自分探しというイデオロギー〜『消費社会から格差社会へ』

●上野千鶴子、三浦展著『消費社会から格差社会へ』/河出書房新社/2007年4月発行

b0072887_1625388.jpg 社会学者の上野千鶴子とベストセラー『下流社会』を著した消費社会研究家の三浦展の二人が語りおろしたものである。前半では、団塊世代とそのジュニア世代を軸に眺めた時代の移ろいから「下流社会」化を語り、後半では三浦展が編集長を務めた雑誌『アクロス』の回顧談を中心にパルコやセゾングループについての話が弾む。

 巷に猛威をふるう「私らしさ」だの「自己責任」だのというスローガンに対して、ザックリと身も蓋もない二人の認識が示されるさまは、爽快でもあるが恐ろしくもある。

 上野 「モノからコトへ」とか、「消費からココロへ」と言われていたわりに、見ていて不思議だったのは、八〇年代の後半にあれほどわかりやすい上昇志向が出てきたということですね。バブルがはじけてみたら、横並びだったはずの島宇宙が、今度はバーティカル(垂直)な序列なもとの島宇宙になった。それと同時に出てきた「私(自分)らしさ」とか「いいじゃない、そのまんまで」という自己肯定のメッセージは、階層分化を正当化するイデオロギーです。(p52)

 三浦 ……低所得の人というのは今までだってずっと自己責任で生きていたじゃないですか。八百屋で食えなくなったらコンビニにして、コンビニにしたけど弁当が余るから自分で食って、それでも大手のコンビニができたらつぶれちゃって、今はまた別の仕事に変えて、というように、自分の責任で職業を選んで、自分の責任で店をつぶして、そんなこと繰り返して自分の一生を生きているわけです。
 上野 本当にそうですね、雇用保険も失業保険もない日銭稼ぎです。
 三浦 あえて自己責任なんて言われなくたって、下の方の人はいつも自己責任ですよ。(p55)


 対談をとおして、長期の保守政権による経済政策や文教行政が今日の若年層世代の「下流意識」を育み、コミュニケーション不全を生み出したことがアイロニカルな口調で度々強調されていて、大いに共感した。

 後半の〈企業・個人史〉で語られるパルコ論は、パルコには縁のない地方在住者にとっては、今一つピンとこない論題かもしれない。が、一つの消費社会論あるいは企業論として、こちらも私は面白く読んだ。
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# by syunpo | 2007-05-02 18:40 | 社会学 | Trackback(1) | Comments(0)

「知」は移動する〜『抵抗の場へ』

●マサオ・ミヨシ、吉本光宏著『抵抗の場へーあらゆる境界を越えるために マサオ・ミヨシ自らを語る』/洛北出版/2007年5月発行

b0072887_17242021.jpg 戦後すぐに米国に渡り、かの地の大学で多くの学者を育てたマサオ・ミヨシのインタビューをまとめたものである。
 彼は、カリフォルニア大学バークレー校で英文学科の教授として職を得て、ヴィクトリア朝文学の専門家として二十四年間勤務し、その後、同大学サンディエゴ校では、英文学だけでなく比較文学、日本文学を教えた。その間、多くの「会議」を主宰して学問の垣根を超えた交流を画策し、大学の制度改革に挑み、ベトナム反戦運動に参画し、最近では環境研究の重要性を訴えている。

 私は、この人物の存在をほとんど知らなかった。何よりもまず、このような日本人学者がいたことじたいが驚異ではないだろうか。
 気心の知れているらしい後輩学者の吉本光宏を聞き手にして、みずからの半生を振り返り、これからの展望を語る口調には淀みがない。ノーム・チョムスキー、故エドワード・サイードらとの親交も厚く、彼らとの関わりも熱っぽく語られている。

 マサオ・ミヨシは「移動」する人である。
 日本から米国へ。大学から別の大学へ。英文学から日本研究へ、さらに環境学へ。
 グローバル資本主義のもと、米国の人文科学は役割を終えたと明言し、新たな「場所」の再構築を主唱している点は、おそらく日本の大学の知のあり方にも無関係な言説とは思えない。
 インタビュアーの吉本光宏がいうように、マサオ・ミヨシに特定の学問分野の肩書きを押しつけて、彼を理解しようとするのは不適切というべきだろう。

 ……僕が一つの学問領域から他の学問領域に、一つの地域区分から別の地域区分に、かなり気ままに泳ぎ回りながら移動したのは、可能な限り多くの学者と結びつきたいという欲望からです。(p225)

 彼が行き着いた「環境」の学としての「惑星主義」の内実は、本書の発言のみでは、必ずしも明瞭ではない。しかし、全編をとおして、移動し抵抗する者としての気概とエネルギーが言葉の端々から伝わってきた。
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# by syunpo | 2007-04-30 19:29 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

フィールグッド社会をめぐって〜『幸福論』

●宮台真司、鈴木弘輝、堀内進之介著『幸福論』/日本放送出版協会/2007年3月発行

b0072887_1921724.jpg 社会学者の宮台真司と、大学院宮台ゼミに所属する二人の若手学者による鼎談集。
 テーマは「幸福への社会設計はいかにして可能か」。
 米国民主党のヒラリー・クリントン周辺から出てきた「フィールグッド・プログラム」が、本書のキーワードとなる。それは「近代社会の正統性や正当性を保ち、それらを前提とした市民の積極的政治参加を通じて、不安のポピュリズムに勝るとも劣らない有効なアウトプットを調達するべく、徹底的に研究したうえでアーキテクチャーを設計しよう」という「ソーシャル・デザイン主義」なのだ、という。

 それに対して、宮台真司は「より良きフィールグッド・ステイト化への政策を実施することの重要性」を主張し、堀内進之介は「フィールグッド・ステイト化を批判する視座を確保することの重要性」を言い、鈴木弘輝は「フィールグッド・ステイト化への感情的不満が絶えず湧き上がってくることの不可避性」を言い立てる、という図式になる。

 難解な専門用語に、時おり「頭の良いネオコン/悪いネオコン」「ネタ/ベタ」など俗っぽい言い回しを絡ませて談論風発ながらも、議論は全般的に抽象論に傾き、私には面白くもなんともなかった。
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# by syunpo | 2007-04-23 19:24 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

希望を語り続けよ〜『いま平和とは』

●最上敏樹著『いま平和とは』/岩波書店/2006年3月発行

b0072887_189476.jpg 国際法・国際機構論を専門にする著者が、平和について多角的に解説した本である。二〇〇四年にNHKで放送された「NHK人間講座」のテキストに加筆修正がほどこされたもので、そのため語り口は平易で読みやすい。

 今日、「平和」という概念には、多様な意味やニュアンスが含有されている。
 「戦争がなくとも平和ならざる状態はある」という視点から理論化された「構造的暴力」論では、人を殺傷するような従来の「直接的暴力」論にはない多角的な問題……貧困、人権侵害、環境破壊なども考察の対象とされるのである。

 ただし、本書では著者の専攻に沿って、国際機構による安全保障活動の役割やその限界、国際法の発展の歴史的記述、NPO活動の可能性などに紙幅が割かれている。

 第3話で触れられている国連ルワンダ監視団の「失敗」からは、国際社会は学ぶべき点も多いことだろう。第5話で言及される「人道的介入」は、今後も議論の尽きることのない難問を孕んだもので、平和を考察するうえで避けてとおることのできないテーマだ。
 第7話の「核と殲滅の思想」では、核兵器に関する問題が論じられている。とりわけ核兵器の使用が国際法上「違法化」される過程についての記述は、まことに興味深い。一九九五年、国際司法裁判所が勧告的意見において「核兵器の使用は原則として違法である」との判断を示したのが国際法上最初の明確な判断だったという指摘からは、国際社会で核軍縮を進めることの現実的困難を思い知らされる。
 最終章の第9話では、ヨーロッパにおけるEUの試みから話を説き起こしながら、東アジア共同体構想へと議論を展開し、「隣人との平和」が強調される。

 全体的にやや講義調ながらも、問題点が簡潔にまとめられた「平和学」の良き入門書といっていいだろう。
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# by syunpo | 2007-04-16 19:28 | 政治 | Trackback | Comments(0)

法廷内の名言&迷言〜『裁判官の爆笑お言葉集』

●長嶺超輝著『裁判官の爆笑お言葉集』/幻冬舎/2007年3月発行

b0072887_1958775.jpg 裁判員制度の導入や映画『それでもボクはやってない』の公開などで、このところ裁判に対する国民の関心も高まってきているおり、本書はまさにタイムリーな企画といえる。一言でいえば、法廷における裁判官の「肉声」を集めたものだ。

 裁判官が判決を言い渡した後で、被告人に向けて発する「説諭」は、時折新聞などでも報道されることがあるが、その高みからの説教じみた発言は、しばしば批判の対象にもなっている。裁判官は法の言葉だけを喋れば良い、人生訓など余計なことだ、という声は少なくないだろう。
 だが、ここに紹介される裁判官の「お言葉」は、その賛否は別として、無味乾燥だ権威主義的だという判決の言葉に対する世間一般の印象とは随分違った肌合いをもっており、その内容も実にバラエティに富んでいる。

 無反省な犯罪者に対する怒りの説諭あり、心ならずも重刑を言い渡さざるを得なかった被告人への激励あり、無罪判決を告げた人への慰労の言葉あり、ストーカーに真の愛を説く忠言あり、オヤジギャグを絡めた被告人への訓戒あり、死者の気持ちを代弁するかのような鎮魂の声あり、裁判官自身のツラい過去の披瀝あり、社会に対する問題提起あり、裁判官としての本音がにじみ出たボヤキ節あり……。

 そもそも、判決文朗読のあとに発せられる「説諭」とは、裁判官の気まぐれ発言ともいいがたく、刑事訴訟規則二二一条に定められた法令行為に属する。正式には「訓戒」と呼ばれるものだが、マスコミでは慣例として「説諭」の言葉が使われている。また、判決理由の最後に付け加えられる「付言」「所感」などにも裁判官個人の思いが如実に出ることがあって本書の対象になっている。

 〈控訴し、別の裁判所の判断を仰ぐことを勧める〉(2001年6月、宮崎地裁・小松平内裁判長)
 ……これは、知人二人を殺害した被告人に死刑判決を下したあと裁判長が涙ながらに発した異例の付言。「たとえ極悪人であっても、自らの手で始末することにためらいを感じたのでしょうか」と、著者はその心に思いをはせている。

 〈今、この場で子どもを抱きなさい。わが子の顔を見て、二度と覚せい剤を使わないと誓えますか〉(1996年夏、釧路地裁帯広支部・渡邊和義裁判官)
 ……覚せい剤取締法違反の罪に問われた被告人に対する裁判官による補充質問の際の発言。廊下に出ていた母子を被告人の傍らに呼び寄せて、そう問うたのだった。被告人はその場に泣き崩れた、という。

 〈飲酒運転は、昨今、非常にやかましく取り上げられており、厳しく責任を問われる。時節柄というか、そう簡単には済まされない〉(2006年9月、大阪高裁・白井万久裁判長)
 ……酒気帯び運転で、業務上過失致死罪などに問われた被告人に対する判決理由での一言。飲酒運転に対する世間の批判が厳しさを増す最近の「時代の空気」を意識した言葉だ。裁判官は憲法と法律以外の何物にも影響されてはならないという建前とは裏腹に、司法判断は世論の動向を無視できない、という巷の声を裏付けるかのような裁判官の本音がにじみでている発言ではないだろうか。

 〈被害を受けたと申告した女子高生を、恨まないようにしてください〉(2000年10月、大阪地裁・山田耕司裁判官)
 ……痴漢容疑で起訴された被告人に無罪を言い渡したあとの説諭。映画『それでもボクはやってない』で正名僕蔵が演じた裁判官が言いそうな言葉だ。

 〈本件で裁かれているのは被告人だけでなく、介護保険や生活保護行政の在り方も問われている。こうして事件に発展した以上は、どう対応すべきだったかを、行政の関係者は考えなおす余地がある〉(2006年7月、京都地裁・東尾龍一裁判官)
 ……認知症を患う実母と無理心中をはかり、生き残った被告人に執行猶予つきの有罪判決を言い渡したあとの付言。献身的に介護しながらも、生活保護を求めた福祉事務所に冷たくあしらわれ、力尽きた末の「犯行」に、検察官論告でも「哀切極まり同情の余地がある」と加えられた異例の裁判。司法の場から行政に向けられた呻き声とでもいうべきか。

 また、覚せい剤取締法違反で起訴された槙原敬之を尋問した検察官の「あなたのCDを何枚か持ってます。聴くと元気が出ますよね」という発言も紹介されていて、法廷における知られざる人間ドラマの一端を、本書から垣間見ることができる。

 本書を執筆したのは、司法試験に七度挑戦しながら合格叶わず、裁判傍聴マニアとなって活躍している異色のライターである。全体的にやや軽いノリだが、個々の裁判官の人物評など、マニアならではの記述も随所にみられて、なかなか面白い本に仕上がっている。
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# by syunpo | 2007-04-09 20:09 | 憲法・司法 | Trackback(1) | Comments(2)