テレビを観ていると論語の言葉を思いだす

●金谷治訳注『論語』/岩波書店(岩波文庫)/1999年11月発行

b0072887_15292288.jpg 「子曰、巧言令色、鮮矣仁」。
 子の曰わく、巧言令色、鮮なし仁。
 先生が言われた、「ことば上手の顔よしでは、ほとんど無いものだよ、仁の徳は」。(巻第一 学而第一)


 最近、テレビを観ていると、この言葉をよく思い出す。テレビ局のクルーにマイクをつきつけられてペラペラ良く喋っている人に「仁の徳」を、感じることはめったにない。
 近頃のこの手の代表選手は、村上世彰とかいう人物だ。この人の経済行為について、私は否定も肯定もしない。彼の行為が、日本の企業経営に一石を投じるとか投じないとか議論することにも私の関心はない。
 ただ、端的に彼を嫌いなだけだ。それは、生理的嫌悪に近い。強いて言葉にすれば、彼のトークに「仁の徳」が感じられないという以前に人間としての「ウソ」を感じてしまう、ということにでもなろうか。

 忘れもしない、昨年秋、日本の野球ファンが日本シリーズをエンジョイしている、まさにその時に、村上氏が阪神タイガースに介入してきたのだ。本当の阪神ファン・野球ファンならば、野球観戦に没頭するはずなのだ。
 そんな時に株を買い占めて、ガチャガチャ、タイガースがどうの球団経営がどうの、と述べ始めた。彼が野球もタイガースも愛していないことは、明白である。ならば、黙って金儲けに専念すればよろしい。逆にいえば、単なる自分の金儲けだからこそ、いろいろ講釈を垂れたくなるのだろう。それは、周囲を納得させるというよりも自分自身を納得させる喋りのように私には思える。何か世のため企業のために自分は動いているのだと思い込まなければ、大金を稼いでも空しいのだろう。
 いずれにせよ、彼の言葉から、私は知的刺激も人間的な共感をも感受することはない。

 「子曰、君子喩於義、小人喩於利」。
 子の曰わく、君子は義に喩り、小人は利に喩る。(巻第二 里仁第四)

[PR]
# by syunpo | 2006-05-25 15:35 | 論語 | Trackback(2) | Comments(2)

空を翔る画家〜『シャガール展カタログ』

●冨田章監修『愛の旅人シャガール展 カタログ』/朝日新聞社、サントリーミュージアム[天保山]/2006年4月発行

 サントリーミュージアム[天保山]で開催中の『愛の旅人 シャガール展』を観てきた。本展は日本国内の主要なコレクションから、版画一〇〇点、絵画二七点を集め、「生と死」「聖なる世界」「愛の歓び」「サーカス」「自画像」という五つのテーマにわけて展観している。
 カタログは、同ミュージアム首席学芸員の冨田章監修によるもので、出品されている全作品を解説入りで収録しているのはもちろんのこと、シャガール年譜も充実しており、資料価値としても高いと思われる。

  *  *

 絵画は、どの方向から見ても鑑賞に堪える作品でなければならない。マルク・シャガールはそう考えていた。キャンバスを、逆さにしても横に転がしても作品として成立すること。それが絵画の条件なんだ、とシャガールはいうのである。
 なるほど、その絵画観を具現化した最もわかりやすい例としての《逆さ世界のヴァイオリン弾き》では、そこに描かれた家も花瓶も上下が逆になっていて、思わず、画面をひっくり返したくなる。それでいて、そのまま鑑賞しても決して不安定な印象をもつことはない。
 あるいは三重県立美術館収蔵の《枝》。ブルーを基調とした背景に空中で抱き合うカップルが描かれ、左上の日輪のなかには笛を吹く人物がいる。そして、カップルの周囲を鳥や人が遊泳しているのだ。

 それらの作品だけではない。シャガールの世界では、恋人たちや天使たち、馬やロバのような動物たちも、しばしば浮遊感をもって存在し、花や木は横に伸びていたり下に向かって生い茂っていたりする。それらは、さながら無重力の宇宙船のなかに存在するもののように、上下左右の方向感覚を無視して立ち現れる。
 シャガールが好んでモチーフにしたサーカスもまた、軽業師が重力にさからって空中で回転したり、逆立ちしたりするものだ。

 浮遊すること。空を翔ること。シャガールの絵画における独特の無重力感は、シャガール自身の波乱万丈の人生とオーバーラップする。
 彼は、白ロシア(現在のベラルーシ)に生まれたが、パリで画才を開花させた。一時、ロシアに戻るも革命期の混乱に遭遇し、再びパリへ。第二次世界大戦が勃発すると、ナチスの迫害を逃れてアメリカに渡った。戦後はパリに戻り、晩年になってようやく南フランスに安住の地を見いだした。彼の生涯もまた、各地を転々とする「浮遊」に満ちた人生だったのだ。
 だから、シャガールの絵をよくみると、恋人たちの姿や愛らしいブーケは、必ずしも華麗さだけを湛えているわけではない。時には哀愁を感じさせ、また時には厳しさを感じさせもする。

 シャガールといえば、「エコール・ド・パリ」を代表する画家として、そのロマンティックな作風が広く知れ渡っているようだが、それは、彼の一面にすぎないことを再確認したのだった。

 《愛の旅人・シャガール展》は、四月二九日より六月二五日まで、サントリーミュージアム[天保山]にて開催中。
[PR]
# by syunpo | 2006-05-09 21:29 | 展覧会図録 | Trackback | Comments(4)

平岡のJAZZ魂が炸裂する〜『昭和ジャズ喫茶伝説』

●平岡正明著『昭和ジャズ喫茶伝説』/平凡社/2005年10月発行

b0072887_14333793.jpg 平岡正明の名はあちこちで見聞していたが、私は恥ずかしながら本書で初めて著者と「対面」することとなった。
 ここに描かれた六〇〜七〇年代の東京を、私は知らない。中上健次や浅井慎平のエッセイやらラジオでのトークやらで間接的に知るのみである。それにしても、本書におけるディティールの描写が凄いので、見も知らぬ情景のはずなのに、それを目の当たりするようなトリップ感覚を味わいながら、一気に読み終えたのだった。

 著者は、クリフォード・ブラウンのラッパを絶賛し、コルトレーンの新譜を聴いた感動を昨日のことのように書きしるす。新宿二幸裏「DIG」を語り、銀座「オレオ」で聴いたジャッキー・マクリーンを述懐する。
 平岡の文体には、独特のキレとリズム感がある。イマジネーションの赴くがままに、時にクナッパブッシュのウインナ・ワルツに触れ、吉本隆明の思想を喋る。石ノ森章太郎の漫画を想起し、映画「座頭市」のワンシーンが脳裏に浮かび上がる……そう、それら、すべてがJAZZなのだ。

 通い慣れたジャズ喫茶のオーディオシステムの描写が、やけに細かい。

 アンプは、英国製リークのポイント1ステレオ、ピックアップアームは、国産リオンの質量分離型TA3に、グレースF5Dという針をつけて、野放図に鳴る「汀」の音を、俺は好きだった。(p82)

 ジャズ喫茶で過ごした時代の、みずからが参画した政治闘争の挿話に、おもわず熱がこもる。

 ジャズは、他人と聴くものではない。
 一人で聴き、自分を聴くものだが、闘争の昂揚に比例して耳が鋭くなる。(p76)


 だが、それらにもまして、この本を書いた平岡正明の思いは、次のフレーズに凝縮されている。

 ジャズは、生演奏がいちばんだというのはまちがいないが、生演奏はときどき、演奏するやつが邪魔だ。
 部屋で聴くと、自分が邪魔だ。
 ジャズは、ジャズ喫茶で聴くものだ。(p21)


 これで、決まりだ。
[PR]
# by syunpo | 2006-05-05 14:49 | 音楽 | Trackback | Comments(6)

思わず武満のCDを聴きたくなった〜『芸術新潮』

●『芸術新潮』〜特集・はじめての武満徹/新潮社/2006年5月号

b0072887_20574883.jpg この雑誌を手に取ったのは初めてだ。武満徹の名に惹かれて、つい買ってしまった。今年は、武満徹没後一〇年ということで、この偉大なる作曲家を追想する企画があちらこちらで行なわれているわけである。
 本誌では、その特集タイトルからも明らかなように、難解な批評は退けられて、あくまで武満のイントロダクションに徹した構成になっている。生前のマルチな活動ぶり、多面的なプロフィールについて詳しく知らなかった私は、それなりに楽しめた。

 何よりもまず、掲載されている写真が面白い。音楽家を好んで撮る木之下晃の作品が随所に配されている。なかでも、特集の扉を飾る武満の横顔が素晴らしい。手を顔の前で合わせてまるで祈るような表情に「指が綺麗」という撮影者のコメントが付されている。
 あるいは、Patrick McArdellが撮影した写真。岩城宏之とメルボルン交響楽団が武満作品を演奏するコンサートのリハーサル風景。客席にポツネンと座って巨大な楽譜を見ている武満の背中とステージ上のオケ団員を、後方から引いて撮ったショットは何とも印象深いものだ。

 記事で興味深かかったのは、美術好きでも知られた武満の美術作品からインスパイアされた作品の紹介と、その挿話である。
 パウル・クレーの《余白に》から啓示を受けたというオーケストラのための作品《マージナリア》。マン・レイがデュシャンの星型に剃られた頭部を撮影した写真《剃髪》の視覚体験から生まれたオーケストラのための《鳥は星形の庭に降りる》。友人の作曲家、ルーカス・フォスから届いた絵葉書にヒントを得た《森のなかで》。
 それぞれの絵画や絵葉書の写真を添えつつ、武満自身の著作から該当する記述を抜粋する、という気の利いた構成だ。
 また、三一書房から刊行された『中井英夫作品集』は、武満徹が装丁していることを初めて知った。みずからの図形楽譜のイメージを転用したということだが、なかなかシブいデザインだ。

 CD五八枚の圧倒的なボリュームで話題を集めた小学館・武満徹全集の大原哲夫編集長の苦労談は何やら全集の宣伝めくが、武満理解には欠かせない他社の労作を取り上げた公正な編集姿勢は、評価されてよい。
 武満が手がけた映画音楽に関しても、かなりの紙幅が割かれていて、思わず録音を聴きたくなるのは私だけではないだろう。
[PR]
# by syunpo | 2006-04-26 21:03 | 雑誌 | Trackback(2) | Comments(4)

外国人と議論する前に読んでおく本〜『日本という国』

●小熊英二著『日本という国』/理論社/2006年3月発行

b0072887_17171256.jpg 本書は「中学生以上すべての人」に向けて書かれた理論社の「よりみちパン!セ」シリーズの一冊。これまで大部の著作に真価を発揮してきた小熊英二が、こうした「小品」でどのように健筆をふるっているのか、興味津々で手にとった。期待に違わぬ良い本だ。「日本という国」の成り立ちを、明治時代と戦後のふたつの時代について、世界史的な見取り図のなかで、ラフスケッチしている。

 前半の明治時代については、著者が現在勤めている大学の創始者、福沢諭吉の考え方に代表させて、もっぱら教育制度の成立過程について述べている。大胆な方法だが、決して大きな偏差を感じさせない手際は、見事だ。
 日本が、東洋の一国としていかに西洋列強との対抗軸を打ち出したのか。そのうえで、教育をどのように考えたのか。今、私たちが享受している学校制度が、どのような世界環境のなかから生み出されてきたのか、わかりやすく説かれる。
 強制的に国民に教育を与えることが「富国強兵」策を進めるうえで効果があると考えられたこと。知識を得た者が国家に不満を持たぬように忠誠心を育てる課程も盛り込まれたこと。そのような教育体制が確立される理論的根拠として、福沢の考えが基盤にあったことが示される。福沢の思索は、当時の世界史的な流れのなかで必然的に行き着いたものだが、それ故の限界や誤謬もあったことがよくわかる。

 戦後日本の道のりは、米国との関係を軸に、占領政策や憲法制定の経緯、安全保障の問題やアジア諸国との関係などが、これまた要領良く記述されている。
 憲法第九条の米国から見た場合の意義付け(米国で実現されなかった民主主義の実験)を興味深く感じる読者も多いことだろう。日本がサンフランシスコ講和条約を結んで独立国となった際に、日本が得たものと失ったものが明快に論じられて、米国に服従しなければならない歴史的背景が、くっきりと浮かびあがるだろう。同時にアジア諸国との関係が今なお困難を極めていることの原因も、よく認識されるに違いない。

 小熊英二の著作に親しんできた者にとって、ここに書かれてあることに新たな知見をみいだすことは、あまりない。彼の仕事のこれまでのエッセンスが凝縮されている、といった趣である。逆にいえば、初めて小熊の本を手に取ったという読者には、格好の入門書といえるかもしれない。

 自分の周囲のことしか関心をもたない人が多くなったーーといわれる現代ニッポン。たとえば、アジア諸国の人々の反日感情のよってきたる原因をよく知らぬ人が、何かの拍子に本書に触れたとしたら、彼らとの関係を、読む以前よりも感情を抑えて物静かに考えることができるようになるだろう。それは、単なる知識の吸収というレベルにとどまらない、意義深いことだと思う。

 著者は、まえがきに記している。

 この国のこと、そのしくみや歴史を知り、いまの状態がどうやってできてきたかを理解する。そういうことは、めんどうくさいけれど、必要なことだ。なんといっても、私たちはこの国に生きていて、この国が進む方向によって、自分の運命も左右されかねないのだから。
[PR]
# by syunpo | 2006-04-20 17:32 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(8)