ブックラバー宣言


コラムニスト・吉本俊二の書評ブログです。
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<   2017年 06月 ( 6 )   > この月の画像一覧


人と本との出合いを邪魔しない〜『本屋、はじめました』

●辻山良雄著『本屋、はじめました 新刊書店Title開業の記録』/苦楽堂/2017年1月発行

b0072887_18304329.jpg 二〇一六年一月、東京・荻窪で『Title』という名の本屋をはじめた辻山良雄の奮戦記ともいうべき本である。いや奮戦記という表現は誤解を与えるかもしれない。その語が発散する汗臭さのようなものは記述からはほとんど感じられないところが本書の美点なのだから。

 幼少期の本にまつわる原風景的な記憶から語りおこし、リブロ勤務時代の挿話、退社を決意して開店準備を並行的に進めた時期の裏話、開店後の仕事のあらましや店作りにおける考え方などが順を追って綴られていく。

 一般的に個人が古書店を始めるのはよくあることだが、新刊書の書店を開くのは珍しいようだ。商品を仕入れるためには取次を利用するのが一般的で、書店が取次と口座を開く際には、最初に仕入れる商品の金額とは別に「信任金」を預けなければならず、初期費用が莫大にかかるのが個人で開業する場合に足かせになるらしい。辻山はリブロ時代の人脈を活かして、大手取次の日販と契約を交わすことができた。事前に詳細な事業計画書を作っていたことなども奏功したのではないかと辻山は振り返っている。

 辻山の本屋に関する考え方はとてもおもしろい。一時、どこの本屋に行っても同じような本が並んでいるということが「金太郎飴書店」といわれ、本屋が面白くなくなったことを指す代名詞のように使われた。しかしそれに対抗するように店主が厳選した品ぞろえをする「セレクト書店」というものにも抵抗があったのだという。

 ……自分も客として、さまざまな「セレクト書店」に足を運びましたが、特に最近ではその品ぞろえが似てくる傾向にあり、新しい店なのだけれど既視感が強い店が増えてきたようにも思います。(p95)

 セレクト書店もまた陳腐化してきたということなのだろうか。そこで辻山が目指す店作りは「現在世の中で売れているベストセラーを混ぜながらも、ある価値観で統一された品ぞろえを核としていくということを基本としました」。

 本の売り方についての辻山の姿勢にはもっと深く共感できるものがある。Titleでは販促用のPOPを置いていない。それにははっきりとした理由がある。

 ……店頭に並んでいる本を選び、気に入ればそれを購入するのはお客さまなので、本屋にできることは、なるべくお客さまと本との出合いがスムーズにいくように、邪魔をしないということです。(p150)

 また他業種の店舗にブックセレクションする仕事について語っている箇所で、本というモノの価値にあらためて思いをいたしているくだりもじつに印象深い。「通常本を置いていない店にとって、本というのはそれ一冊で、店の哲学を表してくれるような、店のアイデンティティに深くかかわるような商材」だというのだ。

 不特定多数の〈みんな〉のための店では、結局誰のための店でもなくなってしまう。これからの町の本屋は、町にあるからこそその個性が問われるという。そのためには、店を構えている土地の文化とも何らかの交わりがなくてはならないだろう。
 本書では巻末に細かな事業計画書や初年度の営業成績表も添付されている。これから書店を始めようと考えている読者を意識したコンテンツであるが、同時に全体としては誰が読んでもおもしろい記述内容になっている。この絶妙の匙加減こそは、まさにTitleの店作りとも重なりあうものではないか。

 ところで今はどんな本が売れているのだろうか。「切実な本」というのが辻山の答えである。

 マーケティングから売れる本の何が良くないかと言えば、必ず違う似たような本に取って変わられるからです。言ってみれば「替えがきく」という事なので。本は、元は一冊一冊が「替えがきかない」はず。替えがきかない「切実な本」にこそ、人の興味はあると思います。(p183)

 このような認識は、おそらく文化的な商材全般にあてはまりそうな気もする。本を映画や音楽に置き換えても言えることではないだろうか。いずれにせよ、地域で顔の見える客と常に対面している人だからこそ書きえた、という意味では、本書もまた「替えがきかない」本といえるかもしれない。
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by syunpo | 2017-06-26 18:38 | 文化全般 | Trackback | Comments(0)

言語の大洋へ漕ぎ出そう〜『俳句いきなり入門』

●千野帽子著『俳句いきなり入門』/NHK出版/2012年7月発行

b0072887_20384428.jpg 日曜文筆家を自称する千野帽子の俳句入門書である。冒頭の一文が千野の俳句観を明快に言い表しているように思われる。

 俳句では作者以上に読者の仕事が大きくて、自分の俳句を作ることよりも句会で他人の俳句を読むことのほうが俳句を支えている。(p20)

 同じようなことをかつて寺山修司も語っていたと記憶する。演劇は完成させちゃいけない、半分は観客の想像力によって補ってもらうのだ、と。そこに共通するのは作者の主体性や万能を相対化する姿勢ではないだろうか。

「俳句とはこういうものである」という錯覚のない者だけが、「自分」という矮小な村を出て言語の大洋に漕ぎ出していくことができるのだ。(p63)

 自分なんて全員同じだが、言葉は無限だ、というフレーズをここに付け足してもいいだろう。そのような安っぽい自分語りを徹底的に自粛しようという態度は本書において一貫している。対話の場に言葉を開いていくこと。言葉の豊かさのなかに漕ぎ出していくという悦楽。俳句に関する技術的なアドバイスもその悦楽を体験するための方策にほかならない。

 ところで、千野は作句における四つの段階を示している。
 第一段階は「自己表現期」である。「こういう内容を言いあらわそう」と考えて言葉を捜す段階。意味がわかりすぎて、「で?」というしかない俳句ができあがる。第二段階は「自動筆記期」。意味不明の自動筆記のような句ができる。第三段階は「前衛俳句期」で、意味不明だが読者たちが想像でいろいろと補える句ができる。最後の第四段階が「伝統俳句期」で、読者たちが想像でいろいろと補って、単一のもしくは複数の意味に回帰する句ができる。千野の考えでは、第三段階以降であれば「堂々と『俳句です』と名乗っていいと思う」ということらしい。

 作句上のアドバイスとしてはタイトルに「入門」をうたっているだけあって、かなり具体的である。
 初めての歳時記は合本を買うこと。季語の説明はしない。季語以外のフレーズをストックしておく。文語俳句を作るときは旧仮名遣いが有利。……などなど実践的な助言が多く、実際に俳句を作る人にはたぶん参考になることだろう。

 いずれにせよ、本書に示された俳句観はその後に書かれた『人はなぜ物語を求めるのか』にもつながっている。俳句を作れば私の人生や思いを他人に承認してもらえる、という考えをまずは放棄すること。
 何者でもない俺らは、「作者(=私)の人生」なしで届く句を作ろうぜ。千野はそのように俳句の世界へといざなうのである。
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by syunpo | 2017-06-24 20:40 | 文学(詩・詩論) | Trackback | Comments(0)

人類は二度滅びる!?〜『カタストロフ・マニア』

●島田雅彦著『カタストロフ・マニア』/新潮社/2017年5月発行

b0072887_21365759.jpg 太陽のしゃっくり。コロナ質量放出が起きて、地球表面を覆った電力網、電波網は巨大な磁気嵐によって完全に破壊される。コンピュータ制御された都市インフラは壊滅し日常生活を支える機能はすべて停止してしまう。原発はメルトダウンし放射性物質が大気にばらまかれる。

 それだけではない。島田雅彦はカタストロフをより大掛かりなものにするために、そこにパンデミックを招きよせる。何者かが合成ウイルスによって感染症を大流行させたのだ。大混乱のなか、為政者や大企業経営者たちは当然に生き延びる人間たちを選ぶ。政治とテクノロジーの結託がカタストロフをさらに推し進める。本作において人類は二度滅びるのである。

 カタストロフ後の世界をいかに生き延びていくか。主人公・シマダミロクのサバイバル作戦を軸に物語は展開していく。

 ゲームをする以外に時間を持て余していたミロクはある製薬会社の治験モニターとして臨時的に雇われ「免疫力を著しく高める薬」を投与される。二十四時間の「冬眠」生活から覚めた時、病院はもぬけの殻になっていた。眠っているあいだに世界はカタストロフの局面に突入していたのだ。かくしてミロクは暗中模索のうちに期せずしてサバイバル作戦を開始することになる──。

 商店や民家に残された食糧や生活物資が略奪され底をつくと、あとは自然界から採集してくるか自力で生産していくか。人々は近代以前の人類史をたどるようにして生活を再建していくほかない。そのような原始的な状況下で、無政府状態から小集団が形成され、人々が協同していく様はレベッカ・ソルニットのいう「災害ユートピア」を想起させるものがある。

 ……古代のムラのような集落を作り、小集団で分業をしながら、暮らすのが現時点では最も現実的です。もう一度、古代の暮らしに戻るのは大変ですが、産業文明とそれに続く情報文明に馴らされ、すっかり退化してしまった生存本能と能力を取り戻すしかありません。人類はリハビリテーションの時代に入ったのです。(p131)

 パンデミックをめぐる錯綜した状況は、やがてある特定の権力集団の存在への対抗という形で収斂されていくかにみえるが、むろん簡単には「敵」の姿を見定めることはできない。

 ミロクは病院で出会った看護師・国枝すずの存在に惹かれるものを感じて、彼女への執着心をよすがに生きていこうとしている。高校生の天才ハッカー菊千代や元週刊誌記者のモロボシダンなどとの遭遇もあり、ミロクは彼らにも影響される。
 ネットは遮断されたままだが、ラジオや無線通信での情報伝達は可能というアイロニカルな状況設定は島田の諷刺精神の面目躍如といったところか。短波放送から聞こえてくるエオマイアの声もまたミロクの心を癒し、少なからぬ示唆を与えてくれる。

 生物学や先史考古学、脳科学など先端科学の知見を動員して紡ぎ出される物語は、時に昨今流行のディストピア小説の作りと被るところがある。また最終盤の展開がややありきたりの印象なきにしもあらずだが、全体的には島田らしいスパイスのきいた筆致でおもしろく読むことができた。

 政治の無力に触れている点では本作は〈ポスト3・11小説〉の一つといえるが、政治の陰謀や悪意に言及しているという点を重視するなら〈プレ共謀罪国家小説〉と呼べるかもしれない。
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by syunpo | 2017-06-18 21:40 | 文学(小説・随筆) | Trackback | Comments(0)

人間を救い、同時に苦しめるもの〜『人はなぜ物語を求めるのか』

●千野帽子著『人はなぜ物語を求めるのか』/筑摩書房/2017年3月発行

b0072887_19424445.jpg 人はなぜ物語を求めるのか。そのような素朴な問いから出発して、あれこれと思索の道を進み行き、本を閉じる頃には、どこか遠く高い見晴らしの良いところまで連れてこられたような気がする。いきなり結論めいたことを言うのも気が引けるが、そんな読後感をもたらしてくれる好著だ。

 物語とは人間の認知に組みこまれたひとつのフォーマットである。それは人間や人間社会の成り立ちを基礎づける認知形式ではないか。千野帽子はそのように問いかけ、様々な学問的領域から知見を借りて考察を進めていく。

 まず「私」と物語との関係はどのように考えられるだろうか。
 認知神経科学においては、自己とは全人格のなかの一部にすぎず、そのありかたは状況に応じて刻々と変化しつづけていると考える。「私」とは、瞬間ごとに意味の違う「私」をバラバラ漫画のようにつなげたもので、一貫した実体であるかのように物語ることによって生じる、と考えるわけだ。

「自己」概念は物語的に構成されている──。そのような認識は哲学においても展開されてきた。ポール・リクールはそのものズバリ〈物語アイデンティティ〉なる概念を打ち出している。

 物語はもちろんそれだけでなく人間が他者や社会のあり方を理解しようとするときにも重宝される。言われてみればこれは誰しも経験的に理解できることかもしれない。

 一般的に、ストーリーは「物語」の形で表現・伝達されるが、ストーリーの筋において「できごと」が起こると、世界がある状態から別の状態へと遷移する。また、できごとは「報告する価値があるもの」として認識され、報告価値は内容だけでなく受信者の状況によっても決まる。

 人はそのようにして他者や社会との関わりで生じるできごとを理解しようとし、他者との関係を維持しようとする。そのことが私たちに一定の安心感をもたらすことは間違いない。物語が他者との相互の共感をもたらし、そのことによって社会の協同もスムーズにいくことだろう。

 人は世界を理解しようとするときに、ストーリー形式に依存してしまう。そして法に代表される社会制度もまた、その形式を採用せざるをえない。こういった人間学的傾向を人はふだんほとんど自覚しません。(p138)

 しかしその一方で、陥穽もある。たとえばできごとの前後関係をしばしば因果関係だと勘違いすることはよくあることである。ヒュームが指摘したように、人間は時間のなかで前後関係にあるふたつのことがらを、因果関係で結びつけたがる習性をもっている。「前後即因果の誤謬」と呼ばれるものだ。ロラン・バルトは、この前後即因果の誤謬をいわば体系的に濫用するのが「物語」と述べた。

 以上のような意味では、世の中のできごと理解するということは知性の問題という以上に感情的なことといえるかもしれない。さらにいえば「わかった気になる」と「わかる」とのあいだには本質的な線引きが出来ないということにもなるだろう。

 人間は世界を物語の形式で把握し、新たな平衡状態に向けての事態進展・収束の弾道をシミュレーションする作業を、無自覚なままおこなっている。人生に期待するということの大部分はこの弾道予測への期待である。逆にいうと、失望とはこの無自覚な妄想的シミュレーションから生み出される感情にほかならない。

 僕がかつて人生に期待し、たびたびがっかりしていたとき、「人生に期待することをやめる」という選択肢が存在することを知りませんでした。物語論を研究していて、教えられたことのひとつは、「人生に期待することをやめる」という選択肢が存在する、ということです。(p107)

 個人史としての物語を考える時、子ども時代に作り上げた一般論の集合体(世界観)はしばしば偏っていて、そこから生まれるストーリーは成長後の人を苦しめることがある。

 世界でひとつだけ選択可能なものは、できごとにたいする自分の態度である、と千野はいう。人は物語から完全に逃れることはできかもしれないが、それを相対視することは可能だということでもある。

 さらにまた人は不本意なできごとの原因を探し、その存在に報いを与えたがる心性がある。そのような義務や道徳を支える「べき論」もまた意外と感情的なものといえる。
「べき論」によって人は、世界や他者を操作できると思いこんでしまう。世界は公正であるべきだという考え(公正世界の誤謬)に無自覚だと、被害者を責めたり自責したりすることにもなるだろう。

 つまりまとめあげていえば、物語は人を救うこともできるが、逆に人を苦しめ原因ともなる。人間にとってはまさに両義的なものといえる。

 物語のもつ、そのような権能や副作用について、哲学や宗教、認知科学や人類学、生物学などあらゆる分野から知見を参照しながら考察する本書は、物語論としての奥深さを示してあまりある。
 時に心理学などの実験データを参照したアプローチのしかたは実験社会科学を標榜する亀田達也の『モラルの起源』に重なり合うかもしれない。また物語の発展的な解体へと誘う哲学的な姿勢は千葉雅也『勉強の哲学』とも共振するものだろう。知的刺激にみちた本である。
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by syunpo | 2017-06-14 19:50 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

選挙権に免許は必要か!?〜『ブラック・デモクラシー』

●藤井聡編『ブラック・デモクラシー 民主主義の罠』/晶文社/2015年11月発行

b0072887_19383774.jpg 橋下徹と大阪維新の会を題材に民主政治のあり方を考えるという趣旨の本である。デモクラシーはつねに独裁政治へと転落する可能性をはらんでいるが、そのような悪しき民主政の状態を本書では「ブラック・デモクラシー」と呼び、それを避けるための方策を模索していく。藤井聡、適菜収、中野剛志、薬師院仁志の論考のほか、湯浅誠+中野剛志の対談が収録されている。

 おしなべて粗っぽい議論が展開されているなかで、末尾に収められている薬師院仁志の〈ブラック・デモクラシーと一筋の光明〉はそれなりに面白く読んだ。ここではその論考について触れておきたい。

 薬師院は、呉智英が提唱する「選挙権免許制度」について言及している。呉は、危険物の取り扱いや自動車の運転に免許が必要であるならば「使い方を誤って最も危険なのは権力」である以上、「こんな極限の危険物の運転に免許がなくていいはずはない」と主張しているのだ。「公正な試験による免許制度だけが、公平で合理的な権力暴走抑制装置だ」。

 もっとも呉の提案はとくに目新しい着想というわけでもないらしい。J・S・ミルも同じような趣旨のことを著作に書き残している。「民衆世論における知性の度が低いこと」を「代議制民主政治に付随する危険」だと言明したのである。そこで彼は登録のために出頭したすべての人に簡単な読み書きや演算の試験の必要性を唱えた。

 そもそも間接民主主義はルソー的にいえば「選挙による貴族政」である。ミルはそれを「代議制民主主義」と言い換えたが内実は同じものだと薬師院はいう。貴族=賢明な人々による統治を目指す以上は、投票者の「知性の度」を確保すべきだという発想はむしろ自然ともいえる。

 しかし考えてみれば、薬師院がいうようにこれはもう少し複雑な問題であろう。そもそも民衆世論というものは自然発生的に生じるという以上に、人為的に形成される面も否定できない。選挙権の資格試験を平然とパスするような高度な「知性」の持ち主たちこそが、ブラック・デモクラシーの使徒となって民衆を誘導する仕事に勤しむのが通例だからだ。

 薬師院は選挙権免許制度に対しては「知識を持つ者に見識や判断力がある保証はない」という表現で斥けてはいるものの、その提案の背後にある衆愚政治的な現象に対しては呉やミルと同様の問題意識を共有しているように思われる。それは直接民主主義のツールとも考えられる住民投票への懐疑的態度にもあらわれている。

 大阪維新の会をはじめとするポピュリズム政党は一般的に住民投票という手法を好む傾向にある。歴史的にみても「住民投票や国民投票による直接表決には、政治を担うエリート層への批判という側面があった」。
 今日の欧州諸国では、住民投票に対する賛否が、民主主義が抱えるジレンマとして理解されることが多い。すなわち「人民による政治」と「人民のための政治」が、実際には両立しないという板挟み状態である。

 そこで薬師院は次のように述べている。

 ……はっきり言ってしまえば、経験的事実に照らす限り、「人民のための政治」を実現して来たのは、「人民による政治」ではなく、むしろエリート主義に立つ代議制民主政治なのである。(p217)

 ……直接投票による表決は、今日の日本で想像されているほど“民主的”な手法ではないのである。極端な話、択一式の多数派争いに負けた側にとって、その表決は、絶対君主による一方的な命令と同じことなのだ。そこには、勝敗しかない。だが、ケルゼンが指摘する通り、「対立する集団の利害を調整して妥協させることができなければ、民主制は成立しえない」のである。(p218)


 対立する集団の利害を調整するためには、議論や熟議が重要になってくることはいうまでもない。本書に収録されている対談のなかで湯浅誠が強調している「面倒くさい民主主義」というのもそういう意味を含む。

 たしかに「民衆世論における知性の度が低いこと」は「代議制民主政治に付随する危険」かもしれない。ゆえに「国民の知識水準の向上を図ることは、国家にとって必須の課題であるに違いない」と薬師院も言う。だが重要なのはその認識をもとに、私たちはどのように振る舞うべきかということだ。

 ……正しい情報や知識の普及を軽視するような社会で民主政治が発展するわけはないだろう。ならば、「民衆世論における知性の度が低いこと」を非難する前に、しなければならないことがある。言うまでもなく、正しい情報や知識を、広く的確に伝えることだ。(p224)

 むろん民主政治に先立って国民全体への啓蒙が必要だという構想には限界があるだろう。熟議民主主義を提唱する研究者ならば、ここで「民主主義が民主主義を鍛えるのだ」と言うのかもしれない。議論をつうじて国民が学び主権者として鍛えられていくというビジョンである。

 その点、薬師院のまとめ方はいささか凡庸で尻すぼみの印象は拭えないし、主権者を方向づけるエリートの立場を重視するような議論にも異論はありうるだろう。が、それもこれも自身の態度表明と理解すべきなのかもしれない。いずれにせよ、政治混迷の今の時期に誰もが目を輝かせるような処方箋があるくらいなら何の苦労もない。代議制民主主義の意義を再検討する一つの契機として薬師院の論考は示唆的な一文ではないだろうか。
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by syunpo | 2017-06-05 19:45 | 政治 | Trackback | Comments(0)

〈慣習の支配〉から〈議論による統治〉へ〜『日本の近代とは何であったか』

●三谷太一郎著『日本の近代とは何であったか ──問題史的考察』/岩波書店/2017年3月発行

b0072887_18542080.jpg 日本の近代とはいかなる経験であったのか。その大きな問題を考えるにあたって本書がまず参照するのは、ウォルター・バジョットである。バジョットはヨーロッパの近代を「慣習の支配」から「議論による統治」への移行とみなした。その変革要因として「貿易」と「植民地化」を挙げている。もっとも前近代から近代への移行には断絶があるわけではなく、前近代においても古代ギリシャや中世イタリアなどを見ればわかるように「議論による統治」の萌芽はみられたという立場をとる。

 この「慣習の支配」から「議論による統治」への移行という近代化の観念は、福沢諭吉を初めとする当時の日本の先進的知識人にも非常に大きな影響を与えました。そして実際に「慣習の支配」から「議論による統治」への歴史的な移行に相当する状況の変化が、当時の「立憲主義」に相当する体制原理の危機の進行に伴って、幕末日本においても見られたのです。(p63)

 三谷はそうした認識を提示したうえで、日本の近代化を「政党政治の成立」「資本主義の形成」「植民地帝国の形成」の過程に注目して考察する。さらに日本独自の君主制としての「天皇制」についても一章を設けている。このような検証をとおして現在の日本が置かれている歴史的位置を見定めようというのが本書の趣旨である。

 まず第一に日本における政党政治とはいかなるものであったのか。
 一見集権的とされた天皇主権の背後には、実際には分権的・多元的な国家の諸機関の相互的抑制均衡のメカニズムが作動していた。したがって、明治憲法に規定されていたような比較的厳格な権力分立制は、立法と行政との両機能を連結する政党内閣を本来排除する志向をもっていた、という。
 逆にいえば、体制を全体として統合する機能をもつ、憲法に書かれていない何らかの非制度的な主体というものが必要とされるだろう。

 そうした主体の役割を担ったものとして、まず登場したのが「藩閥」である。薩長出身者を中心とする藩閥の代表的なリーダーたちが事実上天皇を代行する元老集団を形成した。しかしそれでも衆議院を掌握することはできなかった。衆議院を支配したのは「政党」であった。藩閥と政党はそれぞれの限界を打破するために相互接近が試みられた。そういうなかから複数政党制が出現した、というのが三谷の見方である。

 ただし日本の政党政治は短命に終わった。大正末期から政党政治が本格的に作動し始めたものの、軍部の台頭などによって、その権威は揺るがされていったのである。それにかわる現象が「立憲的独裁」(蝋山政道)であった。

 国民国家の形成を目的として始まった日本の近代は、自立的資本主義の形成をその不可欠の手段とした。日本の近代化を方向づけ、それに沿う資本主義の発展を正当化する有力な論拠とされた学説は、ハーバート・スペンサーの社会学説である。スペンサーは「軍事型社会」から「産業型社会」へという発展段階の図式を示したことで知られる。

 ただ本書の分析でおもしろいのは、権力による近代化=資本主義の形成の心理的促進要因として「恥」の意識を挙げている点だ。内外の笑いものにならないように腐心する、その意識が文明開化を促し、ひいては資本主義を進展させていったというわけである。

 日本が不平等条約を脱し、資本主義の形態が「自立的資本主義」から「国際的資本主義」へと転化した段階で、植民地を有する植民地帝国の構築を目的とする戦略を採用するにいたる。
 その際、より大きなコストを要する軍事力への依存度の高い「公式帝国」の道を歩んだのは何故か。三谷は「先進の植民地帝国に伍する実質的意味の国際社会のメンバーではなかったこと」「日本の植民地帝国構想が経済的利益関心よりも軍事的安全保障関心から発した」ことの二点を指摘する。

 その後、日本の植民地政策は最終的には帝国主義に代わる国際イデオロギーとしての「地域主義」に移っていく。それは「太平洋における地方的平和機構」のようなスローガンに象徴されるものである。しかし現実には「日本の対外膨張によってつくり出された既成事実を追認し、正当化するイデオロギー」としての役割を担ったものであることはいうまでもない。

 日本の近代化には機能主義的な思考様式が推進力としてはたらいた。そこでは、宗教もまた基本的な社会機能としてとらえられる。ヨーロッパではキリスト教がその役目を果たしたのだが、日本ではどうか。キリスト教の機能的等価物として考えられたのが「天皇制」である。

 ただし明治憲法に定める天皇の地位と教育勅語における天皇とは齟齬をきたしている。その問題を意識していた井上毅らの苦肉の策を概説したうえで、三谷は次のように述べている。

 しかし井上毅の苦慮の奇策にもかかわらず、憲法と教育勅語との矛盾、すなわち立憲君主としての天皇と道徳の立法者としての天皇との矛盾は消えることはありませんでした。そしてその矛盾と不可分の「政体」と「国体」との相剋は、日本の近代の恒常的な不安定要因でした。(p241)

 相互矛盾の関係にある両者のうちで、一般国民に対して圧倒的影響力をもったのは憲法ではなく教育勅語であった。すなわち「立憲君主としての天皇ではなく、道徳の立法者としての天皇」が国民の上に屹立したのである。

 以上のように日本近代を振り返った三谷はまとめとして次のように述べている。

 日本の近代は一面では極めて高い目的合理性をもっていましたが、他面では同じく極めて強い自己目的化したフィクションに基づく非合理性をもっていました。過去の戦争などにおいては、両者が直接に結びつく場合もありました。今日でも政治状況の変化によっては、そのような日本近代の歴史的先例が繰り返されないとは限りません。疑似宗教的な非合理性が儀式と神話を伴って再生し、それに奉仕する高度に技術的な合理性が相伴う可能性は残されています。(p251~252)

 そのうえで三谷はワシントン体制を振り返りながら、その重要な遺産を憲法第九条に遺していることの意味を考えるべきだと締めくっている。いささか硬い読み味ながら、日本の近代化を考えるには有益な一冊といえるだろう。
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by syunpo | 2017-06-01 19:00 | 歴史 | Trackback | Comments(0)