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くるくるまわしながら楽しむ絵本〜『さかさまさかさ』

●ピーター・ニューエル著『さかさまさかさ』(高山宏訳)/亜紀書房/2015年10月発行

b0072887_19491076.jpg マルク・シャガールは「絵画はどの方向から見ても鑑賞に堪えるものでなければならない」と述べた。 キャンバスを逆さにしても横に転がしても作品として成立すること。それが絵画の条件なんだとシャガールは言ったのである。なるほど彼の作品には浮遊感がただよっていて、天地左右の別なく鑑賞できそうな作品が少なくない。

 同じようなことを絵本の魔術師ピーター・ニューエルも考えたらしい。本書はそれを具現化したものである。すなわち上下をひっくりかえして見ても楽しめる絵本。

 とにかく楽しい。かきねから顔を出している象。さかさに見るとダチョウに。クリスマス・イヴにだんろに靴下をさげる少女。ひっくり返すと袋をせおってえんとつを降りようとしているサンタに早変わり。いくさの格好をしたインディアン。かと思えば木の枝にとまった小鳥に……。

 こうしたアイデアは自分の子供がまちがえて上下さかさまに絵本を読もうとしているのをみて思いついたのだという。ヒントはどこにでもころがっているともいえるが、一冊の絵本にするだけの絵を描くのはやはり才能のある人に限られるだろう。ニューエルならではの仕掛けとユーモアには敬服するほかない。

 原書は一八九三年の刊行。日本では紹介が始まったばかりらしいのだが、絵本の分野では古典的名作の一つといっていいのかもしれない。
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by syunpo | 2017-05-26 19:50 | 絵本 | Trackback | Comments(0)

文理横断的な実験によるアプローチ〜『モラルの起源』

●亀田達也著『モラルの起源 ──実験社会科学からの問い』/岩波書店/2017年3月発行

b0072887_2048055.jpg 人間の社会を支える人間本性とはいかなるものか。これは古来、当の人間にとって最も主要な論題の一つとして繰り返し問われ研究されてきたものである。本書ではその問いに対して実験社会科学という新しいアプローチで答えようとする。

 まずヒトの社会行動や心の働きはほかの動物と比較したときに、どう位置づけられるか。そしてそのような生物学的基礎をもつ「ヒトの心」が、人文社会科学が対象とするような「人の社会」の成立とどう関わるのか。利他性・共感性・正義など「モラル」を構成する人間の心の起源にそのようなステップを踏んで迫っていく。

 当然、そこでは分野横断的な態度が必要になるだろう。本書では、脳科学、進化生物学、霊長類学、行動科学などに加え、人類学、社会学や行動経済学、心理学、哲学などなど、あらゆる科学的知見が動員される。とりわけ様々な実験やゲームによって得られた知見や推論が多く参照されていて、そこに本書が実験社会科学を標榜している所以がある。

 まず、霊長類学者のダンバーの調査によれば、霊長類の大脳皮質の大きさは、その種における群れのサイズとの間に正の相関関係があるという。群れのサイズが大きい種ほど大脳皮質が大きい。群れが増大すればするほど、必要な情報処理量(認知、判断、言語、思考、計画など)の増大も必要となると考えられる。

 進化時間におけるヒトの心の適応には、このような集団での生活形式が重要であることは明らかだろう。

 人間生活のもっとも根本的な基盤が集団にあるとすると、ヒトもまた、集団の中でうまくやっていくための心理・行動メカニズムを進化的に獲得しており、そのようなメカニズムこそ、生物種としてのヒトが備えている行動レパートリーの中でも中心的な位置を占めると考えることは、非常に妥当な推論のように思われます。(p18)

 では、群れ生活への進化的適応を果たすうえで、生物種としてのヒトの社会行動や心はどのような仕組みになっているのか。結論的にいえば、ヒトは他者の行動や思いに対して極めて「社会的感受性」の強い動物だといえる。

 ハチやアリのような社会性昆虫のコロニーでは、自分と同じ巣の仲間は遺伝子を共有する血縁者なので、自分の適応度を下げてもコロニーの仲間を助ける行動は、同じ遺伝子を残すという観点から意味がある。進化生物学では、この行動が個体と血縁者全体を含む包括適応度を上げると考える。
 しかし非血縁の相手とともに生きなければならないヒトの場合は事情は異なる。いくら群れレベルで望ましい結果を生むはずの行動でも、当の個人の生き残りに不利になるようなら、その行動は定着しない。ヒトは、他者の意図を敏感に察知し、極めて戦略的に反応する「空気を読む」動物なのである。

 では、どのようにしたら互いに助け合う安定した協力関係を作ることができるのか。
 そこで言及されるのが「評判」の働きである。前出の霊長類学者ダンバーは、人が集まる場所での会話を分析し、会話のほとんどが「今ここにいない誰か」についてのゴシップであることを示した。そのような噂話によって人は他者の情報を得る。それは対人マーケットにおいて重要な選別の機能を果たしているという。
 近年の研究によれば、間接互恵性で見られるような自発的な親切行為や援助行動は、このような言語を介した評判のメカニズムを基盤として、ヒトの心に定着したのではないかと考えられている。

 そのような考察を重ねてきたうえで本書が最後に重要な問題と考えるのは「共感/同感」である。アダム・スミスが「同感」こそは人間社会における秩序の最大の基礎になると論じたことはよく知られている。
 近年、共感とは「思いやり」だけでなく身体模倣や情動の伝染などを含む重層的なシステムであり、その一部はヒト以外の動物たちにも共有されているのではないかと指摘されるようになった。

 一般に、共感には「情動的共感」のほかに「認知的共感」がある。後者は相手の視点を取るときに働くもので、より複雑な機制をもっている。認知的共感は、必ずしも情動的共感のように、いつでも直ちに「温かくやさしい思いやり」を生むものではないが、内集団を超える利他性を発揮するために、欠くことのできない本質的な役割を担うと考えられるのである。

 正義やモラルの芽ばえのような行動は、さまざまな動物たちの集団にも観察される。しかし、正義やモラルが言語という媒体を活かして、多くのメンバーを吸引する力をもつのは、人間社会においてのみである。たとえば、社会運動における不公正の糾弾、革命家の血湧き肉躍らせるレトリックは、人々を広く動員する。

 では政治的存在としての人間を動かす正義やモラルとは何だろうか。その考察が本書のハイライトといってもいい。その具体的な課題として「分配」が取り上げられる。

 限られたモノをいかに分配するか。この分配の原理は、社会・文化レベルの要因によって規定されていることは、いくつもの実験によって明らかになっている。

 大雑把にいえば、市場経済化が進んでいる社会ほど「フェア」な取引が文化規範となっているのに対して、市場取引とは無縁の伝統的社会では血縁や特定の相手を重視する行動こそが「正義」とされる。アメリカのジャーナリスト、ジェイン・ジェイコブズが「市場の倫理」「統治の倫理」という二つの類型化を提起したのは、そうした命題に対応するものといえるかもしれない。

 分配をめぐる道徳規範には文化差があるとすれば、個別のモラルを統合する「メタモラル」を構想するにはいかなる考え方が適切だろうか。本書では、ジョン・ロールズの『正義論』などにも熱く言及しているのだが、結論として「功利主義」を挙げている。

 哲学者のジョシュア・グリーンは功利主義こそが人類共通の基盤となり得ると考えた。功利主義には固有名詞がないからである。「功利主義は、自分を含めて誰かを特別扱いすることなく、人々の平等を前提として『幸福』の総量を最大化しようとする考え方」である。そこで著者は「功利主義の難しさ」を指摘したうえで、グリーンの主張する功利主義に共感を示すのである。

 この結論にはおそらく賛否両論あるだろう。ここに至るまでの論考が多彩なものであっただけに、私にはいささか凡庸に感じられたというのが率直な感想。しかしそれを差し引いても、本書における様々な実験とそこから得られる知見には学ぶところ大であったことは間違いない。一読に値する面白い本であると思う。
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by syunpo | 2017-05-24 21:06 | 実験社会科学 | Trackback | Comments(0)

昭和史を貫く「悪の構造」〜『21世紀の戦争論』

●半藤一利、佐藤優著『21世紀の戦争論 昭和史から考える』/文藝春秋/2016年5月発行

b0072887_19123245.jpg 昭和史に詳しい作家・半藤一利と元外交官の佐藤優による対談集。書名からもわかるように、ここで議論されているのはもっぱら戦争を軸とした昭和史の断面についてである。具体的には、七三一部隊、ノモンハン事件、終戦工作、軍事官僚機構などが検証・考察の対象となっている。

 歴史的事実から思考を組み立てようとする二人の対話は「神は細部に宿る」の格言を地でゆくがごとく時に細かな議論にまで立ち入るのだが、薄味な対談が多いなかではそれこそが本書の一つの売りといえるだろう。

 七三一部隊にいた人物が戦後エイズ問題で物議を醸したミドリ十字の社長になったという話はよく知られているけれども、半藤は帝銀事件に関しても松本清張を参照しながら七三一部隊関係者の関与を示唆しており、たいへん興味深く読んだ。

 ソ連軍との戦闘に惨敗したノモンハン事件に関する議論も示唆に富んでいる。とりわけ私が驚いたのは敗戦処理にまつわる事実。作戦を立案した参謀は陸軍の基本方針で厳しく責任を問われることはなかったのに、現場の指揮官たちはみな戦場で自決させられたという。半藤が自決した指揮官の名前を一人ひとり挙げてそのことを指摘したのを受けて佐藤は次のように述べている。

 ……軍法会議で敗因を究明するのではなく、自決を強要したというのですね。現場の指揮官に自決させるというのは戦史研究の上では非常にマイナスです。負け戦に関して徹底的に聴取して、教訓を得なければならない。口封じに殺してしまっては、何の意味もありません。(p234)

 こうした事例に象徴されるように、対話をとおして浮かびあがってくるのは、戦争を遂行した日本のエリートたちがいかに失敗から学ばなかったかというあまたの史実である。そのマインドは現代の官僚組織にも受け継がれているという点でも二人の認識は一致している。とくに言及されているわけではないけれど、原発事故から抜本的なことを何一つ学ぼうとしない政治のあり方などはその典型といえるだろう。

 そうした観点からすれば、戦後日本が外見上は全体主義体制から戦後民主主義に変革を遂げたように見えても「日本に破滅をもたらした因子が、温存されることになってしまった」(佐藤優)ことは否めない。昭和時代は戦争によって断絶があったというよりも、むしろ見事なほどにつながっている。

 さらに昨今の歴史修正主義的な動きに対して、半藤が「歴史修正主義というよりも、歴史を知らないだけじゃないでしょうか。知らないものは、修正しようもない」と辛辣に批判しているのも印象に残った。

 昭和時代の連続性に着目し、そこに組み込まれている「悪の構造」を顕在化させるという本書の狙いは充分に果たされているのではないか。日本のエリートには昔も今も「失敗学」という発想が欠落しているのだなとあらためて感じた次第である。逆にいえば、そうした悪しき昭和の精神をいかに自覚し改善していくかが、二一世紀日本の大きな課題だといえるのかもしれない。
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by syunpo | 2017-05-17 19:17 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

大切なものはお金に換えてはいけない〜『人間の経済』

●宇沢弘文著『人間の経済』/新潮社/2017年4月発行

b0072887_18513572.jpg 二〇一四年に他界した経済学者・宇沢弘文の晩年のインタビューや講演録をまとめた本。当然ながら平易な語り口で、宇沢の学識に触れたことのない読者にも理解しやすい作りになっている。

 宇沢は旧制一高時代は医学部志望クラスに在籍していたが、東大数学科に進んで代数的整数論や数学基礎論を学んだ。しかし数学にも「貴族趣味」のようなものを感じて、悩んだあげくに経済学に転じたという経歴をもつ。「医学が人間の病を癒す学問であるとすれば、経済学は社会の病を癒す学問であると自分に言い聞かせて、経済学の道に移りました」と当時の心境を回顧するくだりはとりわけ印象深い。

 その言葉どおり、本書における発言もまた社会の歪みや疲弊に対する警鐘的な色合いの濃いものになっている。そこでベースになるのは自身が提唱した「社会的共通資本」という概念である。宇沢が一般の読書人にも広く知られることになったのはこの概念の創出によるところが大きいだろう

 本書では厳密に定義している文章は出てこないが、そのものズバリの著作『社会的共通資本』には「一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置」と規定されている。
 こうした社会的装置として、宇沢はおもに自然環境(大気・森林・河川など)、社会的インフラ(道路・交通機関・上下水道・電力など)、制度資本(教育・医療・司法など)の三類型を考えた。注目すべきは農村のような存在もそれを単なる農家の集合体としてのみ考えず、社会的共通資本として捉えている点だ。

 社会的共通資本を維持していくためには「それぞれの職業的専門家が職業的なdiscipline(規範)にもとづいて、そして社会のすべての人たちが幸福になれることを願って、職業的な営為に従事すること」が求められる。しかし戦後世界は必ずしもそのような形で運営されたわけではなかった。世界中が医療や教育など社会的共通資本をも市場原理に組み込む新自由主義的な傾向が高まるにつれて、しばしばそれらは破壊されていったことは宇沢のみならず多くの論者が指摘しているところである。とりわけ日本の場合には、中曽根政権以降、米国の要求によって莫大な公共投資が実施された。それらがもたらしたのは、地域の医療、経済、社会、自然環境の破壊であった。

 そうした経緯を語るときには、おのずと先に記したように社会の病を診断する医師の態度にも似たようなものになってくる。宇沢は言う。「大切なものは決してお金に換えてはいけない」と。
 さらに宇沢はジョン・ラスキンを引いて「富を求めるのは、道を聞くためである」という考えを「経済学を学ぶときの基本姿勢として、これまでずっと大事にしてきました」と結びで述べている。

 農村礼賛や新自由主義批判にステレオタイプの表現が散見されるとはいえ、社会的な運動にも関与した宇沢の識見には温かな息吹を感じとることができるのも確かである。それは凡百の経済学者からは感受できない人間味のようなものといえばよいか。昭和天皇やヨハネ・パウロ二世と面会した時のエピソードなども興味深い。

「人間の経済」を重視した宇沢流国富論は、公正や平等を重視する近代リベラリズムと共同体に根ざした公共的価値を受け継ぎ次代に伝えることを本旨とする正統的な保守思想の交差するところに位置づけられるのではないだろうか。つまり多くの人々によって共有することが可能な考え方ではないかと私は思う。
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by syunpo | 2017-05-13 19:00 | 経済 | Trackback | Comments(0)

アイロニーからユーモアへ折り返す〜『勉強の哲学』

●千葉雅也著『勉強の哲学 来たるべきバカのために』/文藝春秋/2017年4月発行

b0072887_1914615.jpg 勉強しない者たちが実社会でたくましく生きていく姿にエールをおくる言葉は巷にあふれている。学生時代はロクに勉強もせずに遊び呆けていたと露悪的に告白するインテリもあとを絶たない。それらはいずれもアンチ勉強言説の紋切型といってよい。その裏返しとして、勉強することの気まずさやそこからじわじわと生まれる歓びに正面から原理的に言及した本はこれまでありそうでなかったような気がする。もちろん「気がする」だけで、単に私の勉強不足だけなのかもしれない。そこで気鋭の哲学者・千葉雅也の勉強論である。

 勉強とは、これまでの自分の自己破壊である。これが本書の核となるメッセージ。自己破壊することなく状況に適応して生きていくのは「ノリのいい生き方」だが、勉強すると一旦その環境でのノリは悪くなる。いわば「浮いた」状態になる。けれども次のフェイズで新たな環境のノリに入るのだ。
 その一連の引っ越しにおいて、千葉は言語を重視する。不慣れな言葉の違和感に注意すること。その違和感を通して特定の環境における用法から別の用法を考え直す可能性が開けるというわけだ。

 深い勉強、ラディカル・ラーニングとは、ある環境に癒着していたこれまでの自分を、玩具的な言語使用の意識化によって自己破壊し、可能性の空間へと身を開くことである。(p217)

 ノリの悪い語りは、自由になるための思考スキルに対応する。思考にはツッコミ(アイロニー)とボケ(ユーモア)がある。前者は根拠を疑って真理を目指す。後者は根拠を疑うことはせず、見方を多様化する。勉強の基本はアイロニーだが、本書ではそれを徹底化することを避けてユーモアに折り返すことを推奨する。

 アイロニーは過剰になると絶対的に真なる根拠を得たいという欲望になるけれども、それは実現不可能な欲望である。むろん「見方の多様化」についても理念的には極限的な状態は考えられるが、事実上私たちの言語使用では、ユーモアは過剰化せず、ある見方を仮固定することになる。それを可能にする条件は、個性としての「享楽的こだわり」である。もちろん「享楽的こだわり」もまた勉強の過程を通じて変化しうる。

 この一連の勉強過程でキーワードになるのが「有限化」。ある限られた=有限な範囲で、立ち止まって考える。無限に広がる情報の海で、次々に押し寄せる波に、ノリに、ただ流されるていくのではなく。「ひとまずこれを勉強した」と言える経験を成立させること。「勉強の有限化」とはそのような状態を指す。

 環境のなかでノッている保守的な「バカ」の段階から、環境から浮くような小賢しい存在になることを経由して、メタな意識をもちつつも、享楽的なこだわりに後押しされてダンス的に新たな行為を始める『来たるべきバカ』へ。これが本書における勉強の原理論のあらましである。

 本書の後半では、その具体的な実践方法を教示する。たとえば自己分析のための「欲望年表」の作成。「自分が何を欲望してきたか」をひろいだし、その背景となる出来事の年表を作ることをとおして「無意識と意識をつなぐ言葉を、仮に想定する」。これは一種の自己分析である。自分のこだわりの発端を分析してバラし、出来事と出会い直そうとすることで、享楽的こだわりもまた変化の契機を得るのである。

 さらに、勉強を有限化しつつ継続するために、当然ながら専門分野のノリに入ることが必要になるだろう。専門分野への参加に際しては入門書を複数比較してその分野の大枠を知ることなど、オーソドックスな助言がなされている。

 ジル・ドゥルーズ=フェリックス・ガタリ、ジャック・ラカンなどのフランス現代思想をベースにしつつ、ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム理論や分析哲学など、本書では多くの哲学的知見がベースになっている。ドゥルーズ=ガタリの〈器官なき身体〉のパロディとして〈器官なき言語〉なる造語を導入しているのも愉しい。

 またピエール・バイヤールのユーモアにあふれた『読んでいない本について堂々と語る方法』が読書の完璧主義の不可能性を指摘するコンテクストで引用されているのにも納得。なるほど「仮固定」や「有限化」の一助としてバイヤールを持ち出すというのは一つの生産的な読み方なのだろう。

 そうした先人たちの思考スタイルに立脚しながらも、同時に自身の経験的なエピソードを随所に織り込んでいるので、この種の本にありがちなフラットな読み味からは免れているのも本書の美点のひとつといえる。

 千葉が説く言語の玩具的な使用は、もちろん本書の記述においても活かされている。時に現代詩のフレーズを引用する。改行を多用してアフォリズム的なリズム感を醸成する。こうして読者は勉強の哲学的な言葉を享楽的に受け取ることができるだろう。

 バカの座に居直るのでもなく、環境のノリに合わせられる実利的な勉強のみを称揚するのでもなく。アクロバティックな勉強への道標。知性的なるものを冷笑する態度が幅をきかせる今だからこそ、読む価値のある一冊であるといっておこう。
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by syunpo | 2017-05-11 19:08 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

人間社会の枠組み自体を変えるもの〜『戦争とは何だろうか』

●西谷修著『戦争とは何だろうか』/筑摩書房/2016年7月発行

b0072887_1927559.jpg 戦争とは何だろうか。本書では、現在の戦争を理解するために世界の状況の変化につれて戦争がどう変わってきたのかを、近代以降にしぼって概観する。いわば近代の戦争史、あるいは戦争という出来事からみた世界近代史といえようか。戦争という行為の善悪をひとまず括弧に入れたうえで、その歴史的変遷を哲学的に検証している点に本書の特徴がある。

 戦争とは何だろうか。この一見素朴な問題提起による歴史的検証は実に奥の深いものであることが読み進むうちにわかってくる。現代の戦争を考えることは同時に主権国家のあり方や法の支配、個人の人権などについて考察することにもつながってくるからだ。

 近代の国民国家が成立して以後の戦争は主権国家同士の戦いとなった。これは重要な論点である。主権国家という以上、まず主権とは何かという問題は避けて通れない。西谷はその問題について以下のように論じている。

 ……では主権とは何なのか? 国内をみずからの課す法秩序に従わせ、その法を守らせるために死をもって罰することができる、そういう権力です。そして同時にその主権は外国に対して戦争を宣言し、その時には自国の兵士に、侵入や破壊や殺害を命じることができる。つまり、主権というのは、内に向けても外に向けても、「殺す」ことができる権力だということです。(p48)

 近代においては戦争の遂行を主権国家のみに認めた。それは全体としては戦争を抑止するシステムにもなった。いわゆるウェストファリア体制といわれるものである。

 主権国家間の戦争では当然ながら国民が戦場に駆り出される。そのことは政治の変化をも促すことになった。国民が生命を賭けて戦う以上は「当然そこに政治的発言権がついてくるように」なるからだ。国民軍による戦争が民主主義台頭のベースになったという西谷の逆説的な指摘は興味深い。

 こうした国家間の戦争は、二度にわたる世界大戦の経験を人類にもたらした。それは単に戦場の拡大ということのみを意味するわけではない。もっと大きくて深い変化である。

 ……「世界戦争」というのは、地理的に拡大しただけでなく、人間世界が丸ごと戦争に呑み込まれるようになる、そういう意味で「戦争が世界化する」と同時に「世界が戦争化する」ということでもあったのです。(p91)

 第二次世界大戦後には国際連合が創設される。しかしながら世界を二分する冷戦の時代という新たな局面を迎える。そこでは大国同士の大きな戦闘は避けられたが、局地的に代理戦争が戦われた。
 冷戦は旧ソ連の崩壊によって自由主義陣営が勝利したかのようにみえたが、その後にやってきたのは平和ではなく、さらなる混沌であった。先進国が「テロリズム」との戦争を行なう時代に入ったのである。いうまでもなくそれを主導したのは米国である。

 カール・シュミットは、主権者とは「例外状態について決定をくだす者」だとしたのだが、「テロとの戦争」宣言はアメリカの「世界の主権者」宣言といえる。もちろん「テロとの戦争」という表現じたいが、アメリカ主導の認識枠組みの典型である。その枠組みが戦争の概念そのものを変えてしまった。国家が対外的に暴力を行使することの制約が取り払われてしまった、と西谷はいう。

 ……「テロとの戦争」で決定的なのは、「殺してもよい人間」という新しいカテゴリーができてしまったことです。(p163)

 本来ならテロの首謀者や実行犯は司法の手続きをへたうえで有罪が確定したのちに処罰されるはずが、「戦争」となれば、そのような手続きなしにその場で「殺してもよい」ことになったのである。西谷はこれを否定的な意味をこめて「画期的なこと」と言明する。

 ……「テロとの戦争」という観念が作られ、それが現実化されて、全世界の主要国がそれを認めた時から、地上には存在を認められない人間、「非人間」という新しいカテゴリーができてしまった。アメリカの指導層が始めた「テロとの戦争」は、そのように根本から「文明」の倒錯に導くものなのです。(p166)

 本書を読むことによって、戦争という概念の変遷は同時に政治・経済から文明の問題にいたるまで基本的な理解の枠組み自体をも揺れ動かしているということが理解できる。その意味では戦争を知るとは人間社会そのものを知ることでもあるだろう。しかし戦争をしなくとも人間らしい社会を築くことは可能なはずである。
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by syunpo | 2017-05-05 19:35 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

他者との共存の作法を探る原理〜『プロテスタンティズム』

●深井智朗著『プロテスタンティズム 宗教改革から現代政治まで』/中央公論新社/2017年3月発行

b0072887_18213173.jpg 禁欲を旨とするプロテスタンティズムの倫理が資本主義の精神に適合していたという逆説はマックス・ウェーバーの有名なテーゼである。では資本主義の駆動を支えたとされるプロテスタンティズムの倫理とは具体的にどういうものかとあらためて問われて、きちんと答えられる日本人はそれほどいないのではないだろうか。そもそもプロテスタンティズムについて私たちはどれほどのことを知っているのだろうか。

 プロテスタンティズムと一口にいってもその言葉が包含する内容は今では広範で多岐にわたる。元来は「プロテスタント」とは「一五二一年から二九年までに開催された帝国議会で、神聖ローマ帝国の宗教問題の決定に『抗議』した帝国等族(帝国議会で投票権を持つ諸侯、帝国都市、高位聖職者)を指す議事録の言葉、あるいはそこから生まれた侮蔑的なあだ名」であった。それが一般にも普及していったのだが、ここでは「いわゆる宗教改革と呼ばれた一連の出来事、あるいは一五一七年のルターの行動によってはじまったとされる潮流が生み出した、その後のあらゆる歴史的影響力の総称」を指す。結果としてそれはナショナリズム、保守主義、ルベラリズム……などなど実に多様な相貌をもつことになった。本書はそのようなプロテスタンティズムについて初学者向けにわかりやすく概説したものである。

 宗教改革の前史から始まって、ルターがやろうとしたことを跡づけ、ルター以後に出てきたカルヴィニズムや洗礼主義を解説する。さらにドイツの歴史をサンプルに保守主義としてのプロテスタンティズムを論じ、リベラリズムを軸とするプロテスタンティズムの流れをたどる。……というのが本書のあらましである。

 いうまでもないことだが、プロテスタンティズムとは先に紹介したようにマルティン・ルターが創始した宗派というわけではない。ルターは一五一七年に「九五ヵ条の提題」を発表したが、それは議論のための一つの問題提起というほどのものだった。とくに彼が問題視したのは贖宥状の販売だった。贖宥状とは罪の償いが免除されるとして教会が発行した証書で、それが売り買いの対象になっていたのである。

 ルターが考えていたのは教会のリフォームであり、そのための討論を呼びかけた。その提題をただちに大衆が正確に理解し、社会に衝撃を与えたわけではないし、通常ある特定の神学のテクストが突然社会を揺るがすようなことはあり得ない。もちろん知識人のネットワークなどは刺激を受け、動きはじめるかもしれないが、影響はあくまで限定的であろう。(p44)

 しかし時とともにルターの行動の影響は大きくなっていった。もともと当時のヨーロッパは宗教的のみならず政治的にも経済的にも制度疲労をおこしていた時期にあたる。キリスト教が堕落していると考える人はほかにもいた。ルターの行動は、そのような改革の機運が芽生えていたところに「時代の転換のスイッチを押す機会」をとらえたものといえようか。それが宗教改革と呼ばれる一連の潮流を生み出すきっかけとなったのである。

 プロテスタントは当初カトリックとの戦いであったが、改革勢力同士の戦いもやがて始まる。改革を主張していた人々が政治勢力と結びついて安定した地位を得ると、よりラディカルな改革を求める人々との間に対立を生み出したのである。「改革の改革」を主張したものとしては、洗礼主義の運動やスピリチュアリスムスなどがあげられる。

 こうした「二つの二つのプロテスタンティズム」という認識については、深井は神学者エルンスト・トレルチを参照して念入りに紹介している。すなわち、宗教改革の時代のプロテスタンティズムを古プロテスタンティズムとし、そのあとに出てきた「改革の改革」者たちの活動を新プロテスタンティズムと呼んだのである。
 古プロテスタンティズムは、国家や一つの政治的支配制度の権力者による宗教市場の独占状態を前提しているのに対して、新プロテスタンティズムは宗教の自由化を前提としているのが大きな違いだという。

 ……新プロテスタンティズムの教会は、社会システムの改革者であり、世界にこれまでとは違った教会の制度だけでなく、社会の仕組みも持ち込むことになった。それは市場における自由な競争というセンスである。その意味では新プロテスタンティズムの人々は、宗教の市場を民営化、自由化した人々であった。(p117)

 興味深いのは、古プロテスタンティズムはその後、ドイツにおけるナショナリズムや保守主義と結びついていき、新プロテスタンティズムの方はアメリカ大陸においてリベラリズムとの親和性を高めていくことである。

 一八七一年のプロイセン主導によるドイツ統一の時代に入ると、ルター研究の復興がわきおこる。これは「決して純粋に神学的な関心によるものではなく、むしろ国策とそれに呼応した世論の興隆によるものであった」という。

 ……そこで政治的に再発見されたルターの宗教改革は、近代的なヨーロッパの起源であり、近代的自由の思想の出発点であり、ドイツ精神の源流とされたのである。これを「政治的ルター・ルネッサンス」と呼ぶことができるであろう。(p132)

 ルターの思想はナチスにも利用された。ルター派の方も「不遇なヴァイマール期をナチスが終わらせてくれるのではないかという期待を持った可能性がある」と指摘している。

 一方、アメリカ大陸にわたったピューリタンたちのプロテスタンティズムは、彼の地でリベラリズムの担い手となった。新プロテスタンティズムは、国家による宗教の統制に対し、個人の自由な信仰や決定を重視した。そうした彼らの言動は結果としてアメリカのリベラリズムを支える一つの勢力となったのである。

 ちなみに日本に到来したプロテスタンティズムは基本的には新プロテスタンティズムといえるものである。戦後の日本社会にもその影響は少なからず影を落としている。

 ……戦後の日本社会は、本書で見たような新プロテスタンティズムの深層構造を持ったアメリカ社会の影響を排除して成立する社会ではない。経済、政治、文化、学問、どれをとってもそれがよいか悪いかは別としてアメリカの大きな影響のもとにある。そうであるなら、異質で、無関係とも思えるプロテスタンティズムの歴史とその精神を知っていることは、この影響をより正確に理解するのに有用かもしれない。(p199)

 ルターの出来事に始まった、異なる宗派の並存状態やそれゆえに起こる対立や紛争のなかで、プロテスタンティズムは次の問題を考えざるを得なくなった。すなわち「どのようにすれば、異なった宗派や分裂してしまった宗教が争うことなく共存できるのかという問題」である。その問題と取り組んできたこと、これこそがプロテスタンティズムの歴史であるという。
 そうして深井は結論的に述べる。「プロテスタンティズムが現代の社会に対して貢献できることの一つは共存の作法の提示であろう」と。

 プロテスタンティズムの多面的な相貌を簡潔にまとめた本書は、初学者が読んでもわかりやすい記述になっている。その明快さは、著者自身もあとがきに述べているように大胆な簡略化のなせるわざであろうが、入門書とは概してそういうものであるだろう。洗礼主義といった聞き慣れない用語が出てきたりして、一部専門家からは批判らしきものも提起されているようだが、プロテスタンティズムの入門書として読んで損はない一冊だろうと思う。
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by syunpo | 2017-05-02 18:27 | 宗教 | Trackback | Comments(0)