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政治参加のための手引き〜『投票に行きたくなる国会の話』

●政野淳子著『投票に行きたくなる国会の話』/筑摩書房/2016年6月発行

b0072887_2033983.jpg ちくまプリマー新書の一冊。著者は衆議院議員の政策秘書を経てフリージャーナリストとして活躍している人物で、基本的には若年層向けに政治への関心を高めることを目指した企画だと思われるのだが、さてその内容は……?

 選挙権の年齢が十八歳からに引き下げられたことを受けて、日本の統治機構の初歩的な解説から始まるのはいいとして、その後は立法や税制改革、行政監視に市民が積極的に関与するための方策を教示するという構成になっている。詳細なノウハウ伝授をしている一方で、明快な成功事例の記述に乏しく、茫洋とした読後感だけが残った。

 日本の政治システムを概説するくだりでは、平易な語り口で理念的な話を中心に法制度の推移などにも言及している。ところどころでやや踏み込んだ記述がみられるのが目を引く。たとえば評価のわかれる政党助成金制度についてその不公正さを指弾するなど入門書的な本にしては著者自身の政治観が色濃く出ている箇所もあり、そのあたりは異論があるかもしれない。

 それ以上に違和感をおぼえたのは、どうも器と中身がフィットしていない、標題(&序章)と内容にズレがあるように思われることである。国政に関与する方法として「アドボカシー」や「ロビイング」などに紙幅が割かれているのだが、それらは政治活動の上級者向けの話ではないだろうか。「市民立法」のやり方なども妙に細かくレクチュアしているけれど、そのような実践的なアドバイスを必要としている人であれば、当然投票には欠かさず行っているに違いあるまい。

 当面する課題は、選挙での投票率が低下傾向にあることを踏まえ、まずはいかにして一般有権者に投票所へ足を運んでもらうか、ということだろう。標題もそれを意識したものが付けられているのに、本書の内容は政治への入口に誘う書としてはいささか跳びすぎているのではないか。

 しかも不思議なのは、立法過程や予算審議などではいかに官僚が仕切っているかが事細かに記述されていることだ。国民の代表たる議員が国民の立場にたって活躍している場面はほとんど出てこない。一事が万事、国政・司法にまつわるネガティブな話が基調になっていて、それが実態だと言えばそのとおりだろうが、それならそれで書き方をもっと工夫する必要があっただろう。本書を読んで「投票に行きたくなる」若者の姿を想像することは私にはむずかしい。
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by syunpo | 2016-11-30 20:35 | 政治 | Trackback | Comments(0)

苦い現実を直視して考える〜『「戦後80年」はあるのか』

●一色清、姜尚中、内田樹、東浩紀、木村草太、山室信一、上野千鶴子、河村小百合著『「戦後80年」はあるのか ──「本と新聞の大学」講義録』/集英社/2016年8月発行

b0072887_205419.jpg 朝日新聞社と集英社による連続講座シリーズ「本と新聞の大学」第4期の書籍化。現代思想、憲法学、社会学、財政金融論の立場から、戦後七〇年の今が抱える問題と未来への展望を考えるという趣旨である。

 内田の〈比較敗戦論〉は、白井聡の『永続敗戦論』を下敷きにして他の「敗戦国」の戦後のありようを問いかけたもの。その問題設定は一考に値すると思う。後半ではそこから話を展開して、米国のベトナム戦争後のあり方(=カウンターカルチャー)などに言及しながら、米国の強さを「文化的復元力」に求めているのも仮説としてはおもしろい。

〈本と新聞と大学は生き残れるか〉と題する東の講義は、大学の人文系学部の危機は必ずしも人文知の危機を意味しないというテーゼを前提にしていて、凡百の人文知必要論とは一線を画する。一九九〇年代以降、現代思想や批評が政治化・運動化したことを指摘したうえで、それだけではなく、軽薄な要素を含んだ多様な形で知的好奇心を養うことの重要性を述べているのは、たしかに人文学の核心をついているのではないか。このような認識は千葉雅也にも通じるものがある。

〈集団的自衛権問題とは何だったのか〉という問いに応える木村草太の話はこれまで発表してきた見解を中心にまとめられていて、その意味では新味はないものの、安保法制賛成と引き換えに「付帯決議」を引き出した一部野党の動きを一定程度評価しているのは、良くも悪しくも法学者らしい態度といえるのかもしれない。

〈戦後が戦前に転じるとき〉を考察する山室信一の論考は、内田と同じく歴史に学ぼうとするスタンスをとるが、タイムスパンは内田よりも長い。すなわち日本史上における四つの戦争(白村江の戦い、蒙古襲来、文禄・慶長の役、日清・日露・第一次大戦・第二次大戦)とその戦後を視界に入れる。そのうえで太平洋戦争前後の文人たちの飛躍ぶりを振り返り、「戦前」は「忘れたふりをするころにやってくる」と警鐘を鳴らしている。

 上野千鶴子の〈戦後日本の下半身〉をめぐる講義は豊富なエビデンスを参照しながら近代家族の問題を考える。少子化対策をはじめとする日本の家族政策がいかに男性優位の古臭い社会観に裏打ちされているかを指摘する、その舌鋒は切れ味鋭い。経済成長への夢から覚めない人たちの見当外れの政策を支えているのは国民自身である、というまとめの一節もまたピリリと辛い。

〈この国の財政・経済のこれから〉を考える河村小百合は進行中のリスキーな政策運営を批判しつつ、今後想定される財政破綻の具体的状況を描いて財政再建の必要性を力説している。

 この種の本はまとまりを欠くうえに大味な内容のものが多いというのがこれまでの印象だったけれど、本書における個々の講義はいずれも簡にして要を得たものである。タイトルに即していうならば「人の命を直接奪う戦争がなくても、経済的危機が新しい『戦前』と『戦後』をつくり出すかもしれない」という一色清のあとがきの一節もまた本書の問題意識の射程の広さを示唆するものだろう。意外といったら失礼かもしれないが、たいへん勉強になった。
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by syunpo | 2016-11-28 21:00 | ノンカテゴリ | Trackback | Comments(0)

モラル・サイエンスとしての〜『経済学のすすめ』

●佐和隆光著『経済学のすすめ ──人文知と批判精神の復権』/岩波書店/2016年10月発行

b0072887_20213177.jpg 日本で「制度化」された経済学は「数学の僕」と成り果てながら人文知の欠如と批判精神の麻痺を招いた。今こそ文学・歴史学・思想史を学び、経済学を水面下で支える思想信条に基づく批判精神を培わねばならない。本書がすすめる「経済学」復興の内容を要約すればそのようになる。

 そもそも科学が「制度化」されるとはどういうことなのか。佐和は「科学の制度化」のための必要十分条件は以下の四つであるという。

(1)標準的な教科書が「易」から「難」へと秩序正しく整っていること。
(2)査読付き専門誌が存在していて、業績評価は専門誌への掲載論文の質量により定まること。
(3)当該科学を専門的に担う職業集団が存在すること。
(4)当該科学の有用性が社会的に認知されていること。

 米国では以上四つの条件が満たされていて、その意味では経済学は「制度化」されている。しかし日本では事情が異なる。日本ではフェアな査読性が機能している経済学の専門誌は数少ないし、エコノミストの職業集団は存在しない。さらに「有用性」をめぐって日米で大きな違いがあるというのだ。

 アメリカでは、経済現象を論理的かつ数量的に「科学」する経済学の「有用性」が社会的に認知されている。他方、日本では、経済現象を「科学」する有用性よりも、府省の政策を正当化するという意味での「有用性」の方に重きが置かれている点、日本における経済学の制度化は、きわめて特異だと言わざるを得ない。(p144)

 むろん佐和は米国流に制度化された経済学を無批判に信奉しているわけではない。それどころか米国の経済学もまた「人文知と批判精神を失い、数学の僕と化したジャーナル・アカデミズムに現を抜か」しているとみなして批判している。反面教師とすべき米国の経済学と日本のそれを比較衡量するのに紙幅を割いているのは、いささか混乱を招きやすい論じ方だとは思うのだが、日本の現状もやはり佐和の構想する経済学のあり方からはほど遠い。そこで佐和が注目するのはヨーロッパの経済学である。

 ヨーロッパの経済学者の多くは、次のように考えている。「経済学は論理学の一分野であり、一つの思考法である。経済学はモラル・サイエンスであり自然科学ではない」と。モラル・サイエンスとは、イギリス経験論の伝統にしたがえば、自然科学と対をなす、人間的行為を対象とする学問である。モラル・サイエンスとしての経済学は、社会のあるべき姿を想定し、現実社会を、あるべき社会にできるだけ近づけるための手段を研究する学問である。経済学がモラル・サイエンスであるからには、異分野の人文社会科学をよく学び、「社会のあるべき姿」の何たるかについて人社系の知を総動員するだけの心構えが、経済学者には求められるのではないだろうか。(p185〜186)

 佐和はモラル・サイエンティストのモデルとしてジョン・メイナード・ケインズとアンソニー・アトキンソンを挙げつつ、トマ・ピケティの来歴や仕事についても肯定的に言及している。ピケティのベストセラー『21世紀の資本』ではバルザックの『ゴリオ爺さん』なども引用されていて、ヨーロッパのリベラル・アーツの伝統を受け継ぐ姿勢が明瞭に打ち出されているのだ。

 本書の現状認識もそれに基づいた問題提起も明快ではある。ただし世界の経済学に関する佐和の見立てが本当に妥当するのかどうかは私には判断できないし、さらに人文社会科学の必要性を力説するくだりは、すでに誰かがどこかでやっていたような議論でさして新味はない。全体をとおして理念を繰り返しているだけという印象が拭い難く、そのことの意義を否定はしないけれど、やはりお題目よりも具体的な成果を示すことが研究者に一番求められていることではないかとあらためて思う。人文社会科学に対する蔑視は今に始まったことではないのだから。
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by syunpo | 2016-11-25 20:30 | 経済 | Trackback | Comments(0)

作家を買い、時代を買う〜『現代美術コレクター』

●高橋龍太郎著『現代美術コレクター』/講談社/2016年10月発行

b0072887_9374333.jpg 精神科医である高橋龍太郎は現代アートのコレクターとしても知られる。草間彌生、森山大道、会田誠、山口晃、村上隆、奈良美智、横尾忠則、森村泰昌など所蔵作品は約二千点にも及ぶ。高橋コレクション展は独立の企画展として何度も開催されているほどだ。

 高橋はアート作品を購入する喜びを率直に書きしるす。初めて草間彌生の作品を買ったときにはひとつの絵が自分を「祝福」し「興奮」を与えてくれたと述懐するのだが、それは単に「鑑賞」するだけではもたらされることのない喜びであるらしい。後段では作品購入を異性と付き合うことになぞらえたりしていて、自らの俗物根性(?)を隠そうとはしない。コレクション展に来訪してくれた安倍首相を表敬訪問し、現代アート振興をお願いしたこともあるのだという。

 日本の現代アートの特色を「ネオテニー」「マインドフルネス」「なぞらえ(ミラーニューロン)」などのキーワードで語るくだりが私にはいちばんおもしろかったけれど、ことさらに「日本」ばかりを意識している点には引っかかった。そもそも最初から特定の国のアートに肩入れするのは「マインドフルネス」の態度とは相容れないだろう。著者の現代アートにかける情熱には敬服するに吝かではないが、それを国家間の「闘い」と煽る姿勢には共感できない。自分を感動に導いてくれる作品の作者が日本人だろうが外国人だろうが、私にはどうでもいいことである。
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by syunpo | 2016-11-23 09:38 | 美術 | Trackback | Comments(0)

〈愚民〉から〈主権者〉へ〜『私の「戦後民主主義」』

●岩波書店編集部編『私の「戦後民主主義」』/岩波書店/2016年1月発行

b0072887_1833288.jpg 戦後七〇年の二〇一五年には戦後民主主義にちなんだ書籍がいくつか刊行されたが、本書もそれに連なる企画。岩波書店編集部が編んだ本としては『私の「戦後70年談話」』の姉妹編といえるものだろう。文章を寄せているのは一九五〇年以前に生まれた著名人三十八人。この種のアンソロジーでは予想されるとおり、総じて優等生的あるいは紋切型の民主主義論や反戦論が繰り広げられているなかで、以下印象に残ったものについて言及する。

 上野千鶴子の一文はこのテーマでは毎度繰り返してきた内容で鮮度には欠けるものの、山崎望を引きつつ現行の民主主義に対して懐疑的なまなざしを向けるくだりは真理の一面を射抜いているように思う。もっとも結論的には民主主義という道具の使い方に習熟することを説いてポジティブにまとめている。

 大田昌秀は戦中戦後の沖縄の状況を概説したうえで「沖縄の人々は、いまだかつて一度も民主主義の果実を享受したことはない」と言い切る。糸数慶子も同じような文脈を形成しながら「日本は「民主主義の国」だと言えるのか」と厳しく問いかける。日本と一口にいっても戦後は一様に過ぎたわけではない。沖縄県民以外の主権者はそろそろ沖縄からのこうした声に真摯に耳を傾けるべきではないか。

 無着成恭の民主主義論はいかにも身に寄り添った文章で興味深い。「私にとって民主主義とは何か? と聞かれたら、『どうしてそういうことになったの?』とか、『なぜ、そうなの?』とか、『なぜなぜ?』と疑問を持つこと、質問が自由にできるようになったことだ」という一節には大いに納得。

 自分が生まれたとされる日付や場所が最近の調査で不確かなものとわかったという原一男。個人史と日本の戦後とを重ね合わせようとする随想は、彼が撮ってきたドキュメンタリー作品と相俟って、何やら短編小説に読んだ時のような余韻をもたらす。

 中学生時代から文化祭を創設したり生徒会を作ってきたという津島佑子は「誰かが作ってくれたシステムを消費するのではなく、自分が民主主義のアクターとなる──、ほんとうに『不断の努力』が必要なのだと思います」と訴える。常識的な内容だが前半の体験談が効いている。本書刊行の翌月に他界したのは本当に残念。

「日本の歴史上の民主主義は、すべて戦後民主主義であった」──三谷太一郎は研究者の立場から本書の趣旨に適った論考を寄せている。明治維新以後の公議輿論をスローガンとする動きは、戊辰戦争のあとの「戦後民主主義」。明治一〇年代の自由民権運動は、西南戦争に極まる士族反乱が惹き起こした内戦の「戦後民主主義」。日清戦争後の政党勢力の権力中枢への進出をもたらしたのも「戦後民主主義」。日露戦争と第一次世界大戦の後に生じた大正デモクラシーもまた複合的な「戦後民主主義」であった。

 同じ趣旨のことを姜尚中も指摘する。「戦争が民主主義を進化させ、それが戦争を準備し、戦争の後、また民主主義が進化する。この連続が、近代日本が歩んだ歴史だった」。

 現在進行中の「戦後民主主義」はこれまでのものとは異なるという認識も三谷と姜に共通している。ただし「いかに異なるのか」の認識はやや異なる。
 三谷はいう。「それが単に権力形態の民主化や民主的政治運動の勃興のような外面的な政治史的事実として現れるだけでなく、個人の行動を律する道徳原理として内面化されているという点にある」。
 姜はいう。現在の戦後民主主義は「惨憺たる敗北によってもたらされた」ものであるがゆえに「厭戦と戦争への忌避感情、そして戦争を押し進める国家への否定的な感情」によって駆動されているのだ、と。

 ……日本の歴史上の民主主義は、いずれも「戦後民主主義」であった。すなわち戦争がもたらした民主主義であった。そのことは、戦争に何らかの価値を付与することを意味しない。今日の「戦後民主主義」の最大の課題は、それを歴史上最後の「戦後民主主義」とすることである。(p171〜172、三谷)
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by syunpo | 2016-11-21 18:38 | 政治 | Trackback | Comments(0)

ことばをめぐるドラマ〜『辞書の仕事』

●増井元著『辞書の仕事』/岩波書店/2013年10月発行

b0072887_9581955.jpg 岩波書店で広辞苑など国語辞典の編集にかかわってきた人の肩のこらないエッセイ集。同じ年に刊行された光文社新書の『辞書を編む』がもっぱら辞書作りの楽屋話に重きがおかれていたのに対して、本書では読者とのやりとりやことばにまつわる著者の考えなども認められていて話題は幅広い。

 辞典の解説の姿勢として記述主義と規範主義という二つの態度があるという話は辞書のユーザーにとっても有意義だろうし、そのあとにことばの「正しさ」について毅然と記すくだりにはなるほどと思わせられた。

 いかに残念であろうとも、多くの人が普通に使っている「誤用」を辞典が正すことはほとんど不可能です。誤用には誤用の理屈があるからです。実態に合わないのに規範を説くことが辞典の態度として正しいか、これはつねに辞典作りにかかわる最大難問です。
 法則性を持った誤りはことばの変化です、誤りが大多数の人の誤りであればそれも変化です。日本語は千何百年以上にわたって、誤用を重ねて今日に至りました。(p25)


 狐や狸にまつわる日本人のイメージに言及しつつ「ことばが偏見や先入観に依拠して強い表現力を持つことは認めざるを得ません」と述べているのも印象的。「科学的な正確さとことばの意味における正しさとは必ずしも一致するものではない……」。

 語釈や用例にポリティカル・コレクトネス的(という語句は使われていないが)な観点が求められる現代の辞書作りの苦心談なども興味深い。また逆引き辞典について「クロスワードパズルを解くのに使うというのは予想していた使用法でしたが、いまだに残る私の素朴な疑問は、そんなことをしてパズルを解いて楽しいだろうかというものです」と述べるあたりは、スパイスもきいている。

 つい手元の辞書をパラパラと読んでみたくなる、そんな本である。
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by syunpo | 2016-11-19 10:00 | 日本語学・辞書学 | Trackback | Comments(0)

引用とコラージュの世界〜『オバマ・グーグル』

●山田亮太著『オバマ・グーグル』/思潮社/2016年6月発行

b0072887_196880.jpg ゴダール映画のセリフは引用の多いことで知られる。インターネット上の画像を集めて一冊の写真集をつくった「写真家」も存在する。……引用。コラージュ。これらは現代の文化シーンにあっては欠かすことのできない方法である。という以上に、そうしたスタイルが一つの思想や考えの表現ともいえるかもしれない。本書もまたそのような系譜に連なる詩集といえるだろうか。

 表題作の〈オバマ・グーグル〉。Googleで「オバマ」を検索した結果表示された上位百件のウェブページの記事を引用してつなぎ合わせた作品である。そこではオバマのプロフィールやら演説の一節やら彼に関する批評文やらが雑多にひしめいている。

 ・・・なお、宣誓に用いた聖書は事前にエイブラハム・リンカーン第一六代大統領が一八六一年の一期目の就任式で使用した聖書を用いると発表した通りオバマ大統領夫人(ミシェル・オバマ)が紫色の包みにて持参。・・・約一四分間のスピーチは全部で四ヶ所に分かれています。・・・わたしがこの政治家を知ったのは春頃に偶然聞いたラジオインタビューによってだったが、最初に感じた印象は「クリントンの再来だ」というものだった。・・・(p50〜51)

〈現代詩ウィキペディアパレード〉も同じような手法で、タイトルどおりウィキペディアの記事からの引用のみで構成する。参照項目は「現代詩」をメインに「田村隆一」「谷川俊太郎」「長嶋茂雄」など多岐にわたる。

〈日本文化0/10〉は「ユリイカ」の目次を利用して書かれ、〈みんなの宮下公園〉は二〇一〇年四月二二日時点に宮下公園内に存在した文字が集められたものである。

 こうして見出され紡ぎだされた膨大な文字の列をみていると〈バーチャル/リアル〉を問わず、私たちの住む空間は「文字」にあふれていることにあらためて驚かされる。いや、それじたいが一つの世界を成している。

 むろんこれに似たような試みは過去にもなされてきただろう。谷川俊太郎に同じ趣向の作品があったし、あるいは「電話帳はこの世で最も分厚い詩集である」といった寺山修司の言葉を想起するのも一興かもしれない。冒頭にも記したように、本書に方法としての斬新さはほとんどないと思う。それでもなお、この詩集には新鮮な何かがうごめいているようには思われる。「何か」が何なのかはうまく言えないのだが、ことばが虫のようにごにょごにょと生きて動いているような感じ、そのありさまがかそけき生の息吹を感じさせるというのは陳腐にすぎるだろうか。

 ただし余談ながら、長編の表題作だけ何故か一昔前の文庫本みたいに文字ポイントが小さいため、視力に衰えのきている私は読み通すのに一苦労した。ちと残念。
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by syunpo | 2016-11-16 19:08 | 文学(詩・詩論) | Trackback | Comments(0)

風刺の向こう側にみえる真実!?〜『まんが政治VS.政治まんが』

●佐藤正明著『まんが政治VS.政治まんが ──七人のソーリの一〇年』/岩波書店/2016年8月発行

b0072887_85533100.jpg 近頃の日本の政治はまんが化してきた。ブラックジョークとしか思えない言葉が真顔で論戦の場に吐き出される。与太郎レベルの珍問答が政治の表舞台でふつうに披瀝されてしまう。本書の対象期間でいえば、小泉純一郎の「自衛隊の行くところが非戦闘地域だ」という人を食ったような答弁がその先がけといえるだろうか。本来なら一斉にツッコミが入るはずだが、そのまま通ってしまった。宮台真司的に言うなら「ネタがベタになってきた」。

 現実の政治がまんが化すると、まんが家の仕事は楽になるのか、それともかえって難しくなるのだろうか。とにもかくにも、そういう時代に、中日新聞・東京新聞・西日本新聞に連載された政治風刺まんがが一冊の本になった。二〇〇五年九月から二〇一六年七月までの間に掲載された作品のうちの選りすぐり一七〇点を収録。それぞれのまんがには政治部長の金井辰樹による解説が添えられている。本書を読めば過去一〇年間の政治動向をたのしく復習することができるだろう。

 末尾には「『まんが政治』を実践して『政治まんが』に貢献した首相」たちへの「まんが政治大賞」ランキングが掲げられている。三位は独特のダンディズムを体現しつつ「KY(漢字が読めない)」ぶりで話題を集めた麻生太郎。二位は破天荒な演説と答弁でまんが的劇場型政治を具現化した小泉純一郎。さて一位は?……本書を読んでのお楽しみといっておこう。
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by syunpo | 2016-11-13 08:57 | 漫画 | Trackback | Comments(0)

自己決定の実現に向けて〜『沖縄は未来をどう生きるか』

●大田昌秀、佐藤優著『沖縄は未来をどう生きるか』/岩波書店/2016年8月発行

b0072887_18331820.jpg 大田昌秀元沖縄県知事と久米島に母方のルーツを持つ作家・佐藤優との対談集。雑誌『世界』二〇〇九年一月号から二〇一〇年九月号に掲載されたものがベースになっているが、末尾には二〇一六年の対話が一篇収録されている。

 江戸時代の琉球処分から太平洋戦における沖縄戦、戦後の米軍占領時代から日本復帰にいたる歴史をたどりながら、沖縄における独立論の系譜や復帰運動のあらまし、中央政府との関係などにも言及しつつ、これからの沖縄のあるべきすがたを模索するという内容である。

 大田は鉄血勤皇隊として沖縄戦を体験したことが沖縄の問題を考えるうえで原点になっていることを繰り返し語っている。そこで軍隊というものが必ずしも臣民を守るものではないことを目の当たりにしたという。沖縄としての主体性やアイデンティティをいかに確立していくかを大田は研究者としてまた政治家として常に考えてきた。

 米占領下では沖縄はいうまでもなく憲法は適用されなかった。米軍が勝手に公布する布告・布令などによって統治が行なわれていたのである。それだけに「平和と民主主義を基本原理とする現行憲法への執着は、他よりもいちだんと強いように思われます」と大田はいう。佐藤の言葉でいえば「沖縄復帰運動は、自らの権利を日本国憲法という媒介を通して実現するものとして位置づけるという、リアリズム(現実主義)」なのであった。

 しかし、日本復帰後の沖縄が自由や民主主義を充分に獲得できなかったことは周知のとおりである。むしろ米軍基地は占領時代よりも増大した。外務省沖縄事務所には暗号装置がかかるような電信施設があるが、これは海外公館と同じ体制になっていることを意味する。その点では植民地的な統治が未だに続いているともいえる。

 沖縄県民が今行なっている政治的意思の表明はそのような歴史の蓄積のうえに為されていることを忘れてはなるまい。佐藤の発言は随所に大田への敬意をにじませて印象深い。体験に裏打ちされて絞り出される大田の言葉と、時にアカデミック、時にポリティカルに返していく佐藤の言葉とがうまく絡みあった含蓄に富む対談といえるだろう。

 カントが言った永遠平和だって、当時、戦争が続いているのに誰も実現するとは思わなかった。しかし、カントが永遠平和を唱えることによって、少なくとも二〇世紀には不戦条約もでき、国際連盟から現在の国連ができて確実に進んできているのです。だから、夢や理想を絶対に軽視してはいけない。(p62、佐藤)
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by syunpo | 2016-11-11 18:36 | 地域学 | Trackback | Comments(0)

浪花はシネマの都だった!?〜『大阪「映画」事始め』

●武部好伸著『大阪「映画」事始め』/彩流社/2016年10月発行

 b0072887_19164775.jpg映画の都といえば、多くの人は京都や東京を想起する。実際、この両都市と映画との関わりについてはすでに多くの言及がなされてきた。しかし大阪だって映画の黎明期においては負けていなかった。

 大阪は日本で最初にスクリーン投影式の映画興行が行なわれたところだというのは周知の事実である。著者はそれ以外にも映画にまつわる「事始め」を発掘した。活動弁士の祖は大阪人。日本最初のスター弁士は大阪人。本邦初の映画本を出したのは大阪の出版社。野外上映イベントの先がけとなったのは大阪……。活動写真から映画へと普及・発展していく過程で、大阪は様々な貢献を果たしてきたのである。

 エジソンと交渉としてヴァイタスコープを入手した荒木和一は、一八九六年(明治二十九年)、難波の福岡鉄工所でヴァイタスコープの試写を成功させた。その翌年には、京都の稲畑勝太郎がフランスのリュミエール兄弟から購入したシネマトグラフを使って大阪の南地演舞場で一般興行をおこなった。地元の京都で興行しなかった理由は不明だが、初日の上映風景の様子は大阪毎日新聞でも報じられ、連日大盛況が続いたという。ヴァイタスコープの一般興行もそれにやや遅れて新町演舞場で始まり、大阪ミナミを舞台に二つの〈動く写真〉が公開されたのである。

 活動弁士の元祖というべきは、一八九六年に南地演舞場でキネトスコープが公開された時、登場した上田布袋軒である。布袋軒とは義太夫の竹本津太夫の弟子として授かった名であった。生粋の浪花っ子なのに歯切れの良い江戸弁で語っていたらしい。

 稲畑勝太郎のシネマトグラフが初公開されてから二ヶ月後、『自動寫眞術』という本が出版された。自動寫眞とはシネマトグラフのことである。筆者は大東楼主人、発行元は大阪出版館。これが日本最初の映画本と著者は特定している。

 野外上映イベントの先がけとなったのは、大阪・浜寺海水浴場で催された『活動写真競技会』。一九一〇年、大阪毎日新聞社が主催した。競技会となっているが、別に作品の優劣をつけるものではなかった。無料で自由観覧、映画はお金を払って観るものという概念を打ち破ったことは画期的であった。このイベントを機に新聞社や自治体主催で大規模な野外上映会が各地で行なわれるようになったという。

 一九〇七年に活動写真の常設館「電気館」が大阪・千日前にできて以降、建設ラッシュが起き、東京・浅草と並ぶ大映画街として発展した、という話も興味深い。また昭和金融恐慌のさなか、山川吉太郎が大阪で創業した帝国キネマが長瀬撮影所(現在の東大阪市)を建造し「東洋のハリウッド」と呼ばれた、という日本映画史の一コマも今では知らない人の方が多いだろう。私も知らなかった。

 大阪では定番テーマとなっている地元自慢の一冊といえそうだが、埋もれた映画史を掘り起こしたという点では意義深い仕事といえるだろう。元新聞記者らしく周到な調査で日付や場所をきちんと詰めようとする姿勢にも好感をおぼえた。
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by syunpo | 2016-11-02 19:20 | 映画 | Trackback | Comments(0)