「謙虚な叡智」としての現実主義!?〜『国際政治』

●高坂正堯著『国際政治 恐怖と希望 改版』/中央公論新社/2017年10月発行(改版)

b0072887_18535136.jpg 高坂正堯といえば日曜朝の情報番組でコメンテーターとして出演していた時の姿が強く印象に残っている。少し甲高い声、京都弁まじりの明朗な語り口には独特の味があった。発言内容に関して深く感銘を受けたというような記憶はないのだが。

 本書は初版が一九六六年に刊行され、二〇一七年に晴れて改版の運びとなった。五十年の年月に耐えて今日なお現役本として読者のもとに供せられていることは、あらゆる商品が短命を余儀なくされている現状に照らしてみれば素晴らしいことだろう。しかしながら通読しての感想はひと言でいえば「退屈」。

 権力政治に関する認識などは明らかに本書が執筆された時代の制約、すなわち冷戦構造に縛られたものであるという印象を否めない。意地悪くいえば状況解説の範囲を出るものではないように思われる。

 たとえば、高坂は国際社会の混乱の原因を邪悪な勢力の存在によるものと考えず、世界の権力政治の構造そのものに内在するジレンマによるものと考える。そこまでは良い。

 しかしそこから「対立の原因そのものを除去しようとすることを断念」し、「それよりは対立の現象を力の闘争として、あえてきわめて皮相的に捉えて、それに対処していくほうが賢明」という対症療法的な解決に向かうのは何とも凡庸というほかない。そうした「現実主義」を「謙虚な叡智」と呼ぶことにももちろん賛同できない。結局のところそれらは上述したように当時の冷戦構造を前提した限定的な考え方でしかないように思われる。

 むろんそのことをもって本書の価値を貶めるのはフェアではないだろう。ごく少数の賢人をのぞけば誰もが時代のパラダイムのなかで思考するほかないのだから。その意味では現代政治思想史の観点からすれば興味深い本といえるかもしれない。
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# by syunpo | 2018-02-01 18:55 | 国際関係論 | Trackback | Comments(0)

カラーが示す深い意味と味わい〜『世界の美しい色の建築』

●大田省一著『世界の美しい色の建築』/エクスナレッジ/2017年10月発行

b0072887_19524528.jpg 建築と色の関係についてきちんと論及した書物はあまりない。大学の建築学科でも色について教わることはほぼないという。たしかにこれまで親しんできた建築に関する書物は大方がフォルムについて、あるいは都市計画との関係について論じていたような印象がある。建築史のうえで色が話題にされることが少なかったのは何故なのか。

 建築が色を語らないのは、意識のうえでの問題でもあった。ルネサンスでは、古典の復興の中で、ギリシャの大理石彫刻の白さに価値が置かれた。その白さが、光と影を際立たせたのである。美術を制度化していったフランス・アカデミーでは、17世紀以降、絵画において、フォルムか色彩かという「色彩論争」が起こる。このなかで、ルイ14世期は、フォルムを重視して素描に重きを置く方が優勢であった。かたちをとらえることは理性的な行いとされ、色彩はそれに従属するものとされた。(p4)

 むろんその後の建築史は色について時には雄弁に語り始める。考古学調査の伸展もあって古い建築にも色が付いていた証拠が見出されるようになり、ポリクロミー(多色)の建築も多く建てられるようになった。一九世紀の美術批評家ジョン・ラスキンは「完全な建築は最高級の彫刻で形成され、これに(中略)模様彩色を伴わせるべきである」と述べ、バウハウスでは色も科学のひとつと考えられた。

「建築と色彩には、もはやのっぴきならない関係性が生じているようである」と大田省一はいう。そのような認識に立脚した本書は標題どおり世界に存在するカラフルな建築の美しさを紹介している。編集もシンプルでわかりやすい。ピンク、ブルー、イエロー、グリーン、オレンジ、ブラック、ホワイト、レッド〉の八つの色に分けて、それぞれ代表的な建築物を数例ずつピックアップするという構成である。

 ピンク。アルゼンチンの大統領官邸カサ・ロサダ。その名はスペイン語でピンクハウスの意である。アメリカのホワイト・ハウスの向こうを張った渾名というのがおもしろい。ジャケット写真にも使われているマレーシアのプトラモスクのピンクの外観も魅惑的。ピンク色は花崗岩の石材によるものという。

 ブルー。スロバキアの首都ブラチスラバに建つエリザベス教会。青い教会の異名どおり様々な部材がブルー基調で彩られている。ブラジリアのドン・ボスコ聖堂のブルーのステンドグラス、青い光があふれる内部も印象的である。

 イエロー。ベトナム・ホーチミンのサイゴン郵便局。黄色に塗られた外壁が南国の光に鮮やかに映える。フランスの都市計画の手法に従って建てられたらしいのだが、その建築の豪華さは本国から贅沢すぎると言われたとか。ウィーンのシェーンブルン宮殿の外壁はマリア・テレジアにちなんで「テレジアン・イエロー」と呼ばれているらしい。

 グリーン。サンクトベルグのエルミタージュ美術館。ペパーミントグリーンの壁面と白色のコラム(円形断面の柱)、金色の装飾とのコントラストが美しい。サウジアラビア・マディーナにある預言者のモスクは、緑色のドームで知られている。深緑はイスラームにおいては聖なるものを表す色という。

 オレンジ。ロンドンのハンプトンコート宮殿の壁面の鮮やかな色。建築史的にみるとレンガの焼成温度が上がって発色が鮮やかになり、明るいオレンジの壁面が増えた。ストックホルム市立図書館のオレンジ一色の外部塗色は、オークル由来のオレンジスタッコによるもの。

 ブラック。ロシア・キジ島のブレオブラジェンスカヤ教会における破風やドームの屋根材はポプラの板材が使われているが、風雨に晒されたことによる淡い黒色が歴史を感じさせて味わい深い。湯島聖堂は、一七九九年に改築される以前は朱塗りに青緑の彩色だったが、改築を機に黒漆に塗られたという。

 ホワイト。タージ・マハルはインド・イスラムの美を代表する建築。白大理石は皇帝の高貴さを表すために宮殿建築などでしばしば使用された石材である。パリのサヴォア邸は、言わずと知れたル・コルビュジエの代表作。屋上庭園をもつ白い躯体は細い柱で持ち上げられて地面から解放されている。

 レッド。パリのムーラン・ルージュ。ご存知、赤い風車という意味である。かつてモンマルトルの丘には三十近くの風車があったことから、それを屋根に掲げた。ウクライナのキエフ大学のキャンパスの中心には、レッドビルディングが建っている。創立以来、大学を象徴する存在である。

 あれやこれやとカラフルな建築の写真を見ているだけでも充分に愉しいのだが、それぞれのカラーにまつわる解説的なコラムも勉強になった。

 たとえばブルー。ロイヤルブルー、プルシアンブルーなど、高貴で珍重されたイメージが青色にはある。ただしローマでは青は喪服の色であり、ケルトやゲルマンなどの異民族をあらわす色でもあったらしい。大航海時代に入り、ウルトラマリンと呼ばれるラピスラズリ(青金石)がアフガニスタンから欧州に輸入されるようになると、ブルーは様々な場面で使われるようになったという。

「建築の色を知ることは、建築の、どこか新しい局面を見せてくれる契機となるかもしれない」と大田省一は記している。同時期に出た『世界の美しい窓』も美しい本だったように、エクスナレッジの『世界の美しい……』シリーズはユニークな視点を打ち出しつつ誰にも親しめる好企画ではないかと思う。
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# by syunpo | 2018-01-29 19:56 | 建築 | Trackback | Comments(0)

私たちが得て、失ったもの〜『明治維新150年を考える』

●一色清、姜尚中、赤坂憲雄、石川健治、井手英策、澤地久枝、高橋源一郎、行定勲著『明治維新150年を考える 「本と新聞の大学」講義録』/集英社/2017年11月発行

b0072887_1024131.jpg 朝日新聞社と集英社による連続講座シリーズ「本と新聞の大学」。本書は第五期の講義を書籍化したものである。講師陣は、民俗学の赤坂憲雄、憲法学の石川健治、財政社会学の井手英策、ノンフィクション作家の澤地久枝、小説家の高橋源一郎、映画監督の行定勲。モデレーターは一色清と姜尚中。二〇一八年は明治維新から百五十年目にあたる。この歴史上の画期に様々な観点から、近代日本の歩みを振り返ろうという趣旨である。私たちは、この間に何を得て、何を失ったのか。

 赤坂は渡辺京二の『逝きし世の面影』をベースに江戸時代末期の日本社会のあり方を再吟味する。渡辺の本は日本を訪れた外国人たちの手記をもとに当時の人びとの暮らしぶりを推察した本。漁から帰ってきた漁師たちは、老人や働き手のいない人たちにも蔑む様子も見せずに魚を分け与えていたというような具体的な描写が紹介されている。当時の日本人たちは一様に「幸せで満足そうに見える」という外国人たちの観察はなるほど興味深い。そこから今後の指針を導き出そうとする赤坂の着眼には賛否両論ありそうだが、近世で一般的に行なわれていた「相互扶助」には確かに一つのヒントがあるように思われる。

 井手の講義は同時期に刊行した『財政から読みとく日本社会』の内容を要約したような内容。経済格差を富裕層から貧困層への分配というようなやり方で解消しようとするのではなく「みなが家族のように助け合う」財政政策を構想する。私自身はあまり賛成しないが、財政社会学からの一つの提案として議論の叩き台にはなるだろう。

 行定は同郷(熊本県)の姜との対談という形で登場している。子供の頃の在日コリアンの少年との付き合い、彼の死にまつわる挿話から、映画作りの意味を探っていく行定の語りは痛切な色を帯びている。在日コリアンを描いた『GO』のような作品が生半可な問題意識から撮られたものでないことがわかり、行定作品への関心もより深まったような気がした。

 石川は「国民主権と天皇制」を考えるにあたって、京城帝国大学で教鞭をとった二人の法学者──清宮四郎、尾高朝雄──にスポットを当てる。朝鮮半島に住む人びとをいかに統制していくかは、学者にとっても大きな関心の一つであったらしい。専門的な議論が展開されているので詳細は省くが、「京城帝国大学における学問が『象徴的行為』に着目する現天皇の論理構成と抜きがたい関係にある」という指摘は重要だと思う。戦後も影響力を維持した清宮の学説はそのような背景から生み出されたのであった。

 澤地はノンフィクション作家らしく自身の体験をベースに、自分たちの体験を語り伝えていくことの大切を切々と説く。身内の若者に向けて書いたつもりの本が読まれないことの無念を語っているくだりはほろ苦い読み味だが、それでも「よそのお孫さんあるいはよそのひ孫さんにあたる人たちに働きかけることはやめません」と締めくくって力強い。

 高橋は明治百五十年を小説誕生百三十年と重ね合わせる形で日本の近代史を振り返る。人間が生きているように、小説もまた生き物であるという。「僕たちは文学や小説を一人一人の作家が書いた個別の作品だと考えがちですが、実は、もうちょっと大きい、時代という生き物、文学という一人の身体を持った者が生み出した作品としてとらえたほうがわかりやすい」という認識は名前こそ出てこないけれどネグリ=ハートが打ち出した「マルチチュード」を想起させる。

 政府が推進している明治百五十年の関連施策には批判的な声も少なくない。政治の側からの一方的な広報宣伝に振り回されないためにも、本書のように様々なアングルから検討を加えることは意義深いことだろう。
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# by syunpo | 2018-01-27 10:31 | ノンカテゴリ | Trackback | Comments(0)

伝統思想の重層的な相貌〜『日本思想史への道案内』

●苅部直著『日本思想史への道案内』/NTT出版/2017年9月発行

b0072887_181789.jpg 日本の思想を考えるときに鍵となる概念、〈日本神話〉や〈武士道〉などを取り上げ、それらについて複数の「読み」を提示する。ここで参照されるのは二人の読みの名手──和辻哲郎と丸山眞男である。

 学界ではすでに常識とされていることでも初学者にとっては「へぇ〜」と思えることはいくらもある。本書に関していえば、個人的には儒学や朱子学など江戸期の思想に関するステレオタイプの認識を改めさせられた。

 たとえば一般に儒学は江戸時代の身分制による支配体制を支えた思想として考えられている。私自身も日本史の授業でそのように習ったと記憶する。しかし「朱子学どころかそもそも儒学が一般に、徳川時代の身分制による支配体制とあいいれない性格をもっていること」は、津田左右吉が指摘していたという。儒学とはそもそも身分制批判の要素を含んだ思想なのである。

 また明治新政府が行なった西洋を規範とする政治体制の刷新を思想的にはどう考えればいいだろうか。明治維新によって人びとが突然、西洋由来の政治的理念に目覚めたわけではもちろんない。
 江戸時代の末期には民間から新たな学問を創造する動きが活発化し「身分の別を無視した知識階級といふ如きもの」が現われた。そうした背景があったからこそ、王政復古の後ただちに廃藩置県を導いて封建制に終止符を打つことが可能になったとする和辻の見解は興味深い。

 本書の記述は、良くいえば手堅い筆致、悪くいえばいささか辛気臭い読み味ながら、日本思想史の勘所をかいつまんでガイダンスしてくれるという意味では文字どおり良き道案内の書といえるだろう。
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# by syunpo | 2018-01-20 18:25 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

誤配こそが連帯をつくる〜『観光客の哲学』

●東浩紀著『ゲンロン0 観光客の哲学』/ゲンロン/2017年4月発行

b0072887_21333374.jpg 意表をついた標題がまずは目を引く。観光客の哲学。これまで人文科学的には注目を集めてきとは言い難い存在=観光客に着目して、東浩紀はさていかなる哲学を差し出そうとしているのか。

 二一世紀の世界は、政治の層と経済の層、ナショナリズムとグローバリズムの層、国民国家の層と帝国の層……の二層構造で捉えられる。これが本書の基本認識である。それに連動するように政治思想面ではリベラリズムが失効して、コミュニタリアニズムとリバタリアニズムに分裂したと東は考える。

 そのような時代の新しい政治の起点として「観光客」の存在が重要になるというのが観光客の哲学なのである。

 では観光客とはいかなる人びとなのか?
 それは「特定の共同体にのみ属する『村人』でもなく、どの共同体にも属さない『旅人』でもなく、基本的には特定の共同体に属しつつ、ときおり別の共同体も訪れる」存在のこと。ここでいう「村人」とは国民国家に属する人びとであり、「旅人」とは帝国に生きるコスモピリタンのような存在をさす。換言すれば「帝国の体制と国民国家の体制のあいだを往復し、私的な生の実感を私的なまま公的な政治につなげる存在」の名称である。

 すなわち政治の層と経済の層、国民国家の層と帝国の層など、二層をつなぐ可能性をもつのが観光客という存在なのである。そのような観光客的なあり方こそがこれからの時代において人生を豊かにしてくれるというのだ。

 観光客の哲学を考察するにあたって、東はアントニオ・ネグリ=マイケル・ハートの有名な「マルチチュード」を批判的に参照する。「マルチチュード」はひらたくいえば反体制運動や市民運動のことだが、「かつての運動とは異なりグローバルに広がった資本主義を拒否しない。むしろその力を利用する」点に一つの特長がある。

 ただしネグリ=ハートにはマルチチュードが世界を動かすについての戦略性が欠けていた、と東はみる。そこで東は従来のマルチチュードのもつ否定神学的な性質とは対極にある「郵便」という概念を提示するのである。

 ……「郵便」は、存在しえないものは端的に存在しないが、現実世界のさまざまな失敗の効果で存在しているように見えるし、またそのかぎりで存在するかのような効果を及ぼすという、現実的な観察を指す言葉である。(p156)

 東はそのような失敗を「誤配」と呼ぶ。現代思想は、否定神学を脱して郵便的思考に生まれ変わるべきだというのが東のかねてからの主張であった。観光の本質は情報の誤配にあると考える東が「郵便的マルチチュード」と「観光客」を重ね合わせるのは当然の成り行きといえるかもしれない。

 本書では、上に記したネグリ=ハートだけでなく、他にも多くのテクストを参照している。とりわけヴォルテールの『カンディード』やカントの永遠平和論を独自に読み解いて観光客という存在につなげてしていくあたりは、なかなかスリリングである。

 そこからさらに第2部では観光客の哲学に対して家族の哲学という補完的な作業を付け加えている。「観光客が拠りどころにすべき新しいアイデンティティ」として「家族」が呼びだされるのである。

 家族という手垢にまみれた概念を再起動させようとする東の企てが成功しているかどうか微妙ながら、ドストエフスキー読解をベースにした論考などはアクロバティックな方法を採っていておもしろく読んだ。

 東のネット上でのアクチュアルな政治的発言には賛同できないものが多いが、本書に関しては読み出のある本といえる。
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# by syunpo | 2018-01-13 21:38 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)