地方分権の時代に〜『自治体をどう変えるか』

●佐々木信夫著『自治体をどう変えるか』/筑摩書房/2006年10月発行

b0072887_2064844.jpg 著者は東京都庁勤務を経て、中央大学教授として行政学、地方自治論を講じる学者。本書は、これからの日本が抱える地方自治の課題や展望について平明に説いたものである。

 これまで都道府県や市町村は「地方政府」ではなく「地方公共団体」と呼ばれてきた。それは地方政府と呼ばれるにふさわしい機能が欠落していたからである。地域の政治機能(政治体)と事務機能(事業体)はあったが、自ら政策を創出する政策機能(政策体)はなかった。
 しかし、一連の地方分権化政策によって、地方政府との位置付けがなされた。今後、地方自治体は、いかに政策機能を活性化していくかが問われることになる。

 ただし、本書全体の論調はいかにも教科書的で生ぬるい。
 夕張市の破綻や各地で表面化している裏金問題などの例を引くまでもなく、地方行政の失敗や腐敗がこれだけ顕在化している現在、政策機能の健全な活性化を企図していく前提として、これまでの失敗・腐敗の要因分析は欠かせないはずである。
 ところが、本書では地方分権を促すための税源移譲や道州制の導入など、全般的にあらかじめ想定される地方行政モデルの概説に力点がおかれ、現実に顕在化してきている問題への切り込みが今一つ不足しているように感じられた。

 「公共ビジネスマン」「高度専門社会を生き抜くための複合的な能力」「包丁一本さらしに巻いての板前感覚」など地方公務員に関するスローガンやお題目は随所に出てくるものの、その実現のための具体論にも乏しい。能力主義の給与システムを提唱している箇所なども、実際に誰がいかなる基準で能力を評価するのか、肝心な部分での記述に説得力を欠く。
 「既存のモノサシの延長といった穏健な政策転換では住民が納得しないかもしれない」(p98)、「無際限に行政責任を問う風潮」(p110)いう悠長な物言いに象徴されるように、全般的に危機感の乏しい無機的な記述が目立つ。

 「平成の大合併」の評価については、まったく支離滅裂である。「単に合併し市町村の規模を大きくすれば、課題の多くが解決するかといえばそうではない」と言ったかと思えば、「合併は、スケールメリットの働くよう団体自治の規模を拡大すると同時に、きめ細かな行政は旧自治体が担えるよう住民自治を強化していく方法」と論じている。
 結局のところ、合併の功罪を厳密に分析もしないままに「合併はピンチではなく、新たな地域共同体を形成するチャンスだと捉えたい」(p213)と精神論に回収してしまい、「今後も更なる合併を必要とする地域はある。そこで、第二次の合併推進が求められよう」と述べているのだ。
 
 また、前述したような役所の裏金体質、時に首長が中心的役割を果している談合の問題、無責任体制の象徴ともいわれる第三セクター方式の評価、中央からの天下りなど、地方自治を考えるうえで避けてとおれないこれらの問題については、何故かまったくノータッチである。
 これほどタイムリーなテーマを扱いながら、これほど急所を外した書物も珍しい。
[PR]
# by syunpo | 2007-05-07 20:14 | 政治 | Trackback | Comments(0)

成長神話を排して〜『市場には心がない』

●都留重人著『市場には心がない』/岩波書店/2006年2月発行

b0072887_1713334.jpg 二〇〇六年二月に他界した経済学界の重鎮による最後の書物。「日常の時事問題に関心を寄せて、その都度ざっくばらんに所感を書きとどめる」という何十年来の習慣に基づいて書きためたものをほぼ五年ごとに小著の形で出版してきたシリーズの最終刊ということになる。

 経済問題にとどまらず外交、環境問題などについても紙幅が割かれており、反市場万能主義、核廃絶の立場から自民党政権による政策を批判、これからの日本の進むべき道を指し示す。その眼目は、対米一辺倒からの脱却、成長を前提としない経済政策等にある。

 新聞記事や他の学者からの引用が多く、本書で述べられる主張に新味はない。もっとも、著者に長らく付き合ってきた読者ならば、辞世の書として感慨深く読むのかもしれない。
 なお書名は、ポール・サムエルソンの言葉から採ったものである。
[PR]
# by syunpo | 2007-05-04 19:11 | 経済 | Trackback | Comments(0)

自分探しというイデオロギー〜『消費社会から格差社会へ』

●上野千鶴子、三浦展著『消費社会から格差社会へ』/河出書房新社/2007年4月発行

b0072887_1625388.jpg 社会学者の上野千鶴子とベストセラー『下流社会』を著した消費社会研究家の三浦展の二人が語りおろしたものである。前半では、団塊世代とそのジュニア世代を軸に眺めた時代の移ろいから「下流社会」化を語り、後半では三浦展が編集長を務めた雑誌『アクロス』の回顧談を中心にパルコやセゾングループについての話が弾む。

 巷に猛威をふるう「私らしさ」だの「自己責任」だのというスローガンに対して、ザックリと身も蓋もない二人の認識が示されるさまは、爽快でもあるが恐ろしくもある。

 上野 「モノからコトへ」とか、「消費からココロへ」と言われていたわりに、見ていて不思議だったのは、八〇年代の後半にあれほどわかりやすい上昇志向が出てきたということですね。バブルがはじけてみたら、横並びだったはずの島宇宙が、今度はバーティカル(垂直)な序列なもとの島宇宙になった。それと同時に出てきた「私(自分)らしさ」とか「いいじゃない、そのまんまで」という自己肯定のメッセージは、階層分化を正当化するイデオロギーです。(p52)

 三浦 ……低所得の人というのは今までだってずっと自己責任で生きていたじゃないですか。八百屋で食えなくなったらコンビニにして、コンビニにしたけど弁当が余るから自分で食って、それでも大手のコンビニができたらつぶれちゃって、今はまた別の仕事に変えて、というように、自分の責任で職業を選んで、自分の責任で店をつぶして、そんなこと繰り返して自分の一生を生きているわけです。
 上野 本当にそうですね、雇用保険も失業保険もない日銭稼ぎです。
 三浦 あえて自己責任なんて言われなくたって、下の方の人はいつも自己責任ですよ。(p55)


 対談をとおして、長期の保守政権による経済政策や文教行政が今日の若年層世代の「下流意識」を育み、コミュニケーション不全を生み出したことがアイロニカルな口調で度々強調されていて、大いに共感した。

 後半の〈企業・個人史〉で語られるパルコ論は、パルコには縁のない地方在住者にとっては、今一つピンとこない論題かもしれない。が、一つの消費社会論あるいは企業論として、こちらも私は面白く読んだ。
[PR]
# by syunpo | 2007-05-02 18:40 | 社会学 | Trackback(1) | Comments(0)

「知」は移動する〜『抵抗の場へ』

●マサオ・ミヨシ、吉本光宏著『抵抗の場へーあらゆる境界を越えるために マサオ・ミヨシ自らを語る』/洛北出版/2007年5月発行

b0072887_17242021.jpg 戦後すぐに米国に渡り、かの地の大学で多くの学者を育てたマサオ・ミヨシのインタビューをまとめたものである。
 彼は、カリフォルニア大学バークレー校で英文学科の教授として職を得て、ヴィクトリア朝文学の専門家として二十四年間勤務し、その後、同大学サンディエゴ校では、英文学だけでなく比較文学、日本文学を教えた。その間、多くの「会議」を主宰して学問の垣根を超えた交流を画策し、大学の制度改革に挑み、ベトナム反戦運動に参画し、最近では環境研究の重要性を訴えている。

 私は、この人物の存在をほとんど知らなかった。何よりもまず、このような日本人学者がいたことじたいが驚異ではないだろうか。
 気心の知れているらしい後輩学者の吉本光宏を聞き手にして、みずからの半生を振り返り、これからの展望を語る口調には淀みがない。ノーム・チョムスキー、故エドワード・サイードらとの親交も厚く、彼らとの関わりも熱っぽく語られている。

 マサオ・ミヨシは「移動」する人である。
 日本から米国へ。大学から別の大学へ。英文学から日本研究へ、さらに環境学へ。
 グローバル資本主義のもと、米国の人文科学は役割を終えたと明言し、新たな「場所」の再構築を主唱している点は、おそらく日本の大学の知のあり方にも無関係な言説とは思えない。
 インタビュアーの吉本光宏がいうように、マサオ・ミヨシに特定の学問分野の肩書きを押しつけて、彼を理解しようとするのは不適切というべきだろう。

 ……僕が一つの学問領域から他の学問領域に、一つの地域区分から別の地域区分に、かなり気ままに泳ぎ回りながら移動したのは、可能な限り多くの学者と結びつきたいという欲望からです。(p225)

 彼が行き着いた「環境」の学としての「惑星主義」の内実は、本書の発言のみでは、必ずしも明瞭ではない。しかし、全編をとおして、移動し抵抗する者としての気概とエネルギーが言葉の端々から伝わってきた。
[PR]
# by syunpo | 2007-04-30 19:29 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

フィールグッド社会をめぐって〜『幸福論』

●宮台真司、鈴木弘輝、堀内進之介著『幸福論』/日本放送出版協会/2007年3月発行

b0072887_1921724.jpg 社会学者の宮台真司と、大学院宮台ゼミに所属する二人の若手学者による鼎談集。
 テーマは「幸福への社会設計はいかにして可能か」。
 米国民主党のヒラリー・クリントン周辺から出てきた「フィールグッド・プログラム」が、本書のキーワードとなる。それは「近代社会の正統性や正当性を保ち、それらを前提とした市民の積極的政治参加を通じて、不安のポピュリズムに勝るとも劣らない有効なアウトプットを調達するべく、徹底的に研究したうえでアーキテクチャーを設計しよう」という「ソーシャル・デザイン主義」なのだ、という。

 それに対して、宮台真司は「より良きフィールグッド・ステイト化への政策を実施することの重要性」を主張し、堀内進之介は「フィールグッド・ステイト化を批判する視座を確保することの重要性」を言い、鈴木弘輝は「フィールグッド・ステイト化への感情的不満が絶えず湧き上がってくることの不可避性」を言い立てる、という図式になる。

 難解な専門用語に、時おり「頭の良いネオコン/悪いネオコン」「ネタ/ベタ」など俗っぽい言い回しを絡ませて談論風発ながらも、議論は全般的に抽象論に傾き、私には面白くもなんともなかった。
[PR]
# by syunpo | 2007-04-23 19:24 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)