ブックラバー宣言


コラムニスト・吉本俊二の書評ブログです。
by syunpo
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31
検索
記事ランキング
最新の記事
カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
最新のトラックバック
マーラーが死の前年に書き..
from dezire_photo &..
経済成長がなければ私たち..
from 天竺堂の本棚
『せつない(新訳 チェー..
from 施設長の学び!
カール・マルクス『ルイ・..
from 有沢翔治のlivedoorブログ
愛国の作法
from 蔵前トラックⅡ
雑考 自由とは何か④
from 読書メモ&記録
東浩紀 『クォンタム・フ..
from 身近な一歩が社会を変える♪
純粋に哲学の問題だ「ベー..
from 夕陽の回廊
バーンスタインのミュージ..
from クラシック音楽ぶった斬り
memento mori..
from 試稿錯誤
タグ
ブログジャンル

護憲の流儀を説く〜『憲法九条を世界遺産に』

●太田光、中沢新一著『憲法九条を世界遺産に』/集英社/2006年8月発行

b0072887_19242661.jpg マスコミを通じてなされる憲法をめぐる議論は、今や、常套句と紋切り型の応酬に終始して、私自身は、そこから知的刺激を得ることはめったになくなった。顔ぶれを見れば、発言内容も議論の顛末も最初から見えているのだ。

 本書は、爆笑問題の太田光と宗教人類学者の中沢新一が憲法九条について自由自在に語りあった記録である。二人の対話者が何とか紋切り型を脱しようと、手を変え品を変え、憲法を論じている。とりわけ、太田光のどこまでがマジで、どこまでがギャグかわからない大仰な物言いが、本書の面白さと曖昧さとを同時に醸し出す。

 ここでは、憲法がいろんなものに喩えられている。
 憲法とは、僧院のようなものである。村はずれに建っているだけで、人の心は堕落しないでいられる。
 憲法とは、芸術に近いものである。現実には存在し得ないことを語ろうとしているのだから。
 憲法とは、世界遺産のようなものである。すなわち自分たちの愚かさを知るために守っていくための場所なのである。
 
 ……中身だけを取り出せば書生論的な彼らの憲法談義を、今日の厳しい現実世界に照らし合わせて非難することは容易だし、現に多くの批判的な言説が巷間を賑わせてもいる。だが、いくつかの批判的な書評を読んでみたが、本書を凌ぐような刺激も面白さもあまり感受できなかった。批判するにも話芸が要求されるのだ。

 太田光の発言で注目すべきは、「自分の考えを疑ってみる」「迷うことも重要なことだ」「自分を否定する勇気」と繰り返し述べている点だ。「憲法九条を世界遺産にと言い切ることも、どこかで疑問を感じながら言わなければいけないのかもしれない」。これは憲法論という地平にとどまらず、人が思考すること、他者とコミュニケーションすることの困難と可能性を認識したものとして傾聴に値する。

 近頃、自分とは異なる意見に対する不寛容さがはっきり露呈する出来事が多くなった。気にくわない政治家の実家に火を放つというのはその極端な例だが、批判を飛び越えて他人の言論そのものを封殺するという振る舞いは、自身の考えのみが正しいのだとする傲慢さが前提されている。
 自分の考えを疑うとは、言い換えれば相手の考えに耳を傾ける、ということでもある。その結果、やはり賛同できなくとも、「あなたの意見には賛成しないが、あなたの立場は尊重する」という態度だけは維持されなくてはならない。それが言論の自由を市民レベルで保っていくための最低限の作法だろう。

 自分とは真っ向から対立する見解を前にした時、いかなる態度でそれに対処するのか。そこに、その人間の、ひいてはその社会の成熟度が試されているのだ。
[PR]

# by syunpo | 2006-10-31 19:26 | 憲法・司法 | Trackback | Comments(1)

もう一度やり直すための〜『愛国の作法』

●姜尚中著『愛国の作法』/朝日新聞社/2006年10月発行

b0072887_1441553.jpg とうとう朝日新聞社までが戦列に加わった新書市場、その第一弾として刊行されたなかの一冊である。戦う政治家・安倍晋三が政権トップに座る御時世の「愛国」のあり方に危惧の念を抱く政治学者があらためて「愛国の作法」を説く。

 愛するということは、生きることが技術であるのと同じように、ひとつの技術なのです。愛することが技術である以上、技術は習得されなければなりません。(p38)

 ……これが本書を貫く基本的な考え方である。ただし「技術」という語句は、誤解を招きやすいかもしれない。著者もすぐ後段で、フロムを参照しつつ「理性」と言い換えている。その「理性」のあるべき姿を懇々と述べていく。

 姜は、国民を「エトノス(民族=感性的存在)」と「デーモス(作為=意志的存在)」とに二分するダントレーヴ流の考え方を引きながら、エトノス優位の国家理解に疑問符をつけ、デーモスとしての理性を磨くことを力説する。
 それは、「パトス(感情)」=「審美」の世界に溺れることなく、「ロゴス(論理)」=「政治」の意志の世界に身を投じよ、というメッセージでもある。したがって、国家が過つときには「反逆」も必要になる。「愛国」には絶えざる努力が必要であり、その努力は、時には生身を引き裂くような激しい相克と葛藤を自我の内面の中に抱え込んでしまうこともあるはずだ、という。在日コリアンとして辛酸をなめてきた著者ならではの主張だろう。

 それでは今日、「愛国」とはどんなスタンスを意味しているのでしょうか。やや図式的に言えば、地域=郷土(パトリア)の再生とアジアとの結びつきこそ、「愛国」の目指すべき理想なのではないでしょうか。「愛国」が本来、「パトリア(郷土)」への愛に他ならないとすれば、凄まじい勢いで荒廃の一途を辿りつつある地域の再生こそ、まず「愛国」が取り組むべき課題に違いありません。(p203)

 通読しての印象は、著者は良くも悪くも生真面目な学者なんだなぁということだ。たとえば誰が書いたやも知れぬ駄本『美しい国へ』の国家観を批判する、その姿勢。わざわざカントロヴィッチをもってくる。丸山眞男や矢内原忠雄、石橋湛山らを動員する。
 特に目を開かされる刺激的な論理の展開がみられるわけではないが、あくまでクールに愛国の作法を説く姜尚中の語りには、真摯に耳を傾けるべきだろう。

 いささか物足りなさを感じたのは、第二章の〈国家とは何か〉と題された国家論だ。萱野稔人の労作『国家とはなにか』を知る読者からすれば、「暴力」の視点が何とも中途半端に導入されているために、やや消化不良の感を否めなかった。
[PR]

# by syunpo | 2006-10-29 14:54 | 政治 | Trackback(2) | Comments(4)

倫理を真理とするために〜『資本主義から市民主義へ』

●岩井克人、三浦雅士著『資本主義から市民主義へ』/新書館/2006年8月発行

b0072887_2175632.jpg これは、面白い本だ。経済学者として『貨幣論』『会社はこれからどうなるのか』『会社はだれのものか』などの著作を世に問い、今や経済学界を超えて広く影響力を与えている岩井克人の思索の成果が、三浦雅士の精緻なインタビューによってわかりやすく展開される。
 「貨幣論」に始まって「資本主義論」「法人論」「信任論」「市民社会論」「人間論」と続く対話は、知的スリルに満ちて含蓄に富む。

 ここで主に考察の対象となっているものは、「言語・法・貨幣」である。これらは、いずれもその存在理由に実体的な根拠はなく、自己循環論法によってのみ根拠づけられるものである。
 たとえば、貨幣は何故、貨幣として通用するのか?
 それは、それ自体価値のある金銀でできているからでもなければ、法律で決められているからでもない。単に貨幣は貨幣だから貨幣なのだ、と岩井は断じる。法や言語もまた、同様の自己循環論法によって支えられる。
 そして、興味深いことに、この三者こそが人間を人間たらしめているものなのだ。

 人間とは何かと問われたら、ぼくは、言語を語り、法にしたがい、貨幣を使う動物だと答えます。言語、法、貨幣といった社会的媒介について思考することは、そのまま人間について思考することだと思っているのです。(p104)

 また、「法人論」では、ヒトとモノとの二つの相貌をもつ法人の成り立ちが、述べられる。モノとしての法人が強調されると法人名目説となり、ヒトとしての側面が強調されると法人実在説となる。株主主権論を支えるのは、いうまでもなく前者の考え方である。

 岩井の考えに立てば、会社とは株主のものでもなければ、経営者や従業員のものでもない。「社会」のものである。その認識は、信任論においてより精彩を放つ。
 患者を前にした医師も、会社の経営を託された経営者も、単なる利益追求とは別の価値観を求められる。そこでは「信任」という概念がより重要になってくるのだ。すなわち「自己利益追求だけで成立しているはずのシステムが、内部で必然的に倫理性を必要とする」社会こそが、資本主義社会なのである。

 言語・法・貨幣に対応する市民社会・国家・資本主義という三角形モデルのなかで、国家と資本主義は安定しているように見えるけれども、じつはそれらの基盤をなしている法と貨幣は、ともに自己循環論法によって成立しているわけだから、実体的な根拠を欠いており、つねに自己崩壊している可能性をもっている。言いかえれば、本来的な不安定性をかかえているということをおさえておかなければならない。不安定だからこそ、国家にも資本主義にも完全には還元されない第三の人間活動の領域としての市民社会を必要としている。(p267)

 市民社会とは、国家にも資本主義にも還元できない部分を担う。そのような市民社会とは、いかなるものであろうか。
 それは前述の信任論とも関連させながら、岩井は、カントの定言命題(同時にすべての人間にとっての行動規範になることをあなたが望む行動規範にもとづいて行動せよ)にそのヒントを見いだしている。

 カントの定言命題は……(中略)……いまはまだ思想なんですが、いつかは真理となる思想である。そして、カントの倫理がたんなる思想ではなく、真理となった社会ーーこれが、市民社会であるということです。(p204)

 しいて本書の問題点を指摘すれば、後半部分だ。繰り返しや重複が目立つうえに、結論部に相当する「市民社会論」「人間論」での岩井の語りは、やや生煮えの印象を拭えない。
 言語・法・貨幣の無根拠性を徹底的に理論づけた思索家の描く「市民社会」の具体的な展望を今少し明確な形で聞きたかった気もするが、それは現時点においては、ないものねだりというべきなのだろう。
 だからこそ、岩井克人の今後の仕事にはますます目を離せなくなった。
[PR]

# by syunpo | 2006-10-19 21:13 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

暗闇と官能の世界へ〜『感覚の幽い風景』

●鷲田清一著『感覚の幽い風景』/紀伊国屋書店/2006年7月発行

b0072887_10111610.jpg 本書は身体論を得意とする哲学者が、紀伊国屋書店の広報誌に連載したエッセイを編んだものである。人間の身体や感情をめぐる先人たちの思考……ロラン・バルトやメルロ・ポンティ、スピノザのディスクールが、文学的な装いとともに噛み砕かれて引用される。また、モードやファッションについて、ベンヤミンをもとに身体論・流行論的な見地から言及される。
 いささかもってまわった言い回しが多く、時に辟易とさせられるが、章ごとに完結している短文の集成なので、堅苦しさはない。

 「付録」として掲載されている「ファッショナブルな器官」(伊勢丹社内誌に連載)が、私には読みやすかった。
 マニキュアやペディキュアをめぐって展開される指のフェティシズム論は、なかなか面白い。聴覚と理性の関係を論じた「耳の知恵」も示唆に富む。時代の規範となるボディ・イメージを概観して、腰がいかに弄ばれてきたのか、という考察も著者ならではだろう。

 また、本書で強調されているのは「感覚」の能動性である。ベルクソンを足がかりにして、著者は述べている。

 ……ひとが世界へと向けて身を開いてゆくためには、あるいはある齟齬への陥没からふたたび立ち上がって世界との関係を組み立てなおすには、「構え」というかたちでのわたしたちの潜勢的な向性の凝集というものが必要になるということだ。感覚は何かに向かうというところに生成するものであって、けっして何かを受け取るといういとなみに縮減されうるものではない。(p113)

 「感覚はときにわたしたちの知性を歪ませたり、彎曲させたりするが、知性をさらに緻密にするためにそれをしずかに後押ししてくれることもある」という著者の感覚論は、体温を感じさせて独特のものがある。
[PR]

# by syunpo | 2006-10-04 10:15 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

終戦をめぐるメディア学〜『八月十五日の神話』

●佐藤卓己著『八月十五日の神話』/筑摩書房/2005年7月発行

b0072887_16305790.jpg 一九四五年、八月一四日、日本はポツダム宣言を受け入れ、翌一五日、天皇は「玉音放送」を通じて、その事実を国民に知らせた。九月二日、東京湾上に浮かぶ米戦艦ミズーリ号上で、降伏文書調印が行なわれ、ここに太平洋戦争は終結した。

 以上の歴史的経緯から、何故に「八月一五日」が選ばれて「終戦記念日」として国民の間に認識されるようになったのか。正式に戦争が終わったのは、降伏文書の調印がなされた九月二日ではないのか——。
 本書は、そうした問題意識から出発して「八月一五日神話」の成立過程を検証していく。放送メディアの終戦特集番組、歴史教科書における終戦記述などを時代ごとに丹念に調べ上げ、最終的に神話そのものの「虚妄」を結論づける手際は鮮やかというほかない。
 一般国民の歴史意識を規定している「玉音放送」や「聖断」の言葉は、教科書ではなく新聞やテレビなどマスメディアによって提供されてきた、という指摘もまことに興味深いものだ。

 仏事の盂蘭盆会と微妙に絡み合いながら、八月一五日に戦没者を慰霊し、平和を祈念する戦後の新たな「伝統」が形成されていく。それはまた、「八・一五革命」の神話を掲げる進歩派の論理と、「九・二降伏」以降の現実を否認したい保守派の心理が「八・一五終戦」の利害において見事に一致した結果でもあった。

 この日を終戦記念日とする法的根拠が成立したのは意外と新しく、一九六三年、池田勇人内閣で閣議決定された「全国戦没者追悼式実施要項」が最初である。正式名称「戦没者を追悼し平和を祈念する日」は、一九八二年、鈴木善幸内閣で閣議決定された。

 八月一五日という日付をめぐっては、昨今、わが国の宰相の振る舞いとも関連して、政治的に議論されることも多いが、本書の主張はそうした論争にひとまず水入りを宣言するものでもあるだろう。著者は、憲法より先に、まず改正を議論する必要があるのは終戦記念日だとして以下のように述べている。

 「戦没者を追悼し平和を祈念する日」を二分割して、八月一五日を「戦没者追悼の日」、九月二日を「平和祈念の日」としたい。八月一五日のお盆に慰霊供養を行い、九月二日には近隣諸国との歴史的対話をめざすべきだ、と私は考える。すなわち、民俗的伝統の「お盆=追悼」と政治的記憶の「終戦=祈念」を政教分離するのである。(p251〜252)

 八月一五日を神話化することは、歴史への関心ではなく、むしろ記憶喪失への不安に由来しているのではないか、という著者の問いかけは一考に値するだろう。先の戦争とどう向き合うべきか、新たな視座の一つを本書が与えてくれたことは間違いない。

 ただし、終章後半部での丸山眞男に関する記述については、いささか抵抗感を拭えなかった。
 「八月一五日神話」を支えた一大言説として、著者は丸山眞男の「八・一五革命説」を挙げている。八月一五日に無血革命が起こり、この日を境にわが国は戦後民主主義への道へと踏み出したのだ、という丸山の言説こそが戦前と戦後の連続性を隠蔽するものである、と批判するのである。丸山眞男が「八月ジャーナリズム」最大のイデオローグとして戦後の言論界に君臨できた理由も、そこにあると断じている。
 だが、丸山の業績は何も「八月ジャーナリズム」を普及せしめた点にのみ存するのではない。彼の仕事は、もっと幅広い射程と奥深さをもつものだ。「八月一五日神話」の呪縛を過大評価するあまり、丸山の仕事そのものを矮小化してしまうのは、いかがなものか。
 丸山に欺瞞の一つもあったかもしれないが、同時に丸山の説く「虚妄」を必要とする一時期があった、という歴史的事実をそう簡単に斬って捨てるわけにはいくまい。黄昏時に飛び立ったミネルヴァのフクロウのごとく、すべてを見通してしまった現代から、先行世代の仕事を一刀両断するのは容易い。それは現代人の傲慢というべきである。何より佐藤卓己自身もまた「戦後民主主義の虚妄」の恩恵を受けてきたのであり、そのなかでおのが知性を磨いてきたのだから。
[PR]

# by syunpo | 2006-09-21 17:31 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(6)