カテゴリ:思想・哲学( 159 )

救済もしくは平和〜『ヒューマニティーズ 哲学』

●中島隆博著『ヒューマニティーズ 哲学』/岩波書店/2009年5月発行

b0072887_18122936.jpg 人文学のエッセンスと可能性を、気鋭の執筆陣が平易に語る《ヒューマニティーズ》シリーズの一冊。ただしこの『哲学』に関しては、必ずしも平易とは言い難い。いや、はっきりいえば私にはすこぶる難解であった。

 もっとも、重要なことは冒頭にわかりやすく記されているように思う。

 では、「哲学とは何か」と問うことはどうなのだろうか。やはり、それもまた、終焉に位置し、時代錯誤的でることが不可欠なのだと思う。調和・和解・完結に向けて哲学を整序することではなく、猛り狂って限界をはみ出す哲学の力を解放すること。しかし、それによって、何が実現するというのだろうか。本論で考えたいのはこのことである。それは、現在の哲学というよりも、未来の哲学、哲学の未来に関わることだ。わたしはそれを最終的には、救済もしくは平和だと考えたい。(はじめにⅶ)

 議論の足がかりとして、まずジル・ドゥルーズ=フェリックス・ガタリの哲学の定義から語り起こしている。哲学とは「尺度なしに概念を創造すること」。ついで、ギリシア哲学や中国哲学の始まりの一端に言及し、ヴァルター・ベンヤミンを参照しつつ、哲学の「翻訳」的性格について考察をめぐらせる。

 そもそも哲学は、……(中略)……複数の言語に開かれ、他者の言葉に耳を傾け、その上で、あらたな概念に基づいた言説を紡ぎ出す実践でもある。ドゥルーズとガタリのギリシアを考えてみれば、異邦の哲学者のオピニオンに耳を傾けるためには、翻訳の経験を避けて通ることができない。そうであれば、哲学の言語は、その始まりにおいて、翻訳において成立したということもできる。(p38)

 さらには西田幾多郎の「無の論理」に着目、中国の近代哲学者・胡適を横に並べて、哲学と政治の関連について検討する。そのような過程を経たうえで、冒頭の問題提起に応えるかのように、サラ・ロイやハンナ・アーレントの論考に触れて、哲学の未来を展望するのである。

「国家と植民の問題、そして暴力からの救済と言語の問題を、繰り返し考え抜くこと」を強調して、「他者との共生」こそが哲学の目標であると同時に、哲学の実践そのものだという。

 このように大雑把に論旨をまとめてみたところで本書の真髄は伝わらないだろうと思う。思えば「救済」も「平和」も「共生」も多くの人が口にしている言葉である。一見すると凡庸な結論に失望する読者もいるかもしれない。実際、否定的な言葉を投げかけている感想文をネットでいくつか見かけた。しかし結論的命題のみに哲学の真髄が宿っているわけでもないだろう。

 というわけで私のような浅学非才が本書について主観的に言えることはあまりない。来るべき哲学に向けて、一つの有効な道標として受け取る読者があらわれる可能性を想像し、中途半端ながらもここに本書を紹介する次第である。
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by syunpo | 2017-10-20 18:18 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

ディーセントな暮らし、フェアな社会〜『僕らの社会主義』

●國分功一郎、山崎亮著『僕らの社会主義』/筑摩書房/2017年7月発行

b0072887_195392.jpg 気鋭の哲学者とコミュニティデザインを生業としている二人による異色の対談集である。ジョン・ラスキン、ウィリアム・モリス、ロバート・オウエンらの名前で知られるイギリスの初期社会主義がメインテーマ。

 といっても社会主義の理念や構想を真っ向から吟味するということではない。山崎が「社会主義をスパイスのように」取り扱うことを明言しているように、初期社会主義的な考え方を取っ掛かりとして、そこから地方創生や社会福祉、民主主義活性化のための方策などなど、話は多方面に展開していくのである。

 二人が初期社会主義から導出する理念としては「誰しもがディーセントな暮らしのできるフェアな社会」という英国労働党のジェレミー・コービンの言葉に集約されるだろうか。國分がその言葉を引用しつつ、社会主義が人々の心に強く訴えかけていた時代、そこにどのような魅力があったのか、ディーセンシーやフェアネスといった言葉で表現できるかもしれない、と指摘するのだ。

 それにしても二人が現代的に解釈し直そうと試みる「社会主義」にさほどの魅力を感じることはできなかった。それは資本主義を前提しつつ、その綻びを補正していく社民主義と似たようなものといえば失礼になるだろうか。

 本書に面白味があるとすれば「社会主義」とは直接関係のない箇所である。たとえば山崎が実践しているという公共建築をめぐるワークショップなどは今風の用語でいえば熟議民主主義の試みともいえそうで、そのあたりの話はもう少し具体的に聞いてみたかった。
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by syunpo | 2017-08-26 19:06 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

少しずつ自由に近づいていく〜『中動態の世界』

●國分功一郎著『中動態の世界 意志と責任の考古学』/医学書院/2017年4月発行

b0072887_1854230.jpg 薬物やアルコールの依存症は本人の「意志」や「やる気」ではどうにもできない。これは医療の現場では常識的な認識となっているらしい。「絶対にもうやらないぞ」と思うことが治療への出発点のように素人は思いがちだが、「むしろそう思うとダメ」なのだという。

「意志」とは、私たちにとっては一般的にポジティブな概念であるけれど、むしろマイナスに作用する場合もありうる。言い方を変えれば、意志とか責任という言葉で考えている限り、解決しない問題がある──。
こうして國分功一郎は「意志」をめぐる哲学的な思索に入っていく。

 中動態。能動態でもなく受動態でもない。書名が示すとおりこの聞き慣れない文法的概念が本書のキーワードである。

 言語学者のエミール・バンヴェニストによれば、言語には能動態と受動態の区別に先立って、能動態と中動態の区別があったという。それがいつのまにか能動態と受動態の区別にとって代わられ今日に至ったのだ。

 では、中動態とはいかなるものなのか。
 バンヴェニストの定義では、「在る」「生きる」などの能動では「動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示している」。対して「生まれる」「享受する」などの中動では「動詞は主語がその座となるような過程を表している。つまり、主語は過程の内部にある」。

 能動と受動の対立においては、するかされるかが問題となる。それに対し、能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になるというわけだ。

 ここで興味深いのは、能動態と中動態が対立していた古代ギリシアでは「意志」の概念がなかったという点だ。意志の概念はあくまでも能動態と受動態の対立と結びつけられることによって生まれた。近代司法制度の基礎となる責任という考え方もその線上にあらわれる。

 ……意志を有していたから責任を負わされるのではない。責任を負わせてよいと判断された瞬間に、意志の概念が突如出現する。(p26)

 能動と受動という対立図式は、ある行為を誰に帰属させるべきかという問い、すなわち意志の問題を前景化する。では、中動態の概念を再構成することで何がわかるのか。

 ハンナ・アレントやマルティン・ハイデッガーは、能動と受動の対立が意志なる概念を生み出すことを認識していたが、アレントは意志の概念を神学的に擁護してしまう点で、國分は批判に転じる。

 一方、ハイデッガーは、能動と受動に支配された言語の外に出るという問題に対して「きわめて難解で秘教的、場合によっては神秘的とも思える言葉遣いをもって答えた」。ハイデッガーは「放下」という言葉で何事かを語ろうとしたけれども、それはいかんせん難解であった。

 そこで國分はあらためてスピノザを参照する。

 スピノザが「中動態」という用語を用いたことはないし、『ヘブライ語文法綱要』でもそのような表現は現れない。だが、その思想のなかにはこの失われた態に通ずる概念が明確に存在している。(p236)

 スピノザは中動態だけの世界を記述しようとした。そこでは神すなわち自然は無限であり、その外部は存在しない。スピノザのいう内在原因とはつまり中動態の世界を説明する概念に他ならない。

 ……神は万物の原因という意味で作用を及ぼすわけだが、その作用は神の内に留まる。神は作用するが、その作用は神以外の何ものにも届かない。(p236)

 神こそが唯一存在している「実体」であり、これがさまざまな仕方で「変状」することによって諸々の個物が現れる。実体の変状として存在する個物のことをスピノザは「様態」と呼んだ。

 スピノザは自由意志を否定し、人がそれを感じるのは自らを行為へともたらした原因の認識を欠いているからだと説いた。そのためにスピノザはしばしば自由を否定する哲学者だと思われている。しかし実際は違う。

 スピノザによれば、自由は必然性と対立しない。むしろ、自らを貫く必然的な法則に基いて、その本質を十分に表現しつつ行為するとき、われわれは自由であるのだ。いかなる受動の状態にあろうとも、それを明晰に認識さえできれば、その状態を脱することができる。

 ここでさきほどの問いかけに戻ろう。中動態の概念を再構成することで何がわかるのか、という問いに。それに対する一つの答えはこうだ。──自由になるための道筋が見えてくるのだ、と。

 だが自由意志や意志を否定することは自由を追い求めることとまったく矛盾しない。それどころか、自由がスピノザの言うように認識によってもたらされるのであれば、自由意志を信仰することこそ、われわれが自由になる道をふさいでしまうとすら言わねばならない。その信仰はありもしない純粋な始まりを信じることを強い、われわれが物事をありのままに認識することを妨げるからである。
 その意味で、われわれが、そして世界が、中動態のもとに動いている事実を認識することこそ、われわれが自由になるための道なのである。中動態の哲学は自由を志向するのだ。(p263)


 以上みてきたように〈能動態/受動態〉の対立図式と結びつけられた意志の概念を疑問視するところから本書は出発し、中動態の考察から自由へといたる道を提示することでひとまず一つの結論をみることになった。

 哲学史的には近代的な責任主体としての「意志」はつねに批判的に検討されてきたといってよい。その意味では本書の問題意識それじたいにとりたてて斬新さはない。國分の考察が優れているのは、その問題を中動態との関連で歴史的に深く掘り下げた点にあるといえるだろう。

 前述したように國分は本書の冒頭でアルコールや薬物の依存症をめぐる「意志」の問題を対話形式で記している。それは中動態の考え方がそのような依存症の治癒にも貢献できる可能性を示唆している。つまり中動態の世界は、単に思考のあり方を鍛えるだけでなく、実社会の臨床現場においても寄与しうることが示されているのである。

 哲学の研究者でもない私が本書を完全に理解したと断言できる自信はないけれど、本来なら地味で辛気臭いはずのインド=ヨーロッパ語における文法の話から、広汎な哲学的思考へとつなげていく本書の叙述がきわめて知的スリルにみちたものであることは確かである。余談ながら読了後に本書が今年度の小林秀雄賞を受賞することが発表された。一読者として心から祝福したい。
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by syunpo | 2017-08-20 18:56 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

人間を救い、同時に苦しめるもの〜『人はなぜ物語を求めるのか』

●千野帽子著『人はなぜ物語を求めるのか』/筑摩書房/2017年3月発行

b0072887_19424445.jpg 人はなぜ物語を求めるのか。そのような素朴な問いから出発して、あれこれと思索の道を進み行き、本を閉じる頃には、どこか遠く高い見晴らしの良いところまで連れてこられたような気がする。いきなり結論めいたことを言うのも気が引けるが、そんな読後感をもたらしてくれる好著だ。

 物語とは人間の認知に組みこまれたひとつのフォーマットである。それは人間や人間社会の成り立ちを基礎づける認知形式ではないか。千野帽子はそのように問いかけ、様々な学問的領域から知見を借りて考察を進めていく。

 まず「私」と物語との関係はどのように考えられるだろうか。
 認知神経科学においては、自己とは全人格のなかの一部にすぎず、そのありかたは状況に応じて刻々と変化しつづけていると考える。「私」とは、瞬間ごとに意味の違う「私」をバラバラ漫画のようにつなげたもので、一貫した実体であるかのように物語ることによって生じる、と考えるわけだ。

「自己」概念は物語的に構成されている──。そのような認識は哲学においても展開されてきた。ポール・リクールはそのものズバリ〈物語アイデンティティ〉なる概念を打ち出している。

 物語はもちろんそれだけでなく人間が他者や社会のあり方を理解しようとするときにも重宝される。言われてみればこれは誰しも経験的に理解できることかもしれない。

 一般的に、ストーリーは「物語」の形で表現・伝達されるが、ストーリーの筋において「できごと」が起こると、世界がある状態から別の状態へと遷移する。また、できごとは「報告する価値があるもの」として認識され、報告価値は内容だけでなく受信者の状況によっても決まる。

 人はそのようにして他者や社会との関わりで生じるできごとを理解しようとし、他者との関係を維持しようとする。そのことが私たちに一定の安心感をもたらすことは間違いない。物語が他者との相互の共感をもたらし、そのことによって社会の協同もスムーズにいくことだろう。

 人は世界を理解しようとするときに、ストーリー形式に依存してしまう。そして法に代表される社会制度もまた、その形式を採用せざるをえない。こういった人間学的傾向を人はふだんほとんど自覚しません。(p138)

 しかしその一方で、陥穽もある。たとえばできごとの前後関係をしばしば因果関係だと勘違いすることはよくあることである。ヒュームが指摘したように、人間は時間のなかで前後関係にあるふたつのことがらを、因果関係で結びつけたがる習性をもっている。「前後即因果の誤謬」と呼ばれるものだ。ロラン・バルトは、この前後即因果の誤謬をいわば体系的に濫用するのが「物語」と述べた。

 以上のような意味では、世の中のできごと理解するということは知性の問題という以上に感情的なことといえるかもしれない。さらにいえば「わかった気になる」と「わかる」とのあいだには本質的な線引きが出来ないということにもなるだろう。

 人間は世界を物語の形式で把握し、新たな平衡状態に向けての事態進展・収束の弾道をシミュレーションする作業を、無自覚なままおこなっている。人生に期待するということの大部分はこの弾道予測への期待である。逆にいうと、失望とはこの無自覚な妄想的シミュレーションから生み出される感情にほかならない。

 僕がかつて人生に期待し、たびたびがっかりしていたとき、「人生に期待することをやめる」という選択肢が存在することを知りませんでした。物語論を研究していて、教えられたことのひとつは、「人生に期待することをやめる」という選択肢が存在する、ということです。(p107)

 個人史としての物語を考える時、子ども時代に作り上げた一般論の集合体(世界観)はしばしば偏っていて、そこから生まれるストーリーは成長後の人を苦しめることがある。

 世界でひとつだけ選択可能なものは、できごとにたいする自分の態度である、と千野はいう。人は物語から完全に逃れることはできかもしれないが、それを相対視することは可能だということでもある。

 さらにまた人は不本意なできごとの原因を探し、その存在に報いを与えたがる心性がある。そのような義務や道徳を支える「べき論」もまた意外と感情的なものといえる。
「べき論」によって人は、世界や他者を操作できると思いこんでしまう。世界は公正であるべきだという考え(公正世界の誤謬)に無自覚だと、被害者を責めたり自責したりすることにもなるだろう。

 つまりまとめあげていえば、物語は人を救うこともできるが、逆に人を苦しめ原因ともなる。人間にとってはまさに両義的なものといえる。

 物語のもつ、そのような権能や副作用について、哲学や宗教、認知科学や人類学、生物学などあらゆる分野から知見を参照しながら考察する本書は、物語論としての奥深さを示してあまりある。
 時に心理学などの実験データを参照したアプローチのしかたは実験社会科学を標榜する亀田達也の『モラルの起源』に重なり合うかもしれない。また物語の発展的な解体へと誘う哲学的な姿勢は千葉雅也『勉強の哲学』とも共振するものだろう。知的刺激にみちた本である。
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by syunpo | 2017-06-14 19:50 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

アイロニーからユーモアへ折り返す〜『勉強の哲学』

●千葉雅也著『勉強の哲学 来たるべきバカのために』/文藝春秋/2017年4月発行

b0072887_1914615.jpg 勉強しない者たちが実社会でたくましく生きていく姿にエールをおくる言葉は巷にあふれている。学生時代はロクに勉強もせずに遊び呆けていたと露悪的に告白するインテリもあとを絶たない。それらはいずれもアンチ勉強言説の紋切型といってよい。その裏返しとして、勉強することの気まずさやそこからじわじわと生まれる歓びに正面から原理的に言及した本はこれまでありそうでなかったような気がする。もちろん「気がする」だけで、単に私の勉強不足だけなのかもしれない。そこで気鋭の哲学者・千葉雅也の勉強論である。

 勉強とは、これまでの自分の自己破壊である。これが本書の核となるメッセージ。自己破壊することなく状況に適応して生きていくのは「ノリのいい生き方」だが、勉強すると一旦その環境でのノリは悪くなる。いわば「浮いた」状態になる。けれども次のフェイズで新たな環境のノリに入るのだ。
 その一連の引っ越しにおいて、千葉は言語を重視する。不慣れな言葉の違和感に注意すること。その違和感を通して特定の環境における用法から別の用法を考え直す可能性が開けるというわけだ。

 深い勉強、ラディカル・ラーニングとは、ある環境に癒着していたこれまでの自分を、玩具的な言語使用の意識化によって自己破壊し、可能性の空間へと身を開くことである。(p217)

 ノリの悪い語りは、自由になるための思考スキルに対応する。思考にはツッコミ(アイロニー)とボケ(ユーモア)がある。前者は根拠を疑って真理を目指す。後者は根拠を疑うことはせず、見方を多様化する。勉強の基本はアイロニーだが、本書ではそれを徹底化することを避けてユーモアに折り返すことを推奨する。

 アイロニーは過剰になると絶対的に真なる根拠を得たいという欲望になるけれども、それは実現不可能な欲望である。むろん「見方の多様化」についても理念的には極限的な状態は考えられるが、事実上私たちの言語使用では、ユーモアは過剰化せず、ある見方を仮固定することになる。それを可能にする条件は、個性としての「享楽的こだわり」である。もちろん「享楽的こだわり」もまた勉強の過程を通じて変化しうる。

 この一連の勉強過程でキーワードになるのが「有限化」。ある限られた=有限な範囲で、立ち止まって考える。無限に広がる情報の海で、次々に押し寄せる波に、ノリに、ただ流されるていくのではなく。「ひとまずこれを勉強した」と言える経験を成立させること。「勉強の有限化」とはそのような状態を指す。

 環境のなかでノッている保守的な「バカ」の段階から、環境から浮くような小賢しい存在になることを経由して、メタな意識をもちつつも、享楽的なこだわりに後押しされてダンス的に新たな行為を始める『来たるべきバカ』へ。これが本書における勉強の原理論のあらましである。

 本書の後半では、その具体的な実践方法を教示する。たとえば自己分析のための「欲望年表」の作成。「自分が何を欲望してきたか」をひろいだし、その背景となる出来事の年表を作ることをとおして「無意識と意識をつなぐ言葉を、仮に想定する」。これは一種の自己分析である。自分のこだわりの発端を分析してバラし、出来事と出会い直そうとすることで、享楽的こだわりもまた変化の契機を得るのである。

 さらに、勉強を有限化しつつ継続するために、当然ながら専門分野のノリに入ることが必要になるだろう。専門分野への参加に際しては入門書を複数比較してその分野の大枠を知ることなど、オーソドックスな助言がなされている。

 ジル・ドゥルーズ=フェリックス・ガタリ、ジャック・ラカンなどのフランス現代思想をベースにしつつ、ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム理論や分析哲学など、本書では多くの哲学的知見がベースになっている。ドゥルーズ=ガタリの〈器官なき身体〉のパロディとして〈器官なき言語〉なる造語を導入しているのも愉しい。

 またピエール・バイヤールのユーモアにあふれた『読んでいない本について堂々と語る方法』が読書の完璧主義の不可能性を指摘するコンテクストで引用されているのにも納得。なるほど「仮固定」や「有限化」の一助としてバイヤールを持ち出すというのは一つの生産的な読み方なのだろう。

 そうした先人たちの思考スタイルに立脚しながらも、同時に自身の経験的なエピソードを随所に織り込んでいるので、この種の本にありがちなフラットな読み味からは免れているのも本書の美点のひとつといえる。

 千葉が説く言語の玩具的な使用は、もちろん本書の記述においても活かされている。時に現代詩のフレーズを引用する。改行を多用してアフォリズム的なリズム感を醸成する。こうして読者は勉強の哲学的な言葉を享楽的に受け取ることができるだろう。

 バカの座に居直るのでもなく、環境のノリに合わせられる実利的な勉強のみを称揚するのでもなく。アクロバティックな勉強への道標。知性的なるものを冷笑する態度が幅をきかせる今だからこそ、読む価値のある一冊であるといっておこう。
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by syunpo | 2017-05-11 19:08 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

人間社会の枠組み自体を変えるもの〜『戦争とは何だろうか』

●西谷修著『戦争とは何だろうか』/筑摩書房/2016年7月発行

b0072887_1927559.jpg 戦争とは何だろうか。本書では、現在の戦争を理解するために世界の状況の変化につれて戦争がどう変わってきたのかを、近代以降にしぼって概観する。いわば近代の戦争史、あるいは戦争という出来事からみた世界近代史といえようか。戦争という行為の善悪をひとまず括弧に入れたうえで、その歴史的変遷を哲学的に検証している点に本書の特徴がある。

 戦争とは何だろうか。この一見素朴な問題提起による歴史的検証は実に奥の深いものであることが読み進むうちにわかってくる。現代の戦争を考えることは同時に主権国家のあり方や法の支配、個人の人権などについて考察することにもつながってくるからだ。

 近代の国民国家が成立して以後の戦争は主権国家同士の戦いとなった。これは重要な論点である。主権国家という以上、まず主権とは何かという問題は避けて通れない。西谷はその問題について以下のように論じている。

 ……では主権とは何なのか? 国内をみずからの課す法秩序に従わせ、その法を守らせるために死をもって罰することができる、そういう権力です。そして同時にその主権は外国に対して戦争を宣言し、その時には自国の兵士に、侵入や破壊や殺害を命じることができる。つまり、主権というのは、内に向けても外に向けても、「殺す」ことができる権力だということです。(p48)

 近代においては戦争の遂行を主権国家のみに認めた。それは全体としては戦争を抑止するシステムにもなった。いわゆるウェストファリア体制といわれるものである。

 主権国家間の戦争では当然ながら国民が戦場に駆り出される。そのことは政治の変化をも促すことになった。国民が生命を賭けて戦う以上は「当然そこに政治的発言権がついてくるように」なるからだ。国民軍による戦争が民主主義台頭のベースになったという西谷の逆説的な指摘は興味深い。

 こうした国家間の戦争は、二度にわたる世界大戦の経験を人類にもたらした。それは単に戦場の拡大ということのみを意味するわけではない。もっと大きくて深い変化である。

 ……「世界戦争」というのは、地理的に拡大しただけでなく、人間世界が丸ごと戦争に呑み込まれるようになる、そういう意味で「戦争が世界化する」と同時に「世界が戦争化する」ということでもあったのです。(p91)

 第二次世界大戦後には国際連合が創設される。しかしながら世界を二分する冷戦の時代という新たな局面を迎える。そこでは大国同士の大きな戦闘は避けられたが、局地的に代理戦争が戦われた。
 冷戦は旧ソ連の崩壊によって自由主義陣営が勝利したかのようにみえたが、その後にやってきたのは平和ではなく、さらなる混沌であった。先進国が「テロリズム」との戦争を行なう時代に入ったのである。いうまでもなくそれを主導したのは米国である。

 カール・シュミットは、主権者とは「例外状態について決定をくだす者」だとしたのだが、「テロとの戦争」宣言はアメリカの「世界の主権者」宣言といえる。もちろん「テロとの戦争」という表現じたいが、アメリカ主導の認識枠組みの典型である。その枠組みが戦争の概念そのものを変えてしまった。国家が対外的に暴力を行使することの制約が取り払われてしまった、と西谷はいう。

 ……「テロとの戦争」で決定的なのは、「殺してもよい人間」という新しいカテゴリーができてしまったことです。(p163)

 本来ならテロの首謀者や実行犯は司法の手続きをへたうえで有罪が確定したのちに処罰されるはずが、「戦争」となれば、そのような手続きなしにその場で「殺してもよい」ことになったのである。西谷はこれを否定的な意味をこめて「画期的なこと」と言明する。

 ……「テロとの戦争」という観念が作られ、それが現実化されて、全世界の主要国がそれを認めた時から、地上には存在を認められない人間、「非人間」という新しいカテゴリーができてしまった。アメリカの指導層が始めた「テロとの戦争」は、そのように根本から「文明」の倒錯に導くものなのです。(p166)

 本書を読むことによって、戦争という概念の変遷は同時に政治・経済から文明の問題にいたるまで基本的な理解の枠組み自体をも揺れ動かしているということが理解できる。その意味では戦争を知るとは人間社会そのものを知ることでもあるだろう。しかし戦争をしなくとも人間らしい社会を築くことは可能なはずである。
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by syunpo | 2017-05-05 19:35 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

近代日本のアイロニー考〜『未完のファシズム』

●片山杜秀著『未完のファシズム 「持たざる国」日本の運命』/新潮社/2012年5月発行

b0072887_1985033.jpg 片山杜秀のいう「未完のファシズム」とはいかなる意味か。
 明治憲法は権力分立の思想が徹底しており、一元的な独裁政治に陥る危険性をあらかじめ排除するものだった。国家を一つの意志に束ねて戦争するには不都合な仕組みだったのである。東条英機は首相になってそのことを悟り、一人で複数の役職に就いて言論弾圧などを行なったものの、一元的な総動員体制を構築することは完全にはできなかった。未完のファシズムとはそのような状態を指している。

 むろんファシズムの定義は多様であり、権力の一元性を重視した場合に日本のそれは「未完」であったというにすぎない。その意味では片山の命題にさして独創性があるとも思えないけれど、現代政治史の一つの見方を示したものには違いなかろう。

 さて、大正から昭和の敗戦へと至る道を考える時、一つの不思議がある。時代が下れば下るほど、近代化が進展すればするほど、日本人は神がかっていったという事実だ。
 片山は第一次世界大戦に注目する。その大戦に衝撃を受けた軍人たちがそれぞれに戦争哲学を組み立てていったからである。それらが「未完のファシズム」体制下で、様々な葛藤や対立の結果、はからずも一つの神がかった流れを作りだすことになる。本書はそのような近代日本のアイロニカルな過程を描き出していく。

 日本の軍部は第一次世界大戦を契機に今後の戦争は肉弾戦から火力優位・物量重視の近代戦へと変化していくことを感じとっていた。そこで日本の採るべき戦略については、二つの系統が現れる。

 一つは、荒木貞夫、小畑敏四郎、鈴木率道らのちに「皇道派」と呼ばれることになる人々が提唱した、精神主義を基盤とする「即戦即決・包囲殲滅戦」の思想である。それは「持たざる国」の苦肉の戦略ともいえるものだが、その考えを柱にして出来たのが『統帥綱領』『戦闘要綱』だ。
 もう一つは、「持たざる国」であるのなら「持てる国」になろうと主張する石原莞爾ら統制派の考え方である。石原は満洲国を拠点にして生産力を高め、戦争準備が充分に整ったところで「世界最終戦争」に打ってでるべきだと主張した。

 しかし、その二つの考え方はともに大きな時流に呑み込まれていく。軍隊が政治に容喙できない以上、軍人はいついかなる場合でも既存戦力で戦う準備をしておかねばならない。つまり、物量において負けると分かっている戦争でも、やらねばならんときはやるべきだ、精神力による嵩上げ分を無限に膨らませられるはずだという「ある種の狂気を孕んだ信仰」に傾く人々が出現したのである。片山はその代表的論客として東条のブレーンでもあった中柴末純を指名する。

「持たざる国」でも「持てる国」の相手を怖じけづかせられれば勝ち目も出てくる。中柴はそのためには、なんと、日本人がどんどん積極的に死んでみせればよいのだと考えた。その思想は日米戦争時代の日本人の死生観に決定的影響を及ぼした『戦陣訓』にはっきり表現されている。

 むろん、中柴も東条も玉砕を賛美するような「精神主義」で米英に勝てると本気で信じていたわけではない。片山は彼らが残した文献を読み込んだうえで、その哲学は「『もたざる国』が『持てる国』と正面戦争をしうる格好を取り繕っておくための方便にすぎなかったと言ってよい」と結論している。

 皮肉にも中柴は合理的計算が仕事の工兵の出身であった。しかし中柴にしてみれば玉砕戦法だけで勝てると高唱するしか戦い続ける気力を喚起させることはできなかっただろう。片山は本書の末尾で次のように痛切にまとめている。

 この国のいったんの滅亡がわれわれに与える歴史の教訓とは何でしょうか。背伸びは慎重に。イチかバチかはもうたくさんだ。身の程をわきまえよう。背伸びがうまく行ったときの喜びよりも、転んだときの痛さや悲しさを想像しよう。そしてそういう想像力がきちんと反映され行動に一貫する国家社会を作ろう。物の裏付け、数字の裏打ちがないのに心で下駄を履かせるのには限度がある。(p333)

 本書は戦前戦中の陸軍関係者の国家観・戦争観を軸にして、小川未明や徳富蘇峰、宮沢賢治や倫理学者の吉田静致らの著作をも参照しながら、日本近代のアイロニカルな思想史を浮き彫りにした労作といえるだろう。
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by syunpo | 2016-12-27 19:10 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

〈災後〉の社会を生きていく〜『日の沈む国から』

●加藤典洋著『日の沈む国から 政治・社会論集』/岩波書店/2016年8月発行

b0072887_20184870.jpg 日本の戦後を考えるとき、国内的文脈の「戦後」と国際的文脈の「戦後」にはズレがあった。さらに東日本大震災とそれに伴う原発事故の後、「災後」の問題が浮上してきた。加藤典洋の認識に従えば、災後の社会はそれ以前の社会とは異なった思考が求められている。それは端的にいえば「有限性」をめぐる問題である。戦後は終焉したが、災後の社会をいかに生きていくのか。本書はその問題を構想した一連の文章を中心に収めている。

 戦後日本の平和主義的土壌は枯渇した。それを踏まえて対米従属からいかに脱却するかが主要なテーマとなるが、加藤は矢部宏治やロナルド・ドーアらの仕事を下敷きにして、九条の強化・改訂や国連中心主義による国連改革などを提起している。問題意識もその解決の方向性もとくに目新しいことを述べているわけではない。

 災後の問題をめぐっては、ウルリッヒ・ベックのリスク近代論に依拠しつつ、もっぱら巨大化したリスクとどう向き合っていくかを問う。ベックの考察が画期的だったのは、再帰的近代においては外部環境=自然の限界とは関係なく、人間社会が限界にぶつかることを警告した点にある。

 内部的な技術革新は、産業システムの大規模化、高次化を伴うが、その結果、必然的に高リスク化をもたらす。そのため、産業システムは、自然の限界がなくとも、成長を続ける限り、高リスク化を避けえず、いわば内在的にその限界にぶつかる。(p110)

 つまり、資源環境の外部的な有限性が、リスクという内部的な世界の有限性の問題に変わるというわけだ。その象徴的な実例が原発である。福島の原発事故後、保険会社は契約更新を打ち切った。近代のリスク管理の最高の知恵とみられた保険制度をもってしても対処できないほどのリスク。それが再帰的近代の高次リスク社会のすがたなのである。

 加藤はそれを踏まえてやや晦渋な考察に踏み込んでいくのだが、科学技術への不信を言いつのるかわりに、科学への信頼を追究することを説くくだりはわかりやすい。

 科学的であるということは、ここで、原子力にたいしては、それへの盲信から自由に、批判的に対するということである。科学的であることは、原子力エネルギーに事故の危険、廃棄物処理などの問題があれば、それにしっかりと向き合い、この問題を解決しようとすることなのである。それがほんらい、解決のつかない問題だとわかれば、これに代わる代替エネルギーを考えようとする、しかし、ここに大きな障害あるとすれば、それを取り除こうとする。それがどんなに面倒なことでも隠さない。(p219〜220)

 むろん上にも記したように本書の一連の考察はもっと思想的にニュアンスに富み、複雑な理路をたどっていることは付記しておく。とりわけ日本が生み出した二つのキャラクター──鉄腕アトムとゴジラ──を一対にした批評的小論は、もう少し平易な言い方が可能ではないかという印象を拭い難いものの興味深い論考には違いない。

 またほかにもスパイスの利いた文章が収められていて、昨今の加藤の関心の在り処がよくわかる本になっている。
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by syunpo | 2016-09-26 20:20 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

粘菌、華厳経、レンマ〜『熊楠の星の時間』

●中沢新一著『熊楠の星の時間』/講談社/2016年5月発行

b0072887_19283761.jpg 南方熊楠は様々な顔をもつ多能にして特異な人物であった。仏教について、科学について、生と死について、自由自在に思考をめぐらせた。中沢新一はそのような熊楠の思想に「封をされたままの未来への贈り物」を見る。本書は熊楠に関連した五つの講演記録をもとにした文章を収めたものである。

 熊楠の思想的創造に大きく寄与した生きた哲学的概念としての粘菌。その粘菌と概念として同一構造を持つレンマの法則。そのレンマの法則に基いて巨大な宇宙を構築した華厳経。本書ではそれらの連関が中沢らしい奔放な語りで概説されていく。

 南方熊楠は西洋で発達したキリスト教神学や西欧哲学とも近代科学とも異なる、東洋的な思想の土台に立つ「未知の学問」を構想した。そのさい彼がモデルに考えていたのが華厳仏教である。
 ヨーロッパの学問は「ロゴス」に基づく。ロゴスは、世界に現象する事物を集めて並べて整理する。「言葉で言う」とはその謂である。対する華厳仏教では「レンマ」がもとになる。「手でつかむ」「把握する」などという語源から生まれた概念だ。ロゴスの土台になっている同一律、矛盾律、排中律の三つの法則を否定して、あくまで世界の事物を直観でとらえようとするところに特質がある。結論的にいえば、熊楠は近代科学と華厳思想を「相即相入」させることによって「レンマによる科学」を打ちたてようと企てた。

 また南方熊楠はアクティビストでもあった。彼はエコロジーの先駆者ともみなしうるが、政治的課題としての環境問題だけでなく、人間の心の根底にある「自然」の問題にも深く関わっていた。熊楠が人生の一時期を費やして取り組んだ「神社合祀反対運動」もまた、そのようなアクティビストとしての面目躍如たるものがある。神社合祀は何よりも森林破壊をもたらしたのだから。

 南方熊楠はアブ=ノーマルな人であった。異常な記憶力、類例もない特異な文章法や思考法、その奇行など、そこに知人たちが何らかの「症候」を感じたとしても無理からぬことであったろう。中沢は熊楠の「症候」=シントムを思考する。このくだりはいささか難解だけれど、熊楠の並外れた言動の特異性の一端を感じ取ることはできた。

 二つの「自然」をとおして、フランスの人類学者フィリップ・デスコラと熊楠との類似を考察する一文もおもしろいし、日本サンゴ礁学会での講演で、野生の科学に関して述べているのも一興。熊楠もまた「野生の科学」を志向した人であった。

 本書全体をとおして、南方熊楠について知り学ぶことの今日的意義が説かれているわけだが、話がやや抽象的に傾いている印象もあり、私には理解しがたい箇所も少なからずあった。しかしかねてから熊楠の思想を紹介してきた中沢ならではの情熱的な語りには何かしら惹かれるところがあったことも確かである。
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by syunpo | 2016-08-28 19:31 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

擁護でも否定でもなく〜『保守主義とは何か』

●宇野重規著『保守主義とは何か 反フランス革命から現代日本まで』/中央公論新社/2016年6月発行

b0072887_2010448.jpg 保守主義者を自称する人は増えているらしい。もっともその意味するところは人によって異なる。本書は保守主義を思想史的・歴史的に検証し、その再定義を試みようとするものである。

 フランス革命に対抗して論陣を張ったエドマンド・バークを保守主義の原点とするのは教科書どおりだろう。ただここで注意すべきなのは、バークは革命一般に反発したわけではなく、フランス革命のように歴史と断絶した急進的な変革に疑問を呈したという事実である。名誉革命で打ち立てられた英国国制(British Constitution)のような政治体制を重んじ、これを守り発展させていく漸進的変革こそ人間社会に適ったやり方だとバークは考えた。

 バークによって基礎が確立された保守主義の新たな展開として社会主義に対抗するために主張されたものが次につづく。T・S・エリオットやフリードリヒ・ハイエク、マイケル・オークショットたちの保守主義である。なかでも興味深く読んだのは、ハイエクに関するくだりだ。彼は集産主義を批判し「法の支配」を強調した。法の支配が発展したのは一七世紀イングランドであるが、ハイエクはその起源を中世ヨーロッパではなく、古代ギリシアにおける「イソノミア」に見出す。デモクラシーが民衆による支配を意味するとすれば、イソノミアは「市民の間の政治的平等」を指すものであった。本書では触れられていないが、イソノミアは柄谷行人が『哲学の起源』で言及して以降、あらためて注目されている概念である。

 アメリカの保守主義としては、伝統主義とリバタニアリズムの系譜が考えられる。とりわけ後者は政府の権力の縮小化を主張する点で、個人の精神的態度をこえて政治レベルでの保守主義的政策を実現していく理論的支柱となった。ミルトン・フリードマンとロバート・ノージックがその代表である。
 フリードマンは何よりも政府の役割が拡大することで特殊利益が跋扈して、一般利益が損なわれることを問題視した。「今日の新しい支配階級は、大学におさまっている連中であり、報道機関であり、とりわけ連邦政府の官僚機構である」。同じような主張を個人の人権や自然権を重視する立場から展開したのがロバート・ノージックである。

「日本の保守主義」を論じた一章では「明治憲法体制を前提に、その漸進的な発展を目指した」点に着目して伊藤博文や陸奥宗光を保守主義の文脈で論じているのが興味深い。その論法を現代日本にあてはめると、現行憲法体制を前提に強引な政権運営を抑えようとしている共産党やSEALDsの学生たちが保守主義者ということになるのだろうか。(実際にそのように論じる文章もみかけるが……。)

 著者の宇野重規は自らを保守主義者であるとは考えていない旨、あとがきに明記している。ゆえに保守主義の正当化をはかることも過大な宣伝を行なう必要もない。俯瞰的な地点から保守主義を歴史的に概括したところに本書の特徴があるといえる。その意味では、よくいえばバランスのとれた記述になっていると思われるが、ここに挙げられた論客たちに関して、あらためて読んでみようという意欲が喚起されるほどの魅力を感じることもなかった。私にとっては保守主義のよく出来た概説書というレベルを超えるものではない。
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by syunpo | 2016-07-20 20:15 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)