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普遍的な概念でストーリーを語る〜『げんきな日本論』

●橋爪大三郎、大澤真幸著『げんきな日本論』/講談社/2016年10月発行

b0072887_1957078.jpg 今や講談社新書の名物コンビとなった橋爪大三郎と大澤真幸の対談シリーズ第三弾。テーマは日本史である。時流に媚びたような書名にはあまり共感できないが、ここにいう「げんき」とは「自分なりのストーリーを見つけること」。具体的には「普遍的な概念をもって説明」することで「科学的な検証にたえる」ようなストーリーを再発見するという意味らしい。
 社会学者二人による議論なのであくまで「仮説」の提起というレベルにとどまるものの、歴史の読み物としてそれなりにおもしろいことは確かである。

 全体を古代・中世・近世に対応する〈はじまりの日本〉〈なかほどの日本〉〈たけなわの日本〉と三部構成にしたうえで、それぞれに六つの問題を配して二人が語りあっていくというスタイルをとる。

「なぜ日本では、大きな古墳が造られたのか」を考える一章では、「余剰労働を『非軍事的に消費する』こと自身が、目的だったのでは」と推察したり、平安時代における古典文学の成立によって「日本という文化的空間の、アイデンティティ(自己同一性)が揺るぎないものになった」といった橋爪の発言はなるほどおもしろい。

 承久の乱の画期性を指摘するあたりの議論も勉強になったし、戦国大名は統治権が伝統に基づかないという橋爪の指摘を受けて「日本史上初めて出現した事実上の政府」と大澤が受けるやりとりも異論はありそうだが、興味深く読んだ。

 安政の不平等条約について「条約の内容は不平等かもしれないけれども、条約という形式は、両者の対等性を前提にしている」という認識にもなるほどと思う。二人の認識によればこの条約のおかげで日本の独立が保障され、ヨーロッパ列強による植民地化を免れたということになる。

 日本史学の専門家であればもっと精緻な議論が求められるだろうが、専門外の気楽さから自由闊達に仮説を披瀝している点に良くも悪くも本書の特質があるといえるだろう。
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by syunpo | 2017-02-24 20:01 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

気合いと絆とバッドセンス〜『ヤンキー化する日本』

●斎藤環著『ヤンキー化する日本』/KADOKAWA/2014年3月発行

b0072887_18433816.jpg 斎藤環は二〇一二年刊行の『世界が土曜の夜の夢なら──ヤンキーと精神分析』で日本文化に偏在する「ヤンキー・テイスト」を分析した。本書はその続編ともいうべき対談集。

 日本社会はヤンキー化している。ではヤンキー化とは何なのか。それは不良や非行のみを意味しない。著者が「ヤンキー」の用語に込めているのは次のようなことである。

 ……彼らが体現しているエートス、すなわちそのバッドセンスな装いや美学と、「気合い」や「絆」といった理念のもと、家族や仲間を大切にするという一種の倫理観とがアマルガム的に融合したひとつの“文化”、を指すことが多い。(p9)

 斎藤はヤンキー化に対して批判的ではあるものの「単純に軽蔑したり排除したりできない」とも述べている。本書は、斎藤のこうした基本認識を踏まえての対話なので、比較的まとまりのある対談集にはなっていると思う。登場するのは、村上隆、溝口敦、デーブ・スペクター、與那覇潤、海猫沢めろん、隈研吾。

 村上との対話は、本書のテーマにしっくりハマっているとは言い難い雰囲気をもって始まるのだが、村上の仕事が「気合い」を重視していることを言明している点などは興味深く読んだ。

 溝口は暴力団の実態に詳しいジャーナリスト。斎藤の認識に同意を示しつつ、「暴力団や半グレと、ヤンキーの両者は近接領域にあっても別モノ」と指摘する。

 デーブとの対談はリラックスした雰囲気ながら本書の趣旨からは逸脱することなく進んでいく。それなりに楽しい対話。選挙の古臭さとヤンキー文化をからめる文脈で橋下徹人気を語るのは良いとしても、それにデーブが好意的なのは同意できないが。

 與那覇は安倍政権についてトンチンカンな発言も散見されるが、「インテリ派とヤンキー派」の対立を自民党政治にあてはめて「官僚派と党人派」と言い換えているくだりなどにかろうじて面白味が感じられた。

 梅猫沢は、社会心理学者の山岸俊男の(「頭でっかち」に対する)「心でっかち」というフレーズを引用して、心を重視するヤンキーリアリズムを批判的に語っているのが印象的。

 隈は建築という営みそのものがヤンキー的といい、日本のヤンキー文化を建築業界に沿って語っているのは勉強になった。「おたくとヤンキーというのは、ノンヒエラルキーな二〇世紀的工業社会が崩れてきた中で人間が生きていくための二つの道」と隈はいう。本書のなかでは私にはもっとも面白い対談だった。
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by syunpo | 2017-02-15 18:45 | 心理・精神医学 | Trackback | Comments(0)

はじめに行為ありき〜『村に火をつけ、白痴になれ』

●栗原康著『村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝』/岩波書店/2016年3月発行

b0072887_9424485.jpg 伊藤野枝。大正時代のアナキストであり、ウーマンリブの元祖ともいわれている思想家。結婚制度や古臭い社会道徳を排撃し、大杉栄との「不倫」関係で世間を騒がせもした。そして関東大震災のどさくさに紛れて、大杉と甥っ子の橘宗一とともに憲兵隊の手によって惨殺された。

 本書は、アナキズムを専門とする政治学者・栗原康による伊藤野枝の評伝である。読み始めてまず気づくことは今風のポップな文体だ。

 ……東京にいきたい、東京にいきたい。とうぜんながら、実家にも自分にもそんなカネの余裕はない。どうしたらいいか。伊藤家家訓。貧乏に徹し、わがままに生きろ。カネがなければ、もらえばいい。遠慮しないで、おもいきりやれ。いつも遊んで、食べてねるだけ。いくぜ、東京。(p15)

 こんな調子で本書は野枝の波乱万丈の生涯をあとづけていく。上京して勉学に励み、上野高等女学校に入学したこと。親の決めた結婚相手のもとからすぐに逃げ出したこと。在学中に思いを寄せていた辻潤との結婚生活のこと。平塚らいてうの青踏社に加わったこと。大杉栄と運命的に出会ったこと。バートランド・ラッセルが来日した際、好ましいと思った日本人は伊藤野枝ひとりだったこと……。

 青踏社時代に野枝が関係した三つの論争がある。貞操論争。堕胎論争。廃娼論争。それらはいずれもその後のフェミニズムや女性学につながっていくテーマでもあった。栗原はここでも野枝に肩入れしながらその論争のあらましを総括している。
 貞操論争に関して触れておくと、野枝の意見は、貞操という発想そのものが男たちの願望をかなえるために捏造された不自然な道徳にすぎないというものである。これは正論ではないかと思う。

 伊藤野枝の思想とは、端的いえば女性の生き方は女性自身が決めればよい、好きなだけ本を読み、好きなだけうまいものを食って、好きなだけセックスをして生きればよい、というものだ。国家のようなものに依存していはいけない、相互扶助でいこう、結局のところ「無政府は事実」だというのである。

 無論、彼女の考え方を全面的に肯定するわけにはいかないだろう。端的に「わがまま」だと思われる挿話はいくつも紹介されている。彼女の生涯は無念極まりない幕切れを迎えねばならなかったけれど、しかし同時に自由であること、自己決定することの大切さを教えてくれているようにも感じられる。

「野枝さんはぶっ殺されてしまいましたが、その思想を生きるということは、わたしたちにもふつうにできることなんだとおもいます」──軽佻浮薄といって悪ければ自由奔放な栗原の文体は、アナキスト伊藤野枝を語るにふさわしいものかもしれない。
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by syunpo | 2017-02-12 09:45 | ノンフィクション | Trackback | Comments(0)

どうでもいい話題を熱く語る〜『芸能人寛容論』

●武田砂鉄著『芸能人寛容論 テレビの中のわだかまり』/青弓社/2016年8月発行

b0072887_1828244.jpg『紋切型社会』で話題を集めた武田砂鉄の第二作目。論評の対象となっているのはタイトルに謳われているように主に芸能人であるが、テレビにも露出するトマ・ピケティのような学者や織田信成のようなスポーツ選手もふくまれている。

 与沢翼の転落を座高測定の廃止と絡み合わせて考察するかと思えば、前園真聖を阿川佐和子と並べて論じたりする。中山秀征は成果主義が日本の形態に似合わないことを教えてくれる存在だといい、ネプチューン名倉潤を終電まで語り尽くす必要性を熱く語る。騒動前のベッキーについて論じた一文は的を外した感はあるけれど、それもご愛嬌。

 テレビをとおして浮上してくる種々雑多な問題をねちっこく斬ってさばいていく手際は相変わらず達者なものだが、前著以上に題材としては一般のインテリ言論人なら無視するようなものを扱っているので、その熱さとテンションは一種異様といいたくなるほど。とにかく語っている内容よりも語り口に話芸の妙が脈打っているのだ。

 夏目三久アナを論評するのに、他のアナウンサーの書いた本──『半熟アナ』(狩野恵里)、『聞く笑う、ツナグ。』(高島彩)、『ことたま』(馬場典子)、『アナウンサーの日本語論』(松平定知)──などを参照する、その労力にも頭がさがる。

 私はテレビを観ないので、本書で俎上に載せられている芸能人には知らない人が少なくないのだが、そのことは本書の通読にさして障害にはならなかった。武田の論調や文体は好悪を分かつだろうけれど、私には愉しい本であったといっておこう。
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by syunpo | 2017-02-10 18:32 | メディア論 | Trackback | Comments(0)

短歌に人生の居場所を見つけた〜『キリンの子』

●鳥居著『キリンの子 鳥居歌集』/KADOKAWA/2016年2月発行

b0072887_18341739.jpg 壮絶というほかない。ここに収められた短歌を読むと、言葉にすがるようにして何とか生きている人もいるのだ、ということを思い知る。

 著者の鳥居は、小学校五年生のとき、目の前で母親に自殺され、その後は養護施設での虐待、ホームレス生活などを体験。義務教育もまともに受けられず、文字を覚えるのも短歌に関してもほぼ独学で学んだとプロフィール欄にはある。自殺をはかったこともあるようで、そのことをうたった短歌もいくつか収められている。

 亡母や祖母との思い出にふれた歌は、美しくも哀しい。母や家に関する歌といえばあの寺山修司を想起するが、それはかなり虚構性や演技性に富んだ、作り込まれたものだっただろう。寺山の真価はまさにそうしたところにあったと思われるが、鳥居の場合はもっと切羽詰ったところから絞り出してきた言葉という印象を受ける。もちろんどちらが良いとか悪いとかいう話ではない。

 いずれにせよ本書に付された「短歌に出会って人生に居場所を見いだせた」というキャッチコピーには誇張はないだろうと思う。

 あたらしいノートの初めの一頁まだぎこちない文字を並べる
 目を伏せて空へのびゆくキリンの子 月の光はかあさんのいろ
 雑草の葉の部分だけむしりつつ祖母の畑に見上げるトマト
 女子生徒たちの自転車石鹸の香り引きつれ隣町まで
 手を繋ぎ二人入った日の傘を母は私に残してくれた

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by syunpo | 2017-02-03 18:35 | 文学(詩・詩論) | Trackback | Comments(0)