救済もしくは平和〜『ヒューマニティーズ 哲学』

●中島隆博著『ヒューマニティーズ 哲学』/岩波書店/2009年5月発行

b0072887_18122936.jpg 人文学のエッセンスと可能性を、気鋭の執筆陣が平易に語る《ヒューマニティーズ》シリーズの一冊。ただしこの『哲学』に関しては、必ずしも平易とは言い難い。いや、はっきりいえば私にはすこぶる難解であった。

 もっとも、重要なことは冒頭にわかりやすく記されているように思う。

 では、「哲学とは何か」と問うことはどうなのだろうか。やはり、それもまた、終焉に位置し、時代錯誤的でることが不可欠なのだと思う。調和・和解・完結に向けて哲学を整序することではなく、猛り狂って限界をはみ出す哲学の力を解放すること。しかし、それによって、何が実現するというのだろうか。本論で考えたいのはこのことである。それは、現在の哲学というよりも、未来の哲学、哲学の未来に関わることだ。わたしはそれを最終的には、救済もしくは平和だと考えたい。(はじめにⅶ)

 議論の足がかりとして、まずジル・ドゥルーズ=フェリックス・ガタリの哲学の定義から語り起こしている。哲学とは「尺度なしに概念を創造すること」。ついで、ギリシア哲学や中国哲学の始まりの一端に言及し、ヴァルター・ベンヤミンを参照しつつ、哲学の「翻訳」的性格について考察をめぐらせる。

 そもそも哲学は、……(中略)……複数の言語に開かれ、他者の言葉に耳を傾け、その上で、あらたな概念に基づいた言説を紡ぎ出す実践でもある。ドゥルーズとガタリのギリシアを考えてみれば、異邦の哲学者のオピニオンに耳を傾けるためには、翻訳の経験を避けて通ることができない。そうであれば、哲学の言語は、その始まりにおいて、翻訳において成立したということもできる。(p38)

 さらには西田幾多郎の「無の論理」に着目、中国の近代哲学者・胡適を横に並べて、哲学と政治の関連について検討する。そのような過程を経たうえで、冒頭の問題提起に応えるかのように、サラ・ロイやハンナ・アーレントの論考に触れて、哲学の未来を展望するのである。

「国家と植民の問題、そして暴力からの救済と言語の問題を、繰り返し考え抜くこと」を強調して、「他者との共生」こそが哲学の目標であると同時に、哲学の実践そのものだという。

 このように大雑把に論旨をまとめてみたところで本書の真髄は伝わらないだろうと思う。思えば「救済」も「平和」も「共生」も多くの人が口にしている言葉である。一見すると凡庸な結論に失望する読者もいるかもしれない。実際、否定的な言葉を投げかけている感想文をネットでいくつか見かけた。しかし結論的命題のみに哲学の真髄が宿っているわけでもないだろう。

 というわけで私のような浅学非才が本書について主観的に言えることはあまりない。来るべき哲学に向けて、一つの有効な道標として受け取る読者があらわれる可能性を想像し、中途半端ながらもここに本書を紹介する次第である。
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# by syunpo | 2017-10-20 18:18 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

日本の政治にも影響を与え続ける!?〜『ヒトラー演説』

●高田博行著『ヒトラー演説 熱狂の真実』/中央公論新社/2014年6月発行

b0072887_197252.jpg ナチスが権力を掌握するに際しては、ヒトラーの演説が大きな役割を果たしたといわれる。本書は、ヒトラーが四半世紀に行った演説のうち合計五五八回の演説文を機械可読化して総語数約一五〇万語のデータを作成し、それらを分析してまとめた労作である。著者は近現代ドイツ語史の研究者。

 ヒトラー自身、「語られる言葉の威力」の大きさを力説していたらしい。「人を味方につけるには、書かれたことばよりも語られたことばのほうが役立ち、この世の偉大な運動はいずれも、偉大な書き手ではなく偉大な演説家のおかげで拡大する」と。マルクス主義が一年で一〇〇万人もの労働者を獲得できたのも、大部の著作によるものではなく「何十万回もの集会」のおかげだとヒトラーは考えたのである。

 それではヒトラーの演説のいかなる点が人々を魅了したのだろうか。高田はヒトラーが多用したレトリックをいくつか挙げている。対比法、平行法、交差法、メタファー、誇張法などだ。それらはいずれも弁論術の理論にかなったものである。

 また高田はヒトラーが好んだ語句をいくつか指摘している。たとえばナチス独裁への足がかりを築いた全権委任法の審議では「国民革命」というキーワードを使うようになった。大がかりな軍事行動が始まると「平和」の語句を頻用するのもヒトラーの特徴であった。味方陣営を「われわれ」で包括する語り方によって、連帯感を形成する説得法も活用した。

 ヒトラーの活躍した時代は選挙が頻繁に行なわれたが、度重なる選挙戦はヒトラーの声帯を酷使した。そのため、ヒトラーはあるオペラ歌手から極秘裏に、発声法だけでなく、キーワードの抑揚の付け方やジェスチャーの仕方まで指導を受けたという挿話も興味深い。

 そしてもう一つ重要なのは、テクノロジーとメディアを積極的に利用したことである。大きな会場におけるマイクとラウドスピーカーの使用。外国メディアへの露出。移動に飛行機を使った遊説も当時としては新しいスタイルだった。さらに移動可能な大規模集会装置としての自動車キャラバン隊を編成したのもいかにもナチスらしいといえるかもしれない。

 ヒトラーの演説を分析することによってナチスドイツの政治手法を浮かび上がらせた本書は、ドイツの近現代史を知るうえでの有力な参考文献の一つとしてリストアップされることになるだろう。読みすすむうちに、そういえば極東の島国にも似たようなことをやっている政治勢力がいるなぁと思ったのは私だけではあるまい。それは偶然なのか。それとも意識して「手口」を真似ているのか。
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# by syunpo | 2017-10-17 19:15 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

二世紀前に登場した新しい概念!?〜『経済成長という呪い』

●ダニエル・コーエン著『経済成長という呪い 欲望と進歩の人類史』(林昌宏訳)/東洋経済新報社/2017年9月発行

b0072887_10105951.jpg 人類の壮大な歴史を駆け足で振り返り、「経済成長」という概念を様々な角度から再検討する。コンセプトははっきりしているが、参照される知見は学際的で多岐にわたっていて、さながら知の万華鏡ともいうべき本である。

 コーエンは「経済成長」という概念が近代の産物であって、人類史を通じてつねに追求されてきたものではないないことを指摘する。

 ……経済成長はほんの二世紀前に登場した新しいアイデアなのだ。太古から一八世紀の産業革命前夜までの期間、人類の収入は今日の貧困者たちと変わらない一日一ユーロ程度で低迷していた。(p22)

 ただコーエンの関心は、その「アイデア」をもっぱら心理学的な側面から捉えることにあるようである。人々の不安を和らげるのは「経済成長」という約束であって約束が実現することではないとさえコーエンはいう。

 たとえば心理学者のダニエル・カーネマンとエイモス・トベルスキーは「本人が標準と考える状況と比較」することによって、その人の幸福/不幸が判断されるのだと主張した。

 であるから、人間が成長神話から解放されない理由の一つをその心理的な機制に見出そうとするのも本書の文脈からすれば必然というべきであろう。当然ながらそのような考察を経て提起される処方箋は良くも悪しくも観念論的といえる。

 人間の欲望は、その人が身を置く状況から多大な影響を受ける。ゆえに人間は飽くなき無限の欲望を抱くことになる。そうした人間の欲望を地球の保全と整合性をもたせるためには、新たな転換が必要になる。それは物質的な経済成長の追求ではなく、人々の精神構造の変化によってもたらされるだろう。これが本書の結論的な展望である。聡明なる読者諸氏はこのような見解に、賛同できるだろうか。
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# by syunpo | 2017-10-14 10:12 | 経済 | Trackback | Comments(0)

リスク・決定・責任の一致を〜『ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼』

●松尾匡著『ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼 巨人たちは経済政策の混迷を解く鍵をすでに知っていた』/PHP研究所/2014年11月発行

b0072887_1918277.jpg 昔の自民党のように公共事業で経済を活性化させようというケインズ的な政策はすっかり不人気になってしまった。といって、かつての革新自治体が行なった福祉重視の財政もバラマキの言葉とともに支持されなくなった。
 そこで登場した新自由主義路線も、格差を拡大させ、地方を荒廃させただけの大失敗。英国のブレア政権に象徴される「第三の道」も新自由主義に少し修正を加えたようなもので、人々を幸福な生活へと導いたとはいいがたい。

 そうして世界的に台頭してきたのが極右勢力である。日本も例外ではない。しかし自国中心主義的な経済路線に明るい未来が待っているはずもない。

 では、どうすべきか。本書ではケインズ型政策や新自由主義的路線が行き詰ったあとのとるべき改革を「転換X」として具体的な政策を提示する。キーワードは「リスク・決定・責任の一致」。そして「予想は大事」。
 興味深いのは、本書の文脈では一般的に斥けられるはずのジョン・メイナード・ケインズやフリードリッヒ・ハイエクの経済理論からヒントを見出している点である。

 前半、ソ連型社会主義の失敗について考察するくだりでは、ハンガリーの経済学者コルナイ・ヤーノシュを参照する。通常、競争のないシステムでは皆が怠けてしまうことが社会を停滞させてしまうと考えがちだが、それは事実ではない。コルナイ=松尾はシステム破綻の原因を別のところに見出す。

 ソ連経済は慢性的なモノ不足に悩まされた。企業が機械や工場に設備投資して生産規模を拡大していくことに歯止めがかからなかった。ノルマを達成しなければならないという圧力が働いていたからである。裏返せば、消費財生産の割合を膨らませることができない構造になっていた。

 ソ連型システムの崩壊の大きな原因は「リスクと決定と責任」が重なっていなかったということに尽きる。国有企業経営者は、企業長単独責任制のもとで、資材購入や労働雇用の決定権を持っていた。だが、決定の結果起こることについては責任をとる必要がなかった。資材のためこみにも設備投資にも歯止めがかからないのは当然である。

 リスクのあることは、すべてそのリスクにかかわる情報を持つ現場の民間人に決定をまかせ、その責任は自分で引き受けさせる。公共機関は、リスクのあることには手を出さず、民間人の不確実性を減らして、民間人の予想の確定を促す役割に徹する。この両極分担がハイエクの提唱した図式だと言えるのだが、ソ連型システムは明らかにそれに反していた。

 ソ連の破綻を教訓にして、西側諸国では資本主義をさらに押し進めた新自由主義的な路線を強化することになった。ハイエクは自由主義経済思想の巨匠で、その後の政策はハイエクに基づいているように一般には理解されてきた。しかし彼によるソ連批判が最もよくあてはまる失敗をしたのが皮肉にも新自由主義的政策であったことを松尾は指摘する。

 ハイエクは「競争が有効に働くためには、よく考え抜かれた法的枠組みと政府の介入が必要だ」と考えた。「リスク・決定・責任の一致」が必要だと訴えたのである。また国家がさだめるルールは恣意的なものではなく、計画に及ぼす国家の影響が予測できなくてはならない。

 ところが新自由主義的な社会ではそれらが必ずしも一致していない。すべて民間事業者の競争にゆだねることが社会をうまく回すことになる、と短絡されてしまったのである。

 新自由主義の大御所ミルトン・フリードマンも同様に、人々の予想が経済の動きに影響することを指摘した。政府は民間の人々の予想を不確実にすることに手を出してはならない。人々の予想を確実ならしめるのがその役割でなければならない。それは「不況になっても景気対策も何もせずにほったらかしておくべきだ」という主張ではないのだ。

 以上のような基本認識から松尾は具体的にはインフレ目標政策やベーシックインカムを「転換X」に適した政策として提唱する。

 ベーシックインカムは、景気対策について、そのときそのときの政府の判断に頼る度合いを少しでも減らす方向にある点で、「転換X」の課題にのっとっている、と松尾は指摘する。
 またインフレ目標政策は、デフレ不況の均衡を脱し、好況の均衡を実現するために必要な「人々の予想を確定する政策」として適している、という。

 松尾の構想は、繰り返せば「リスク・決定・責任の一致」を説き、人々の予想を確定することを重視するものである。すなわち本書にいう「転換X」とは、胸三寸の「裁量的政府」から、人々の予想を確定させる「基準政府」への転換を意味する。であるから〈大きな政府/小さな政府〉のように財政規模で二分するような発想とはまったく無関係である。
 また経済学にいう「効率性」とは「少なくとも誰も犠牲にすることなく、誰か一人でも厚生を改善できる余地があるならばそれを実現すべきだ」という意味である、というフレーズが印象に残った。
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# by syunpo | 2017-10-11 19:28 | 経済 | Trackback | Comments(0)

ドイツの近現代史に学ぶ〜『ナチスの「手口」と緊急事態条項』

●長谷部恭男、石田勇治著『ナチスの「手口」と緊急事態条項』/集英社/2017年8月発行

b0072887_20424167.jpg 麻生太郎副総理が「ナチスの手口に学んだらどうかね」と口を滑らせたのは、二〇一三年のこと。すぐに撤回されたとはいえ、自民党が目指す改憲はより現実味を帯びてきているので、麻生発言は一つの戦略を示唆するものとして不気味に地底で響き続けているともいえよう。彼の認識によれば、ワイマール民主制からナチス独裁への移行は「誰も気付かない」うちに変わったというのだが、本当にそうなのか。二一世紀の日本がナチスから学ぶべきことなど本当にあるのだろうか?

 本書では、ナチスがいかにして独裁制を確立するに至ったのかをあらためてふりかえり、同時に自民党改憲草案にうたわれている「緊急事態条項」について、ドイツの近現代史を参照しつつ、いかに危険なものであるかを検討していく。憲法学者とドイツ近現代史の研究者による対論集である。

 一般にヒトラーは民主的に選ばれ民主的な手続をもって独裁体制を築いたと認識されている。けれども「ヒトラーは民主主義で大衆によって選ばれた」「ヒトラーは合法的に独裁体制を樹立した」というのは史実に反すると石田はいう。

 国民の多くがヒトラーを宰相にしようと望んだわけではない。すでにワイーマール体制が崩壊しつつあるなかで、当時の政争のなかからヒトラー首相は誕生したのだ。

 ヒトラー政権の副首相となったパーペンに言わせると、落ち目のヒトラーを「政権に雇い入れる」のであって、用が済めば放り出せばよい。露骨な反ユダヤ主義者、レイシスト、民主主義も立憲主義も否定する煽動家としてヒトラーはすでに世間に知られていました。(石田、p51)

 しかし案に相違してヒトラーはその後、実力をたくわえ暴走を始めた。長谷部がいうように「理屈の通用しない人間が相手では、エリートがコントロールしようとしても限界」があるからだ。

 ナチスの独裁を法学理論で支えた学者としてカール・シュミットが知られる。シュミットは独裁を「委任独裁」と「主権独裁」に区分して考えた。前者は「危機に直面したとき、それに対応するために一時的にある人物ないし集団に権力の集中をはかる」場合をさす。後者は「既存の立憲的な制度を離れて、新たな政治制度をつくり上げることを目的」とする独裁である。

 ヒトラー独裁の成立にあたっては、ワイマール憲法の緊急事態条項が大きな役割を果たした。シュミットの分類で言えば「委任独裁」として設定されていたはずのワイマール憲法第四十八条を根拠に発せられた緊急令が、いつの間にか憲法制定権力として振る舞うヒトラーの「主権独裁」へとすり替えられていったのだ。

 このようなドイツの史実を復習した後、日本における緊急事態条項の検討に入る。

 自民党改憲草案に書き込まれた緊急事態条項は、緊急事態の認定の要件がとても緩いのが特徴である。内乱や自然災害といったことが書かれているが、これは例示にすぎず、必要条件ではない。つまり首相や政府与党による恣意的な運用が可能となる余地がある。

 緊急事態が認定されてしまえば、基本的人権が制限される。戦後ドイツの憲法に相当するボン基本法では、緊急事態が宣言されても、思想、良心、言論の自由が制限される可能性はないが、改憲草案では制限できることが明記されている。

 さらにここで問題になってくるのは日本の司法が「統治行為論」を採っていることだ。高度な政治決定には司法が口を出さないという態度であり、これでは政治の暴走を司法が抑制することはできないだろう。「緊急事態条項を憲法に導入するのであれば、『統治行為論』を退治しておく必要があります」と長谷部が指摘するのはこの文脈においてである。

 ボン基本法では憲法の原則を憲法改正を通じてでも変えられない自国の価値観として規定している。しかし日本ではそうではない。基本的人権の尊重や国民主権などの根本原理を公然と否定する政治家がいるのは周知のとおりである。そのような状況のなかでは「ほんのわずかでも抜け道のある緊急事態条項をつくらせてはならない」と長谷部は力説するのも当然だろう。

  憲法の基本原理に毀損を加えるような安全の保障というのは、議論の根本がねじれていることになります。憲法の基本理念を守らないでいて、国を守っていることになるのだろうか。(長谷部、p239)

 対談集はややもすると大味な内容のものになりがちだが、本書は二人の対話がうまく絡み合った濃密な対談集に仕上がっている。
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# by syunpo | 2017-09-28 20:52 | 憲法・司法 | Trackback | Comments(0)