ブックラバー宣言


コラムニスト・吉本俊二の書評ブログです。
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舌と脳と胃袋で考える〜『ラブレーの子供たち』

●四方田犬彦著『ラブレーの子供たち』/新潮社/2005年8月発行

b0072887_20561688.jpg オビのうたい文句は「舌と脳と胃袋で考える、食をめぐる実践的文化試論」。
 「歴史に名を残した著名な人物や芸術家たちがいったい何を好んで食べてきたかを調べあげ、できるだけその料理を再現してみずから口に運び、かの人の『人となり』に思いを馳せるという作業」の結果、成ったのが本書である。
 したがって、ここに掲げられたのは必ずしもデリシャスなグルメばかりではなく、歴史に名を刻んだ人々の個性に見合った珍妙な料理が時にテーブルを飾ることにもなる。

 目次を見ただけで、いたく興味がそそられるではないか。
「ロラン・バルトの天ぷら」「武満徹の松茸となめこのパスタ」「アンディ・ウォーホルのキャンベルスープ」「ギュンター・グラスの鰻料理」「マリー=アントワネットのお菓子」「小津安二郎のカレーすき焼き」「ポール・ボウルズのモロッコ料理」「吉本隆明の月島ソース料理」……。

 武満徹が死の床で書きつけた「キャロティンの祭典」というレシピ集から作られた「松茸となめこのパスタ」。晩年、長野県に住んでいた作曲家にいかにもふさわしい料理のような気がするが、武満の指示に従って忠実に調理をすすめ、最後にキャビアをトッピングして、四方田は書きつける。
 「トッピングというのが武満料理の常套で、いかにもオーケストラの曲で装飾的に楽器を添えるといった感じがする」。

 ウォーホルの有名な一連のキャンベルスープの缶を描いた絵画。キャンベルとはアメリカを代表する巨大な食品会社である。その会社が出している缶詰めのスープを調理する。といっても、水で二倍に薄めて温めるだけ。そして、トマト味、スコッチ・ブロス、オニオンスープ、クラムチャウダーなどを次々に試食して、その味わいについて論述していく。「全体的に甘くて柔らかい」「塩味がきつい」「どこか焦げた匂い」……。
 ウォーホルは、どこかで言っていたらしい。誰もが似たような考えをして、似たようなことをしている。似たような食べ物を食べているんだ。だからそれを、手っとり早く絵にしてしまえばいい。……
 そこで、四方田は述懐する。

 キャンベルスープの、どこまでも深みを欠いた風味は、このウォーホルの理想とする匿名性に、みごとに見合っているように感じられる。……(中略)……世界中から差異という差異を消滅してしまえというアメリカ的なるものの意志が、そこには感じられる。ウォーホルがこのスープ缶を素材に選んだとき、彼はそこに自分の哲学がもっとも理想的な形で実現されていることを、明確に見ていたのである。(p55)

 芸術家・思想家と食べ物をめぐる四方田の考察は、含蓄に富み、想像力の射程はどこまでもはてしなく伸びてゆくようだ。

 小津安二郎の作った「カレーすき焼き」の挿話は、映画史における小津と俳優との興味深い人間関係を浮かびあがらせる。小津組に参加していた松竹のスタッフやキャストたちは、この不味いすき焼きを黙って口にしていたのだが、新たに東宝から参加した池部良は「菓子みたいな味じゃないか」といって、吐き出してしまったらしい。それ以来、小津はすき焼きの味付けに手を出さなかった、という。

 イザドラ・ダンカンが飽きるほど堪能してみたいと言ったキャビアとイチゴとアスパラガスとシャンパンという奇妙な取り合わせをめぐる筆者の考察も、なかなか冴えている。
 吉本隆明と月島のソース料理をめぐる論述は、日本の近代化についての考察へと飛翔していく。

 ちょいとキザな表現があったり衒学趣味がのぞいたりするけれど、それも料理にアクセントをつけるスパイスのようなもの、と思えばよい。かくして、「食」をめぐる実に面白い書物が出来上がった。あるいは「食」を通して記された、もう一つの人物批評とでもいうべきか。
 本書のタイトルは、ことのほか食べ物を物語に登場させることを好んだフランスの文学者の名にちなんだものである。
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# by syunpo | 2006-08-27 21:02 | 文化全般 | Trackback | Comments(2)

「干物」の知が第六感を磨く〜『姜尚中の政治学入門』

●姜尚中著『姜尚中の政治学入門』/集英社/2006年2月発行

b0072887_202788.jpg 集英社新書における著者の四冊目の本。「アメリカ」「暴力」「主権」「憲法」「戦後民主主義」「歴史認識」「東北アジア」の七つのキーワードを手がかりに、日本と世界の姿を読み解いていく。政治思想史を専門とする著者だけに、ルソーやホッブズ、カント、ハンナ・アーレントなど政治学の範疇を超えた思想家の名も数多く出てくる。
 生真面目にして堅実な語り口だが、入門と銘打っていることもあって、先行者の知見の紹介や読解に重きがおかれ、著者独自の独創的な政治学的展望を期待する者は物足りなさを感ずるかもしれない。

 「暴力」や「主権」の章では、話題のアントニオ・ネグリとマイケル・ハートの唱える概念「マルチチュード」が引用されるあたり、いかにも「今風」なのだが、擦れっ枯らしの思想家連中とは違い、好意的に紹介されているのが本書の特色といえよう。
 ただ、国民国家の限界が明らかになった今、グローバルな主権を誰が担うのか、という問題に対して、ネグリとハートの「帝国」やハンス・ケルゼンの「国際連合」構想の引用に終わっているのは、ややさびしい気がする。

 「憲法」の問題では、「人民から権力を受託した側が、それを恣意的に行使できないように制約を課すもの」との基本認識を再確認して、「国の伝統や文化、義務についても書き込もう」という昨今の改憲論に釘をさしている。
 章末にイェーリングの『権利のための闘争』が推薦されているのが、興味深い。イェーリングにとって、権利のための闘争とは、倫理的な人格の自己主張であると同時に「国家共同体に対する義務」でもあった。

 最終章の「東北アジア」の地域構想に関する記述に、姜尚中の立場が明確に現れている、というべきだろう。戦前、日本が主導した「大東亜共栄圏」とは異なる文脈と異なる主体によって提唱される東北アジア共同体構想に、日本は積極的に関わっていくべきだと主張する。

 歴史認識をめぐる相克と冷戦構造の残滓は、ユーラシア大陸の東端の未来構想に暗い影を投げかけています。これらの問題が解決されない限り、おそらく地域主義の夢は、虚妄に終わることでしょう。
 しかし私自身は、たとえそれが決断主義ではないかと謗られても、ナショナリズムの実在よりは、東北アジア共同体の虚妄に賭けるべきだと考えています。それこそが、太平洋の向こう側だけでなく、玄界灘にも架け橋をつくることになるからです。(p161〜162)


 この構想の具現化が成った暁には冷戦以降の世界の一極化に歯止めをかけることができる、という見解に異論はないが、世界の現実を前にするとき、どれほどの実現性があるのかいささか心もとないのは、なんとも残念である。
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# by syunpo | 2006-07-28 20:38 | 政治 | Trackback | Comments(4)

理性を正しく導き、学問において真理を探究するための〜『方法序説』

○デカルト著『方法序説』(谷川多佳子訳)/岩波書店/1997年7月発行

b0072887_18581585.jpg 「われ思う、ゆえに、われ在り」。
 私がデカルトのこの言葉を初めて意識したのは、中学生の時、友人から借りた哲学の入門書においてであった。それは、マルクスの弁証法的唯物論を解説するもので『ものの見方考え方』とかいうタイトルの本だったと思う。そこでは、当然ながらデカルトの考え方は、悪しき観念論として厳しく批判されていた。

 その後、私は、デカルトのこの言葉はそのような単純な批判では斥けることのできない「含蓄」を有しているのではないかと考えるようになった。何より「われ在り、ゆえに、われ思う」よりも「われ思う、ゆえに、われ在り」の方が実感に近い気がしてきたのである。
 だが、いつしか私はデカルトのことなんか、考えることも意識することもなくなった。

 二〇〇二年に太田出版から刊行された『必読書150』には、デカルトの『方法序説』が挙げられていて、柄谷行人が推薦の筆をとっている。

 「われ思う、ゆえに、われ在り」(コギト・エルゴ・スム)というデカルトの言葉は誰でも知っている。しかし、実は、そんなことはわかりきっている、何でわざわざそんなことを「証明」しなければならないのだ、と思う人がほとんどである。しかし、自分は「在る」ような気がしないということで苦しんでいる分裂病者がいるのである。現に、デカルトは、すべてを疑うことを決めたときに気が狂うだろうことを予期しており、そして、実際に狂ったらしいのだ。もちろん、彼は狂ってもいいように長年かかって用意していた。デカルトの懐疑は命がけである。彼と比べると、多くの人は疑うどころか、存在しているかどうかさえ疑わしい。(p64)

 刊行直後に読んだはずなのだが、このパンチの効いた一文のことはすっかり忘れていた。最近、新刊書に良い収穫が得られず、何気なく『必読書150』を手にとってパラパラしていているうちに、『方法序説』のページにハタと目がとまったのである。デカルトの懐疑論が、そのような壮絶な思考の果てに到達したものだったとは……。

 疑うこと、すなわち、考えること。
 柄谷の言を待つまでもなく、近頃、新聞やネット上でニュースを読んでいて思うことには、考えることそのものを放棄しているとおぼしき人の何と多いことか。他人事ではない。「命がけ」でなされた思考を読まずにやり過ごすのは惜しいのではないか。思えば、私はデカルトのあの言葉を他人の引用で知るのみで、愚かにも原典の翻訳に触れたことは今まで一度もなかったのだ。最近になって、私がデカルトを読み始めたのはそんなワケである。
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# by syunpo | 2006-07-23 19:02 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

スペインの輝き!〜プラド美術館展カタログ

●『プラド美術館展カタログ』/読売新聞東京本社/2006年発行

b0072887_19394422.jpg プラド美術館展は東京展を終え、会場を大阪市立美術館に移して大阪展が現在開催中である。
 国立プラド美術館は、かつて栄華を誇ったスペインの輝きを象徴するように、主に一六〜一七世紀ヨーロッパの絵画史を彩った巨匠たちの傑作を数多く収蔵していることで知られる。
 本展は、七千点(!)を超えるコレクションの中から八一点の作品を展観するものである。カタログは、展示作品の解説に加え、フアン・J・ルナの「プラド美術館とそのコレクションの歴史と発展」、大高保二郎の「ローマのベラスケス(1630年)、古典古代と風景への感興」、木下亮の「スペイン・ブルボン家の宮廷美術の展開とゴヤ」という三篇のエッセイが収録されている。さらに巻末には「プラド美術館創設前史」「プラド美術館の歴史」なども併録されていて、かなりの大冊である。

 展示内容は、五つのブロックに分かれている。
 「第一章 スペイン絵画の黄金時代ー宮廷と教会、静物」
 「第二章 16、17世紀のイタリア絵画ー肖像、神話から宗教へ」
 「第三章 フランドル・フランス・オランダ絵画ーバロックの躍動と豊饒」
 「第四章 18世紀の宮廷絵画ー雅なるロココ」
 「第五章 ゴヤー近代絵画への序章」

 展覧会はまさに豪華絢爛、見ごたえのある内容だった。
 ティツィアーノからゴヤまで、これまで絵画集やネット上の写真でしかお目にかかったことのない名画が、次から次へと私の眼前に現れる。この悦楽をいかに表現すべきか。私はおのが語彙の貧困を実感せずにはおれない。

 哀しいまでに透明なエル・グレコを観た。
 たとえば「十字架を抱くキリスト」。十字架を担がされて肉体的苦痛を感じているはずのキリストが輝く瞳で遠方をみつめていて、あらゆる邪念から解放され「透明な存在」であるかのように表現されている。あるいは「寓話」。細い蝋燭に火をつけようとする少年の両側に猿と髭を生やした男がはさむように描かれている。ここからいかなる「寓意」を読み取るべきなのか私には分からないのだが、この絵に漲る不思議な清澄感を私は受け止めたのだった。

 圧倒的な肉体の存在感を示すジュゼッペ・デ・リベーラを観た。
 「聖アンデレ」や「盲目の彫刻家」における使徒や彫刻家の肉体の生々しい力感。とりわけ盲目の彫刻家の皺だらけの手だけを見ても、息を呑むリアルさだ。あるいは「アッシジの聖フランチェスコの幻視」の厳粛なる緊張感はどうだろう。

 ベラスケスの肖像画を観た。
 自画像との説もある「男の肖像」や「道化ディエゴ・デ・アセド、“エル・プリモ”」など、地位がそれほど高くない人物をモデルにした肖像画に惹かれた。それらの作品では、飾り気を排した人間臭さが醸し出されていて興味深い。

 静物画(ボデゴン)の美しさをサンチェス・コタンやスルバランに観た。
 サンチェス・コタンの「狩猟の獲物、野菜、果物のあるボデゴン」には、チョウセンアザミ、ニンジン、リンゴ、葉付きのレモン、串刺しにされたスズメ、ウズラなどが建築枠の中に詳細に描かれている。光と陰のコントラストが絶妙で、どれほど見つめていても飽きることはない。
 スルバランの「ボデゴン」は、四つの食器が並べられているだけだが、妖しいほどに美しい。

 エレガントなムリーリョを観た。
 スペイン絵画の主要な主題の一つであった「無原罪の御宿り」。「エル・エスコリアルの無原罪の御宿り」における聖母マリアの表情は、あまりに可憐だ。やや上目使いで手を合わせるマリアが羽織っているマントの青色が、優雅に映える。

 ティツィアーノの有名な「アモールと音楽にくつろぐヴィーナス」を観た。
 ベッドに横たわる裸体のヴィーナスとオルガン弾きの男。窓の外にはカップルや鹿などが描かれている。オルガン弾きは振り返ってヴィーナスを見つめている。どこを見ているのか?

 楽しさに満ちたヤン・ブリューゲル一世とダーフィットを観た。
 ヤン・ブリューゲルの「大公夫妻の主催する結婚披露宴」は、ネーデルランドの賑やかな結婚披露宴を主題とするもの。大勢の人々や木々の葉っぱが丹念に描かれていて、風俗画の面白さを充分に堪能できる。
 ダーフィットの「村の祭り」も同様の喧騒を描いたものだが、人々の顔、壺やテーブルの一つひとつがこれまた精巧にスケッチされ、私の眼はしばらく画面に釘付けになった。

 メレンデスのスイカに、カブトムシの幻覚を観た。
 「ボデゴン:風景のなかの西瓜と林檎」は雑誌など印刷物でよくみかける絵画だが、実物をみると西瓜の存在感が格別で、何やらカブトムシがモゾモゾと這っているような気がしてくるのだった。

 絵画と視線について考えさせるゴヤを観た。
 「ビリャフランカ侯爵夫人マリア・トマサ・デ・パラフォクス」は面白い絵だ。画家としての伯爵夫人が、キャンバスに向かって夫とおぼしきモデルを描いている。伯爵夫人の視線は、画面には出てこないモデルに向けられている。キャンバスに描かれた夫の視線は何やら夫人に向けられているようである。その絵を私たち鑑賞者が観ている。画面の内と外で様々な視線が行き交っている……。

 「プラド美術館展ースペインの誇り 巨匠たちの殿堂ー」大阪展は、大阪市立美術館開館七〇周年記念として、一〇月一五日まで開催されている。
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# by syunpo | 2006-07-20 19:43 | 展覧会図録 | Trackback | Comments(0)

日々のニュースを読み解くために〜『メディア社会』

●佐藤卓己著『メディア社会』/岩波書店/2006年6月発行

b0072887_22213866.jpg 本書は京都新聞に連載されたコラムをもとに編集されたもので、独立した五〇篇の短文から成る。二〇〇四年一一月から翌年一一月までに生じた個別のニュースを取り上げて、それにメディア論学者としての視点を論述し、問題の考察への端緒を提供する、といった趣である。
 メディア文化論とは、メッセージ内容ではなくメディア形式を考察するもの、という筆者の認識に基づけば、こうした短文集からメディア文化論学者の神髄を知ることは、ハナから困難といわねばならないだろう。通読した後に、学者としての強烈な主張も個性もついに浮かび上がってくることはなかった。
 「メディア」「輿論と世論」「マニフェスト」「公共」などの語句について、学術用語としての歴史的由来や定義に拘泥するのは良しとしても、その後の展開にキレ味を欠き、結果として筆者が何を言いたいのか判然としない、というコラムが多すぎるのだ。

 本来、こうした体裁の書物では、学者としての力量よりも批評家・文筆家としての表象能力や話芸を求められるのだが、残念ながら、この筆者にはそのような能力にも不足している。

 たとえば、三〇話の「ニューディール・コメディ・二〇〇五」では、二〇〇五年の九・一一選挙の小泉自民党の圧勝劇について、映画『スミス都へ行く』を援用して論述している。小泉をスミス青年に重ね合わせて、『コイズミ靖国へ行く』というオヤジギャグで締め括っているのだが、面白くもなんともない。

 あるいは、四七話の「ホリエモンの野望」。ライブドア・堀江社長とフジテレビ・日枝会長の抗争を国盗物語に見立てて、前者を織田信長、後者を今川義元になぞらえる記述なども、今一つセンスを感じさせない。

 また「ジャーナリズムの冷笑主義」と題する一文では、「(ジャーナリズムの)政治批判は人々に冷笑主義を蔓延させているだけ」と断じているが、ジャーナリズムの政権与党に対する批判力の著しい衰退が指摘される昨今、いかなる事象をもって、そのように主張するのか理解に苦しむ。

 佐藤卓己は、気鋭のメディア文化論学者として売出し中のようだが、本書から彼の良さを感受することはできなかった。
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# by syunpo | 2006-07-17 22:24 | メディア論 | Trackback | Comments(4)