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ナチス占領下で作られた詩集の本邦初訳〜『世界』

●チェスワフ・ミウォシュ著『世界 ポエマ・ナイヴネ』(つかだみちこ、石原耒訳)/港の人/2015年9月発行

b0072887_21381138.jpg ポーランドの詩人、チェスワフ・ミウォシュの詩集。たいした予備知識もなく一読したかぎりでは、この詩集がナチス占領下のワルシャワで発行されたことを感じとるのはむずかしいかもしれない。

「そこは緑したたる谷間/道はなかば草におおわれ/花をつけはじめた楢の木立ちをぬけて/学校帰りの子供たちが家路をたどる」(〈道〉より)

 もっぱら穏やかな自然だとか家族との思い出だとかがうたわれているので、牧歌的な雰囲気すら感受したとしても不自然ではないだろう。
『世界』の要点はなにか──これは、世界はいかにあるべきか、という問題をめぐる詩なのです、とミウォシュ本人は語っていたらしい。

 とはいえ時代の暗黒面をまったく感じさせないかといえば、そうでもない。ところどころに戦争の暗い影が表現されていることもたしかである。

「開かれたままの本 一匹の蛾がふるえながら/砂煙をまきあげて疾駆する戦車の上を舞う/触れたとたん 金色の粉をまき散らし/市街を席巻するギリシャ軍の上に落ちる」(〈絵〉より)

 全体をとおして平易な言葉遣いではあるが、なかには私には理解しづらい詩篇もいくつかあった。信仰にまつわるような作品群だ。

「信仰は 水に浮かぶ木の葉や/露のひとしずくを目にして それが/そうあるべくしてあるのだと悟ること……」(〈信仰〉より)

 巻末に解説を寄せている小山哲によれば、それらの詩篇は「聖トマス(トマス・アクィナス)の存在論を詩的なことばで語った注釈として読むこともできます」という。

 何はともあれ、ナチス占領下の苦難にみちた時空間で紡ぎ出された言葉たちが、時を経てわれわれの言葉に紡ぎ直され、とどけられたのだ。この奇蹟のような遭遇こそは文学に触れることの一つの驚きであり歓びであるというのは陳腐にすぎる感懐だろうか。
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by syunpo | 2017-08-10 21:40 | 文学(翻訳) | Trackback | Comments(0)

翻訳者とは幽霊のようなもの!?〜『8歳から80歳までの世界文学入門』

●沼野充義編著『8歳から80歳までの世界文学入門 対話で学ぶ〈世界文学〉連続講義4』/光文社/2016年8月発行

b0072887_844764.jpg ロシア・ポーランド文学の研究者として知られる沼野充義がホスト役をつとめる「対話で学ぶ〈世界文学〉連続講義」シリーズの第四弾。『世界は文学でできている』『やっぱり世界は文学でできている』『それでも世界は文学でできている』につづくものである。

 今回のゲストは、池澤夏樹、小川洋子、青山南、岸本佐知子、マイケル・エメリックの五人。
 私にはいささか退屈な対話がつづいたなかで、最後に収められているマイケル・エメリックの発言がもっとも面白く感じられた。エメリックは日本の現代文学の翻訳や源氏物語の研究で知られるジャパノロジストである。

「翻訳者というのは二つの世界に属しながら、どちらにも完全には属していない幽霊のようなもの」とエメリックは考える。それは「異文化間の架け橋」というありふれた認識を斥けるものである。翻訳者=幽霊説には大いに惹かれるところがあるのだが、沼野はあくまでも「足がついていないとちょっと困る」という自説に拘泥してしまって、それ以上議論を深めることなく別の話題にうつってしまったのはちと残念。

 マイケル・エメリックには日本語の著作は少ないようだが、彼の存在に関心をもつ契機を与えてくれただけでも本書を手にとった甲斐があったというべきだろう。
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by syunpo | 2017-08-05 08:45 | 文学(小説・随筆) | Trackback | Comments(0)

したたかでいい加減な存在〜『生きているとはどういうことか』

●池田清彦著『生きているとはどういうことか』/筑摩書房/2013年12月発行

b0072887_18275590.jpg あるものが生物か無生物か、私たちは直感的にわかる。ところが「生物とは何か」と問われてすぐに答えられる人はあまりいない。生物には物理化学法則とは別の「生きもののルール」があるからだ。それはどういうものなのか。本書はその問いに、生物の起源、発生、進化、免疫、性、老化と死といった生命現象から答えようとする。

 生きているとはどういうことか。「生まれてから死ぬまで自己同一性を保ちながら、外部からの指令がなくても勝手に成長して死んでいく、それが『生きている』ことの本質である」と池田はいう。「そういった内と外を分ける『空間』を、われわれは『生物』と呼んでいるのである」。(p45)

 この一連の生命現象を説明するうえで、池田は「動的平衡」をキーワードとして使っているのだが、これは福岡伸一がルドルフ・シェーンハイマーの「生命の動的状態」という概念を拡張して提唱したもの。一般書とはいえ、ここは福岡の名を明記しておくのが仁義というものではないか。

 それはともかく、性と死との関係を述べているくだりが私には最も印象的だった。生殖細胞は不死性を受け継いで、個体が死んでも細胞を残す。新しい個体(システム)をつくれば、自分は死んでもかまわない。これが生物のあり方なのである。

 ……死ぬ能力のおかげで、われわれは多細胞生物になることができ、複雑なシステムを手に入れたのだ。(p146)

 このような認識は私のような生物学の素人には新鮮に響く。哲学者が生や死の問題を論じるときに生物学の知見を引用することは珍しくないが、観念論としてでなく唯物論的に生死の問題を考える態度は大いなる説得力をもたらす。

 生命をもたない物体は初期条件さえ決まれば、決定論にしたがって未来の状態も決まる。しかし、生命は同じ条件からスタートしても行き着く未来は厳密に決定されない、という。そこでは偶然が大きく支配している。

「枠だけが決まっていて、その中では比較的自由度があるのが生命の特徴」である。その意味では本書においては、生きものとはものすごくしたたかで案外いい加減であるという基本認識が貫かれている。肩肘張って生きている読者には絶妙のメッセージがこめられているというべきかもしれない。
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by syunpo | 2017-08-03 18:31 | 生物学 | Trackback | Comments(0)