市民の手で克服すべきもの〜『報道被害』

●梓澤和幸著『報道被害』/岩波書店/2007年1月発行

b0072887_1962277.jpg 本書は、メディア報道による人権侵害の問題に取り組む弁護士が、種々の「報道被害」の実態とその対策を述べたものである。「冤罪」報道、犯罪被害者へのメディアスクラム……など報道による人権侵害の中身は単純ではないが、具体的な事例に即した記述は説得力にとんでいる。

 著者の見識が何より優れているのは、そのような報道被害の顕在化に乗じて政府与党がメディア規制の動きを強めていることに、同時に警戒心をもっている点にある。
 インターネットの普及もあって、一般市民のメディア不信は具体的な形をとって現れてきている。そうした時流に政府が棹をさして「人権擁護」の名のもとに、検閲的なメディア規制を企図する動きに監視の目を怠ってはならない、筆者はそう呼びかけるのである。その観点から個人情報保護法についても、報道の自由を侵す危険性があるとして批判的な目を向けている。

 つまり、本書の問題意識は「知る権利と報道の自由を萎縮させたり、抑圧したりすることなしに、報道被害を減少させ、なくす方策を探るべきだ」(p162)という言葉に集約される。単なるメディア批判に終始せず、俯瞰的に事件報道と人権の関係について問題提起を行なっている点に、本書の大いなる価値があるといえるだろう。

 報道被害の再検証としてここに述べられている事案は、どれも悲憤慷慨せずにはおれないものばかりである。
 「松本サリン事件報道・再考」では、自分たちの誤りを認めない警察の体質とそのリーク情報に頼りきったメディア報道の安易な姿勢がともに厳しく指弾されている。
 また、二〇〇三年に起きた福岡一家殺人事件では、被害者の親族が被疑者としてメディアに追われ、二重の苦しみを味わうことになった。損害賠償請求の裁判を提起し、異例の高額判決を勝ち取った経緯についても触れられている。

 何故、報道被害は発生するのか。
 著者は、以下の五つの問題点を指摘している。

 (1)苛酷なスクープ競争により、たとえば事件被害者の家族と信頼関係を結ぶ時間的余裕もないままに、いきなりマイクをつきつけてしまう。
 (2)取材する者とされる者との力の差が歴然としていることが、報道被害発生の構造的原因となっている。したがって、被害を受ける側を強力に支援する体制をつくる必要がある。
 (3)犯罪報道の情報源を警察に依存していること。そのために警察のメディアに対する情報管理を監視する仕組みがほとんど存在しない。
 (4)メディア企業の経営者や幹部のなかに、利益至上主義、商業主義を報道の公共性よりも優先させる思想が過度に浸透している。
 (5)現場の記者やデスクの人権感覚をも問題とすべきである。

 そうした問題点を踏まえて、著者は報道被害を減らすための対策として、いくつか具体的な提案を行なっている。
 報道被害救済のための業界横断的な「報道評議会」の設立、商業主義に過度に傾斜するメディアの経営陣、編集幹部の意識改革、メディア内部に人権思想を浸透させること……などは、特に異論はないだろう。
 賛否両論ありそうなのは、「捜査情報の公開」だ。「警察の情報独占により報道機関に影響力を及ぼす構図そのものを解体することが不可欠」だとして「捜査という公権力行使を監視にさらすことが必要」だと主張するのだ。たとえば、松本サリン事件で捜索差押令状が情報公開の対象になっていれば、メディアはもっと早く真実にアクセスすることができたのではないか、という。
 そこで、捜査情報を「公開した場合のプライバシー侵害のリスクを減らすために、犯罪情報を報道するときにはその人が公人でない限りは匿名にする」という方策を同時に提案するのだ。
 犯罪報道の匿名化については、以前から提唱するメディア関係者は少なくないが、捜査情報の公開をワンセットにした提案は、考え方としては興味深いものだ。

 メディア関係者はもちろん、ジャーナリズムに関心をもつ人ならば、一読しておくべき良書である。
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# by syunpo | 2007-02-26 19:25 | メディア論 | Trackback | Comments(0)

俺たち、慶應同期生〜『政治原論』

●佐高信、岸井成格著『政治原論』/毎日新聞社/2006年11月発行

b0072887_17403258.jpg 慶應義塾大学法学部・峯村光郎ゼミの同期生、佐高信(評論家)と岸井成格(毎日新聞特別編集委員)による政治談義。「政治原論」と名乗るのも御大層な気がするが、大学時代の思い出話に始まって、もっぱら二人が交流した政治家の挿話や評定が語られる。

 政治を論じるに、二人の語彙の凡庸さは如何ともしがたく、テレビのトーク番組ならいざ知らず、一冊の書物としてはちょいと中身が薄い。
 ただ、メディアの一線で活躍してきた御両人だけに、政界の内幕話には事欠かない。
 佐藤内閣の末期、環境庁発足に際して、その命名をめぐって「公害対策庁」「公害調整庁」などの案が出ていたのだが、岸井の提案した「環境庁」が採用された話(ホンマかいな)や、ロッキード事件で連日健筆をふるっていた岸井の親戚の何人かに警察や国税の調査が入ってイヤがらせを受けた話などは、酒の肴くらいにはなるかもしれない。

 ちなみに、慶應義塾大学の同期生には、ほかに小泉純一郎、小沢一郎、浜四津敏子、嶌信彦らがいるらしい。
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# by syunpo | 2007-02-22 17:44 | 政治 | Trackback | Comments(0)

国策捜査の穴に落ちて見えた風景〜『国家の罠』

●佐藤優著『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』/新潮社/2005年3月発行

b0072887_2191848.jpg 著者は、鈴木宗男と連携して対ロ外交に異能の手腕を発揮した外務省の元主任分析官。二〇〇二年、「国策捜査」により、背任と偽計業務妨害の罪に問われ、第一審では執行猶予つきながら有罪判決を受けた。その間の勾留生活は、五一二日間の長きに渡った。今や言論界の寵児として活躍中の人物である。

 本書は、逮捕前夜の外務省の内部事情や鈴木宗男とともに働いたロシアや中央アジアとの外交のエピソードを前段に述べて、その後の自民党政権内部の政争による鈴木宗男失脚と自身を巻き込んだ「国策捜査」の経緯を冷静に記述したものである。

 佐藤は、みずからの嫌疑については一貫して否定しながら、心酔する鈴木宗男の政治家像を熱く語る。一方で、田中真紀子元外相の迷走ぶりをはじめ、外務省内部の腐敗の実態を辛辣に批判している。

 本書の面白さは、何といっても逮捕後の担当検事との生々しいやりとりの再現部分にある。検事みずからが「国策捜査」であることを認め、時には知的刺激に満ちた政治論・外交論を議論しながら「事件」がつくられていく様は、スリルに満ちて読者を一気に引っ張っていく。

 鈴木宗男や自身の逮捕・起訴については、佐藤は大局的見地から次のように分析している。

 現在の日本では、内政におけるケインズ型公平配分路線からハイエク型傾斜配分路線への転換、外交における地政学的国際協調主義から排外主義的ナショナリズムへの転換という二つの線で「時代のけじめ」をつける必要があり、その線が交錯するところに鈴木宗男氏がいるので、どうも国策捜査の対象になったのではないか……(p292〜293)

 本書の核心をなしていると思われるこのような国策捜査の見立ては、たしかに興味深くはあるが、些かアカデミックに過ぎるような気がしないでもない。実際のところは、小泉政権下における政権中枢と旧経世会勢力との政争や外務省の内部抗争など、もう少しせこいレベルでの政治力学が結びついて作動しただけではないのか、という思いが読後も拭えなかったことを正直に記しておく。

 著者が高い評価を与えている政治家・鈴木宗男像についても、本書の記述からだけでは、今一つ、その「魅力」というものを感受しかねる。田中真紀子との対立抗争で、鈴木宗男がもっぱら悪役に回ってしまった理由(田中真紀子が国民の支持を集めた理由)なども、単に週刊誌レベルの情報に国民が振り回された結果、と片づけられるようなものではないだろう。
 さらに佐藤自身が、たとえば報償費(機密費)の問題について、外務省と国民感情との乖離を軽視している点なども、少し気になった。

 とはいえ、本書がつきつけた問題は、やはり深く鋭いものがある。
 わが国の司法が、いかに政治的・恣意的に働いているか。外務省内部がいかにつまらない嫉妬や中傷合戦で動いているか。生々しい事件の当事者による書物であるから、すべてを額面どおりに受け止めるわけにはいかないだろうが、現実に保釈まで拒んで勾留されていた筆者のこと、大きな虚偽を記さねばならぬ理由もなかろう。
 国家による不当な仕打ちに遭遇しながらも、怨念に溺れることなく、あくまで沈着冷静に状況を記述する著者の強靱さは、驚嘆に値すると思う。
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# by syunpo | 2007-02-20 21:26 | 政治 | Trackback | Comments(0)

この国を捨てる準備として〜『法と掟と』

●宮崎学著『法と掟と』/洋泉社/2005年12月発行

b0072887_1751391.jpg これは、実に面白い本である。
 「アウトロー」の人生を歩んできたと自認する著者が、実体験に即して社会規範のあるべき姿について鋭く論じている。

 宮崎の考えによれば、社会規範とは「個別社会」にみられる「掟」と「全体社会」における「法」の二つある。「個別社会」とは、家族・血族、地域、同業者組合など、一般に「中間団体」と呼ばれるものを指す。「全体社会」は、国民国家のような抽象的な組織をいう。

 個別社会の掟は、はっきり明文化されたものでは必ずしもなく、運用も「融通無碍」に行なわれる。生活基盤に密着した仲間内の規範であるから、それは相互扶助の精神に基づいた「仁義」のようなものである。
 一方、全体社会における法とは、人為的に構成されるものであり、その意味で形式的・抽象的な規範である。

 通常、掟と法は、異なる次元において作動するものであり、両者は融合するものではない。掟ではカバーできない場面において参照されるべきものが法なのである。
 ところが、日本では、明治維新以降、前近代における個別社会を解体し、国民をいきなり全体社会に組み入れることによって、急速に近代化を推し進めた。その結果、近代日本では、社会といえば、そのまま全体社会である国民国家を指し示すような事態を招いてしまった。
 ならば、日本社会における社会規範として「法」が十全に機能しているかといえば、さにあらず。近代化の過程で「法」と「掟」が癒着してしまったために、「世間」の「曖昧で流動的」な「規範のようなもの」が幅を利かす社会となってしまった、というのが宮崎の見立てである。

 グローバル化が進む世界にあっては、個人が個人として自律していくためには、個別社会の再構築が必要である、と著者はいう。それは、たとえば中国人社会にみられる「幇」や血族組織がもつ国際的なネットワークのようなものである。中国の個別社会が強い力を発揮するのは、それが中国人の徹底した個人主義に根ざしたものであるからだ、という。
 この「実践的部分」の記述に関しては、著者ならではの一見挑発的なアピールのようにもみえる。しかし、日本の近代化の過程を大づかみながら検証した後の提言として虚心に読むならば、決して奇を衒ったものではなく、むしろ一つの道理にかなったものだと思える。

 若年層の倫理観の欠如の改善策を、教育基本法の改正や道徳教育の強化に求めたがる昨今のわが社会の短絡的な時流に対抗するためにも、本書は力強い指針を示したものではないだろうか。
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# by syunpo | 2007-02-16 18:06 | 社会全般 | Trackback | Comments(0)

言葉のちからを問う〜『ニッポンの小説』

●高橋源一郎著『ニッポンの小説 百年の孤独』/文藝春秋/2007年1月発行

b0072887_1852135.jpg これは、「ニッポン近代文学」を語り、散文について論じ、言語について思索し、人間という不確かな存在について考察した書物である。問題意識としては、柄谷行人の『近代文学の終り』と共通するものがあるかもしれない。近代国家の成立と近代小説の成立が不可分であることを論じたベネディクト・アンダーソンをベースにしている点だ。
 ただ、高橋が柄谷と決定的に違うのは、彼は現役の「小説家」として当然ながら、文学の「存在価値」に見切りをつけていないところにある。

 ニッポンの近代文学は、「死」や「死者」について描こうとしてきた。あるいは「死者の代弁」をしようとしてきた。それこそが、ニッポンの小説にとって最大のテーマであるかのごとくに。つまり、死者の存在こそが文学者の「善性」を証明してくれるかのように小説を書いてきた。それらの試みは、必ずしも成功したとはいえないが、ネーション(国民)が、みずからの「善性」を確かめるために「死者」を必要としたこととパラレルに行なわれてきた、という事実は重要である。

 だが、今や「国民国家」は、初期の「信」を失い、後期ナショナリズムの時代に入っている。そこでは、あらたな「善性」の証しとなるものが強く求められている。
 そこで、高橋は態度を明らかにする。これからも小説(文学)が「ネーション」と運命をともにすべきである、とぼくには、いうことができない、と。

 これから文学は何を語るべきなのだろうか。小説に未来はあるのだろうか。
 高橋は、古井由吉の『野川』や猫田道子の『うわさのベーコン』を引用しながら、行きつ戻りつ、その可能性について言及する。同時にニッポンの小説がこれまで失敗してきた点、回避してきた問題を厳しく問うていくことも怠らない。
 明快な「処方箋」が安易に記されることは、もちろんない。

 高橋が立っている地点は、さながら9・11同時テロによって破壊されたビルの瓦礫の中のようである。
 彼はそこで、「ニッポンの近代小説」の「集落」のような在り方を振り返り、現在直面している「危機」について冷静に論述する。そして、人間を人間たらしめている「言語」というものの存在に震えつつ、最終的には、ある「場所」に留まりつづけることを表明するのだ。

 およそ、言葉というもののふるまいの一切に、真剣に聞き入ることのできる場所、言葉というものがなにをしようとしているのか、言葉というものが、にんげんになにをさせようとしているのかを見つめることのできる場所、つまり、小説という場所のことです。(p446)

 本書は「小説家は、作品でこそ〈文学〉の価値を実証すべきではないのか」というつまらない揶揄を吹き飛ばす、真摯にしてスリリングな文学論であり言語論である。
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# by syunpo | 2007-02-14 19:00 | 文学(小説・随筆) | Trackback(1) | Comments(2)