個人優位の社会を築くために〜『近代化と世間』

●阿部謹也著『近代化と世間』/朝日新聞社/2006年12月発行

b0072887_15195779.jpg 昨年九月に急逝した阿部謹也が亡くなる日の朝まで朱筆を入れていたという遺言の書である。
 そのタイトルが示すように「世間」という概念について縦横無尽に語っている。だが、結論的にいえば、私には今一つハラワタに染み入ってくるような満足感を得ることはできなかった。

 日本社会に特有の事象を「世間」という包丁で切っていく、その刃先は、鮮やかな切れ味を見せたかと思えば、時に強引で時に茫漠としている。「世間」という包丁一本で、あれもこれも料理しようとするから、味わいとしてはかなり大味なものとならざるをえない。

 日本社会に「差別」が根強く残っているのも、日本の絵画に自画像の傑作が乏しいのも、大学が崩壊したのも、さる書評委員が特定の作家の本をことさら推奨するのも、日本人が将来計画を立てることに不得手なのも、本書にあってはすべて「世間」にその原因が帰せられる。

 では、阿部謹也のいう「世間」とは、何だろうか?
 その特質として、贈与・互酬関係、長幼の序、時間意識の共有などを挙げていて、その閉鎖的な性格が「世間」を非歴史的たらしめていると述べている。だが率直にいって、本書のそうした断片的な記述だけに触れても、その概念を必ずしも明確に理解できるわけではない。

 日本語としての「世間」の語源がサンスクリットの訳語で「壊されるもの」を意味する仏教用語であった、という指摘はなかなかに興味深い。だが、その指摘はそのまま置き去りにされ、語句としての歴史的変遷も今日的な概念規定も曖昧なままに「世間」が語られていくのである。
 全編をとおして「世間」の語義がかなり弾力をもっていて、「単なる仲間うち」という狭い意味から、「業界」「集落」のようなコミュニティ、果ては日本社会全体の構造、場合によっては「近代天皇制」と置換可能な述語として、無造作に使われている。
 また「世間」という語意の変遷と「世間」が指し示す社会の変化とが整理されずに記述されている点も気になった。

 著者によって再発見され、新たな光が当てられた「世間」という概念だが、随想風に語られている部分での使用法などは、井戸端会議での奥様方の「あの人は世間体を気にする人だから……」というような紋切り型とさして変わらなかったりする。

 とはいえ、著者が最後に掲げた「結論らしきもの」に記された言葉の一つ、「わが国の現状を個人優位の下で整序すること」というメッセージに異存はない。随所に深遠なる問題提起もなされている。また、キリスト教や仏教などの宗教史に関心のある読者ならば、触発されるものがあるかもしれない。
 いずれにせよ、著者の一連の「世間」研究を評価するには、過去の本格的な著作を紐解く必要があるだろう。
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# by syunpo | 2007-01-19 18:38 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

新たなる“離米主義”へ〜『滅びゆくアメリカ帝国』

●高野孟著『滅びゆくアメリカ帝国』/にんげん出版/2006年9月発行

b0072887_19332112.jpg 本書は、著者が主宰するニュースレター「インサイダー」に発表した文章の中から、主に九・一一同時テロ事件以降の米国の対外政策について論述した記事を抜粋して一冊にまとめたものである。したがって、アフガニスタンやイラクでの泥沼化を知った現時点から結果論として執筆したものでなく、同時進行的に書いてきたものであるという点が興味深い。

 書物としてはやや単調で、あまりに「正論」すぎて面白味に欠けるきらいはあるが、思えば、こういう衒いのない「正論」を見聞する機会は昨今ずいぶん減ったきたことも事実である。その点からみると、本書の分析やコメンタリーは極めて冷静なものであり賞賛に値しよう。

 今、世界は、腕力の強い者(=米国)が自分勝手な理屈をこね回して横暴に振る舞う、という身も蓋もない現実を晒している。そうした現実に居直って、日本は米国についていくしかないのさ、と決め込む論者も一方では重宝されている。
 しかし、あくまで筋をとおして、米国のやり方を厳しく問い、日本の外交の無能ぶりを批判する声も当然ながら絶対に必要なのだ。
「敵とみなす五〇人を殺害することで新たな五〇〇人を抵抗運動に追いやっている」というブラヒミ国連イラク担当顧問の言葉を引きながら、米国の単独行動主義を諌める高野のこの数年間の基本姿勢には、まったくブレがない。

 これからは、反米か親米かの対立に意味はない、米国の衰退が客観的な現実となりつつある今では、「ポスト・アメリカニズム」(離米主義)という概念を立てる必要がある、というエマニュエル・トッドの認識を高野孟もまた共有している。
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# by syunpo | 2006-12-27 19:36 | 政治 | Trackback | Comments(0)

情報が世界を制す!?〜『インテリジェンス 武器なき戦争』

●手嶋龍一、佐藤優著『インテリジェンス 武器なき戦争』/幻冬舎/2006年11月発行

b0072887_19234042.jpg 元NHKワシントン支局長と起訴休職外務事務官との対論集。
 佐藤は、前回紹介した対談では相手に合わせてかなり理念的な話をしていたのだが、本書では、うってかわってインテリジェンス・オフィサーとしての経験に基づき、かなり生々しいエピソードを披瀝している。対する手嶋も、NHK出身の外交ジャーナリストとして、国際的な体験談には事欠かない。この種の対談の常として、随所に双方の手柄話の類いがちりばめられていて鼻白む箇所が少なくないものの、激動する国際政治のアクターとウォッチャーの立場から繰り出される具体的な挿話は、読み物としてはそれなりに面白い。

 本書のタイトルにも採られているキーワード「インテリジェンス」とは、佐藤の定義によれば、複数の意味を含有する。「諜報=ポジティブ・インテリジェンス」「防諜=カウンター・インテリジェンス」「宣伝」「謀略=政策広報」の四つである。

 二人の対話で結論的に強調されるのは、こうしたインテリジェンスの担い手の育成、さらには専門機関の設置ということである。あからさまな武力による戦争が困難になっている時代、国家の存亡を決するのは何よりもインテリジェンスの戦いだ、というわけである。

 その中で、佐藤は「秘密情報の九八%は公開情報を再整理することによって得られる」というセオリーを紹介しつつ、「学術的な基礎体力」の必要性を説いているのが興味深い。また「インテリジェンスの仕事をやめても食べていけるような専門技術」を身につける重要性も指摘している。「別の職業で生きていける道が担保されていれば」組織内のつまらないサバイバル競争による組織の腐敗や自身の被害を最小限にとどめることができる、という。彼自身が生臭い修羅場を経た後だけに、何やら説得力がこもる話だ。

 外交全般に対する二人の認識や展望については、「中国に対する腰抜け外交」だとか「左派のアラブ好き」などといった言葉遣いに象徴されるように、些か陳腐な現実的議論に終始し、得るものはあまりなかった。
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# by syunpo | 2006-12-16 19:26 | 政治 | Trackback | Comments(0)

情報屋と思想家の対話〜『国家・ナショナリズム・帝国主義』

●柄谷行人、佐藤優『対談〜国家・ナショナリズム・帝国主義』(『世界』所収)/岩波書店/2007年1月号

b0072887_21161476.jpg 佐藤優は、現在「起訴休職外務事務官」の肩書きで、メディアにも登場する機会の増えた「論客」である。鈴木宗男と太いパイプをもち、もっぱらロシアを舞台に異能の外交官として活躍したらしい。この人物が、批評家の柄谷行人と対談した。世の中には、いろんな対談のキャスティングがあるもんだ、と妙に感心しつつ読んでみる。柄谷行人の愛読者としては、それなりに面白い。

 この二人の接点を端的に表わす発言が、冒頭、佐藤によってなされている。

 佐藤 冷戦後の日本外交を組み立てる上で、実は私たち情報屋はかなり哲学書を使って思考してきたのですが、特に柄谷さんの評論を、この時代をどう読むかというきわめて実用的な観点から読んできました。これがものすごく使える(笑)と言いますか、なぜこうした洞察ができるのかと思ってきました。そして私には、柄谷さんの思想が非常にプロテスタント神学的に見えるのです。

 日々、洪水のような情報を処理し分析していくことを生業にしているインテリが、思想書や哲学書に向かう、というのは何となくわかるような気がする。国際政治学者の時局解説風の言説や、国際通を自称するジャーナリストのワケシリ顔のレポートなど、外交の舞台でアクチュアルな問題に対峙している人間にとって、たいして役には立たないであろうことは、素人にも察しがつく。様々な観測や噂が飛び交うなかで二律背反する複数の情報を手にしたとき、どれを捨てるか何を採用するのか、最終的に依拠できるのは原理的な思考である、と情報屋が考えるのも一つの合理だと思う。
 
 ここでは、柄谷の近著『世界共和国へ』をベースに、国家やナショナリズムのあり方について、もっぱら理念的に語りあっている。この対談を通読して、佐藤優という人物はかなりの教養の持ち主であることを認識した。

 柄谷は、みずから実践し失敗した地域通貨の試みを顧みて、貨幣の根拠を相互主観的な承認に求める考え方、つまり岩井克人のような思考をバッサリ否定している。
 映画館の切符とタクシー券からスタートして機能させている滋賀県の地域通貨「おうみ」の例を引きながら、結論する。「それによって何かと兌換できるのでないかぎりは、通貨として通用しないのです」。
 それをさらに一般化すれば、「みなが合意したからと言って真理ではない」ということだ。同じように、国家を「共同幻想」だといって批判しても意味はない、国家が存在するのは、人間の関係が根本的に暴力をはらんでいることを理解しなければならない、そして国家と貨幣とは相互につながり補足しあうものなのだ、と柄谷は言う。
 
 国家の強靱さを再確認したうえで進む二人の対話は、興味深い。佐藤の実務家としてのエピソードのいくつかが、柄谷の理論を補強する。一方で、日本政府が米国を仮想敵国とみなさず米国内政の調査を軽んじている事実を指摘して「憲法九条で去勢されている」状況への言及も忘れない点に外務事務官としての相貌をものぞかせる。

 最後に、佐藤は『世界共和国へ』にふれて、「国際情勢を見る際にこの本の力を借りて普遍的な言語で語ることができるのです」とあらためて賛辞を送っている。これを受けた柄谷の総括的な発言もなかなか良い。

 柄谷 ……最近あらためて思うのは、ポストモダニズムの理論家が、歴史は物語だ、理念は幻想だといって斥けてしまったのは、犯罪的だということです。カントが言ったように、理念は幻想に決まっているのです。今さらそんなことを言うのはおかしい。ただ、幻想にも種類がある。たんなる幻想と、それをとったら生きていけないような幻想(仮象)がある。カントはそれを超越論的仮象と呼びました。たとえば、「自分」というものも、そういう幻想です。それを欠くと、分裂病的になる。
 そういう意味で、歴史の理念を欠くと人々はいわば分裂病的になります。それでも、インテリは理念は幻想だと嘲笑してシニカルでいられるが、普通の人たちはそれではすみません。だから、宗教的な原理主義に向かうことになる。その結果、知識人がばかにしていたものが、ひどい形で返ってくる。

 佐藤 そうすると知識人自身の首が、ブーメランによって落ちてしまいます。いま論壇の状況は、理論的対話という言葉が死語になってしまっている。

 柄谷 私は何より、理論的認識が必要だと思います。それがないと、失敗してきたし、今後も失敗するに決まっているからです。

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# by syunpo | 2006-12-10 21:21 | 雑誌 | Trackback | Comments(0)

自己と他者との〈あいだ〉〜『生命と現実』

●木村敏、檜垣立哉著『生命と現実 木村敏との対話』/河出書房新社/2006年10月発行

b0072887_1952851.jpg 精神病理学者でありつつも哲学的な著作によって幅広い影響力をもつ木村敏と哲学者の檜垣立哉による対話の記録である。「哲学関係の方々との意見交換の場に出ること」は「めったにない」という木村だけに、愛読者にとってはその思想的バックボーンを知るには絶好の書といえるかもしれない。

 精神病理を独自の視点で記述してきた木村の基本的な理念は、以下の発言に凝縮される。

 ……あくまで臨床場面で自分が経験し、感じ取っている現実を哲学していこうという基本的な姿勢をもっています。でなければ、私のような医者が哲学的な概念を振り回すことに、あるいはそんな哲学的な概念に振り回されることに、なんの意味もない。(p101〜102)

 したがって、木村の哲学的な言説は例外なくみずからの臨床体験に促されるような形で展開されてきたものである。アンテ・フェストゥム(祭りの前)としての統合失調症、ポスト・フェストゥム(祭りの後)としての鬱病、イントラ・フェストゥム(祭りの中)としてのてんかん……という一世を風靡した時間論的認識も、臨床医としての観察に基づいたものだ。

 木村の臨床哲学の理論は、いくつかのキーワードによって構成されているが、なかでも重要な概念は〈あいだ〉である、と檜垣はみる。
 まず、それは自己と他者との〈あいだ〉として措定される。だが、この〈あいだ〉は、すでに存在する自己と他者との〈あいだ〉ではなく、それがなければ自己も他者もない、という〈あいだ〉である。すなわち、自己と他者との〈あいだ〉とは、そこから自己も他者も生まれてくる圏域として理解されなければならない。
 その〈あいだ〉という関係性の場面に問題が生じた時に、精神的な病が生じる。

 そのような木村の哲学的な思索の基盤となっているのは、西田幾多郎、ビンスヴァンガー、ハイデガーなどだが、檜垣は丹念に彼らの考えを紹介しつつ、木村との思想的連関を探っていこうとする。

 「心の医学」から「脳の医学」へと大転回を果たした今日の精神医学界にあって、「サイエンスを拒否する精神科医」である木村のような存在は、希少であるのかもしれない。だが、「精神病を、心の病か脳の病かというような二律背反に閉じこめること自体が、この上なく本質を逸脱した議論ではないのか」という問題意識は、もっと広く共有されても良いのではないかと思われる。

 哲学者として木村にアプローチを試みる檜垣はなかなかの勉強家だ。ただし、彼の長広舌は概して面白くない。木村の言説に対して淀みなく対応しているのだが、ほぼ全編にわたって生硬な剥き出しの哲学用語で押し通しているために、一般の読者には極めて難解なものになってしまった。
 また、哲学の側から臨床に関心をもって独自の思索を重ねる鷲田清一に関する木村の見解を聴いてみたいと思ったのだが、檜垣がみずからその話題を持ち出しながら、「脱線」とみなして、哲学プロパーの問題にかえってしまうのは、何とも歯痒い。臨床と哲学の接点こそが、ここでの「本線」のはずではないか。本書の企画は、もう少し読者を意識できる舞台慣れのした聞き手で読みたかった。
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# by syunpo | 2006-12-03 20:03 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)