ブックラバー宣言


コラムニスト・吉本俊二の書評ブログです。
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書物を読みながら、走りながら、考えたこと〜『時局発言!』

●上野千鶴子著『時局発言! 読書の現場から』/WAVE出版/2017年2月発行

b0072887_1214758.jpg 本書は上野千鶴子が毎日新聞や熊本日日新聞などの読書欄に発表したコラムを書籍化したものである。通常の書評とは違って「同じ主題のもとに複数の本をまとめて論じるというスタイル」を採っているのが特徴。主題によっては上野自身が学者という立場を超えてアクターとして運動に関与している場合もあるので、アクチュアルな「時局発言」的な内容を含むものとなった。

 そんなわけで「書物を読みながら、走りながら、書いた」という文章がテーマ別に七つの章に括られ収録されている。〈社会を変える〉〈戦争を記憶する〉〈3・11以降〉〈格差社会のなかのジェンダー〉〈結婚・性・家族はどこへ?〉〈障・老・病・異の探求〉〈ことばと文化のゆくえ〉。

 何よりもブックガイドとして有益であると思う。民主主義について、憲法について、原発について、格差社会について、結婚について、介護について、……様々な角度から様々な人々の活動に目を配りながら、道標となりそうな書物を提示している。

 3・11の経験から語りおこして、マリー・キュリーの次女エーヴ・キュリーが著した『キュリー夫人伝』を紹介し、小林エリカの小説『マダム・キュリーと朝食を』や『光の子ども』へと話を展開したり。
 斎藤環の『オープン・ダイアローグ』を取り上げて「終わりのないオープンエンドのプロセス」と指摘したあとに、ハーバーマスの熟議民主主義を想起したり。

「自殺稀少地域」を調査した本として岡檀の『生き心地の良い町』に言及しているのも興味深い。自殺稀少地域の特徴は「もともと移住者の多い地域であること、いろんなひとがいて、つながりがゆるく、集団同調性が低く、好奇心は強いが飽きっぽい……などの発見を疫学的エビデンスとこくめいなフィールドワークから明らかにしていく」というのだ。読んでみたくなる批評文である。

 フェミニズムに関しては、盟友・岡野八代の著作を紹介している一文が印象に残った。近代リベラリズムの個人観は「個人的なことは個人的である」だったが、フェミニズムは「個人的なことは政治的である」という命題に言い換えた。そのように言明して、そうした文脈で岡野の『フェミニズムの政治学』を賞賛する。その理論的貢献は「公的領域」のジェンダー中立性神話を崩すことにあったという。

 あるいは岸政彦の『断片的なものの社会学』。「現実は『解釈されることがら』よりも、もっと豊かであることに、あらためて気づかせてくれる」と評してその読書の快楽へといざなう。そして社会学者としての心構えを再確認するのだ。

 社会学者とは、自分のなかよりも他人のなかに謎があると感じて、そのもとへ赴くおせっかいな職業だ。膨大な資料や記述を目の前にして、「で。それで?」という問いに立ちすくむ。だからむりやりつじつまを合わせるのだけれど、つじつまの合わないことがたくさんとりこぼされることを覚えていなければならない。そして自分が書いたものよりももっとたくさんの書かなかったことを、覚えておこうと思う。(p192)

 このほか加藤周一の著作をめぐる随想や「石牟礼道子、ことばの世界遺産」と題したコラムも素晴らしい。先頃、中日新聞に発表したインタビュー記事が批判を浴びたのは未だ記憶に新しいが、本書に関しては知に関する良き水先案内の書として意義深い本であるといっておこう。
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# by syunpo | 2017-03-25 12:03 | 書評 | Trackback | Comments(0)

他者への想像力をきたえるために〜『「今、ここ」から考える社会学』

●好井裕明著『「今、ここ」から考える社会学』/筑摩書房/2017年1月発行

b0072887_2032337.jpg『排除と差別の社会学』『戦争社会学』などの著作で知られる好井裕明による社会学の入門書である。ちくまプリマー新書の一冊。

 導入部で六人の社会学者を紹介しているのが本書の良き羅針盤となっている。行為の社会性に注目したマックス・ウェーバー。相互行為に焦点をあて闘争の社会学を論じたゲオルグ・ジンメル。「構造」という視点から秩序や道徳を考えたエミール・デュルケーム。主我(I)と客我(me)のダイナミクスによる自己の形成を考えたジョージ・ハーバート・ミード。「日常生活世界」を再発見しそれを重要な課題としたアルフレート・シュッツ。互いに差異をもった「人々の方法」論としてエスノメソドロジーを提唱したハロルド・ガーフィンケル。

 本書のタイトル「今、ここ」はシュッツの日常生活世界に拠る。ただし本書の解説を読んでも、その意味や画期性は私には今ひとつ理解できなかったのだが。

 この世界は、私という人間存在を中心として空間的、時間的に位相を変えて構成されています。そしてその世界のゼロ点であり、意味を生きている私の存在を確認できる原点が「今、ここ」という瞬間なのです。(p36)

 この箇所に限らず全体を通して理念やお題目が先行していて、私にはいささか退屈な読み味だったというのが正直なところ。
 スマホを中心とするIT時代の考察も紋切型の域を超えているとは思えないし、障害者の問題に関してもとくに異論はないものの優等生的な記述がつづき、私的には社会学の醍醐味を充分に感じるまでには至らなかった。

 考えてみればすぐわかるように、私たちが普段生きているとき、具体的に出会う人々よりも出会わない人の数の方が圧倒的に多いのです。とすれば出会わない人々と自分が「今、ここ」で生きているとはどういうことなのかなどを考え、「見たことのない、会ったことのない他者」が同じ時間を生きていることへの想像力を鍛え他者理解のセンスを磨くことは、けっこう面白い営みではないでしょうか。(p189)

「今、ここ」と「会ったことのない他者」とをいかにつなげて考えていくのか。口でいうほど簡単なことだとは思えないが、具体的にそれを思索し実践するのは読者自身ということなのだろう。
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# by syunpo | 2017-03-23 20:36 | 社会学 | Trackback | Comments(0)

日常生活の実践として〜『デザインの教科書』

●柏木博著『デザインの教科書』/講談社/2011年9月発行

b0072887_20112238.jpg 本書が論じている「デザイン」はかなり幅広い射程を有している。辞書には「作ろうとするものの形態について、機能や生産工程などを考えて構想すること」(スーパー大辞林)などの語釈が記されているが、ここでの対象は「ものの形態」にとどまらならい。そこから展開を広げて生活様式や思考方法なども含み込もうとする。もちろんそのような捉え方は柏木博の独創ではなく、今では多くの人が共有している認識ではあるだろう。

 二〇世紀のデザインは近代社会の出現によって提案されたものである。モダンデザインの特徴として柏木は四つの点を挙げている。「経済的計画」「人々の生活様式を新たなものにする提案」「普遍的=ユニヴァーサル」「消費への欲望を喚起する」である。

「経済的計画」の代表的な例として、フォードが始めたベルト・コンベア方式の生産がある。これはその後、住宅をはじめ様々な分野に適用されることとなった。デザインによる生活様式の提案は、ウィリアム・モリスやバウハウスなどがその先鞭をつけたものだが、バックミンスター・フラーによる「ダイマクション・ハウス」などによって発展していった。

 デザインの普遍性という点では、建築家ミース・ファン・デル・ローエの「ユニヴァーサル・スペース」というコンセプトが有名。グラフィック・デザインでも、その名のとおり「ユニヴァーサル・タイプ」と命名された文字が一九二五年に登場した。二〇世紀後半にはマーケットの論理によって「消費への欲望を喚起するデザイン」が優先されるようになった。

 以上のような概説をおこなったうえで、柏木はクロード・レヴィ=ストロースを引いて、計画的なモダンデザインにはない「器用仕事(ブリコラージュ)」の可能性を語ることも忘れない。
 さらには、フェリックス・ガタリの『三つのエコロジー』を参照しつつ、環境的エコロジーのみならず社会的・精神的エコロジーに言及している点など、柏木の知見もまた領域横断的である。

 デザインを考えることは、ものと人間の関係をどう考えるのか、あるいはものともの、人間と人間の関係をどう扱っていくのかということを考えることだともいえるだろう。(p176)

 つまり本書にいうデザインとは人間生活全般に関わる営みということになる。その意味では、よくデザインするとはよく生活するということなのかもしれない。余談ながら本書は東日本大震災の直後に刊行された新書だが、それにことさら狼狽えることなく淡々とデザインについて考察している姿勢にも好感をいだいた。
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# by syunpo | 2017-03-19 20:17 | デザイン全般 | Trackback | Comments(0)

近代日本の歴史をくぐりぬけてきた歌〜『ふしぎな君が代』

●辻田真佐憲著『ふしぎな君が代』/幻冬舎/2015年7月発行

b0072887_12191238.jpg 一八六九年、英国王子エディンバラ公アルフレッドが来日し、明治天皇に謁見することになった。日本史上初めての西洋王族の来朝である。明治新政府は失礼のないように周到に準備を始める。歓迎の準備が進むなか、横浜に駐屯していた英国陸軍の軍楽隊長が「日本国歌はいかなるものでよろしいか」と問い合わせてきた。外交儀礼として両国の国歌を演奏するというのだ。接伴掛は急遽、古歌「君が代」を用いることを思いつく。曲は鹿児島で愛唱されていた琵琶歌「蓬莱山」の一節を転用することになった。接伴掛の一人が蓬莱山の節で君が代を歌い、軍楽隊長に譜面に起こしてもらった。──これが「君が代」の始まりとされる挿話の一つである。が、定説とはなっていない。様々な異説が今なお存在しているのである。

 いずれにせよ、当時「国歌」が重視されていなかったということは確かである。確実な記録がなく関係者の記憶さえ曖昧で、国家全体として「国歌」に取り組んだ形跡がまったく見当たらない。はっきりしているのは、千年近く「あなた」の健康長寿を祈ってきた古歌が「国歌」に選ばれた時に「天皇」のみを讃える歌へと変貌したということである。

 そのようなスタートを切った歌であるからして、国歌として定着していくには、幾多の試練を経なければならなかった。様々な批判が戦前戦後を通じて寄せられた。「君が代」に代わる国歌が模索されたことも何度かあった。それらをはねのけて現代まで生き延びてきたのである。

 本書はそのような「君が代」の波乱万丈の歴史を丁寧に検証している。歌詞をめぐる解釈が時代に合わせて巧みに変化をとげていったこと。民間による普及活動がその定着に大きく貢献したこと。息つぎの箇所を含めて「君が代」の歌い方が統一されたのはレコードやラジオが普及した昭和時代に入ってからのこと。……などなど本書によって初めて知った史実はたくさんあった。
 著者が結論的に提起している「君が代」運用論には今ひとつ賛成できないけれど、君が代を理解するうえでは良き入門書であることは間違いない。
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# by syunpo | 2017-03-10 12:21 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

民主主義に対する諸刃の剣!?〜『ポピュリズムとは何か』

●水島治郎著『ポピュリズムとは何か 民主主義の敵か、改革の希望か』/中央公論新社/2016年12月発行

b0072887_1849371.jpg ポピュリズムを扱った政治学の書物にあまりおもしろい本はない。というのが私のこれまでの読書体験から得てきた管見である。おしなべて、手垢のついた用語に恣意的な語釈をあてはめただけのどうとでもいえる大味な論調という印象が拭えなかったのだ。
 本書はタイトルどおりまさにポピュリズムを真正面から考察した本である。結論的にいえばそれなりに有益であると思うが、やはり疑問も残った。

 ポピュリズムには大まかにいって二つの定義があるという。
 一つは「固定的な支持基盤を超え、幅広く国民に直接訴える政治スタイル」をいうもの。今ひとつは「『人民』の立場から既成政治やエリートを批判する政治運動」をいうもの。本書では後者を採る。何故なら「現在、世界各国を揺るがせているポピュリズムの多くは、まさにエリート批判を中心とする、『下』からの運動に支えられたものだからである」。

 水島はマーガレット・カノヴァンを引用して、実務型デモクラシー(立憲主義的)と救済型デモクラシー(ポピュリズム的)の緊張関係においてポピュリズムを捉えようとする。二つの型は民主主義にとっては欠くことのできない要素である。デモクラシーは純粋に実務型であることはできず、部分的には救済的な要素に基づくものであるから、ポピュリズムの発生する余地を常に与えることになるだろう。

 以上のような基本認識をもとに、ラテンアメリカ、ヨーロッパ、米国におけるポピュリズムの変遷をあとづけていく。それらの地域の政治状況を簡潔にまとめている点で、海外の事情には疎い私にはたいへん勉強になった。

 とりわけ労働者の権利拡張を推し進めたアルゼンチンのベロニズム(本書ではポピュリズムに類型化されている)による消費社会の到来が独自の政治的行動様式を持つ「消費者」を誕生させたとする記述は興味深い。また、デンマークやオランダ、スイスのポピュリズム政党は「リベラルな価値」の観点から、近代的価値を受け入れないイスラムへの批判を展開している、という指摘にも驚かされた。

 それらのポピュリズムを分析してわかることは、その両義性である。本書では随所にそのことが述べられている。

 ポピュリズムはデモクラシーの発展を促す方向で働くこともあれば、デモクラシーへの脅威として作用することもある。(p20)

 既成政治に対する批判、不満の表明は、それが法治国家の枠に収まる限りにおいて、意味を持ちうる。しかし実際には、安全弁だった思っていたポピュリズムが、かえって制御不可能なほどに水を溢れさせるリスクもある。(p230)

 ただし現在、世界の諸地域で進行している政治動向をポピュリズムなる包括的な概念で説明を試みることの意義や有効性については最後まで疑問が消えなかった。

 そもそもポピュリズムとは政治上の理念モデルというよりも現実に存在する政治勢力に向けられた一つのラベリングである。語源となった米国人民党の活動と直接関連づけられることも少なくなった。今ではみずからポピュリズムを名乗る政党はない。分析者が現実にあわせていかようにも定義を上書きしていくことが可能だろう。

 前述したように本書では、ポピュリズムについて「『人民』の立場から既成政治やエリートを批判する政治運動」との定義を採って論を進めているのだが、欧州における既成政治・エリート批判とは、既成の制度が行なう再分配による受益者(移民や生活保護受給者など社会的弱者を含む)をも特権層として批判するというアクロバティックな理路をたどる。

 ついでに記せば、大阪維新の会もポピュリズムの文脈で論じられているけれども、彼らは特権層を解体するポーズをとりながら、実際にやっていることは別の特権層を生み出している気配が濃厚である。そのような政治勢力はポピュリズムの定義にかなっているのかどうか。そもそもそのような議論がさして重要だとも思えない。

 近代西欧が育んできた「リベラル」な価値観がいわば「反転」を見せ、むしろ強固な「反イスラム」の理論的根拠を提供するに至っている。……という事例が顕在化しているのなら、素人的には、ポピュリズム云々よりも、じゃあ「リベラリズムとは何か」と問い直してみたい気がする。
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# by syunpo | 2017-03-07 19:02 | 政治 | Trackback | Comments(0)