ブックラバー宣言


コラムニスト・吉本俊二の書評ブログです。
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弱者の立場に居直ること〜『老いる準備』

●上野千鶴子著『老いる準備 介護すること されること』/学陽書房/2005年2月発行

b0072887_1319142.jpg 本書の底流を貫く考え方は、チマタにあふれる「高齢者はできるだけ社会のお荷物にならないよう健康体を保とう」という「みのもんた的」言説と、何かといえば「家族の絆」を訴えて「明るく楽しいマイホーム」づくりに誘導してやまない「広告代理店的」言説による社会の同調圧力に対する毅然とした否定である。

 人は呆けたくて呆けるわけではない。どんなに頑張っても、呆けることもあるし、足腰が立たなくなることもある。若々しさへの飽くなき信仰は、その裏返しとして、心ならずも若さや精気を失った高齢者の「生き難さ」へとつながる。
 また、介護保険制度がスタートせんとする時、水を差した亀井静香の「家族は家族が看る日本の美風」発言とは何だったのか。ここでの「看る家族」とは、もっぱら「長男の嫁」を指すことくらい日本人なら誰でも知っている。女性を家庭に縛りつけ、介護という名のタダ働きを強要してきたのが、これまでの日本社会ではなかったか。

 そこで、上野千鶴子は主張する。
 知恵があろうとなかろうと、自力での生活が可能だろうと無理だろうと、人はどのような状態になっても、誰に憚ることなく生きる権利を謳歌していいのだ、と。
 そして、高齢社会では家族介護だけではとうてい乗り切ることはできない、介護の社会化が必須なのだ、と。

 著者は介護保険制度をとりあえず評価して以下のように述べている。
 
 介護保険が税方式ではなくて保険方式になってよかったという理由のひとつは、介護保険が、それまでの高齢者福祉を、措置から契約へ、恩恵から権利へと変えたことである。福祉行政をめぐるこのパラダイム転換の意義は大きい。(p112)

 これまでタダで行なわれてきた家族介護が社会化されることで、長男の嫁は介護の責任から少しだけ解放され、介護される側は嫁への負い目を回避して堂々と対価を支払って介護サービスを受けられるようになった。
 サービスが有償であることは非常に重要なことである、という。
 
 本書では、介護する側・される側の両面から、よりよい介護とは何かが追究される。
 介護サービスの担い手として、「官」「民」「協」の三つが考えられる。結論だけを言えば、「官」は非効率で、「民」は利潤を最優先するために利用者にとって最善のサービスが必ずしも保証されない。そこで期待を寄せるのが「協」すなわち市民事業体である。

 市民事業体とは、営利を目的としないで、市民が地域のケアサービスの担い手になる活動である。いずれは自分たちも需要サイドにまわることを前提に、その時に自分自身が受けたいと思うようなサービスを供給する。(p143)

 具体的には、生活共同組合傘下の「ワーカーズ・コレクティブ」の活動に、ひとつの希望を見いだしている。そこでは、自身の介護に悔いを持つ主婦たちが集まって、自分たちが苦労したことを基礎に、あくまで利用者のニーズにあったサービスが模索されている。
 もちろん、そうした活動にも冷ややかな視線が注がれることもあるだろう。単なる自己満足ではないのか、と。

 人間が自分が生きてる間に、誰かに必要とされたいと思うのは、不純どころじゃない、人間にとって自然な動機だとわたしは思う。誰かに必要とされて、赤の他人にでもいい、ありがとうと言われて、ああわたしはここに生きててよかったと思える、それを自己満足と呼ぶ。それでいいと思う。(p231)

 上野千鶴子の考え方は、みずからも白状するように「団塊の世代」のライフスタイルや指向を色濃く映し出している。家族や社会よりも自分が大事。老後のケアをあまり子供に期待しない。仕事一筋の高度成長世代とは違って「遊び」にも罪悪感を持たない……などなど。
 彼女の徹底した家族(制度)への不信感には、少したじろがないでもないが、その幅広い知見からくり出される切れ味鋭い提言に、賛成する者も反発する者も、少なからぬ知的刺激を得ることだけは間違いない。

 ちなみに、本書でも「ジェンダー」という言葉が、何度か登場する。昨今、自民党の政治家など保守オヤジによって繰り広げられている「ジェンダー」論議が、いかに問題の本質を矮小化した愚劣なものかは、本書を読む者なら喝破できるだろう。
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# by syunpo | 2006-04-11 13:24 | 社会学 | Trackback(2) | Comments(6)

『インターネットは誰がコントロールすべきか』

●イグナシオ・ラモネ『インターネットは誰がコントロールすべきか』(北浦春香訳)/ル・モンド・ディプロマティーク日本語電子版/2005年11月号

b0072887_1013647.jpg イラクへの侵攻も、WBCと称する野球の「国際大会」の開催も、国際機関などヘノカッパとばかりに、米国一国が取り仕切って盛大に行なわれた。その結果は、綻びだらけの無残なものだった。米国の思い上がった一極主義への非難が全世界で高まりつつある昨今、今一つ米国の「独占」体制が、問題になっている。
 インターネットだ。
 一九八九年以降、世界のネットワークの運営にあたっているのは、米国にある民間非営利法人のICANN(The Internet Corporation for Assigned Names and Numbers)である。この法人は、ロサンジェルスに拠点を置く民間非営利団体で、カリフォルニア州法を準拠法とし、米国商務省の監督を受けている。すなわち、あくまで米国の組織であって「国際組織」ではないのである。
 したがって技術的には、米国は、どの国のどのウェッブサイトへのアクセスでも制限できるし、また、世界中の電子メールの送受信をどれでもストップさせることも可能なのだ。

 こうしたインターネット運営の現状に対して、イグナシオ・ラモネ(ル・モンド・ディプロマティーク編集総長)の論文は、真っ向から異議を唱えるものである。

 インターネットをめぐる争いは、地政学的な様相を帯びている。グローバリゼーションが進み、通信が基本的な戦略資本となり、無形の財の取引が急速に発展している世界では、通信網が大きな役割を持つ。インターネットのコントロールを掌握した大国は、戦略上決定的に優位な地位を得る。それは、19世紀に英国が、世界規模で航路をコントロール下においたことで世界を支配したのと似ている。

 インターネットは、たしかに米国で発明された。それは冷戦下、かりに核攻撃を受けてもその攻撃に耐え、生き残った人々が反撃に向けて連絡を取り合えるような通信手段として、開発されたものである。
 だが、インターネットは今や、当初のそうした開発目的をはるかに超えて全世界の人々に広く深く浸透したテクノロジーとなった。米国の特権をこれからも許し続けなければならない理由などひとつもない。

 イグナシオ・ラモネは結論する。おそらくは、一部の傲慢な米国人を除く全世界のインターネット利用者も、同じ思いでいることだろう。

 ICANNを米国のコントロールから切り離すよう要求するときが来た。今やICANNは国連の下の独立した組織とすべきなのだ。
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# by syunpo | 2006-04-10 20:29 | 国際関係論 | Trackback | Comments(0)

東西対立の狭間で見たもの〜『見ることの塩』

●四方田犬彦著『見ることの塩 パレスチナ・セルビア紀行』/作品社/2005年8月発行

b0072887_107026.jpg 四方田犬彦の海外滞在記は、あの小田実の猪突猛進型の好奇心に、学芸的な知性と教養をプラスしたようなものといえばいいだろうか。すなわち滅法面白い。
 本書は、前半がイスラエル・パレスチナ、後半が旧ユーゴの旅の随想録といった体裁になっている。この二つのエリアは、もちろん相異なる文化と歴史を有しているが、重ね合わせることで見えてくる光景もある。

 いずれもが、ヨーロッパとアジア、キリスト教世界とイスラム教世界が交差しあう境界領域にあたり、社会の内側にもこの二項対立が顕在化している。そこでは、公式的には西なるものは「文明的」で善であり、東を連想させるものは「野蛮」で悪である、という見立てが成立しているのだ。
 イスラエルの占領地域では分離壁が築かれ、パレスチナ人は日常的に不自由な暮らしを強いられている。検問所でイスラエル兵がパレスチナ人に対して行なっている日常的な嫌がらせに、著者は顔をしかめる。
 バルカン半島では、クロアチア人は西側との近接性を主張して、セルビア人を野蛮なバルカンの徒と見なし、セルビア人はボスニア・ヘルツェゴビナ人をオリエントの遅れた者として見下ろしている。そこでは、互いに理解しあうという意欲すら喪失させたまま、偏見と黙殺の視線だけがむなしく行き交っている。

 四方田は、かつて二つの地域がオスマントルコ帝国の領土であったこと、そこでは異なる宗教をもつ異なる民族が、それなりに溶け合って生きていたことを想起する。何が、彼らをして憎しみの連鎖の中に引き入れてしまったのか——。
 混乱のなかで、時にみずからの民族的宗教的アイデンティティをめぐって苦悶する人々を活写しながら、いつ果てるともない二つの地域の対立を見つめる著者の視界もまた憂鬱な色彩に隈取られている。今日、国際関係を論じようとする者にとっては、必読の書といっても過言ではないだろう。
 なお、本書のタイトルは、次の高橋睦郎の詩句から引かれている。

 私の見ることは塩である。
 私の見ることには 癒しがない
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# by syunpo | 2006-04-09 10:09 | 国際関係論 | Trackback | Comments(2)

ジャズ好きのあなたに〜『TALKIN'』

●小川隆夫、平野啓一郎著『TALKIN' ジャズ×文学』/平凡社/2005年10月発行

b0072887_16172481.jpg ジャズ・ジャーナリストとして知られる小川隆夫と芥川賞作家の平野啓一郎という異色のキャスティングによる対談集。
 本書のタイトルは、いうまでもなくマイルス・デイヴィスがプレスティッジ・レーベルに残したマラソン・セッションの録音シリーズ「RELAXIN'」「STEAMIN'」「WALKIN'」「COOKIN'」をモジったもので、当然ながらトークの中心にはマイルスがすわっている。
 とはいってもマニアックなだけのジャズ談義ではない。時にショパン、あるいはピカソの絵画へと、二人のイマジネーションの翼は自在に羽ばたいていく。

 日本におけるジャズの受容は、六〇〜七〇年代、「政治の季節」のなかで独特のニュアンスを帯びて社会的な位相を有する時期があった。本書と同時期に刊行された平岡正明の『昭和ジャズ喫茶伝説』が、その時代の雰囲気を伝えて秀逸だが、本書では、あくまでも「音楽」としてのジャズが語られる。
 「昔のことなんか知っちゃいない」と、これからジャズを聴き始めようという人に、とりわけオススメできるかも。
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# by syunpo | 2006-04-08 16:24 | 音楽 | Trackback(1) | Comments(0)

暴力の運動体として〜『国家とはなにか』

●萱野稔人著『国家とはなにか』/以文社/2005年6月発行

b0072887_15471654.jpg 気鋭の学者による書き下ろしである。国家を真正面から考察する、その直球勝負にまずは敬意を表しておくべきか。
 本書のキーワードは「暴力」である。国家は「幻想の共同体」でもなければ、社会契約に基づく統治機構でもない。それは、端的に「暴力」としての絶えざる運動体である。
 もちろん、国家は公共事業や福祉政策によって国民に富を再分配し、軍隊や警察によって国民の安全を保障する。それは、国家の暴力に国民を自発的に服従させるための、暴力と一体化した国家の特質である、と筆者は考える。

 国家は暴力の実践に先だっては存在しない。暴力が組織化され、集団的に行使されることのひとつの帰結として国家は存在している。(p43)

 本書では、そうした国家像を描くために、マックス・ウェーバーやヴァルター・ベンヤミン、ミシェル・フーコーらの暴力をめぐる洞察が援用される。だが、そのような「古典的」な知に拠点を築いているからといって、本書が机上の観念的な国家論を提示しているわけでは、もちろんない。
 とりわけ、安全の名のもとにますます警察権力の強化が企図される日本にあって、筆者の認識は、ますますアクチュアルな正当性を帯びてくるように思えるのだ。

 何かといえば、「公共性」だの「国家の品格」だのと声高に叫ばずにはおれない近頃のヒヨワな国家主義オヤジとは無縁の、強靱かつ明晰な国家論である。
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# by syunpo | 2006-04-08 15:49 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)