ブックラバー宣言


コラムニスト・吉本俊二の書評ブログです。
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スポーツ革命の書〜『虹を掴む』

●川淵三郎著『虹を掴む』/講談社/2006年6月発行

b0072887_19371290.jpg 日本サッカー協会キャプテン・川淵三郎の「現代進行形の回想録」。ワールドカップ開催にあわせて刊行した講談社の商売上手に乗せられて、思わず手にとった。著者自身のサッカー人生、Jリーグ発足とその後の苦難と再興、日本代表の成長、代表監督ジーコへの思い……。各章のサブタイトルが「七転八起」だの「堅忍不抜」だのと、どこかの力士の口上を思い出させもするが、その語り口はあくまで熱い。

 Jリーグとは、単にサッカーのプロ化を目指したものではなく、日本のスポーツ文化を根底から変革していく壮大なプロジェクトであるということ。そうした理念は、すでにJリーグ開幕時からマスメディアを通じて喧伝されてきたことだが、あらためてJリーグ初代チェアマン自身によって記述されたことは、それなりに意義深いといえる。
 Jリーグ発足にあたっては、先行するプロ野球界を「反面教師」としたことが明確に述べられている。一企業の思惑によって左右されるリーグ運営であってはならない、サッカーが企業の宣伝広告の材料となってはならない……などなど。そうした問題で事あるごとに対立した読売のドン・渡邉恒雄との確執についても詳しく言及されていて、楽しめる。

 日本代表の歴代監督に関する記述にもかなりの紙幅が割かれている。更迭劇など生々しい挿話を織り込みつつ、「歴代の監督にはその時代ごとの役割があったように思えてくる。オフトにはオフトの、加茂には加茂の、岡田には岡田の、それぞれ監督としての意味があった」と総括する。

 日本サッカー界の中枢を歩んでいる著者ならではの具体的な語りに促されて、サッカーに関心のある読者なら一気呵成に読み終えることだろう。
 もちろん当事者故の弱点も、本書にはある。ここで言及されている出来事の関係者の大半は存命中である。当然、それなりの配慮がなされていることがうかがい知れる。また日韓共同開催で決着したワールドカップ招致運動の、政治家を巻き込んだ舞台裏の生臭い暗闘など、ネガティブな話題は周到に回避されている。現場にあれこれ口を出す自分のやり方にあまり自省の様子が見られないのも、やや疑問の残る点ではある。

 今回のワールドカップにおける日本代表の成績は、本書で述べられたジーコへの熱い思いに冷水を浴びせるような結果になったのは残念である。チマタでは、ヒステリックな川淵辞めろコールが渦巻いているが、そういう時だからこそ、川淵キャプテンの言い分に触れてみるのも悪くはないだろう。本人の言うとおり、代表チームを強くすることだけが、日本サッカー協会の仕事ではないのだから。
 同じ話題が繰り返されたり、書き言葉と話し言葉が混在するなど、ゴーストライターの手抜き仕事も散見されるが、本書を楽しむうえで障害になるほどではない。
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# by syunpo | 2006-06-26 19:46 | スポーツ | Trackback | Comments(0)

書を捨てよ、国を出よう〜『個を見つめるダイアローグ』

●村上龍、伊藤穣一著『「個」を見つめるダイアローグ』/ダイヤモンド社/2006年5月発行

b0072887_17192243.jpg 「書を捨てよ、町へ出よう」と、かつて寺山修司が若者をアジったように、今、村上龍と伊藤穣一の二人が「書を捨てよ、国を出よう」と呼びかける。

 この手の時事対談は、昨今、数多くリリースされているが、浅田彰×田中康夫の『憂国呆談』シリーズや、宮台真司×宮崎哲弥の『M2』シリーズなどの類書に比べれば、はるかにクオリティは劣る。伊藤穣一の語る雑駁な「日本人論」など、村上龍の日頃の考え方からすれば、激論になるかすれ違いになるか、およそ噛み合うはずのない発言が続くのに、何故か不思議と和気藹藹のうちに対談は過ぎるのだ。
 お互いが繰り出す日本論・日本人論の詳細な吟味よりも、グローバルに活躍する自分たちの心意気とエネルギーを共有することの方が大切だったのだろう。

 私のように、日本語で日本人だけに向けてシコシコとブログを運営している人間よりも、二人の方が圧倒的に「開かれた」人間であることは、間違いない。だからこそ、日本人が内側の世界に安住することを憂い顔で対話することもできるし、ネットに不慣れな新聞記者に「ブログでは自分で結論を出しちゃダメだ」と、したり顔でアドバイスもできる。いちいち突っ込むのは野暮というものだろう。

 対談の内容にさして見るべきものはないが、アジテーションに中身など要らない。勢いと熱気さえあれば良いのだ。
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# by syunpo | 2006-06-02 17:21 | 社会全般 | Trackback | Comments(0)

国家と資本を統御するために〜『世界共和国へ』

●柄谷行人著『世界共和国へ』/岩波書店/2006年4月発行

b0072887_1934314.jpg 〈資本・ネーション・国家〉の三位一体構造を、三つの基礎的な交換様式(互酬・再分配・商品交換)から分析し、その接合体を超える可能性を第四の交換様式「アソシエーション」に見いだす柄谷行人が、専門家ではなく「普通の読者が読んで理解できるようなもの」として、書き上げたのが本書である。二〇〇一年の著書『トランスクリティーク カントとマルクス』の読者ならば、本書の理解をより明確なものとすることができるだろう。

 経済のグローバリゼーションが国民国家(ネーション=ステート)の存在を無効化する、という言説が声高に叫ばれる昨今だが、そうした認識がいかに浅薄なものであるかを柄谷は力説している。
 端的にいえば、近代の国民国家は、むしろ資本主義のグローバリゼーションのなかで形成されたものであり、資本と国民国家とは互いに補完関係にあることが示される。たとえば、商品交換を基礎とする現在の資本制の矛盾は、国民国家が政策的に富を再分配することによって補正される。
 国家なしに資本主義はありえないし、資本主義なしに国家はない。そのような国家と資本との「結婚」が生じたのは、絶対主義国家(主権国家)においてであった。

 柄谷は、〈資本・ネーション・国家〉という「ボロメオの輪」から抜け出すために「自由な互酬性」に基づくアソシエーショニズムをもってくる。それは、もちろんマルクスに依拠した概念である。

 アソシエーショニズムは、商品交換の原理が存在するような都市的空間で、国家や共同体の高速を斥けるとともに、共同体にあった互酬性を高次元で取りかえそうとする運動です。それは先に述べたように自由の互酬性(相互性)を実現することです。つまり、カント的にいえば、「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱う」ような社会を実現することです。(p179)

 「自由な互酬性」は、かつて普遍宗教として開示されたが、宗教という形をとるかぎり、教会=国家的なシステムに回収されてしまうほかない。柄谷が可能性をみるアソシエーショニズムは、極めて理念的な形で提示されざるをえないが、それはカントの唱えた「世界共和国」なる構想として語られる。
 カントのいう「世界共和国」を今日的に実現しようとするならば、各国が軍事的主権を国際連合に預け、主権を放棄して、国際連合の強化・再編成をする以外に方法はない、いう。

 この結論だけをみれば、あまりに理想的にすぎて拍子抜けしてしまいそうだが、重要なのは結論ではない、思考の過程なのだ。本書では、アソシエーションへの道筋が思考の回路上に明快に示されていると思う。それに勝る「果実」はあるまい。
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# by syunpo | 2006-05-30 19:13 | 思想・哲学 | Trackback(3) | Comments(2)

テレビを観ていると論語の言葉を思いだす

●金谷治訳注『論語』/岩波書店(岩波文庫)/1999年11月発行

b0072887_15292288.jpg 「子曰、巧言令色、鮮矣仁」。
 子の曰わく、巧言令色、鮮なし仁。
 先生が言われた、「ことば上手の顔よしでは、ほとんど無いものだよ、仁の徳は」。(巻第一 学而第一)


 最近、テレビを観ていると、この言葉をよく思い出す。テレビ局のクルーにマイクをつきつけられてペラペラ良く喋っている人に「仁の徳」を、感じることはめったにない。
 近頃のこの手の代表選手は、村上世彰とかいう人物だ。この人の経済行為について、私は否定も肯定もしない。彼の行為が、日本の企業経営に一石を投じるとか投じないとか議論することにも私の関心はない。
 ただ、端的に彼を嫌いなだけだ。それは、生理的嫌悪に近い。強いて言葉にすれば、彼のトークに「仁の徳」が感じられないという以前に人間としての「ウソ」を感じてしまう、ということにでもなろうか。

 忘れもしない、昨年秋、日本の野球ファンが日本シリーズをエンジョイしている、まさにその時に、村上氏が阪神タイガースに介入してきたのだ。本当の阪神ファン・野球ファンならば、野球観戦に没頭するはずなのだ。
 そんな時に株を買い占めて、ガチャガチャ、タイガースがどうの球団経営がどうの、と述べ始めた。彼が野球もタイガースも愛していないことは、明白である。ならば、黙って金儲けに専念すればよろしい。逆にいえば、単なる自分の金儲けだからこそ、いろいろ講釈を垂れたくなるのだろう。それは、周囲を納得させるというよりも自分自身を納得させる喋りのように私には思える。何か世のため企業のために自分は動いているのだと思い込まなければ、大金を稼いでも空しいのだろう。
 いずれにせよ、彼の言葉から、私は知的刺激も人間的な共感をも感受することはない。

 「子曰、君子喩於義、小人喩於利」。
 子の曰わく、君子は義に喩り、小人は利に喩る。(巻第二 里仁第四)

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# by syunpo | 2006-05-25 15:35 | 論語 | Trackback(2) | Comments(2)

空を翔る画家〜『シャガール展カタログ』

●冨田章監修『愛の旅人シャガール展 カタログ』/朝日新聞社、サントリーミュージアム[天保山]/2006年4月発行

 サントリーミュージアム[天保山]で開催中の『愛の旅人 シャガール展』を観てきた。本展は日本国内の主要なコレクションから、版画一〇〇点、絵画二七点を集め、「生と死」「聖なる世界」「愛の歓び」「サーカス」「自画像」という五つのテーマにわけて展観している。
 カタログは、同ミュージアム首席学芸員の冨田章監修によるもので、出品されている全作品を解説入りで収録しているのはもちろんのこと、シャガール年譜も充実しており、資料価値としても高いと思われる。

  *  *

 絵画は、どの方向から見ても鑑賞に堪える作品でなければならない。マルク・シャガールはそう考えていた。キャンバスを、逆さにしても横に転がしても作品として成立すること。それが絵画の条件なんだ、とシャガールはいうのである。
 なるほど、その絵画観を具現化した最もわかりやすい例としての《逆さ世界のヴァイオリン弾き》では、そこに描かれた家も花瓶も上下が逆になっていて、思わず、画面をひっくり返したくなる。それでいて、そのまま鑑賞しても決して不安定な印象をもつことはない。
 あるいは三重県立美術館収蔵の《枝》。ブルーを基調とした背景に空中で抱き合うカップルが描かれ、左上の日輪のなかには笛を吹く人物がいる。そして、カップルの周囲を鳥や人が遊泳しているのだ。

 それらの作品だけではない。シャガールの世界では、恋人たちや天使たち、馬やロバのような動物たちも、しばしば浮遊感をもって存在し、花や木は横に伸びていたり下に向かって生い茂っていたりする。それらは、さながら無重力の宇宙船のなかに存在するもののように、上下左右の方向感覚を無視して立ち現れる。
 シャガールが好んでモチーフにしたサーカスもまた、軽業師が重力にさからって空中で回転したり、逆立ちしたりするものだ。

 浮遊すること。空を翔ること。シャガールの絵画における独特の無重力感は、シャガール自身の波乱万丈の人生とオーバーラップする。
 彼は、白ロシア(現在のベラルーシ)に生まれたが、パリで画才を開花させた。一時、ロシアに戻るも革命期の混乱に遭遇し、再びパリへ。第二次世界大戦が勃発すると、ナチスの迫害を逃れてアメリカに渡った。戦後はパリに戻り、晩年になってようやく南フランスに安住の地を見いだした。彼の生涯もまた、各地を転々とする「浮遊」に満ちた人生だったのだ。
 だから、シャガールの絵をよくみると、恋人たちの姿や愛らしいブーケは、必ずしも華麗さだけを湛えているわけではない。時には哀愁を感じさせ、また時には厳しさを感じさせもする。

 シャガールといえば、「エコール・ド・パリ」を代表する画家として、そのロマンティックな作風が広く知れ渡っているようだが、それは、彼の一面にすぎないことを再確認したのだった。

 《愛の旅人・シャガール展》は、四月二九日より六月二五日まで、サントリーミュージアム[天保山]にて開催中。
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# by syunpo | 2006-05-09 21:29 | 展覧会図録 | Trackback | Comments(4)