綱』だ。
 もう一つは、「持たざる国」であるのなら「持てる国」になろうと主張する石原莞爾ら統制派の考え方である。石原は満洲国を拠点にして生産力を高め、戦争準備が充分に整ったところで「世界最終戦争」に打ってでるべきだと主張した。

 しかし、その二つの考え方はともに大きな時流に呑み込まれていく。軍隊が政治に容喙できない以上、軍人はいついかなる場合でも既存戦力で戦う準備をしておかねばならない。つまり、物量において負けると分かっている戦争でも、やらねばならんときはやるべきだ、精神力による嵩上げ分を無限に膨らませられるはずだという「ある種の狂気を孕んだ信仰」に傾く人々が出現したのである。片山はその代表的論客として東条のブレーンでもあった中柴末純を指名する。

「持たざる国」でも「持てる国」の相手を怖じけづかせられれば勝ち目も出てくる。中柴はそのためには、なんと、日本人がどんどん積極的に死んでみせればよいのだと考えた。その思想は日米戦争時代の日本人の死生観に決定的影響を及ぼした『戦陣訓』にはっきり表現されている。

 むろん、中柴も東条も玉砕を賛美するような「精神主義」で米英に勝てると本気で信じていたわけではない。片山は彼らが残した文献を読み込んだうえで、その哲学は「『もたざる国』が『持てる国』と正面戦争をしうる格好を取り繕っておくための方便にすぎなかったと言ってよい」と結論している。

 皮肉にも中柴は合理的計算が仕事の工兵の出身であった。しかし中柴にしてみれば玉砕戦法だけで勝てると高唱するしか戦い続ける気力を喚起させることはできなかっただろう。片山は本書の末尾で次のように痛切にまとめている。

 この国のいったんの滅亡がわれわれに与える歴史の教訓とは何でしょうか。背伸びは慎重に。イチかバチかはもうたくさんだ。身の程をわきまえよう。背伸びがうまく行ったときの喜びよりも、転んだときの痛さや悲しさを想像しよう。そしてそういう想像力がきちんと反映され行動に一貫する国家社会を作ろう。物の裏付け、数字の裏打ちがないのに心で下駄を履かせるのには限度がある。(p333)

 本書は戦前戦中の陸軍関係者の国家観・戦争観を軸にして、小川未明や徳富蘇峰、宮沢賢治や倫理学者の吉田静致らの著作をも参照しながら、日本近代のアイロニカルな思想史を浮き彫りにした労作といえるだろう。
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by syunpo | 2016-12-27 19:10 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

〈災後〉の社会を生きていく〜『日の沈む国から』

●加藤典洋著『日の沈む国から 政治・社会論集』/岩波書店/2016年8月発行

b0072887_20184870.jpg 日本の戦後を考えるとき、国内的文脈の「戦後」と国際的文脈の「戦後」にはズレがあった。さらに東日本大震災とそれに伴う原発事故の後、「災後」の問題が浮上してきた。加藤典洋の認識に従えば、災後の社会はそれ以前の社会とは異なった思考が求められている。それは端的にいえば「有限性」をめぐる問題である。戦後は終焉したが、災後の社会をいかに生きていくのか。本書はその問題を構想した一連の文章を中心に収めている。

 戦後日本の平和主義的土壌は枯渇した。それを踏まえて対米従属からいかに脱却するかが主要なテーマとなるが、加藤は矢部宏治やロナルド・ドーアらの仕事を下敷きにして、九条の強化・改訂や国連中心主義による国連改革などを提起している。問題意識もその解決の方向性もとくに目新しいことを述べているわけではない。

 災後の問題をめぐっては、ウルリッヒ・ベックのリスク近代論に依拠しつつ、もっぱら巨大化したリスクとどう向き合っていくかを問う。ベックの考察が画期的だったのは、再帰的近代においては外部環境=自然の限界とは関係なく、人間社会が限界にぶつかることを警告した点にある。

 内部的な技術革新は、産業システムの大規模化、高次化を伴うが、その結果、必然的に高リスク化をもたらす。そのため、産業システムは、自然の限界がなくとも、成長を続ける限り、高リスク化を避けえず、いわば内在的にその限界にぶつかる。(p110)

 つまり、資源環境の外部的な有限性が、リスクという内部的な世界の有限性の問題に変わるというわけだ。その象徴的な実例が原発である。福島の原発事故後、保険会社は契約更新を打ち切った。近代のリスク管理の最高の知恵とみられた保険制度をもってしても対処できないほどのリスク。それが再帰的近代の高次リスク社会のすがたなのである。

 加藤はそれを踏まえてやや晦渋な考察に踏み込んでいくのだが、科学技術への不信を言いつのるかわりに、科学への信頼を追究することを説くくだりはわかりやすい。

 科学的であるということは、ここで、原子力にたいしては、それへの盲信から自由に、批判的に対するということである。科学的であることは、原子力エネルギーに事故の危険、廃棄物処理などの問題があれば、それにしっかりと向き合い、この問題を解決しようとすることなのである。それがほんらい、解決のつかない問題だとわかれば、これに代わる代替エネルギーを考えようとする、しかし、ここに大きな障害あるとすれば、それを取り除こうとする。それがどんなに面倒なことでも隠さない。(p219〜220)

 むろん上にも記したように本書の一連の考察はもっと思想的にニュアンスに富み、複雑な理路をたどっていることは付記しておく。とりわけ日本が生み出した二つのキャラクター──鉄腕アトムとゴジラ──を一対にした批評的小論は、もう少し平易な言い方が可能ではないかという印象を拭い難いものの興味深い論考には違いない。

 またほかにもスパイスの利いた文章が収められていて、昨今の加藤の関心の在り処がよくわかる本になっている。
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by syunpo | 2016-09-26 20:20 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

粘菌、華厳経、レンマ〜『熊楠の星の時間』

●中沢新一著『熊楠の星の時間』/講談社/2016年5月発行

b0072887_19283761.jpg 南方熊楠は様々な顔をもつ多能にして特異な人物であった。仏教について、科学について、生と死について、自由自在に思考をめぐらせた。中沢新一はそのような熊楠の思想に「封をされたままの未来への贈り物」を見る。本書は熊楠に関連した五つの講演記録をもとにした文章を収めたものである。

 熊楠の思想的創造に大きく寄与した生きた哲学的概念としての粘菌。その粘菌と概念として同一構造を持つレンマの法則。そのレンマの法則に基いて巨大な宇宙を構築した華厳経。本書ではそれらの連関が中沢らしい奔放な語りで概説されていく。

 南方熊楠は西洋で発達したキリスト教神学や西欧哲学とも近代科学とも異なる、東洋的な思想の土台に立つ「未知の学問」を構想した。そのさい彼がモデルに考えていたのが華厳仏教である。
 ヨーロッパの学問は「ロゴス」に基づく。ロゴスは、世界に現象する事物を集めて並べて整理する。「言葉で言う」とはその謂である。対する華厳仏教では「レンマ」がもとになる。「手でつかむ」「把握する」などという語源から生まれた概念だ。ロゴスの土台になっている同一律、矛盾律、排中律の三つの法則を否定して、あくまで世界の事物を直観でとらえようとするところに特質がある。結論的にいえば、熊楠は近代科学と華厳思想を「相即相入」させることによって「レンマによる科学」を打ちたてようと企てた。

 また南方熊楠はアクティビストでもあった。彼はエコロジーの先駆者ともみなしうるが、政治的課題としての環境問題だけでなく、人間の心の根底にある「自然」の問題にも深く関わっていた。熊楠が人生の一時期を費やして取り組んだ「神社合祀反対運動」もまた、そのようなアクティビストとしての面目躍如たるものがある。神社合祀は何よりも森林破壊をもたらしたのだから。

 南方熊楠はアブ=ノーマルな人であった。異常な記憶力、類例もない特異な文章法や思考法、その奇行など、そこに知人たちが何らかの「症候」を感じたとしても無理からぬことであったろう。中沢は熊楠の「症候」=シントムを思考する。このくだりはいささか難解だけれど、熊楠の並外れた言動の特異性の一端を感じ取ることはできた。

 二つの「自然」をとおして、フランスの人類学者フィリップ・デスコラと熊楠との類似を考察する一文もおもしろいし、日本サンゴ礁学会での講演で、野生の科学に関して述べているのも一興。熊楠もまた「野生の科学」を志向した人であった。

 本書全体をとおして、南方熊楠について知り学ぶことの今日的意義が説かれているわけだが、話がやや抽象的に傾いている印象もあり、私には理解しがたい箇所も少なからずあった。しかしかねてから熊楠の思想を紹介してきた中沢ならではの情熱的な語りには何かしら惹かれるところがあったことも確かである。
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by syunpo | 2016-08-28 19:31 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

擁護でも否定でもなく〜『保守主義とは何か』

●宇野重規著『保守主義とは何か 反フランス革命から現代日本まで』/中央公論新社/2016年6月発行

b0072887_2010448.jpg 保守主義者を自称する人は増えているらしい。もっともその意味するところは人によって異なる。本書は保守主義を思想史的・歴史的に検証し、その再定義を試みようとするものである。

 フランス革命に対抗して論陣を張ったエドマンド・バークを保守主義の原点とするのは教科書どおりだろう。ただここで注意すべきなのは、バークは革命一般に反発したわけではなく、フランス革命のように歴史と断絶した急進的な変革に疑問を呈したという事実である。名誉革命で打ち立てられた英国国制(British Constitution)のような政治体制を重んじ、これを守り発展させていく漸進的変革こそ人間社会に適ったやり方だとバークは考えた。

 バークによって基礎が確立された保守主義の新たな展開として社会主義に対抗するために主張されたものが次につづく。T・S・エリオットやフリードリヒ・ハイエク、マイケル・オークショットたちの保守主義である。なかでも興味深く読んだのは、ハイエクに関するくだりだ。彼は集産主義を批判し「法の支配」を強調した。法の支配が発展したのは一七世紀イングランドであるが、ハイエクはその起源を中世ヨーロッパではなく、古代ギリシアにおける「イソノミア」に見出す。デモクラシーが民衆による支配を意味するとすれば、イソノミアは「市民の間の政治的平等」を指すものであった。本書では触れられていないが、イソノミアは柄谷行人が『哲学の起源』で言及して以降、あらためて注目されている概念である。

 アメリカの保守主義としては、伝統主義とリバタニアリズムの系譜が考えられる。とりわけ後者は政府の権力の縮小化を主張する点で、個人の精神的態度をこえて政治レベルでの保守主義的政策を実現していく理論的支柱となった。ミルトン・フリードマンとロバート・ノージックがその代表である。
 フリードマンは何よりも政府の役割が拡大することで特殊利益が跋扈して、一般利益が損なわれることを問題視した。「今日の新しい支配階級は、大学におさまっている連中であり、報道機関であり、とりわけ連邦政府の官僚機構である」。同じような主張を個人の人権や自然権を重視する立場から展開したのがロバート・ノージックである。

「日本の保守主義」を論じた一章では「明治憲法体制を前提に、その漸進的な発展を目指した」点に着目して伊藤博文や陸奥宗光を保守主義の文脈で論じているのが興味深い。その論法を現代日本にあてはめると、現行憲法体制を前提に強引な政権運営を抑えようとしている共産党やSEALDsの学生たちが保守主義者ということになるのだろうか。(実際にそのように論じる文章もみかけるが……。)

 著者の宇野重規は自らを保守主義者であるとは考えていない旨、あとがきに明記している。ゆえに保守主義の正当化をはかることも過大な宣伝を行なう必要もない。俯瞰的な地点から保守主義を歴史的に概括したところに本書の特徴があるといえる。その意味では、よくいえばバランスのとれた記述になっていると思われるが、ここに挙げられた論客たちに関して、あらためて読んでみようという意欲が喚起されるほどの魅力を感じることもなかった。私にとっては保守主義のよく出来た概説書というレベルを超えるものではない。
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by syunpo | 2016-07-20 20:15 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

主体的でも自発的でもなく〜『憲法の無意識』

●柄谷行人著『憲法の無意識』/岩波書店/2016年4月発行

b0072887_2019338.jpg 日本国憲法九条にはいくつもの謎がある。世界史的に異例のこのような条項が日本の憲法にあるのはなぜか。それがあるにもかかわらず、実行されていないのはなぜか。実行しないのであれば、普通は憲法を変えるはずだが九条がまだ残されているのはなぜか。本書ではそれらの問題を考察する。独創的なのは最後の問いに対する答えだ。

 憲法九条が執拗に残ってきたのは、それを人々が意識的に守ってきたからではありません。そうであれば、とうに消えていたでしょう。人間の意志などは、気まぐれで脆弱なものだからです。九条はむしろ「無意識」の問題なのです。(p5)

 柄谷はフロイトを参照しながら憲法九条にまつわる「無意識」に迫っていく。フロイトは述べている。「人は通常、倫理的な要求が最初にあり、欲動の断念がその結果として生まれると考えがちである。しかしそれでは、倫理性の由来が不明なままである。実際にはその反対に進行するように思われる。最初の欲動の断念は、外部の力によって強制されたものであり、欲動の断念が初めて倫理性を生み出し、これが良心というかたちで表現され、欲動の断念をさらに求めるのである」と。

 フロイトのこの見方は、憲法九条が外部の力、占領軍の指令によって生まれたにもかかわらず、日本人の無意識に深く定着した過程を見事に説明するものだと柄谷はいう。「先ず外部の力による戦争(攻撃性)の断念があり、それが良心(超自我)を生みだし、さらに、それが戦争の断念をいっそう求めることになったのです」。

 憲法九条は自発的な意志によってできたのではない、外部からの押しつけによるものである、しかしだからこそ、それはその後に、深く定着した。それは、もし人々の「意識」あるいは「自由意思」によるのであれば成立しなかったし、たとえ成立してもとうに廃棄されていただろう。
「無意識」によって九条は守られてきた、と柄谷がいうのはそうした意味である。憲法九条に関する柄谷の思考にあっては、主体的とか自発的という概念は信用に値しない。

 むろん、以上の要約はかなり大雑把なものである。ちなみに付け加えれば、柄谷が「無意識」を鍵概念にして議論を展開するにあたっては、建築史家の中谷礼仁が提起した「先行形態」という概念をフロイトと結びつけて引用している点もおもしろい。こうした領域横断的な思考スタイルにこそ柄谷の特質がよくあらわれているだろう。

 また後半では、カントの平和論以降の世界史の系譜に日本国憲法を位置づけるだけでなく、徳川時代における天皇制の考察、新自由主義と戦争との関連など、九条無意識論を補強するような検討が加えられている。九条の理念の有効性を「贈与」なる概念でサポートしようとするのは『帝国の構造』で打ち出した考え方である。

 本書は二〇〇六年から二〇一五年の間に柄谷が行なった講演の記録をもとに書籍化したものである。フロイトを援用しながら思想的に憲法を捉えようとする柄谷の議論は、杓子定規な政治学者や法学者からは反発がありそうだが、あらかじめ予想されるその種の言説には正直、私には興味はない。本書は柄谷の思想がコンパクトにまとめられたスリリングな本であるといっておこう。
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by syunpo | 2016-05-23 20:20 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

普遍化された罪の可能性から考える〜『自由という牢獄』

●大澤真幸著『自由という牢獄 責任・公共性・資本主義』/岩波書店/2015年2月発行

b0072887_9171381.jpg 本書は四本の論文から成る。一九九八年から二〇〇二年にかけて発表した三本の論考と書き下ろしの一本を加えたもの。主要な論考は初出時から十五年ほど経過しているが、社会哲学的な論考ゆえに、時間が経過すると賞味期限切れという近頃の書物にありがちな心配は無用であろう。

〈自由という牢獄──リベラリズムを超えて〉と題した論考では「自由を享受するためには、単に開かれた可能性があるというだけでは十分ではない。むしろ現代社会のあまりに開かれた選択肢が自由を骨抜きにしているように見える」との現状認識を示して、その克服への道すじを探る。

 複雑な理路の詳細は省くが、リベラリズムのライバルとして大澤は「エスノ・ナショナリズム」と「エコロジー思想」を挙げている。現代のエスノ・ナショナリズムは排外主義をとることはなく、多文化主義として表出される。直接に主張されることは、特定の民族の優越性ではなく「民族の相対化」「諸民族の平等な共存」である。それはナショナリズムへの批判的な反省を伴っており、民族共同体を単位とした、平等な自由についての主張の体裁を取っている。
 また今日のエコロジー思想は、地球の有限性への痛烈な自覚から生じている。地球の有限性が自覚されるようになったのは、広義のリベラリズム、すなわち自由が拡張した結果とみなす。

 そこで大澤は、このうちの環境倫理に光をあててカントのいう「統制原理」として活用しようと提起する。

……環境倫理は、自由そのものに拘束が内在していることを示す指標なのだ。環境倫理は、その柔軟性のゆえに、どのような行為の領域、どのような状況においても、自由が暴走して過剰化することをチェックするような批判原理となることができる。(p52)

〈責任論──自由な社会の倫理的根拠として〉では「責任の不発化」が大きな課題となる。責任の所在を明確化しようとするその指向が逆にかえって責任を拡散させ、ついには霧消させてしまう現象をいう。責任の宛先を一義的に明確化しようとする指向のもとで発生するのは「帰責ゲーム」だ。帰責ゲームとは責任の押し付け合いのことである。

 しかし、「責任」こそは、あらゆる倫理の可能性の基底である。とりわけそれが「自由」を根拠とする倫理の基礎である。そうであるとすれば、われわれは、こうした困難に直面している責任の概念を、何らかのやり方で鍛えなおさなくてはならない。(p65)

 そこで大澤が持ち出すのは、阪神大震災や戦場において、たまたま生き延びた者たちの体験談である。

 極限状況下において偶然生還した者たちは、生き残ったことに対してしばしば深い罪の意識を感じてしまうことはよく知られている。ヤスパースが「形而上の罪」と名づけたものだ。大澤は、積極的に選択された行為とは無関係に成立する罪の次元、私たちにとっての根源的な責任の次元が存在することに着目する。
 それにしても、そのような根源的な責任はどこから生じるのであろうか。極限状況においてたまたま生還した者たちが重い罪責感を受け取るのは、生存者たちが「私が死者でありえた」(にもかかわらず「私がどうしようもなく私である」ということ)と感覚してしまうからである。かかる「他でもありえた」という様相を、哲学は「偶有性」と呼んできた。一切の責任の可能性の根底には根源的偶有性に規定された責任がある、と大澤は考える。

 通常、われわれは、責任は、私がそうであること、私がやったことに対して帰せられる、と考えている。しかし、こうした私の自己同一性に帰せられる通常の責任が発効するためには、それとはまったく逆の、私が私ではないかもしれないという差異性=偶有性を根拠にした責任が有効でなくてはならないのだ。(p103〜104)

 偶有性を根拠にした責任を担うことの現実的な深刻さを考慮すれば異論もありそうだが、いずれにせよここは本書にあって大きな読みどころの一つではないかと思う。

〈〈公共性〉の条件〉を考える第三章では、フランス人権宣言と「快楽の権利」「身体の権利」を訴えたサドを対比させる。前者の精神を継承した者としてアーレントやハーバーマスを捉え、サドと対置するのである。もっとも精緻な思考の末に二人の思想にもサド的な洞察への近接を見出そうとする。

「人間」の普遍的で公共的な水準に到達するための唯一の回路は、私的な水準への徹底した執着しかない。(p171)

 権利や公共性をめぐるそうした思考を経たのちに「われわれの共同体が、とてつもない、敵対的な他者を抱えてしまうということに、公共性の最大の困難を見たのであった。だが、今や、それこそが、〈普遍的公共性〉への通路である」と認識するに至る思考の旅路はそれなりにスリリングである。

 トマ・ピケティの『21世紀の資本論』について論じた〈不・自由を記述する赤インク〉では、政策的な含意への批判と理論への付加を行なっている。ここでは「批判」のみを紹介しておこう。

 ピケティは、資本主義が必然的に格差を生み出すのだから資本市場に大規模で強力な再分配機構を付け加えることを提案している。それに対して、大澤は「富裕税を徴収できるほどの政府・組織をいかにして実現するのか」と疑義を呈する。「そんな組織を作ることができれば、苦労はない。言い換えれば、そのような組織を得たときには、すでに問題は解決している」。

 大澤の思考は必ずしもわかりやすいものではない。だが本書で扱われている論題は相互に連関しつつ今日いっそう切実なリアリティを帯びて我々の前に横たわっているように思われる。シニカルな物言いが跋扈する時節柄、難問に正面から挑む真摯な態度は少なからぬ読者を勇気づけることだろう。
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by syunpo | 2016-05-03 09:18 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

〈アジア主義〉の再考と再興〜『愛国と信仰の構造』

●中島岳志、島薗進著『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』/集英社/2016年2月発行

b0072887_19133225.jpg 愛国心と信仰心が暴走したあげく戦争へと突入していった戦前日本の全体主義。それは戦争の直前に突然湧き起こってきたものではない。同じ轍を踏まないためには、明治維新まで遡って日本の宗教と国家デザインの変遷を考えるべきではないか。これが本書の基本認識である。そこで国家神道や国学的思想だけでなく、親鸞思想、日蓮主義など仏教諸派から派生した考え方が戦前戦中の国家主義と親和していった背景が検討に付される。

 興味深いのは、近代日本の歴史百五十年を第二次世界大戦を境にして七十五年で区切ることができ、それをそれぞれ二十五年単位で分けると三つの時代区分になるのだが、それが似通った変化を遂げているという見方だ。ゆえに戦前戦中の分析は今後の日本社会の行く末に関して大きな示唆を与えてくれることになるはずである。

 中島は、戦前に極端なナショナリズムに走った人々のタイプとして「煩悶青年」と呼ばれる若者像に着目する。石原莞爾は煩悶の末に日蓮宗系の国柱会会員となり、日本の軍国主義を背景に満州事変を起こした。三井甲之は親鸞主義の国家主義者となった。「煩悶青年たちは『自分探し』の果てに宗教と出会」い、そのうちの一部は超国家主義的なテロリズムへと走っていった、という見立てである。島薗は中島の分析を補強したり修正したりしながら「愛国」と「信仰」の構造を見極めるべく話を展開していく。

 ただ、前半でそのような歴史的考察を行なった後に今後の展望や処方を提起していく段になると、対話は陳腐な様相を呈してくるのが残念。中島は従来の保守思想の能書きを繰り返す発言がめだち、対する島薗も世俗政治での腐敗や失敗に起因する社会の閉塞状況の打開をもっぱら宗教に求めようとする。宗教学者とはいえいくらなんでも視野が狭すぎるだろう。宗教的な中間共同体の復興をともに唱えている点も本書の文脈ではあまり賛同できない。

 中島はさらに結語的にアジア主義の再編を提起し「多一論」なる概念を導入して相対主義の克服を目指すのだが、同時にそれは言語化できないとも述べている。机上の空論とまでは言わぬまでも抽象論の域を出るものではないだろう。柳宗悦の思想を一つの可能性として名指しするところもパッとしない。

 また、全体主義の体制からもはみ出した過激なテロ行為も全体主義の文脈で論じられていて、議論をいっそう粗雑なものにしている。日本が望ましからぬ方向へと急速に進んでいるという現状認識は私も共有するけれど、二人の対話はいささか尻すぼみで退屈だった。
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by syunpo | 2016-04-28 19:35 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

言葉の「掛け声化」に抗う〜『哲学な日々』

●野矢茂樹著『哲学な日々 ──考えさせない時代に抗して』/講談社/2015年10月発行

 b0072887_18344527.jpg前半は西日本新聞に連載した短いエッセイ、後半は雑誌などに発表した短文や文庫本の解説など種々雑多な文章が並ぶ。二部構成である。

 野矢センセイの「哲学な日々」にはあまり魅力を感じなかったけれど、ところどころに私の知的好奇心をくすぐるような箴言やちょいとスパイスのきいた挿話がにょっきりと顔を出しているので「退屈した」とも言い切れない。むろんこういう物言いは本書を貫いている哲学的な態度に反しているだろうことも自覚しているつもりだが、そういう感想しか湧いてこないのだからしかたがない。

 ……立ち止まって自分を問い直す哲学の姿勢は身につけてほしい。大学で哲学を教えることの意味もそこにある。実のところ、ぐっと足を踏ん張って立ち止まるというのも、相当に脚力がいるのだから。(p23)

 ……考える技術とは、どうやって答えを閃かせるかではなく、いかに問いをうまく立てるかという、問う技術なのである。(p101)


 サブタイトルにもなっている「考えさえない時代」に対する警鐘的な一文が何よりも印象に残った。

 考えるためには言葉がなければならない。言葉によってはじめて、思考が成立する。だが言葉はまた、思考を停止させる力も持っている。言葉が「掛け声化する」と言ってもいいかもしれない。「ワッショイ」という掛け声がそうであるように、ただ人をその気にさせるために発せられる言葉。(p102)

 野矢はそのように述べたあとで、掛け声に対抗するのもまた言葉であることを指摘する。

 思考を停止させる言葉に対抗するには、やはり言葉しかない。威勢のよさや口当たりのよさだけに呪縛されてしまわない、冷静で明晰な言葉を、私たちは手放してはならない。(p103)

 本書にはそのような「冷静で明晰な言葉」が軽妙な語り口とともに記されている。と思う。
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by syunpo | 2016-02-29 18:33 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

〈民主主義〉を問い続けること〜『近代政治哲学』

●國分功一郎著『近代政治哲学──自然・主権・行政』/筑摩書房/2015年4月発行

b0072887_19345728.jpg 私たちは近代政治哲学が構想した政治体制の中に生きている。現在の政治体制に欠点があるとすれば、その欠点はこの体制を支える概念の中にも見いだせるであろう。本書はそうした問題意識に基いて、近代政治哲学の流れを検討し、これからのありうべき政治社会へのヒントを得ようとする試みである。初年次の学生を対象とした講義をもとに書かれているので、たいへん平易で読みやすい。

 俎上に載せられているのは、ボダン、ホッブズ、スピノザ、ロック、ルソー、ヒューム、カントの七名の哲学者。サブタイトルにあるように〈自然〉〈主権〉〈行政〉をキーワードにしてかれらの政治思想を読みこんでいく姿勢は筋がとおっていて明快である。

 絶対主義擁護論から近代政治哲学を決定づける重要な〈主権〉概念を生み出したボダン。自然状態から説き起こし社会契約なる概念で〈主権〉の絶対化をほどこしたホッブズ。その社会契約を一回性ではなく反復されるものと考えたスピノザ。国民主権の実現を立法権に見いだして今日の政治理論に多大な影響を与えたロック。統治行為には必ず立法と執行(行政)の間のズレと緊張関係が存在していることをみていたルソー。共感をもとに政治体制を考えたヒューム。民主制の欺瞞を行政の局面に見てとったカント。著者の問題意識から再吟味されると、おなじみの哲学者たちの思想が別の相貌をあらわして立ち上がってくるようだ。

 とりわけルソーの社会契約論の読解がおもしろい。ルソーの「一般意思」についてはこれまで様々な読解がなされてきたが、ここでは立憲主義の観点から検討されている。
 大雑把に要約すれば、ルソーが「一般意思は個別的な対象に対しては判断を下させない」とくり返し述べている点に國分は着目する。「一般意思に何ができるのか?」と問うのではなく「何を一般意思の実現と見なせるのか?」と問うのだ。その一つの回答が、法、あるいは最高法規としての憲法である。
 近代国家は民主主義的な下からの力だけでなく、立憲主義的な上からの監視を組み込んでいる。両者が完全に統一されることはない。「一般意思」なる概念を作り出すことによって、ルソーは近代国家の姿を正確に予言していたのではないか、と國分はいう。

 カントへのアプローチも私には新鮮に感じられた。カントは民主制に形式上の問題点を見出したことを國分は指摘する。立法ではなく執行(行政)において欺瞞があらわれるというのである。何故なら執行の局面において「全員が賛成しているわけではないのに全員の賛成であるかのように決定が下されてしまう」から。これは今日の行政にそのままあてはまる事態ではないだろうか。むろん、カントはそこから明快な指針を導き出すところまで考察しているわけではない。我々は「カントの問いかけに留まらない政治的思考を生み出さねばならないだろう」。

 かくして本書をとおして政治哲学の系譜がとりこぼしてきた課題も浮かびあがってくる。その最大の問題点の一つは、国民主権や民主主義が理論的にも立法権を軸に確立しようとしきてきたことの限界と矛盾である。行政権に民意が充分に及ばないことの弊害はすでに多くの指摘があるが、本書が優れているのは理論的にその問題にアプローチしている点だろう。端的にいって近代政治哲学には「行政組織に対する視点の欠如」がみられるというのが國分の見方である。

 國分のそのような問題意識はいうまでもなく現代日本の現実の政治に立脚したものでもあるだろう。みずから関与した小平市の道路建設問題にしても、安倍政権の一連の暴走にしても、行政権力がたとえ民意から逸脱していても歯止めをかけることの困難さを露呈させた。

 國分が取り上げた哲学者たちは、行政における欺瞞や限界を認識していた形跡が認められるものの、その点について考察を深く掘り下げるところまではいかなかった。課題はなお現代人に残されているといっていい。國分自身が本書において有効な処方的理論を提起しているわけではないが、克服すべき問題点を明確に提示したという点だけでも本書は意義深いものといえるのではないだろうか。
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by syunpo | 2016-02-13 19:36 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

現在に甦るエクリチュール〜『ロラン・バルト』

●石川美子著『ロラン・バルト 言語を愛し恐れつづけた批評家』/中央公論新社/2015年9月発行

b0072887_19444468.jpg ロラン・バルト生誕百年にちなんで刊行された評伝。著者の石川美子はフランス文学専攻の研究者で、日本版『ロラン・バルト著作集』全十巻を監修した人である。

 さすがに、華麗な批評活動をおこなったバルトの全体像がコンパクトにまとめられている。文学の道を志すに至ったおいたち。記号学の冒険を開始した若かりし頃。日本に魅せられてロマネスクの方へと向かう六〇年代後半。テクストの快楽をうたった七〇年代。新たな生を模索しつつ苦闘した晩年。それぞれのステージで異なった展開をみせるバルトの相貌がいきいきと素描される。

 それにしても日本での体験がバルトにとってとても重要な出来事であったことに、あらためて驚かされる。日本に関する著作としては『記号の国』が名高いが、それはバルト自身にとっても大きな転換点となった仕事であったらしい。

 たとえばバルトの大きな特徴である「断章」は、俳句との出会いによって生みだされたものである。もともとバルトは短い形式を好んでいたが、それが自分のエクリチュールであるとはっきり意識していたわけではなかった。だが俳句を知ることによって、短い形式を意識し「断章(フラグマン)」という言葉を使うようになる。「日本が新しいエクリチュールを実践する勇気をバルトにあたえた」。

 またバルトは母を深く愛していたことで知られるが、本書でも母の死と彼の仕事のモチーフとの関連には多くの紙幅が費やされている。バルトは喪のかなしみを作品に変えようと懸命に模索していた。写真について論じた『明るい部屋』はそのなかで書かれたテクストであった。さらにそこから一歩進んで小説『新たな生』を生み出そうとしたのである。

 新書にふさわしく平易な語り口で、時に難解ともいわれるこの批評家に向かう意欲を喚起してくれるという意味で格好のバルト入門書といえるかもしれない。
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by syunpo | 2015-12-25 19:55 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)