ジャズ好きのあなたに〜『TALKIN'』

●小川隆夫、平野啓一郎著『TALKIN' ジャズ×文学』/平凡社/2005年10月発行

b0072887_16172481.jpg ジャズ・ジャーナリストとして知られる小川隆夫と芥川賞作家の平野啓一郎という異色のキャスティングによる対談集。
 本書のタイトルは、いうまでもなくマイルス・デイヴィスがプレスティッジ・レーベルに残したマラソン・セッションの録音シリーズ「RELAXIN'」「STEAMIN'」「WALKIN'」「COOKIN'」をモジったもので、当然ながらトークの中心にはマイルスがすわっている。
 とはいってもマニアックなだけのジャズ談義ではない。時にショパン、あるいはピカソの絵画へと、二人のイマジネーションの翼は自在に羽ばたいていく。

 日本におけるジャズの受容は、六〇〜七〇年代、「政治の季節」のなかで独特のニュアンスを帯びて社会的な位相を有する時期があった。本書と同時期に刊行された平岡正明の『昭和ジャズ喫茶伝説』が、その時代の雰囲気を伝えて秀逸だが、本書では、あくまでも「音楽」としてのジャズが語られる。
 「昔のことなんか知っちゃいない」と、これからジャズを聴き始めようという人に、とりわけオススメできるかも。
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# by syunpo | 2006-04-08 16:24 | 音楽 | Trackback(1) | Comments(0)

暴力の運動体として〜『国家とはなにか』

●萱野稔人著『国家とはなにか』/以文社/2005年6月発行

b0072887_15471654.jpg 気鋭の学者による書き下ろしである。国家を真正面から考察する、その直球勝負にまずは敬意を表しておくべきか。
 本書のキーワードは「暴力」である。国家は「幻想の共同体」でもなければ、社会契約に基づく統治機構でもない。それは、端的に「暴力」としての絶えざる運動体である。
 もちろん、国家は公共事業や福祉政策によって国民に富を再分配し、軍隊や警察によって国民の安全を保障する。それは、国家の暴力に国民を自発的に服従させるための、暴力と一体化した国家の特質である、と筆者は考える。

 国家は暴力の実践に先だっては存在しない。暴力が組織化され、集団的に行使されることのひとつの帰結として国家は存在している。(p43)

 本書では、そうした国家像を描くために、マックス・ウェーバーやヴァルター・ベンヤミン、ミシェル・フーコーらの暴力をめぐる洞察が援用される。だが、そのような「古典的」な知に拠点を築いているからといって、本書が机上の観念的な国家論を提示しているわけでは、もちろんない。
 とりわけ、安全の名のもとにますます警察権力の強化が企図される日本にあって、筆者の認識は、ますますアクチュアルな正当性を帯びてくるように思えるのだ。

 何かといえば、「公共性」だの「国家の品格」だのと声高に叫ばずにはおれない近頃のヒヨワな国家主義オヤジとは無縁の、強靱かつ明晰な国家論である。
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# by syunpo | 2006-04-08 15:49 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

面白うて、タメになるトーク集!?〜『文芸漫談』

●いとうせいこう、奥泉光著『文芸漫談 笑うブンガク入門』/集英社/2005年7月発行

b0072887_19594019.jpg いとうせいこうと奥泉光という当代きってのクセ者二人が繰り広げるまさしく「文芸漫談」である。実際に二人で「舞台」に立ち、喋りまくった「巡業」の記録だ。

 二人のやりとりは、一見、ケイハクにみえて、どれも啓発精神に富んでいる。いとうせいこう自身の言葉を借りれば「クスクス文学がわかる」本だ。本人たちが言っているのだから間違いはなかろう。

 たとえば、文化的コードをめぐって。
 「しずかさや 岩にしみいる 蝉の声」という俳句における蝉は、何匹いるか。
 ……蝉は「無数」に鳴いていて、個体性を持たないがゆえに「静か」に岩にしみいっていく。これが日本の文化コードに基づく解釈である。しかし、さる外国人留学生は「一匹、せいぜい二匹」と主張した。蝉がたくさん鳴いていたらうるさいだけ、と単純に考えたのだろう。この句をめぐる二人の掛け合いは秀逸だ。
 そして奥泉は、文学の意味づけを「コードに従いながらコードを揺るがす」ことにある、とさりげなく主張する。

 あるいは「ユーモア」をキーワードに文学を語る部分も面白い。いい小説を「笑える小説」と定義づけて、田山花袋も志賀直哉も、ユーモアで切り取って再生させる。

 奥泉の作品を読んでいなかった私は、思わず、彼の作品を求めて書店に走ったほどだ。いとうのツッコミも随所に効いている。

 難があるとすれば、渡部直己が記す下段の注釈だ。ちょっとダサくて邪魔な気がする。
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# by syunpo | 2006-04-07 20:07 | 文学(小説・随筆) | Trackback | Comments(2)

既成の美術史を粉砕する〜『絵画の準備を!』

●松浦寿夫、岡崎幹二郎著『絵画の準備を!』/朝日出版社/2005年12月発行

b0072887_1524175.jpg とかく美術や音楽の批評というものは、図式化された通史と手垢にまみれた言葉によって、互いに頷き合って作品を了解した気になる、という紋切り型に収まる場合が多いわけだが、本書では、そのような怠惰な言葉が決して発せられることはない。
 参照される知見は、ゴダールの映画から、カントやニーチェの思想家、フロイトの精神分析、はては本居宣長や荻生徂徠の江戸期の学者まで、実に幅広い。
 
 本書の主張を結論的に言ってしまえば、「絵を描こうと思ったら白い画布に虚心に対面しさえすればいい——この通念がイデオロギー的虚構にすぎないこと(中略)、この対談集で語られるのは煎じ詰めればそのことだけ」という浅田彰の要約に尽きるのだろう。

 ただし、二人の対談に付き合うためには、上述したごとく、それなりの学識と覚悟がいる。岡崎幹二郎の以下のような発言はどうだろう。

 たとえばピカソのように、絵画というテクネの自動運転にまかせてしまったとき起こるだろう多産性を自覚してしまったとき、それを支えているマトリクスのメタファーとして女性器が出てくるのかもしれないね (p210)

 これ、正直、私には全然わかりません。ほかにもわからない箇所は、いくつもあります(笑)。本書を本当にエンジョイできる読者は、高度な知性と教養の持ち主といえるでしょう。
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# by syunpo | 2006-04-07 15:25 | 美術 | Trackback(1) | Comments(0)

国家の運動に対抗するために〜『近代文学の終り』

●柄谷行人著『近代文学の終り』/インスクリプト/2005年11月発行

b0072887_14184899.jpg 本書は、前半に著者が行なった講演草稿に基づく文章、後半にインタビューでの発言や対談が収録されている。話し言葉がベースになっている分、平易で読みやすい。

 著者は、ここで近代文学の終りについて述べている。かつて世界各国で力を持ちえた文学の役割の終焉について、静かに語っている。
 ネーション=ステートは、その確立のために国民を一体化させる「国民文学」を必要とした。文学とりわけ小説が、知識人と大衆、あるいはさまざまな社会階層を「共感」によって同一的たらしめ、国民国家を形成することに寄与してきたのである。
 小説の地位は上昇し、その結果として「政治と文学」のような問題も生まれた。小説は無力であり虚構だが、時に革命的な認識を示すのだ、との文学擁護は、背景に文学への批判が存在した。しかし、今日では誰もそのような文学の意味づけを行なわない。誰も文学を批判したりはしないから。つまり文学は無力化したのである。

 八〇年代以降、小説は「現代思想」にとってかわられた。
 今日では、文学は、みずからが担った国民的共感の形成も、道徳的課題からも解放され、ただ娯楽として生き延びている。あるいは村上春樹的な癒しの物語として。
 しかしながら、かつて文学が対峙していた資本主義と国家の運動は終ったわけではない。それは人間環境のすさまじい破壊を厭わない。そのなかで対抗していくためには、文学以外の方法を必要とする。

 文学以外の方法——それは「アソシエーショニズム」という概念だ。それは必ずしも理解しやすい概念ではないが、昨今、巷間にいわれる「コモンズ」という緩やかな市民的ネットワークなどと相通じるものがあるかもしれない。
 具体的には地域通貨の考えを盛り込んだNAMのような運動が実行に移されたが、あえなく失敗した。日本では黙殺されたその試みは、しかし、世界的文脈のなかでは少なからぬ注目を集めた。たとえばクロアチアの活動家グループは、柄谷の理論に高い関心を寄せて交流を始めている。
 この間の経緯について、著者は浅田彰や大澤真幸、岡崎幹二郎らのよき理解者を得て「インターネットに頼りすぎた」などと率直に述べてもいる。彼の運動が、現実には頓挫したとしても、その理論の価値までもが摩耗したわけでは毛頭ない。

 柄谷行人のアクティブかつ深い考察の記録を、本書から読み取ることができるだろう。それは、昨今マスメディアを賑わしている凡百の国家論や資本主義論よりも、驚きと刺激に満ちている。
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# by syunpo | 2006-04-07 14:23 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)