ブックラバー宣言


コラムニスト・吉本俊二の書評ブログです。
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面白うて、タメになるトーク集!?〜『文芸漫談』

●いとうせいこう、奥泉光著『文芸漫談 笑うブンガク入門』/集英社/2005年7月発行

b0072887_19594019.jpg いとうせいこうと奥泉光という当代きってのクセ者二人が繰り広げるまさしく「文芸漫談」である。実際に二人で「舞台」に立ち、喋りまくった「巡業」の記録だ。

 二人のやりとりは、一見、ケイハクにみえて、どれも啓発精神に富んでいる。いとうせいこう自身の言葉を借りれば「クスクス文学がわかる」本だ。本人たちが言っているのだから間違いはなかろう。

 たとえば、文化的コードをめぐって。
 「しずかさや 岩にしみいる 蝉の声」という俳句における蝉は、何匹いるか。
 ……蝉は「無数」に鳴いていて、個体性を持たないがゆえに「静か」に岩にしみいっていく。これが日本の文化コードに基づく解釈である。しかし、さる外国人留学生は「一匹、せいぜい二匹」と主張した。蝉がたくさん鳴いていたらうるさいだけ、と単純に考えたのだろう。この句をめぐる二人の掛け合いは秀逸だ。
 そして奥泉は、文学の意味づけを「コードに従いながらコードを揺るがす」ことにある、とさりげなく主張する。

 あるいは「ユーモア」をキーワードに文学を語る部分も面白い。いい小説を「笑える小説」と定義づけて、田山花袋も志賀直哉も、ユーモアで切り取って再生させる。

 奥泉の作品を読んでいなかった私は、思わず、彼の作品を求めて書店に走ったほどだ。いとうのツッコミも随所に効いている。

 難があるとすれば、渡部直己が記す下段の注釈だ。ちょっとダサくて邪魔な気がする。
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# by syunpo | 2006-04-07 20:07 | 文学(小説・随筆) | Trackback | Comments(2)

既成の美術史を粉砕する〜『絵画の準備を!』

●松浦寿夫、岡崎幹二郎著『絵画の準備を!』/朝日出版社/2005年12月発行

b0072887_1524175.jpg とかく美術や音楽の批評というものは、図式化された通史と手垢にまみれた言葉によって、互いに頷き合って作品を了解した気になる、という紋切り型に収まる場合が多いわけだが、本書では、そのような怠惰な言葉が決して発せられることはない。
 参照される知見は、ゴダールの映画から、カントやニーチェの思想家、フロイトの精神分析、はては本居宣長や荻生徂徠の江戸期の学者まで、実に幅広い。
 
 本書の主張を結論的に言ってしまえば、「絵を描こうと思ったら白い画布に虚心に対面しさえすればいい——この通念がイデオロギー的虚構にすぎないこと(中略)、この対談集で語られるのは煎じ詰めればそのことだけ」という浅田彰の要約に尽きるのだろう。

 ただし、二人の対談に付き合うためには、上述したごとく、それなりの学識と覚悟がいる。岡崎幹二郎の以下のような発言はどうだろう。

 たとえばピカソのように、絵画というテクネの自動運転にまかせてしまったとき起こるだろう多産性を自覚してしまったとき、それを支えているマトリクスのメタファーとして女性器が出てくるのかもしれないね (p210)

 これ、正直、私には全然わかりません。ほかにもわからない箇所は、いくつもあります(笑)。本書を本当にエンジョイできる読者は、高度な知性と教養の持ち主といえるでしょう。
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# by syunpo | 2006-04-07 15:25 | 美術 | Trackback(1) | Comments(0)

国家の運動に対抗するために〜『近代文学の終り』

●柄谷行人著『近代文学の終り』/インスクリプト/2005年11月発行

b0072887_14184899.jpg 本書は、前半に著者が行なった講演草稿に基づく文章、後半にインタビューでの発言や対談が収録されている。話し言葉がベースになっている分、平易で読みやすい。

 著者は、ここで近代文学の終りについて述べている。かつて世界各国で力を持ちえた文学の役割の終焉について、静かに語っている。
 ネーション=ステートは、その確立のために国民を一体化させる「国民文学」を必要とした。文学とりわけ小説が、知識人と大衆、あるいはさまざまな社会階層を「共感」によって同一的たらしめ、国民国家を形成することに寄与してきたのである。
 小説の地位は上昇し、その結果として「政治と文学」のような問題も生まれた。小説は無力であり虚構だが、時に革命的な認識を示すのだ、との文学擁護は、背景に文学への批判が存在した。しかし、今日では誰もそのような文学の意味づけを行なわない。誰も文学を批判したりはしないから。つまり文学は無力化したのである。

 八〇年代以降、小説は「現代思想」にとってかわられた。
 今日では、文学は、みずからが担った国民的共感の形成も、道徳的課題からも解放され、ただ娯楽として生き延びている。あるいは村上春樹的な癒しの物語として。
 しかしながら、かつて文学が対峙していた資本主義と国家の運動は終ったわけではない。それは人間環境のすさまじい破壊を厭わない。そのなかで対抗していくためには、文学以外の方法を必要とする。

 文学以外の方法——それは「アソシエーショニズム」という概念だ。それは必ずしも理解しやすい概念ではないが、昨今、巷間にいわれる「コモンズ」という緩やかな市民的ネットワークなどと相通じるものがあるかもしれない。
 具体的には地域通貨の考えを盛り込んだNAMのような運動が実行に移されたが、あえなく失敗した。日本では黙殺されたその試みは、しかし、世界的文脈のなかでは少なからぬ注目を集めた。たとえばクロアチアの活動家グループは、柄谷の理論に高い関心を寄せて交流を始めている。
 この間の経緯について、著者は浅田彰や大澤真幸、岡崎幹二郎らのよき理解者を得て「インターネットに頼りすぎた」などと率直に述べてもいる。彼の運動が、現実には頓挫したとしても、その理論の価値までもが摩耗したわけでは毛頭ない。

 柄谷行人のアクティブかつ深い考察の記録を、本書から読み取ることができるだろう。それは、昨今マスメディアを賑わしている凡百の国家論や資本主義論よりも、驚きと刺激に満ちている。
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# by syunpo | 2006-04-07 14:23 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

プロローグ

b0072887_12513693.jpg 電話帳はこの世でもっとも分厚い詩集である、とか言ったのは寺山修司だが、人は誰でも想像力を羽ばたかせて、いろんな世界に飛んでいくことができる。

 電話帳を読んで、詩的感興に浸ることができるほどの想像力を私はあいにく持ち合わせてはいないが、そんな凡人にも、輝きに満ちた別世界へと連れ出してくれる書物は、まわりにあふれている。
 「近頃、面白い本がない」というのは、単にその人が面白い本をハンティングする意欲や能力に欠けているからにすぎない。

 私が出会った、エキサイティングな本、知的スリルを満喫させてくれた本、新しい地平を広げて見せてくれた本……そんな本たちを、ここに呼び込んでいきたい。
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# by syunpo | 2006-04-07 12:54 | ノンカテゴリ | Trackback | Comments(0)