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コラムニスト・吉本俊二の書評ブログです。
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カテゴリ:政治( 105 )


選挙権に免許は必要か!?〜『ブラック・デモクラシー』

●藤井聡編『ブラック・デモクラシー 民主主義の罠』/晶文社/2015年11月発行

b0072887_19383774.jpg 橋下徹と大阪維新の会を題材に民主政治のあり方を考えるという趣旨の本である。デモクラシーはつねに独裁政治へと転落する可能性をはらんでいるが、そのような悪しき民主政の状態を本書では「ブラック・デモクラシー」と呼び、それを避けるための方策を模索していく。藤井聡、適菜収、中野剛志、薬師院仁志の論考のほか、湯浅誠+中野剛志の対談が収録されている。

 おしなべて粗っぽい議論が展開されているなかで、末尾に収められている薬師院仁志の〈ブラック・デモクラシーと一筋の光明〉はそれなりに面白く読んだ。ここではその論考について触れておきたい。

 薬師院は、呉智英が提唱する「選挙権免許制度」について言及している。呉は、危険物の取り扱いや自動車の運転に免許が必要であるならば「使い方を誤って最も危険なのは権力」である以上、「こんな極限の危険物の運転に免許がなくていいはずはない」と主張しているのだ。「公正な試験による免許制度だけが、公平で合理的な権力暴走抑制装置だ」。

 もっとも呉の提案はとくに目新しい着想というわけでもないらしい。J・S・ミルも同じような趣旨のことを著作に書き残している。「民衆世論における知性の度が低いこと」を「代議制民主政治に付随する危険」だと言明したのである。そこで彼は登録のために出頭したすべての人に簡単な読み書きや演算の試験の必要性を唱えた。

 そもそも間接民主主義はルソー的にいえば「選挙による貴族政」である。ミルはそれを「代議制民主主義」と言い換えたが内実は同じものだと薬師院はいう。貴族=賢明な人々による統治を目指す以上は、投票者の「知性の度」を確保すべきだという発想はむしろ自然ともいえる。

 しかし考えてみれば、薬師院がいうようにこれはもう少し複雑な問題であろう。そもそも民衆世論というものは自然発生的に生じるという以上に、人為的に形成される面も否定できない。選挙権の資格試験を平然とパスするような高度な「知性」の持ち主たちこそが、ブラック・デモクラシーの使徒となって民衆を誘導する仕事に勤しむのが通例だからだ。

 薬師院は選挙権免許制度に対しては「知識を持つ者に見識や判断力がある保証はない」という表現で斥けてはいるものの、その提案の背後にある衆愚政治的な現象に対しては呉やミルと同様の問題意識を共有しているように思われる。それは直接民主主義のツールとも考えられる住民投票への懐疑的態度にもあらわれている。

 大阪維新の会をはじめとするポピュリズム政党は一般的に住民投票という手法を好む傾向にある。歴史的にみても「住民投票や国民投票による直接表決には、政治を担うエリート層への批判という側面があった」。
 今日の欧州諸国では、住民投票に対する賛否が、民主主義が抱えるジレンマとして理解されることが多い。すなわち「人民による政治」と「人民のための政治」が、実際には両立しないという板挟み状態である。

 そこで薬師院は次のように述べている。

 ……はっきり言ってしまえば、経験的事実に照らす限り、「人民のための政治」を実現して来たのは、「人民による政治」ではなく、むしろエリート主義に立つ代議制民主政治なのである。(p217)

 ……直接投票による表決は、今日の日本で想像されているほど“民主的”な手法ではないのである。極端な話、択一式の多数派争いに負けた側にとって、その表決は、絶対君主による一方的な命令と同じことなのだ。そこには、勝敗しかない。だが、ケルゼンが指摘する通り、「対立する集団の利害を調整して妥協させることができなければ、民主制は成立しえない」のである。(p218)


 対立する集団の利害を調整するためには、議論や熟議が重要になってくることはいうまでもない。本書に収録されている対談のなかで湯浅誠が強調している「面倒くさい民主主義」というのもそういう意味を含む。

 たしかに「民衆世論における知性の度が低いこと」は「代議制民主政治に付随する危険」かもしれない。ゆえに「国民の知識水準の向上を図ることは、国家にとって必須の課題であるに違いない」と薬師院も言う。だが重要なのはその認識をもとに、私たちはどのように振る舞うべきかということだ。

 ……正しい情報や知識の普及を軽視するような社会で民主政治が発展するわけはないだろう。ならば、「民衆世論における知性の度が低いこと」を非難する前に、しなければならないことがある。言うまでもなく、正しい情報や知識を、広く的確に伝えることだ。(p224)

 むろん民主政治に先立って国民全体への啓蒙が必要だという構想には限界があるだろう。熟議民主主義を提唱する研究者ならば、ここで「民主主義が民主主義を鍛えるのだ」と言うのかもしれない。議論をつうじて国民が学び主権者として鍛えられていくというビジョンである。

 その点、薬師院のまとめ方はいささか凡庸で尻すぼみの印象は拭えないし、主権者を方向づけるエリートの立場を重視するような議論にも異論はありうるだろう。が、それもこれも自身の態度表明と理解すべきなのかもしれない。いずれにせよ、政治混迷の今の時期に誰もが目を輝かせるような処方箋があるくらいなら何の苦労もない。代議制民主主義の意義を再検討する一つの契機として薬師院の論考は示唆的な一文ではないだろうか。
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by syunpo | 2017-06-05 19:45 | 政治 | Trackback | Comments(0)

民主主義に対する諸刃の剣!?〜『ポピュリズムとは何か』

●水島治郎著『ポピュリズムとは何か 民主主義の敵か、改革の希望か』/中央公論新社/2016年12月発行

b0072887_1849371.jpg ポピュリズムを扱った政治学の書物にあまりおもしろい本はない。というのが私のこれまでの読書体験から得てきた管見である。おしなべて、手垢のついた用語に恣意的な語釈をあてはめただけのどうとでもいえる大味な論調という印象が拭えなかったのだ。
 本書はタイトルどおりまさにポピュリズムを真正面から考察した本である。結論的にいえばそれなりに有益であると思うが、やはり疑問も残った。

 ポピュリズムには大まかにいって二つの定義があるという。
 一つは「固定的な支持基盤を超え、幅広く国民に直接訴える政治スタイル」をいうもの。今ひとつは「『人民』の立場から既成政治やエリートを批判する政治運動」をいうもの。本書では後者を採る。何故なら「現在、世界各国を揺るがせているポピュリズムの多くは、まさにエリート批判を中心とする、『下』からの運動に支えられたものだからである」。

 水島はマーガレット・カノヴァンを引用して、実務型デモクラシー(立憲主義的)と救済型デモクラシー(ポピュリズム的)の緊張関係においてポピュリズムを捉えようとする。二つの型は民主主義にとっては欠くことのできない要素である。デモクラシーは純粋に実務型であることはできず、部分的には救済的な要素に基づくものであるから、ポピュリズムの発生する余地を常に与えることになるだろう。

 以上のような基本認識をもとに、ラテンアメリカ、ヨーロッパ、米国におけるポピュリズムの変遷をあとづけていく。それらの地域の政治状況を簡潔にまとめている点で、海外の事情には疎い私にはたいへん勉強になった。

 とりわけ労働者の権利拡張を推し進めたアルゼンチンのベロニズム(本書ではポピュリズムに類型化されている)による消費社会の到来が独自の政治的行動様式を持つ「消費者」を誕生させたとする記述は興味深い。また、デンマークやオランダ、スイスのポピュリズム政党は「リベラルな価値」の観点から、近代的価値を受け入れないイスラムへの批判を展開している、という指摘にも驚かされた。

 それらのポピュリズムを分析してわかることは、その両義性である。本書では随所にそのことが述べられている。

 ポピュリズムはデモクラシーの発展を促す方向で働くこともあれば、デモクラシーへの脅威として作用することもある。(p20)

 既成政治に対する批判、不満の表明は、それが法治国家の枠に収まる限りにおいて、意味を持ちうる。しかし実際には、安全弁だった思っていたポピュリズムが、かえって制御不可能なほどに水を溢れさせるリスクもある。(p230)

 ただし現在、世界の諸地域で進行している政治動向をポピュリズムなる包括的な概念で説明を試みることの意義や有効性については最後まで疑問が消えなかった。

 そもそもポピュリズムとは政治上の理念モデルというよりも現実に存在する政治勢力に向けられた一つのラベリングである。語源となった米国人民党の活動と直接関連づけられることも少なくなった。今ではみずからポピュリズムを名乗る政党はない。分析者が現実にあわせていかようにも定義を上書きしていくことが可能だろう。

 前述したように本書では、ポピュリズムについて「『人民』の立場から既成政治やエリートを批判する政治運動」との定義を採って論を進めているのだが、欧州における既成政治・エリート批判とは、既成の制度が行なう再分配による受益者(移民や生活保護受給者など社会的弱者を含む)をも特権層として批判するというアクロバティックな理路をたどる。

 ついでに記せば、大阪維新の会もポピュリズムの文脈で論じられているけれども、彼らは特権層を解体するポーズをとりながら、実際にやっていることは別の特権層を生み出している気配が濃厚である。そのような政治勢力はポピュリズムの定義にかなっているのかどうか。そもそもそのような議論がさして重要だとも思えない。

 近代西欧が育んできた「リベラル」な価値観がいわば「反転」を見せ、むしろ強固な「反イスラム」の理論的根拠を提供するに至っている。……という事例が顕在化しているのなら、素人的には、ポピュリズム云々よりも、じゃあ「リベラリズムとは何か」と問い直してみたい気がする。
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by syunpo | 2017-03-07 19:02 | 政治 | Trackback | Comments(0)

「市民運動」の結実として〜『日本会議の研究』

●菅野完著『日本会議の研究』/扶桑社/2016年5月発行

b0072887_184715.jpg 安倍政権の反動ぶりも、路上で巻き起こるヘイトの嵐も、『社会全体の右傾化』によってもたらされたものではなく、実は、ごくごく一握りの一部の人々が長年にわたって続けてきた「市民運動」の結実なのではないか?(p220)

 本書の目的は以上の仮説を裏付けるところにある。関係者へのインタビューはもちろんのこと、関連資料を徹底的に読み込んだ分析は在来メディアが手をつけてこなかったもので、目的は充分に成就されているのではないか。

 菅野によれば「ごくごく一握りの一部の人々」には主に三つの系統がある。一つは椛島有三率いる「日本青年協議会」および「日本会議」のライン。二つめは伊藤哲夫率いる「日本政策研究センター」のライン。三つめは「生長の家」のラインである。

 私は神道系の人々が主導している運動なのかと漠然と思っていたけれど、そうではないのだ。日本会議には実に多くの宗教団体が集結しているが、実務を取り仕切っているのは生長の家の関係者なのだという。ただし現在の同教団は路線を転換していて政治運動からの撤退を公言している。日本会議に関わっているのは当初の教えをそのまま踏襲している人々である。

 日本の「右傾化」の動向を宗教思想的な見地からみる場合、戦前からの流れで神道との結びつきを重視する見方が幅をきかせてきたことを考えれば、そのような情勢分析の紋切型を相対化する意味で本書の「研究」は極めて貴重ではないかと思う。

 日本会議の運動は左翼の運動手法を真似たもので、それを息長く続けてきたことで成果を生み出してきた、と菅野はいう。計数管理能力に秀でいる点に言及している点も刮目に値するだろう。
 小異を捨てて大同につくという原則に徹しきれない今日の野党共闘やリベラリストたちの迷走ぶりを見るにつけ、日本会議の地道な手法には学ぶべき点も少なくないのではないかと思った。
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by syunpo | 2016-12-19 18:48 | 政治 | Trackback | Comments(0)

生命を賭けて仕事をするということ〜『国のために死ねるか』

●伊藤祐靖著『国のために死ねるか 自衛隊「特殊部隊」創設者の思想と行動』/文藝春秋/2016年7月発行

b0072887_12324214.jpg 本書は自衛隊初の特殊部隊である海上自衛隊の「特別警備隊」の創設に関わった元自衛官の手になる本である。率直にいって「思想」的な部分では、著者が問いかける愛国心や憲法の問題は失礼ながら陳腐なもので「何を今さら」感は否めない。またアジア諸国の人々と交わした対話として「日本人は騙しやすい」という趣旨の話ばかりを並べているのも日本軍が過去に行なった言動を思い起こせば、著者自身がどこまで自覚しているのかわからないが、いささか政治的な書きぶりだと思う。

 しかし「みょうこう」航海長在任中に起きた「能登半島沖不審船事件」を体験したことが特殊部隊創設の直接の動機となったというのは日本の安全保障を考えるうえで大いに示唆的な挿話には違いない。私たちの知らない自衛隊内部の訓練の実態や組織事情について具体的に記述しているくだりなども非常に興味深く読んだ。生命を賭して公務についている人々の存在に思いを及ぼすことはやはり大切なこと。「『他国とのお付き合い』で戦争などまっぴら御免」というオビの謳い文句はもっともな言い分だろう。現政権が推進している安保政策を再検討するうえで一読に値する本である。
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by syunpo | 2016-12-03 12:38 | 政治 | Trackback | Comments(0)

政治参加のための手引き〜『投票に行きたくなる国会の話』

●政野淳子著『投票に行きたくなる国会の話』/筑摩書房/2016年6月発行

b0072887_2033983.jpg ちくまプリマー新書の一冊。著者は衆議院議員の政策秘書を経てフリージャーナリストとして活躍している人物で、基本的には若年層向けに政治への関心を高めることを目指した企画だと思われるのだが、さてその内容は……?

 選挙権の年齢が十八歳からに引き下げられたことを受けて、日本の統治機構の初歩的な解説から始まるのはいいとして、その後は立法や税制改革、行政監視に市民が積極的に関与するための方策を教示するという構成になっている。詳細なノウハウ伝授をしている一方で、明快な成功事例の記述に乏しく、茫洋とした読後感だけが残った。

 日本の政治システムを概説するくだりでは、平易な語り口で理念的な話を中心に法制度の推移などにも言及している。ところどころでやや踏み込んだ記述がみられるのが目を引く。たとえば評価のわかれる政党助成金制度についてその不公正さを指弾するなど入門書的な本にしては著者自身の政治観が色濃く出ている箇所もあり、そのあたりは異論があるかもしれない。

 それ以上に違和感をおぼえたのは、どうも器と中身がフィットしていない、標題(&序章)と内容にズレがあるように思われることである。国政に関与する方法として「アドボカシー」や「ロビイング」などに紙幅が割かれているのだが、それらは政治活動の上級者向けの話ではないだろうか。「市民立法」のやり方なども妙に細かくレクチュアしているけれど、そのような実践的なアドバイスを必要としている人であれば、当然投票には欠かさず行っているに違いあるまい。

 当面する課題は、選挙での投票率が低下傾向にあることを踏まえ、まずはいかにして一般有権者に投票所へ足を運んでもらうか、ということだろう。標題もそれを意識したものが付けられているのに、本書の内容は政治への入口に誘う書としてはいささか跳びすぎているのではないか。

 しかも不思議なのは、立法過程や予算審議などではいかに官僚が仕切っているかが事細かに記述されていることだ。国民の代表たる議員が国民の立場にたって活躍している場面はほとんど出てこない。一事が万事、国政・司法にまつわるネガティブな話が基調になっていて、それが実態だと言えばそのとおりだろうが、それならそれで書き方をもっと工夫する必要があっただろう。本書を読んで「投票に行きたくなる」若者の姿を想像することは私にはむずかしい。
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by syunpo | 2016-11-30 20:35 | 政治 | Trackback | Comments(0)

〈愚民〉から〈主権者〉へ〜『私の「戦後民主主義」』

●岩波書店編集部編『私の「戦後民主主義」』/岩波書店/2016年1月発行

b0072887_1833288.jpg 戦後七〇年の二〇一五年には戦後民主主義にちなんだ書籍がいくつか刊行されたが、本書もそれに連なる企画。岩波書店編集部が編んだ本としては『私の「戦後70年談話」』の姉妹編といえるものだろう。文章を寄せているのは一九五〇年以前に生まれた著名人三十八人。この種のアンソロジーでは予想されるとおり、総じて優等生的あるいは紋切型の民主主義論や反戦論が繰り広げられているなかで、以下印象に残ったものについて言及する。

 上野千鶴子の一文はこのテーマでは毎度繰り返してきた内容で鮮度には欠けるものの、山崎望を引きつつ現行の民主主義に対して懐疑的なまなざしを向けるくだりは真理の一面を射抜いているように思う。もっとも結論的には民主主義という道具の使い方に習熟することを説いてポジティブにまとめている。

 大田昌秀は戦中戦後の沖縄の状況を概説したうえで「沖縄の人々は、いまだかつて一度も民主主義の果実を享受したことはない」と言い切る。糸数慶子も同じような文脈を形成しながら「日本は「民主主義の国」だと言えるのか」と厳しく問いかける。日本と一口にいっても戦後は一様に過ぎたわけではない。沖縄県民以外の主権者はそろそろ沖縄からのこうした声に真摯に耳を傾けるべきではないか。

 無着成恭の民主主義論はいかにも身に寄り添った文章で興味深い。「私にとって民主主義とは何か? と聞かれたら、『どうしてそういうことになったの?』とか、『なぜ、そうなの?』とか、『なぜなぜ?』と疑問を持つこと、質問が自由にできるようになったことだ」という一節には大いに納得。

 自分が生まれたとされる日付や場所が最近の調査で不確かなものとわかったという原一男。個人史と日本の戦後とを重ね合わせようとする随想は、彼が撮ってきたドキュメンタリー作品と相俟って、何やら短編小説に読んだ時のような余韻をもたらす。

 中学生時代から文化祭を創設したり生徒会を作ってきたという津島佑子は「誰かが作ってくれたシステムを消費するのではなく、自分が民主主義のアクターとなる──、ほんとうに『不断の努力』が必要なのだと思います」と訴える。常識的な内容だが前半の体験談が効いている。本書刊行の翌月に他界したのは本当に残念。

「日本の歴史上の民主主義は、すべて戦後民主主義であった」──三谷太一郎は研究者の立場から本書の趣旨に適った論考を寄せている。明治維新以後の公議輿論をスローガンとする動きは、戊辰戦争のあとの「戦後民主主義」。明治一〇年代の自由民権運動は、西南戦争に極まる士族反乱が惹き起こした内戦の「戦後民主主義」。日清戦争後の政党勢力の権力中枢への進出をもたらしたのも「戦後民主主義」。日露戦争と第一次世界大戦の後に生じた大正デモクラシーもまた複合的な「戦後民主主義」であった。

 同じ趣旨のことを姜尚中も指摘する。「戦争が民主主義を進化させ、それが戦争を準備し、戦争の後、また民主主義が進化する。この連続が、近代日本が歩んだ歴史だった」。

 現在進行中の「戦後民主主義」はこれまでのものとは異なるという認識も三谷と姜に共通している。ただし「いかに異なるのか」の認識はやや異なる。
 三谷はいう。「それが単に権力形態の民主化や民主的政治運動の勃興のような外面的な政治史的事実として現れるだけでなく、個人の行動を律する道徳原理として内面化されているという点にある」。
 姜はいう。現在の戦後民主主義は「惨憺たる敗北によってもたらされた」ものであるがゆえに「厭戦と戦争への忌避感情、そして戦争を押し進める国家への否定的な感情」によって駆動されているのだ、と。

 ……日本の歴史上の民主主義は、いずれも「戦後民主主義」であった。すなわち戦争がもたらした民主主義であった。そのことは、戦争に何らかの価値を付与することを意味しない。今日の「戦後民主主義」の最大の課題は、それを歴史上最後の「戦後民主主義」とすることである。(p171〜172、三谷)
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by syunpo | 2016-11-21 18:38 | 政治 | Trackback | Comments(0)

性能の良い集約ルールを求めて〜『多数決を疑う』

●坂井豊貴著『多数決を疑う 社会的選択理論とは何か』/岩波書店/2015年4月発行

b0072887_2014521.jpg 多数決を民主主義に必然的な原理と考えている人は多い。「多数決で決めた結果だから民主的」だとか「選挙で勝った自分の考えが民意」と公言する政治家も存在するほどだ。しかしそれらは端的に間違いである。むしろ民主主義を実現しようとするときに、多数決というのはあまりうまいやり方とはいえない。本書では社会的選択理論の視点から人びとの意思をよりよく集約できる選び方について考察する。

 投票で「多数の人々の意思をひとつに集約する仕組み」のことを集約ルールという。多数決は数ある集約ルールのひとつにすぎない。単純多数決は選択肢が三つ以上ある場合に「票の割れ」への脆弱性という欠点を抱えている。また全ての有権者から二番目に支持されている候補がいた場合、万人のための民主主義の観点からは望ましい候補といえるが、多数決の選挙では一票も得られない。つまり多数決はけっして性能の良い集約ルールとはいえないのである。

 それに代わりうるルールとして、本書ではボルダルールやコンドルセ・ヤングの最尤法などを紹介している。
 かなり技術的・専門的な議論が展開されているので詳しい説明は省くが、本書で推奨されるボルダルールとは、たとえば選択肢が三つだとしたら、一位には三点、二位には二点、三位には一点というように加点をして、その総和で全体の順序を決めるやり方である。この方法が優れているのは「いかなるときもペア敗者を選ばない」点だ。ペア敗者とはペアごとの多数決で負ける選択肢をいう。これはスロヴェニア共和国の国会議員選挙の一部などで採用されている。

 本書ではさらにメカニズムデザインについても解説を加えている。「人びとのニーズを正しく把握したうえで公共事業を実施するための仕組み、そのような制度設計を試みる」ものである。

 メカニズムデザインは、近年目覚ましい発展を遂げている経済学の一分野で、ゲーム理論や経済実験などを活用して、分権的な制度設計をめざす。そこでは、行政機関が独自に「この選択のほうが社会全体として便益が高まる」といった判断をしない。メカニズムデザインなど経済学的手法の特徴は金銭単位で費用や便益などの価値を計測することにある。それには批判も少なくないが、そうすることによって、たとえば道路を建設するにも「渋滞の解消」や「工事では環境へも配慮」という抽象的な言葉だけで工事を正当化することはできなくなる。「金銭に基づく裁定は中立性が高いのだ」。

 著者はいう。「多数決ほど、その機能を疑われないまま社会で使われて、しかも結果が重大な影響を及ぼす仕組みは、他になかなかない」と。国民が政治参加するときの有力な回路である選挙をどのようなルールで行なうかは、民主制の根幹に関わる重要な問題のはずである。本書は集約ルールの検討をとおして、民主政治の制度設計への再考を促す説得的な本といえるだろう。
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by syunpo | 2016-07-15 20:16 | 政治 | Trackback | Comments(0)

自分の意思を社会に生かすための〜『18歳からの民主主義』

●岩波書店編集部編『18歳からの民主主義』/岩波書店/2016年4月発行

b0072887_21424197.jpg 二〇一六年の参議院選挙から選挙権の年齢が「一八歳以上」に引き下げられる。本書はそれにちなんだ企画で、若年層向けに政治全般についてわかりやすくレクチュアしたアンソロジー。文字どおり民主主義の基礎知識を解説した〈民主主義のキホン〉、投票時のポイントとなりそうな政策課題を論じた〈選挙。ここがポイント〉、若い世代から高齢者まで思い思いに政治について記した〈立ちあがる民主主義!〉の三つの章から成る。

 後半の〈立ちあがる民主主義!〉に寄せられた文章がそれぞれに個性が出ていて私にはもっともおもしろかった。民主主義という道具を使いこなすことの重要性を説く上野千鶴子。性的少数者の考える民主主義について記した東小雪。在日コリアンとして日本社会の荒波に立ち向かうだけでなく共存していく可能性を大事にしたいと表明する金明奈。香港の困難な政治状況を熱く語るアグネス・チョウ。幼少青壮老の五連帯を説くむのたけじ。「権力をつくるのはもうやめよう」とアナーキックに呼びかける栗原康の一文はさほどの切れ味はないけれど、優等生的な大人の民主主義論が大半を占めるなかで異彩を放っている。

 前半のお勉強モードの文章のなかでは、多数決ルールに代わるものとして順位に配点する「ボルダルール」を紹介している坂井豊貴、地方議会選挙のより良いあり方を具体的に提起する砂原庸介の論考に示唆を得た。
 良くも悪しくも岩波新書らしい内容といえようか。
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by syunpo | 2016-06-28 21:43 | 政治 | Trackback | Comments(0)

自己変革で軟着陸を〜『戦後政治を終わらせる』

●白井聡著『戦後政治を終わらせる 永続敗戦の、その先へ』/NHK出版/2016年4月発行

b0072887_2094841.jpg 話題を集めた『永続敗戦論』の続編というべき著作。「永続敗戦レジーム」論をさらに精緻化し、そこからの脱却のための道筋までを示すというのが本書の趣旨である。

 白井聡は本書で「永続敗戦レジーム」の核を成す対米従属構造を「確立の時代」「安定の時代」「自己目的化の時代」の三段階に区分している。占領期から保守合同による五五年体制の成立を経て六〇年の安保闘争の時期までが「確立の時代」。そこから冷戦終焉までが「安定の時代」。それ以降、対米従属が自己目的化したのが「自己目的化の時代」である。対米従属の合理的な理由がなくなったにも関わらず盲目的従属が深まっている点に、現代社会の歪んだあり方が際立ってきた理由を見いだせる。

 そうした「永続敗戦レジーム」の自己目的化の時代に関して、本書では新自由主義という世界的文脈がいかなる影響を与えてきたのかについても考察を加えている。右傾化や反知性主義などの危機的現象は、日本特有の現象ではなく、近代資本制社会の世界的な行き詰まりと関連づけて捉えられるのである。戦後政治を乗り越えるためにはそのような病的現象が猛威をふるうなかで実行されなければならない、というわけである。

 では、「永続敗戦レジーム」に枠付けられた戦後政治を乗り越える──ポスト五五年体制を構築する──にはどうすればよいのか。
「永続敗戦レジーム」は、「政官財学メディアの中心部に浸透した権力構造であり、それゆえこれに対抗したり突き崩そうと試みるのはあまりに困難である」と感じられるかもしれないが、沖縄が一つのヒントになると白井はいう。沖縄での政治対立の構図こそが本書で言及している本質的な構図が現れている、すなわち二〇一四年の県知事選は「永続敗戦レジームの代理人」(仲井真氏)対「永続敗戦レジームを拒否する勢力」(翁長氏)というものであったからである。この構図を日本全土に広げること。それが〈永続敗戦レジーム〉からの脱却をもたらす契機となるだろう。そのためには三つの革命が必要だというのが白井の認識である。三つの革命とは「政治革命」「社会革命」「精神革命」をいう。

「政治革命」については、白井は野党共闘に可能性をみている。「この動きが、永続敗戦レジームと正面から闘う勢力の形成へとつなが」るかどうかはあとの二つの革命の帰趨にかかっている、という。
「社会革命」とは「近代化の原理の徹底化を図ること」である。基本的人権の尊重、国民主権の原理、男女の平等などがそこに含まれる。「精神革命」とは、様々な「自己規制」や「自分自身の奴隷根性」など自らが自らを隷従させている状態から解き放たれることである。その時、「永続敗戦レジーム」がもたらしている巨大な不条理に対する巨大な怒りが、爆発的に渦巻くことになるだろうと白井は結ぶ。

『永続敗戦論』を読んだ時、いくばくかの違和感をおぼえたのだけれど、昨今の言論空間をみるにつけ、かなり的確なことを指摘していたのではないかと思い直すようになった。私には端的に偽善としか思えない広島でのオバマ大統領演説への無邪気な賛辞の数々をみていると、イデオロギーの左右に関係なく、米国が主導してきた戦後政治への批判精神を根本的に欠落させた人々が少なくないように思われるのだ。つまり日本では白井のいう「永続敗戦レジーム」が無自覚なままに広く共有されているということではないのか。本当の意味で民主主義を確立するためには「永続敗戦レジーム」からの脱却は不可欠であろう。

 本書には目新しいことは書かれていない。だが「言葉が陳腐に見えても、まだ実行されていない理論は新鮮である」と中江兆民は述べた。今こそ兆民の言葉を想起する時なのかもしれない。
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by syunpo | 2016-06-13 20:20 | 政治 | Trackback | Comments(0)

「法治国家」に代わるものとしての〜『「法の支配」とは何か』

●大浜啓吉著『「法の支配」とは何か 行政法入門』/岩波書店/2016年2月発行

b0072887_194031100.jpg 現代日本人は「法の支配」と「法治国家」とをしばしば区別せずに使っている。しかし著者によれば、法学的には両者はまったく異なる概念である。「法の支配」とは、明治憲法の「法治国家」に代えて日本国憲法が採用した統治原理なのだという。本書は現行憲法下での行政法をとおして「法の支配」の原理を理解しようという試みである。

 そもそも「法治国家」(論)とは、ドイツ帝国の立憲君主制を支えた統治原理で、一言でいえば「絶対的な君主の権力の行使を法律によって制限しようとする体制のこと」。明治の政治家たちは憲法を制定するにあたってドイツの立憲君主制を参考にしたため、「法治国家」論も導入されることとなった。

 これに対して、戦後、日本国憲法を制定する際に導入された「法の支配」とは、もともとイギリスで生まれた観念で、英米法全体を支える精神的基盤、英米憲法の中核を成す原理となったものである。

 日本国憲法が採り入れた「法の支配」は「人権を保障するために法によって政治権力を制約する原理」であり、その内容として「個人の自由と平等の保障」「法の定める内容と手続の適正」「司法裁判所に対する尊敬と優越」が含まれる。

 もっとも素人的な感想をいえば、学術上の概念は時代を経るにつれて当初の原義を離れ様々な意味を帯びて、論者によって異なる意味で使われることはよくあることだろう。原義に拘泥した議論が現実的にいかほどの意義があるのか、私にはよくわからない。
 それはともかく、私が本書を読んでいちばん驚いたのは、大日本帝国と日本国とでは統治の原理が異なるにも関わらず行政法理論に関しては本質的な変化はなかったという指摘だ。

 一九四五年の敗戦を境に大日本帝国は消滅し、新しい国家である「日本国」が誕生しました。にもかかわらず、行政法の世界では、明治憲法下の行政法理論が新しく生まれた「日本国」においてもそのまま生き残り、新しい国の制度、実務、学説の中で支配的な地位を保ち続けています。(p6)

 たとえば、公権力の行使としてなされる行政処分には、客観的に違法な瑕疵があっても「公定力」(とりあえず有効とする効力)が働き、行政庁が自ら取り消すか、裁判所が取り消すまでは有効な処分として通用力があるとされている。旧憲法下で確立された「公定力の理論」はこうして現在でも通説・判例によって維持されているという。

 著者はそのような例をあげながら「法の支配」に基づく新しい行政法の基本原理の確立の必要性を訴えるわけである。
 行政権の肥大化は今日の日本でも現実的な問題となっていて、その意味でも本書のテーマは時宜にかなったものといえるだろう。とはいえ本書の記述はいささか教科書風で無味乾燥、新書としてはとっつきにくい読み味なのがやや残念。現在の政治状況から関連する学説へとつなげていくという姿勢をもう少しはっきり打ち出してくれたら、もっと読みやすい本になったと思う。
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by syunpo | 2016-06-01 19:41 | 政治 | Trackback | Comments(0)