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源ちゃんが大学で行なった読書のススメ〜『読んじゃいなよ!』

●高橋源一郎編『読んじゃいなよ! ──明治学院大学国際学部高橋源一郎ゼミで岩波新書をよむ』/岩波書店/2016年11月発行

b0072887_1855430.jpg 明治学院大学の高橋源一郎ゼミで行なわれた「特別(白熱?)教室」の模様を記録したもの。一冊の本を徹底して読み、その上で著者に教室に来てもらって質疑応答するという形式で、哲学者の鷲田清一、憲法学者の長谷部恭男、詩人の伊藤比呂美の三人が登場する。

 鷲田の哲学談義は総じて凡庸でいささか退屈したが、社会運動に関して述べているくだりは鷲田の創見というわけではないけれど、一つの真理を突いていると思われる。

 僕は基本的にこう考えているんです。自分たちがこう変えたいと思う社会の形とか、あるいは運動の形とかいうのは、それをどうしようってみんなで相談するその集団の中で先に実現されていなかったら、あるいは目指されていなかったら絶対に実現されないということです。(p84)

 長谷部の憲法論はその著作に親しんできた者には新味はまったくない。「良識」をキーワードの一つにしているのだが、論理的に危なっかしい運びなのは相変わらず。学生との質疑応答もやや押され気味。日本政府の情報管理の杜撰さに関する学生の質問に「一〇〇パーセントいつも完璧だという話ではないです」「日本の役人っていうのは、そんなに悪いことをいつも考えている人たちの集団ではないです」などと凡庸な一般論で対応しているのにはズッコケた。こんな講義で学生たちは本当に納得できたのだろうか。

 なかで伊藤のトークには詩人らしい自由奔放さが横溢していていちばん楽しめた。学生に対して媚びることなく「だいたい、あなた方は何も考えていないし、教養もないし、そんな人たちが、我々が一所懸命作ったものを分かるわけがないの、初めから」と挑発的に言い切っているのには感心した。

 最近は新書でもオムニバス形式の講義録が増えてきたが、心から推賞できそうな良書にお目にかかれることは滅多にないというのが率直なところである。
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by syunpo | 2017-03-02 19:03 | ノンカテゴリ | Trackback | Comments(0)

苦い現実を直視して考える〜『「戦後80年」はあるのか』

●一色清、姜尚中、内田樹、東浩紀、木村草太、山室信一、上野千鶴子、河村小百合著『「戦後80年」はあるのか ──「本と新聞の大学」講義録』/集英社/2016年8月発行

b0072887_205419.jpg 朝日新聞社と集英社による連続講座シリーズ「本と新聞の大学」第4期の書籍化。現代思想、憲法学、社会学、財政金融論の立場から、戦後七〇年の今が抱える問題と未来への展望を考えるという趣旨である。

 内田の〈比較敗戦論〉は、白井聡の『永続敗戦論』を下敷きにして他の「敗戦国」の戦後のありようを問いかけたもの。その問題設定は一考に値すると思う。後半ではそこから話を展開して、米国のベトナム戦争後のあり方(=カウンターカルチャー)などに言及しながら、米国の強さを「文化的復元力」に求めているのも仮説としてはおもしろい。

〈本と新聞と大学は生き残れるか〉と題する東の講義は、大学の人文系学部の危機は必ずしも人文知の危機を意味しないというテーゼを前提にしていて、凡百の人文知必要論とは一線を画する。一九九〇年代以降、現代思想や批評が政治化・運動化したことを指摘したうえで、それだけではなく、軽薄な要素を含んだ多様な形で知的好奇心を養うことの重要性を述べているのは、たしかに人文学の核心をついているのではないか。このような認識は千葉雅也にも通じるものがある。

〈集団的自衛権問題とは何だったのか〉という問いに応える木村草太の話はこれまで発表してきた見解を中心にまとめられていて、その意味では新味はないものの、安保法制賛成と引き換えに「付帯決議」を引き出した一部野党の動きを一定程度評価しているのは、良くも悪しくも法学者らしい態度といえるのかもしれない。

〈戦後が戦前に転じるとき〉を考察する山室信一の論考は、内田と同じく歴史に学ぼうとするスタンスをとるが、タイムスパンは内田よりも長い。すなわち日本史上における四つの戦争(白村江の戦い、蒙古襲来、文禄・慶長の役、日清・日露・第一次大戦・第二次大戦)とその戦後を視界に入れる。そのうえで太平洋戦争前後の文人たちの飛躍ぶりを振り返り、「戦前」は「忘れたふりをするころにやってくる」と警鐘を鳴らしている。

 上野千鶴子の〈戦後日本の下半身〉をめぐる講義は豊富なエビデンスを参照しながら近代家族の問題を考える。少子化対策をはじめとする日本の家族政策がいかに男性優位の古臭い社会観に裏打ちされているかを指摘する、その舌鋒は切れ味鋭い。経済成長への夢から覚めない人たちの見当外れの政策を支えているのは国民自身である、というまとめの一節もまたピリリと辛い。

〈この国の財政・経済のこれから〉を考える河村小百合は進行中のリスキーな政策運営を批判しつつ、今後想定される財政破綻の具体的状況を描いて財政再建の必要性を力説している。

 この種の本はまとまりを欠くうえに大味な内容のものが多いというのがこれまでの印象だったけれど、本書における個々の講義はいずれも簡にして要を得たものである。タイトルに即していうならば「人の命を直接奪う戦争がなくても、経済的危機が新しい『戦前』と『戦後』をつくり出すかもしれない」という一色清のあとがきの一節もまた本書の問題意識の射程の広さを示唆するものだろう。意外といったら失礼かもしれないが、たいへん勉強になった。
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by syunpo | 2016-11-28 21:00 | ノンカテゴリ | Trackback | Comments(0)

知的情熱が反転する時〜『日本の反知性主義』

●内田樹編『日本の反知性主義』/晶文社/2015年3月発行

b0072887_20676.jpg 日本の「反知性主義」に関する論考を集めたアンソロジー。執筆者は、内田樹、白井聡、高橋源一郎、赤坂真理、平川克美、小田嶋隆、名越康文(内田との対談形式)、想田和弘、仲野徹、鷲田清一。内田樹編集の緊急論考集としては『街場の憂国会議』に続く第二弾ということになる。

 何らかの言動や態度に対して「反知性主義」と命名することの権力性や傲慢さをまず自覚すること。何人かの論者がその点について最初にはっきりと言及しているのは重要だ。反知性主義について考えることは、知性について考えることと表裏であり、そうした省察をとおして今日における知性のよきあり方を問い直すことになるだろう。そこが本書の肝所ともいえる。以下、私が興味深く読んだ論考を紹介する。

 内田は、民主主義の理念に遡って「時間」を鍵概念に反知性主義の内実にアプローチする。反知性主義者とは、内田によれば、「いま、ここ、私」しかなく、目の前にいる相手を威圧することに熱中する者の謂である。ゆえに過去や未来の他者に対する想像力をもちえない。「自分は正解をすでに知っている」という態度は他者との共同に向かうこともない。知性を集団的・共同的に作動するものとして捉えるのは、ネグリ=ハートのマルチチュード論にも通じるかもしれない。

 白井は日本の反知性主義の特徴を「否認」の心理に見出す。たとえば日本の社会には潜在的な敵対性が存在せず、ゆえに弁証法的な議論は生成しない。それはとりもなおさず「敵対性」が否認されているからである。現代日本の反知性主義はかかる土壌に花開いたといえる。これを反転させることは容易ではないが、社会に内在する敵対性を正面から認め、それを引き受けることによって、一段高次の共同体へと生成していく必要があると白井はいう。

 高橋は知性を考えることで、逆に反知性を炙り出そうとする。知性は時として「速さ」として顕現するかと思えば、「視力」の良さとして認知される場合もある。あるいは「孤立」として。ロバート・クラムやスーザン・ソンタグたちの言動が例示される高橋の柔らかな文章は私の胸にすんなりと入ってきた。

 想田は反知性主義を台本至上主義ととらえテレビにおけるドキュメンタリーの作法を具体例に、その陥穽を指摘する。それはもちろん他の領域にもアナロジカルに適用できるものである。すなわち最初に結論ありきの態度が現実観察を歪めるということ。「知性が間断なく活発に発揮されるためには、苦労して到達した地点にしがみつくことなく、いつでも捨て去り更新する勇気や気力を維持することが必要になる」。想田の姿勢は文中では名指しこそされないが、「学んだことを忘れていくという経験」を称揚したロラン・バルトの言説を想起させる。

 仲野は反知性主義はそもそも科学に内在するものではないかと問いかける。「知性は科学という営みにおのずと付随してくるという、あいまいで楽観的な先入観を抱き続けることは、科学における反知性主義に加担することに他ならない」。

 国政の異常ともいえる状況とそれらを支持するような国民の意識が企画の背景にあることはまえがきに明記されている。本書は玉石混淆ながらもそうした政治レベルの反知性主義的な現象の考察にとどまらない多角的な内容をそなえているように思う。
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by syunpo | 2015-09-11 20:10 | ノンカテゴリ | Trackback | Comments(0)

想像力よりも現実の方が豊か〜『思想をかたちにする』

●上野千鶴子著『思想をかたちにする 上野千鶴子対談集』/青土社/2015年5月発行

b0072887_18273031.jpg 上野千鶴子の〈対談力〉はあの吉本隆明をとっちめたことで一層知られるところとなったのだが、本書もまた対談集としてはなかなかの出来栄えと思われる。相手は、小熊英二、北田暁大、萱野稔人、三浦佑之、岩崎稔+成田龍一、鈴木敏夫。

 巻頭の小熊英二との対論がなかでも素晴らしい。例によってテクストをじっくり読みこんだうえで臨む小熊の姿勢が緊張感のある対話を生み出している。上野の思想の軌跡をあとづけた後、後半で上野の「限界」を指摘し、上野がそれに応えていくくだりは読み応え充分。
 たとえば小熊は『当事者主権』などの著作で肯定的に言及されている「協セクター」に関して「実は一番低賃金の場」であることを指摘する。さらに「公」と「私」の区切り方そのものが近代日本のあり方に規定されているともいう。
 上野の応答は必ずしも万全ではなく「協セクターのなかには希望と搾取、自由と抑圧、この両方が含まれているという両義性は、そのとおり」だと認める発言も。そうした点も含め全体をとおして上野が誠実に対応しようとしている姿勢は充分に伝わってきた。
 もっとも小熊自身も上野理論の「矛盾」を一方的に批判するわけではない。「思想家をいろいろ読んでいると、人間は一番愛しているものに対しては両義性をはらむもの」と注釈している点は付記しておく。

 小熊の用意周到なツッコミぶりを堪能したあとで、北田の上野批判に接すると拍子抜けの感は否めない。主題は上野の著作『おひとりさまの老後』。北田の質問はもっぱら東浩紀の批判的レビューに基づくのだが、ことごとく明快に反論されてしまう。団塊世代の老後について提言した上野の仕事に対する東=北田の物言いは抽象的な印象批評にとどまっているのに対して、上野は事実でもって反論する。これは上野の独演会といってもいい内容。逆にいうと世代論における上野の立ち位置がはっきりと示されている点で貴重な記録というべきかもしれない。ただこのコンセプトならば東本人が対談の場に出てくるべきではなかったか。

 萱野との対談では低成長時代の日本のあり方について考察がさなれる。男性一般の承認をどこに求めるかをめぐって、上野が覇権的な男性集団から承認を供給してもらわないと男になれない構造を指摘しているのは鋭いと思った。
 また対談のまとめ的なやりとりのなかで「アーティストや作家という職業と、社会学者というダサい職業であることの決定的な違いは、想像力よりも現実の方が豊かだと思うかどうかだと思っています」と上野が言明しているのも力強い。

 古代文学研究者の三浦とは古事記についての対話が展開される。ジェンダー学の観点から古事記が読み解かれており、本書では異彩を放つテーマで、上野の守備範囲の広さがうかがわれる内容だ。
 岩崎、成田との鼎談は戦後思想を概観する壮大な企て。柳田国男の『先祖の話』に始まって、九〇年代のポストコロニアリズムまで一気に論じられる。ただし男性二人の発言にさほど面白味が感じられず、私にはいささか退屈だった。

 最後におかれたスタジオ・ジブリの鈴木との対談はもっともリラックスした雰囲気で話がはずむ。鈴木が上野を指名して実現した顔合わせらしいが、『風立ちぬ』の楽屋話などとても面白く読んだ。
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by syunpo | 2015-08-11 18:35 | ノンカテゴリ | Trackback | Comments(0)

簡単に結論に飛びつかないためのレッスン〜『考える方法』

●永井均、池内了、管啓次郎、萱野稔人、上野千鶴子、若林幹夫、古井由吉著『考える方法 中学生からの大学講義2』/2015年2月発行

b0072887_21282891.jpg ちくまプリマー新書編集部と桐光学園とのコラボレーション〈中学生からの大学講義〉シリーズの一冊。「大学で何を学べるのか」をテーマに、知の最前線にいる研究者たちが中学生を相手に講義した記録である。登場するのは、永井均、池内了、管啓次郎、萱野稔人、上野千鶴子、若林幹夫、古井由吉。錚々たる顔ぶれだ。

 永井の話は〈私〉が存在することの意味を哲学的に考えるためのヒントを提示してかなり高度な内容。池内はニセ科学を例示しながら科学知のあり方を説く。常に疑いをもつこと、科学の知識だけでは対処できないときには安全性を優先することなどを提起する。アメリカ・インディアンの生き方から現代社会を見直そうとする管の話も示唆に富む。

 萱野は「人を殺しては何故いけないのか」という問題をカントの道徳哲学をベースに考えていく。哲学的な思考とは物事の是非を問うだけでなく、膠着した問題にいろんな角度から風穴をあける試みだという。上野はジェンダー研究の入門的な話で、さらに当事者主権の考え方を紹介していて内容は濃い。同じく社会学者の若林は社会学の「入門一歩前」を解説してその可能性をさししめす。古井は言葉について、さらには日本語の特性について作家らしい語り口できかせる。

 中学生が対象だからといって侮ってはいけない。いずれも大人の読書にも堪える中身の濃い内容といえるだろう。
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by syunpo | 2015-08-07 21:30 | ノンカテゴリ | Trackback | Comments(0)

東大の学術俯瞰講義から〜『「この国のかたち」を考える』

●長谷部恭男編『「この国のかたち」を考える』/岩波書店/2014年11月発行

b0072887_20314534.jpg 憲法改正論議の高まりとともに、そもそも日本の国柄はどのようなものなのか、国を守るとは具体的に何を意味するのか、という類の「国のかたち」にまつわる問題があらためて問われるようになった。本書は日本という国の自己イメージについて考える材料を、法学・政治学・歴史学・社会学の見地から提供すべく編まれたもの。寄稿者は、苅部直、加藤陽子、葛西康徳、吉見俊哉、宍戸常寿、長谷部恭男。二〇一三年度冬学期に東京大学で行なわれた学術俯瞰講義「この国のかたち──日本の自己イメージ」がベースになっている。

 私にはいささか退屈な読み味の本ではあったが、本書後半で憲法の平和主義をめぐって苅部と長谷部が間接的に論争しているのは読みどころの一つといえようか。

 苅部は、二〇一四年の集団的自衛権行使容認の閣議決定に関連して、政権が突発的に出してきたものではなくて、南原繁らが提起した見解を踏襲するものであることを示唆する。また集団的自衛権の行使を違憲とした内閣法制局の見解について、その根拠が必ずしも明らかでないとする学説を紹介している。論旨には賛同できない点も多々あるのだが、あまり議論されることのない憲法解釈に関する戦後史の一断面に論及するものとして学ぶところがあった。

 それに対して、長谷部は(はっきりと名指しこそしていないが)苅部の論考についていくつかの論点から批判する。たとえば内閣法制局の憲法解釈が今までも変化したことがあることを指摘し安倍内閣の解釈変更のみを非難することに疑義を呈する苅部に対して、やんわりと反駁を加える。

 ……それまで明確に違憲とされた事例を、基本的考え方を変更してまで合憲とした事例はありません。過去にも見解が変わったことがあると平板なレベルで一般化し、それをことさらに言い募ることに何の政治的意図もないとは考えにくいところがあります。(p206)

 長谷部はさらに「立憲主義への攻撃は、日本という国の根幹を揺るがすものでもあります」と警鐘を鳴らし、憲法学の見地から「国のかたち」を安易に考え変えることへの批判的立場を明確にしている。

 このほか、吉見俊哉が広告をとおして戦後の日本の自己像の変遷をあとづけている一文も、本書のなかではやや浮いている印象が拭えないながらも興味深く読んだ。
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by syunpo | 2015-03-16 20:37 | ノンカテゴリ | Trackback | Comments(0)

戦争、革命、ドタバタ〜『マルクスの三つの顔』

●四方田犬彦著『マルクスの三つの顔』/亜紀書房/2013年8月発行

b0072887_22134031.jpg マルクス・アウレーリウス、カール・マルクス、マルクス兄弟。マルクスという名以外にさして共通項があるとも思えないこの三者を絡み合わせて縦横無尽に論じた本書は、アカデミズムの垣根に囚われることなく自由自在に書き続けてきた四方田犬彦のスタイルを明快にあらわした書物だといえる。四方田本人もそのことをはっきりと意識していたらしく「今日の知の生産と配分、循環のうちにあって、専門による分業という制度が一瞬でも廃棄される瞬間を、非力ながらみずから演出したいという希望」を心がけて執筆したのだと〈後記〉に述べている。

 マルクス・アウレーリウスは大宇宙の調和と禁欲を説いたローマの皇帝哲学者。カール・マルクスはいうまでもなく階級闘争の必然性から共産主義社会を展望して後世に多大なる影響を及ぼした革命家。マルクス兄弟は映画が音声を獲得した直後にハリウッドでデビューしたコメディアン。四方田はこの三者の特徴について数字を鍵言葉にして簡潔に表現している。

 マルクス・アウレーリウスは宇宙が神の摂理に導かれた〈1〉であると、つねにみずからにいい聞かせたものだった。カール・マルクスは対立する二階級の闘争を通して世界は弁証法的に進展してゆくと語り、あらゆる運動の根底にある〈2〉の原理を説いてやまなかった。マルクス兄弟は違う。皇帝哲学者と革命予言者の後に、三番目の存在として騒々しく世界に踊り出てきた彼らは、それ自体が〈3〉に分岐した存在である。(p210)

 以上のような認識をベースにしながら、四方田は三者についてそれぞれ一章を割り当て、その独自の読解を披瀝してみせる。そこには修辞家・ルキアノスがしばしば召喚されることになるだろう。

 マルクス・アウレーリウスは「畏怖すべき最後の言葉だけを声低く、しかも簡潔に」語った賢人として、秩序立てられた宇宙を示してくれる哲学者であった。その明快な言葉と引き換えにキリスト教という他者に向き合うことを回避しなければならなかったのだが。
 カール・マルクスの『資本論』に比喩的に登場する「ファンタスマゴリア」なる語句への拘泥などよくも悪しくも著者らしい視野の広さを感じさせる。その新しい風俗を反映した語句をめぐって、ランボーやルイス・キャロル、ベンヤミンらの記述を比較検討しながら、マルクスの修辞の歴史的文脈を明らかにしていくわけだが、その手並みは映画史家・四方田ならではというにとどまらず、博覧強記で鳴らした由良君美門下の本領発揮といったところか。
 マルクス兄弟のフィルムをフロイトの精神分析理論によって読み解こうとする試みはどうだろう。コメディ映画に対するにある種の生真面目さで立ち向かう姿勢は四方田の独自性を際立たせていることは確かで、その意味ではおもしろい映画批評だと私は思う。

 むろんそうした感想は本書の面白さの一端をあらわしているにすぎないことは言い添えておかねばならない。これは著者本人がいうように「理論にも情報にも還元できない」パフォーマティヴな書物なのである。
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by syunpo | 2013-09-09 22:10 | ノンカテゴリ | Trackback | Comments(0)

限りなく真実を求めて!?〜『知の逆転』

●ジャレド・ダイアモンド、ノーム・チョムスキー、オリバー・サックス、マービン・ミンスキー、トム・レイトン、ジェームズ・ワトソン著『知の逆転』(吉成真由美編・訳)/NHK出版/2012年12月発行

b0072887_203308.jpg 欧米の六人の知識人たちにサイエンスライターの吉成真由美がインタビューした記録。「現代最高の知性」「興奮の書」という謳い文句が踊ってはいるけれど、質問が網羅的で段取りを踏み過ぎていることもあってか私にはいささか退屈な書物だった。ダイアモンドの発言は意外と凡庸だし(先に購入した『銃・病原菌・鉄』に対する意欲がかなり減退した)、ワトソンの「正直」ぶりはエリートの傲慢を露呈する場面が目立ち知的興奮からはほど遠い。そのなかでかろうじて面白味を感じたのはチョムスキーとサックスの二人。

 チョムスキーは「普遍文法」理論で知られる言語学者だが、昨今では米国政府の政策に批判的な論客としての認知度の方が高いかもしれない。本書では、一九六〇年代から八〇年代末にかけて米国政府が中南米大陸で行なったキリスト教的な自由化の動きを叩きつぶした事実を取り上げて「偽善」を告発する口調にチョムスキーの面目躍如たるものを感じた。

 脳神経科医として活躍しているサックスは脳障害の個々のケースに限りなく深い「個人物語」を見出して、人間の脳の普遍的な可塑性・柔軟性・可能性に言及する。たとえば嗜眠性脳炎を患って長い間、世界から隔絶されてきた患者たちが薬効のおかげで覚醒した場合、見事なほど柔軟に適応するという。また言葉を失っても歌を歌うことができるようなケースでは、それを取っ掛かりとして「新たに言語を呼び戻したり、言語野がないほうの脳で言語的な発達を促すことだってできる」。
「われわれは患者の不足部分に注意を払いすぎて、保存されている能力の部分にあまりに無関心でありすぎる」という指摘は、患者のみならず自己の可能性について思い悩むことの少なくない現代人全般に対してもなにがしかのヒントや勇気を与えるものではないかと思う。
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by syunpo | 2013-06-11 20:12 | ノンカテゴリ | Trackback | Comments(0)

“不逞老人”と九人の論客たち〜『新しい風土記へ』

●鶴見俊輔編著『新しい風土記へ 鶴見俊輔座談』/朝日新聞出版/2010年7月発行

b0072887_18441894.jpg 鶴見俊輔の対談集。対談相手は、姜尚中、中村哲、徳永進、アーサー・ビナード、上野千鶴子、四方田犬彦、中島岳志、孫歌、池澤夏樹。
 前半収録の対論は新聞掲載用に行なわれれたものらしく、長時間交わされたであろう対話を短く要約してあるためか消化不良の感じは否めない。どの対話でも学力エリート批判にもっていってしまう鶴見のワンパターンも相変わらずで、こうも執拗に繰り返されるとさすがにシラけてしまう。

 それでもホスピスケアに従事している徳永が「あきらめていく力」の大切さをおずおずと指摘しているくだりや、四方田の著作『先生とわたし』と絡めて展開されている師弟論は悪くない。できることなら量的にもう少しキチンとした筆記録で読みたかった。
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by syunpo | 2011-09-22 18:52 | ノンカテゴリ | Trackback | Comments(0)

戦後知識人たちの対話〜『歴史・科学・現代』

●加藤周一著『歴史・科学・現代 加藤周一対談集』/筑摩書房/2010年7月発行

b0072887_18412324.jpg 「私は座談を好んで、演説を好まない」と加藤周一は書いている。「人の話を聞きながら、あるいは自ら喋りながら、考える」。本書はそのような座談の成果を一つの形にしたものである。六〇年代後半から七〇年代前半にかけて行なわれた対談・鼎談の記録を集めたものだが、相手の顔ぶれが凄い。丸山眞男、湯川秀樹、久野収、渡辺一夫、笠原芳光、ジャン=ポール・サルトル、西嶋定生。

 一九六六年に行なわれたサルトルとの鼎談(司会役として白井浩司が同席)には、加藤がその後に著わした『日本文学史序説』における基本認識──歴史を通じて日本文化の基底にあるのは、過去や未来と切り離された〈今、ここ〉への強い関心──がすでに示されている。サルトルの質問に応える形で「今、ここ」への執着を「伝統的態度」だとして国民生活全般にも見出しているのだ。晩年まで保持された加藤の日本文化観が早い段階で固められていたことが窺われ、興味深い。ちなみに同じ見解が、一九七二年初出の丸山との対談〈歴史意識と文化のパターン〉、笠原との対論〈絶対主義と闘う相対主義〉でもさらに明瞭な口調で披露されている。

 湯川との対論は二篇が収録されている。〈科学と芸術〉は議題を大上段に構えたために論談がやや一般論に傾き、私にはいささか退屈だったが、江戸時代の学者・富永仲基をめぐって交わされた〈言に人あり〉は、物理学者・湯川の別の一面──中国の古典や宗教などに対する関心──がよく出ていて愉しく読んだ。日本の仏教を「加上説」で捉えようとした富永の認識をベースにして、日本の宗教史や科学史が縦横に語られている。
 全体をとおして、もともと医学博士として世に出た加藤の幅広い見識が遺憾なく発揮された内容といえるだろう。

 本書は昨年ちくま学芸文庫に収められたものだが、原本は一九七三年に刊行された。今や対談集は簡便な本作りの形式としてすっかり定着してしまったが、編集者・鷲巣力の述懐によれば、当時は対談集など出版の邪道との意識が強かったらしく、社内で企画を通すのに苦労したらしい。しかし、そのおかげで政治的に変革機運の高まった時代に一線で活躍していた知識人たちがいかなる考え方や識見をもっていたのか、現代の読者にも手軽に読める形で残されることになったのは悦ばしい。
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by syunpo | 2011-02-10 18:59 | ノンカテゴリ | Trackback | Comments(0)