ブックラバー宣言


コラムニスト・吉本俊二の書評ブログです。
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<   2016年 12月 ( 7 )   > この月の画像一覧


近代日本のアイロニー考〜『未完のファシズム』

●片山杜秀著『未完のファシズム 「持たざる国」日本の運命』/新潮社/2012年5月発行

b0072887_1985033.jpg 片山杜秀のいう「未完のファシズム」とはいかなる意味か。
 明治憲法は権力分立の思想が徹底しており、一元的な独裁政治に陥る危険性をあらかじめ排除するものだった。国家を一つの意志に束ねて戦争するには不都合な仕組みだったのである。東条英機は首相になってそのことを悟り、一人で複数の役職に就いて言論弾圧などを行なったものの、一元的な総動員体制を構築することは完全にはできなかった。未完のファシズムとはそのような状態を指している。

 むろんファシズムの定義は多様であり、権力の一元性を重視した場合に日本のそれは「未完」であったというにすぎない。その意味では片山の命題にさして独創性があるとも思えないけれど、現代政治史の一つの見方を示したものには違いなかろう。

 さて、大正から昭和の敗戦へと至る道を考える時、一つの不思議がある。時代が下れば下るほど、近代化が進展すればするほど、日本人は神がかっていったという事実だ。
 片山は第一次世界大戦に注目する。その大戦に衝撃を受けた軍人たちがそれぞれに戦争哲学を組み立てていったからである。それらが「未完のファシズム」体制下で、様々な葛藤や対立の結果、はからずも一つの神がかった流れを作りだすことになる。本書はそのような近代日本のアイロニカルな過程を描き出していく。

 日本の軍部は第一次世界大戦を契機に今後の戦争は肉弾戦から火力優位・物量重視の近代戦へと変化していくことを感じとっていた。そこで日本の採るべき戦略については、二つの系統が現れる。

 一つは、荒木貞夫、小畑敏四郎、鈴木率道らのちに「皇道派」と呼ばれることになる人々が提唱した、精神主義を基盤とする「即戦即決・包囲殲滅戦」の思想である。それは「持たざる国」の苦肉の戦略ともいえるものだが、その考えを柱にして出来たのが『統帥綱領』『戦闘要綱』だ。
 もう一つは、「持たざる国」であるのなら「持てる国」になろうと主張する石原莞爾ら統制派の考え方である。石原は満洲国を拠点にして生産力を高め、戦争準備が充分に整ったところで「世界最終戦争」に打ってでるべきだと主張した。

 しかし、その二つの考え方はともに大きな時流に呑み込まれていく。軍隊が政治に容喙できない以上、軍人はいついかなる場合でも既存戦力で戦う準備をしておかねばならない。つまり、物量において負けると分かっている戦争でも、やらねばならんときはやるべきだ、精神力による嵩上げ分を無限に膨らませられるはずだという「ある種の狂気を孕んだ信仰」に傾く人々が出現したのである。片山はその代表的論客として東条のブレーンでもあった中柴末純を指名する。

「持たざる国」でも「持てる国」の相手を怖じけづかせられれば勝ち目も出てくる。中柴はそのためには、なんと、日本人がどんどん積極的に死んでみせればよいのだと考えた。その思想は日米戦争時代の日本人の死生観に決定的影響を及ぼした『戦陣訓』にはっきり表現されている。

 むろん、中柴も東条も玉砕を賛美するような「精神主義」で米英に勝てると本気で信じていたわけではない。片山は彼らが残した文献を読み込んだうえで、その哲学は「『もたざる国』が『持てる国』と正面戦争をしうる格好を取り繕っておくための方便にすぎなかったと言ってよい」と結論している。

 皮肉にも中柴は合理的計算が仕事の工兵の出身であった。しかし中柴にしてみれば玉砕戦法だけで勝てると高唱するしか戦い続ける気力を喚起させることはできなかっただろう。片山は本書の末尾で次のように痛切にまとめている。

 この国のいったんの滅亡がわれわれに与える歴史の教訓とは何でしょうか。背伸びは慎重に。イチかバチかはもうたくさんだ。身の程をわきまえよう。背伸びがうまく行ったときの喜びよりも、転んだときの痛さや悲しさを想像しよう。そしてそういう想像力がきちんと反映され行動に一貫する国家社会を作ろう。物の裏付け、数字の裏打ちがないのに心で下駄を履かせるのには限度がある。(p333)

 本書は戦前戦中の陸軍関係者の国家観・戦争観を軸にして、小川未明や徳富蘇峰、宮沢賢治や倫理学者の吉田静致らの著作をも参照しながら、日本近代のアイロニカルな思想史を浮き彫りにした労作といえるだろう。
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by syunpo | 2016-12-27 19:10 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

印象派と日本美術的な感性〜『モネのあしあと』

●原田マハ著『モネのあしあと 私の印象派鑑賞術』/幻冬舎/2016年11月発行

b0072887_18235110.jpg 本書はアートを主題にした作品で知られる作家の原田マハの講演記録に加筆修正したもの。モネに魅せられた原田がモネの魅力を存分に語っている。個人的なモネとの出会いの回想にはじまって、モネの生涯、彼が生きた時代の背景、印象派の美術史的な意義づけなどを要領良く解説していく。

 話の内容は、日本の浮世絵からの影響やチューブ入り絵の具の開発と風景画との関連など、毎度おなじみのもので特に斬新な視点が打ち出されているわけではない。ただ個展というスタイルの展覧会を始めたのがニューヨークにおけるモネ展だったというのは初めて知った。

 原田は「草や花を、命が宿っているように」描いている点に日本人との共通の感覚を見出し、「ひょっとしたらモネが感じ取って作品に表現しようとしていることを、私たちはモネ以上にキャッチしている、そんなふうに思えてならないのです」と締めくくっている。印象派絵画の日本での人気はよく指摘されるところだが、睡蓮を一つのモチーフとして描いたモネはことのほか日本人の感性と親和性が高いといえるのかもしれない。

 末尾にはモネを収蔵するミュージアムについての一覧も付されており、実際的な情報も含まれている。初心者にとってはモネ鑑賞の指南書として有益な本といえるだろう。
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by syunpo | 2016-12-22 18:32 | 美術 | Trackback | Comments(0)

「市民運動」の結実として〜『日本会議の研究』

●菅野完著『日本会議の研究』/扶桑社/2016年5月発行

b0072887_184715.jpg 安倍政権の反動ぶりも、路上で巻き起こるヘイトの嵐も、『社会全体の右傾化』によってもたらされたものではなく、実は、ごくごく一握りの一部の人々が長年にわたって続けてきた「市民運動」の結実なのではないか?(p220)

 本書の目的は以上の仮説を裏付けるところにある。関係者へのインタビューはもちろんのこと、関連資料を徹底的に読み込んだ分析は在来メディアが手をつけてこなかったもので、目的は充分に成就されているのではないか。

 菅野によれば「ごくごく一握りの一部の人々」には主に三つの系統がある。一つは椛島有三率いる「日本青年協議会」および「日本会議」のライン。二つめは伊藤哲夫率いる「日本政策研究センター」のライン。三つめは「生長の家」のラインである。

 私は神道系の人々が主導している運動なのかと漠然と思っていたけれど、そうではないのだ。日本会議には実に多くの宗教団体が集結しているが、実務を取り仕切っているのは生長の家の関係者なのだという。ただし現在の同教団は路線を転換していて政治運動からの撤退を公言している。日本会議に関わっているのは当初の教えをそのまま踏襲している人々である。

 日本の「右傾化」の動向を宗教思想的な見地からみる場合、戦前からの流れで神道との結びつきを重視する見方が幅をきかせてきたことを考えれば、そのような情勢分析の紋切型を相対化する意味で本書の「研究」は極めて貴重ではないかと思う。

 日本会議の運動は左翼の運動手法を真似たもので、それを息長く続けてきたことで成果を生み出してきた、と菅野はいう。計数管理能力に秀でいる点に言及している点も刮目に値するだろう。
 小異を捨てて大同につくという原則に徹しきれない今日の野党共闘やリベラリストたちの迷走ぶりを見るにつけ、日本会議の地道な手法には学ぶべき点も少なくないのではないかと思った。
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by syunpo | 2016-12-19 18:48 | 政治 | Trackback | Comments(0)

タンザニアの都市住民に学ぶ〜『「その日暮らし」の人類学』

●小川さやか著『「その日暮らし」の人類学 もう一つの資本主義批判」/光文社/2016年7月発行

b0072887_10415995.jpg「その日暮らし」は現代日本ではダメな生き方ということになっている。でも本当にダメなんだろうか。小川さやかは「その日暮らし(Living for Today)」を人類学的に追究することで現代人の生き方を問い直そうとする。同時に、「その日暮らし」として組み立てられた経済が必ずしも現行の資本主義経済とは相いれないものではないことも示される。それらはしばしば「逆説的にも主流派経済に向けられるべき不満を自力で解消し、主流派経済を存続させる役割を担っている」。

 Living for Today。その日その日を生きる。これは何ら特別な生き方ではない。現代日本人はそのことを想起していないだけだ、と小川はいう。「明日どうなるかわからないといったゾワゾワを封じるために、社会全体でいまの延長線上に未来を計画的・合理的に配置し、未来のために現在を生きることがまるで義務であるかのように生きている」のが現在の私たちである。

 そこでいくつかの実例が紹介される。
 たとえば、アマゾンの狩猟採集民ビダハン。彼らは道具類をつくらず、保存食もつくらず、食べられる時は食べ尽くす。儀礼らしき行為も存在しない。言語における過去や未来を示す時制は限定的で、直接体験したことのない他の文化には興味を示さない。「価値や情報を行動や言葉を通じて『生のかたち』で伝えようとするビダハンは、価値を、数や色の名前のような抽象的、記号的なもの、普遍化のための概念に置き換えることをしない」のだ。

 そして、タンザニアの焼畑農耕民トングウェ人。できるだけ少ない努力で暮らしを成り立たせようとする「最小生計努力」と、おもてなしの互酬による「食物の平均化」が彼らのキーコンセプトである。ただし掛谷誠によるトングウェ人の暮らしの分析には、小川自身はあまり魅力を感じなかったらしい。「嫉妬や妬み」をその生き方の基盤に見出していたから。

 小川はタンザニアの都市住民や香港におけるタンザニア人の商法に関して長い年月をかけて調査を行なった。そのうえで「どうかなったら、そのときに対処する」という生き方をめぐって「嫉妬やうらみによる平準化の圧力は抑圧ではなく、自然や社会との関係的に存在する時間を操る生き方の技法」として解釈し直す。それが本書の肝となる認識である。

「明後日の計画を立てるより、明日の朝を無事に迎えることのほうが大事だ」というタンザニアの人びとの言い分は「筋道だった未来を企図することの代わりに、いま可能な行為には何にでも挑戦すること、そのためにはつねに新たな機会に身を開いておき、好機を捉えて、いまこのときの自分自身の持っている資源を賭けていくことを意味している」のだという。

 新自由主義は人類学では否定的に論じられることが多いが、本書において、タンザニアの人びとが謳歌しているのもまた一つの新自由主義である。それは必ずしも否定的なものとは見なされない。いわば「下からのグローバル化」であるが、アナーキーでありつつも「法的には違反しているが道義的には許せる」第三の空間を創出する過程に小川は一つの可能性を見出そうとするのである。

 本書では具体的に彼らの商売のしかたや処世術について私たちには一見理解しがたい事例がいくつも報告されている。なかでも「金融機関からの借金を踏み倒すよりも、友人からの借金を踏み倒したほうが──前者には利子がつき、返済不能な場合には財産を差し押さえられるというリスクがあるだけでなく──道義的にも良いとの意見」を紹介しているくだりは興味深い。その理由は、後者は〈借り〉が返済されていない状態に過ぎず、たとえ時間がかかっても返すことができるときが来れば、いずれ返すつもりがあるからにほかならない。

 ……彼ら(=タンザニアの人びと)は自前の優れた互助のネットワークがあったから、税金や営業許可料の支払いを無視しつづけインフォーマルであることができ、政府に社会保障の充実を過度に期待しなかったのである。(p201〜202)

 ナタリー・サルトゥー=ラジュの『借りの哲学』を批判的に引用しつつ展開する小川の考察は、なるほど資本主義経済の再考を迫るもので私にはおもしろく感じられた。私たちの社会にとって支配的である経済合理的、計画主義に基づく未来優位、発展主義的な人間観はもちろん普遍的なものではないのである。
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by syunpo | 2016-12-17 10:47 | 文化人類学・民俗学 | Trackback | Comments(0)

人間の営みを結びつける架け橋〜『虹の西洋美術史』

●岡田温司著『虹の西洋美術史』/筑摩書房/2012年12月発行

b0072887_1131443.jpg 虹は西洋の絵画史において繰り返し描かれてきた。神話や宗教の恰好の題材となってきたと同時に、気象学や光学、色彩学、生理学など諸科学によって解明される対象でもあった。「虹はまさに、神話と宗教と科学と芸術という、人間の主要な営みを結びつける架け橋なのである」。

 美術史的にみると絵画に描かれる虹は様々なことがらを象徴したり暗示したりしてきた。その変遷をたどると、なるほど人類が真理と美をめぐって試行錯誤してきた歴史の一端が浮かびあがってくるようにも思われる。

 ノアの方舟をモチーフにした絵に登場する虹は「繰り返される天災に直面した人間の、救済への願いと希望を象徴している」という。
『黙示録』の虹は、神々しくてかつ畏怖の念を抱かせるもの、神秘的でかつ驚異に満ちあふれているものとしてあらわれる。虹が崇高なるものと結びつくようになるのは、主に十八世紀のロマン主義においてであるが、その起源のひとつは黙示録的な虹のイメージにあった。

 ギリシア・ローマ神話のなかに出てくる虹の女神イリスは、天上と地上を橋渡しする存在であり、絵画にもたびたび描かれるところとなった。またルネサンスの時代には虹は芸術の霊感源でもあった。
 肖像画にも虹はあらわれる。エリザベス女王の肖像画に描かれた虹は権力のシンボルであり、ルイ十四世の公妾の肖像画に描かれた虹は美とはかなさの象徴といえる。

 ルーベンスの《虹のある風景》は、色の基本原理を示すものであったと同時に人間の歓びや幸福、自然の恵みの象徴でもあった。
 イギリスの風景画にあらわれる虹はどうであろうか。たとえばターナーにとって虹は、詩人ワーズワースにとってそうだったように、自然の神秘と力と美しさの象徴である。しかし反対に空しさやはかなさの象徴ともなった。

 刻々と変化する陽光の効果を生の色彩によってとらえようとした印象派の作品には意外と虹を描いたものはかぎられているらしい。「印象派の絵においては、画面の全体がいわば虹のような効果を醸し出しているため、あえて虹そのものを描こうという発想にはならなかったのではないか」という。

 二十世紀の前衛的絵画でも虹は重要なモチーフになっている。カンディンスキーやマルクの作品群においてそれは顕著である。

 虹は古来より天上と地上、見えない世界と見える世界、精神的なものと物質的なものとを結びつけてきた。二十世紀の前衛画家カンディンスキーやマルクが革新的な手法によって好んで描きだした虹には、それにもかかわらず、こうした虹の伝統がしっかりと息づいているように、わたしには思われる。(p194)

 ところで、虹の色は美術史上の最初期には三色に描かれた。アリストテレスの『気象論』における虹の記述が後世まで多大な影響を与えたものと考えられる。その後、ニュートーンは『光学』において光の七つのスペクトルを提起した。これを受けて、たとえばアンジェリカ・カウフマンの《絵画》の虹は七色に描かれることとなった。

 美術と科学とは常に影響や刺激を与えあってきた。それは虹の描き方ひとつとってみてもうかがうことができる。そうして画家たちは虹に託して人間世界の様々な様相をとらえようとしてきたのである。
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by syunpo | 2016-12-11 11:07 | 美術 | Trackback | Comments(0)

人をもう少しだけ利口にする環境を〜『感情で釣られる人々』

●堀内進之介著『感情で釣られる人々 なぜ理性は負け続けるのか』/集英社/2016年7月発行

b0072887_2014392.jpg サブタイトルにある「なぜ理性は(感情に)負け続けるのか」という問いは、米国大統領選のドナルド・トランプの勝利でますます切実なものとなってきている。あからさまに女性や移民を蔑視する下品な男が超大国の政治リーダーの座につこうとしているのだ。その結果について「理性が感情に敗れた」とする論評はすでにたくさん出回っている。本書は大統領選の結果が出る前に刊行されたものだが、まことにタイムリーな主題を扱ったものといえよう。

 もともとアカデミズムの世界では「理性」と「感情」の関係は昔から定番のテーマとして考察されてきた。最近では「理性よりも感情の方が大事なのではないかということがあらためて議論になっている」という。その流れのなかで「感情」のポジティブな面を評価する見解もさまざまに提起されているらしい。

 ……感情的になること自体は否定されるべきでもないし、その必要もない。むしろ感情的であることが足りない場合さえあるかもしれない。大切なのは、感情的であることと同時に、それを自覚することであり、無自覚にならないための予防をすることだ。(p29)

 堀内は、感情の動員に関して、動員「される側/する側」それぞれの視点から、広告やマーケティングの手法などを検証していく。また政治における感情の動員についても歴史的に概観している。

 昔も今も、労働・消費・政治のそれぞれにおいて感情の動員が存在している。うまくいっている社会には必ず感情の連帯がある。それゆえ、感情的な連帯であるところのコミュニティに期待する論者が近代において数多く生まれてきたのである。アレクシ・ド・トクヴィル、ロバート・パットナム、マイケル・サンデル、ロバート・N・ベラーらがそうである。

 そして最新の社会学の教えるところによれば、次のようになる。
 必ずしも、感情の連帯が豊かになれば、社会がより健全になるということはできない。感情の連帯はよい社会に必要だが、それだけでは十分ではない。結局、感情の連帯はよい社会であればよりよく、悪い社会であればより悪く、その社会の構造を強くしてしまうだけだからだ。

 では私たち一人ひとりはどのようにすればよいのか。感情の動員が一定の成果をおさめてきたことを見た以上、あらためて理性の復権をストレートに説くことが有効でないことは明らかである。そこで重要になってくるのは「ナッジ」である。

 「ナッジ」とは行動経済学で「多過ぎる選択肢を体系化して選びやすくする技術」を指す言葉である。〈iNcentive=インセンティブ〉〈Understand mappings=マッピングを理解する〉〈Defaults=デフォルト〉〈Give feedback=フィードバックを与える〉〈Expect error=エラーを予期する〉〈Structure complex choices=複雑な選択を体系化する〉の頭文字をとって「ナッジ」と呼ばれる。

 たとえばトイレの男性用便器。尿はねを防ぐために適切な場所に標的を表示しているものを見かけることがある。標的以外には何も記されてはいない。感覚的についつい標的を狙ってしまう人間の習性を利用して、尿はねを防止するのだ。

 権力者が尿はねを嫌うならば、絶対に尿はねしないようにしなければ用を足せない仕組みを作りあげることもできるだろう。選択肢を狭めることで人々を管理しようとする環境管理型権力とはそのようなものである。それに対してナッジには選択の余地が十分に残っている。堀内はナッジに期待する理由を以下のように説明する。

 ……トイレに描かれた標的は尿はねがもたらす掃除の苦労に思いを馳せながら便器の前に立つことを私たちに要求しない。また、立つ位置、目がける位置を側に立って教えてくれる補助員を必要としない。そして何よりも重要なのは、私たちの理性と意志が適切に働くことを前提としたシステム設計である点だ。つまり、コストを可能な限り抑え、選択の余地のないパターナリズムを避けることをナッジは可能にしてくれるのだ。(p200)

 むろん、ナッジを可能にする制度に対しては、アーキテクチャーによる支配、パターナリズムではないかという批判はありうる。ならば、ナッジを権力者のパターナリズムに転化させないことが必要だ。「ナッジであることを明記する」などナッジを自覚的に使うこと。堀内はささやかながらそのように提案している。それは、理性を助ける「環境」をちょっとした「やり方」でととのえること、と敷衍していいだろう。

 正直、結論的に述べられているナッジの効用については、私には今ひとつピンとこないものがある。わかったようなわからないような、とでもいえばよいか。しかし、感情の動員がいかに行なわれ、いかに効果を発揮してきたかを知ることは無駄ではない。理性が負け続けるメカニズムを知っておくことは、理性の力を信ずることと矛盾しない。

 感情による動員が必要だという人々は、まるで私たちの社会が理性を中心に回っているかのようにいう。しかし、繰り返し述べてきたように、理性的過ぎることが問題になるほど人類が理性的であったことは一度もない。理性それ自体への批判は重要だが、それは、いまだ十分に理性的でないことへの批判であるべきではないだろうか。だからこそ、私たちは、人間の非合理性を解決しようとしてきた。それなのに、「理性の時代は終わりだ、これからは感情の時代だ」などと言うのは楽観的過ぎる。(p210〜211)
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by syunpo | 2016-12-07 20:25 | 社会学 | Trackback | Comments(0)

生命を賭けて仕事をするということ〜『国のために死ねるか』

●伊藤祐靖著『国のために死ねるか 自衛隊「特殊部隊」創設者の思想と行動』/文藝春秋/2016年7月発行

b0072887_12324214.jpg 本書は自衛隊初の特殊部隊である海上自衛隊の「特別警備隊」の創設に関わった元自衛官の手になる本である。率直にいって「思想」的な部分では、著者が問いかける愛国心や憲法の問題は失礼ながら陳腐なもので「何を今さら」感は否めない。またアジア諸国の人々と交わした対話として「日本人は騙しやすい」という趣旨の話ばかりを並べているのも日本軍が過去に行なった言動を思い起こせば、著者自身がどこまで自覚しているのかわからないが、いささか政治的な書きぶりだと思う。

 しかし「みょうこう」航海長在任中に起きた「能登半島沖不審船事件」を体験したことが特殊部隊創設の直接の動機となったというのは日本の安全保障を考えるうえで大いに示唆的な挿話には違いない。私たちの知らない自衛隊内部の訓練の実態や組織事情について具体的に記述しているくだりなども非常に興味深く読んだ。生命を賭して公務についている人々の存在に思いを及ぼすことはやはり大切なこと。「『他国とのお付き合い』で戦争などまっぴら御免」というオビの謳い文句はもっともな言い分だろう。現政権が推進している安保政策を再検討するうえで一読に値する本である。
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by syunpo | 2016-12-03 12:38 | 政治 | Trackback | Comments(0)