大事なのはファクト〜『フェイクニュースの見分け方』

●烏賀陽弘道著『フェイクニュースの見分け方』/新潮社/2017年6月発行

b0072887_1905387.jpg 誰もが発信者になれるインターネットの普及は、ある種の民主主義の活性化に貢献したかもしれないが、虚偽の情報=フェイクニュースがノーチェックで撒き散らされる状況をもたらした。SNSでは出典が明記されていないデータや写真を平気で拡散するユーザーはあとを絶たないし、論者が具体的論拠を示さずに私見を述べている風景はメディアの新旧を問わず日常茶飯事。メディアが多様化した現代では、事実=ファクトを探りあてるのにメディアリテラシーを要することは当然だろう。本書ではそのための具体的な方法を提示する。

 もっともここで示されているニュースの真偽の見分け方はごく常識的なものといえる。
「膨大な公開情報を蓄積し分析することがインテリジェンスの第一歩である」
「マスメディアで流れてきた情報を疑う第一歩は、他の公開情報を調べてクロスチェックすることである」
「事実の提示のないオピニオンは無視してよい」
「主語は明示されていない文章は疑う」
「『何を書いているか』と同様に『何を書いていないか』に着目すべき」
「実在する人間を『完全な善人』または『完全な悪人』であるかのように見せる表現は、現実から離れている」
「フェアであることは、真実に近づくための方法である」
「引用が正確かどうかで、その発信者が伝える『事実』の正確さが簡単にわかる」
「欧米では違法行為のステマが日本では今も野放し」

 以上は本書で示されているヒントの一部だが、とりたてて目新しいことはいっていない。だから価値はないというのではなく、本当にこれだけの心構えをもってメディアに接するなら、かなりの成果が得られるだろうと思う。

 本書では以上のようなノウハウを教示するのに実際の記事を例示しているので、話はきわめて具体的に進行する。フェイクニュースを切り捌いていく手際は鮮やかで、池上某の紙面批評よりもよほど切れ味は良い。

 たとえば「ビッグ・ピクチャーをあてはめよ」とする一章では、高市総務相の放送法に関する国会発言報道を俎上にのせている。電波停止の可能性に言及した彼女の発言は「政府による言論弾圧」の文脈で論じられることが多かった。烏賀陽は民主党政権時代の総務相の発言と比較して、基本的には同じ趣旨のことを述べていると指摘する。そこで問題なのは大臣の答弁ではなく、現行の放送法の規定だと結論づける。

 そもそも「独立行政委員会ではなく総務大臣が電波免許を握っている」というシステムと、それを根拠づけている法律が報道の自由に対して抑圧的であり、非民主主義的であり、間違っているのだ。
 ……(中略)……このシステムと法律があるかぎり、自民党だろうと民主党だろうと、政権を持った与党がは電波を停止する法的権限を得てしまう。それが本当に重要な事実である。(p106〜107)


 原発事故に関する一連の報道に関しても、科学的には不明なことがらが多いのに、それを認めようとしない報道や論評に疑義を呈する。そのうえで「『結論はわからない』という結論を日本のマスコミは許さない」ことを批判するのである。

 神戸連続児童殺傷事件の犯人である「元少年A」の手記の出版に関する論考も興味深い。その刊行の是非をめぐっては激しい議論が起きた。烏賀陽は手記を読んだうえで「元少年A」にしか書けないことがらがある以上、出版することに「意味があった」という。

「当事者が社会的に発言する行為」そのものを断ってはならないと私は考えている。世に出し、判断は読む者がすればよい。社会がそれを判断するチャンスを奪うことのほうが、結局は社会総体では損失が大きいと考えている。(p174)

 もちろん賛同できない点もいくつかある。ここでは一つだけ挙げておく。上記の「元少年A」の出版に言及したくだりで、「選挙で選ばれたわけでもない『行政』『裁判所』に言論の是非を判断する権利はない」とまで述べているのには違和感をおぼえた。いささか揚げ足を取るような批判かもしれないが、行政はともかく裁判所に言論の是非を判断する権利はない、というのはいくらなんでも乱暴ではないか。烏賀陽は権力分立思想をどう考えているのだろうか。主権者に選ばれることだけが公権力行使の正統性を担保するわけではない。またすべてを言論市場の公共性に委ねて社会がうまく回るくらいなら何の苦労もないだろう。

 いずれにせよ、そうした論争含みの点も含めて、本書の記述は単なるスキルの伝授にとどまらず、一種のメディア論としても興味深く読めるものになっている。その意味でも一読に値する本ではあるだろう。
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# by syunpo | 2017-08-22 19:07 | メディア論 | Trackback | Comments(0)

少しずつ自由に近づいていく〜『中動態の世界』

●國分功一郎著『中動態の世界 意志と責任の考古学』/医学書院/2017年4月発行

b0072887_1854230.jpg 薬物やアルコールの依存症は本人の「意志」や「やる気」ではどうにもできない。これは医療の現場では常識的な認識となっているらしい。「絶対にもうやらないぞ」と思うことが治療への出発点のように素人は思いがちだが、「むしろそう思うとダメ」なのだという。

「意志」とは、私たちにとっては一般的にポジティブな概念であるけれど、むしろマイナスに作用する場合もありうる。言い方を変えれば、意志とか責任という言葉で考えている限り、解決しない問題がある──。
こうして國分功一郎は「意志」をめぐる哲学的な思索に入っていく。

 中動態。能動態でもなく受動態でもない。書名が示すとおりこの聞き慣れない文法的概念が本書のキーワードである。

 言語学者のエミール・バンヴェニストによれば、言語には能動態と受動態の区別に先立って、能動態と中動態の区別があったという。それがいつのまにか能動態と受動態の区別にとって代わられ今日に至ったのだ。

 では、中動態とはいかなるものなのか。
 バンヴェニストの定義では、「在る」「生きる」などの能動では「動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示している」。対して「生まれる」「享受する」などの中動では「動詞は主語がその座となるような過程を表している。つまり、主語は過程の内部にある」。

 能動と受動の対立においては、するかされるかが問題となる。それに対し、能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になるというわけだ。

 ここで興味深いのは、能動態と中動態が対立していた古代ギリシアでは「意志」の概念がなかったという点だ。意志の概念はあくまでも能動態と受動態の対立と結びつけられることによって生まれた。近代司法制度の基礎となる責任という考え方もその線上にあらわれる。

 ……意志を有していたから責任を負わされるのではない。責任を負わせてよいと判断された瞬間に、意志の概念が突如出現する。(p26)

 能動と受動という対立図式は、ある行為を誰に帰属させるべきかという問い、すなわち意志の問題を前景化する。では、中動態の概念を再構成することで何がわかるのか。

 ハンナ・アレントやマルティン・ハイデッガーは、能動と受動の対立が意志なる概念を生み出すことを認識していたが、アレントは意志の概念を神学的に擁護してしまう点で、國分は批判に転じる。

 一方、ハイデッガーは、能動と受動に支配された言語の外に出るという問題に対して「きわめて難解で秘教的、場合によっては神秘的とも思える言葉遣いをもって答えた」。ハイデッガーは「放下」という言葉で何事かを語ろうとしたけれども、それはいかんせん難解であった。

 そこで國分はあらためてスピノザを参照する。

 スピノザが「中動態」という用語を用いたことはないし、『ヘブライ語文法綱要』でもそのような表現は現れない。だが、その思想のなかにはこの失われた態に通ずる概念が明確に存在している。(p236)

 スピノザは中動態だけの世界を記述しようとした。そこでは神すなわち自然は無限であり、その外部は存在しない。スピノザのいう内在原因とはつまり中動態の世界を説明する概念に他ならない。

 ……神は万物の原因という意味で作用を及ぼすわけだが、その作用は神の内に留まる。神は作用するが、その作用は神以外の何ものにも届かない。(p236)

 神こそが唯一存在している「実体」であり、これがさまざまな仕方で「変状」することによって諸々の個物が現れる。実体の変状として存在する個物のことをスピノザは「様態」と呼んだ。

 スピノザは自由意志を否定し、人がそれを感じるのは自らを行為へともたらした原因の認識を欠いているからだと説いた。そのためにスピノザはしばしば自由を否定する哲学者だと思われている。しかし実際は違う。

 スピノザによれば、自由は必然性と対立しない。むしろ、自らを貫く必然的な法則に基いて、その本質を十分に表現しつつ行為するとき、われわれは自由であるのだ。いかなる受動の状態にあろうとも、それを明晰に認識さえできれば、その状態を脱することができる。

 ここでさきほどの問いかけに戻ろう。中動態の概念を再構成することで何がわかるのか、という問いに。それに対する一つの答えはこうだ。──自由になるための道筋が見えてくるのだ、と。

 だが自由意志や意志を否定することは自由を追い求めることとまったく矛盾しない。それどころか、自由がスピノザの言うように認識によってもたらされるのであれば、自由意志を信仰することこそ、われわれが自由になる道をふさいでしまうとすら言わねばならない。その信仰はありもしない純粋な始まりを信じることを強い、われわれが物事をありのままに認識することを妨げるからである。
 その意味で、われわれが、そして世界が、中動態のもとに動いている事実を認識することこそ、われわれが自由になるための道なのである。中動態の哲学は自由を志向するのだ。(p263)


 以上みてきたように〈能動態/受動態〉の対立図式と結びつけられた意志の概念を疑問視するところから本書は出発し、中動態の考察から自由へといたる道を提示することでひとまず一つの結論をみることになった。

 哲学史的には近代的な責任主体としての「意志」はつねに批判的に検討されてきたといってよい。その意味では本書の問題意識それじたいにとりたてて斬新さはない。國分の考察が優れているのは、その問題を中動態との関連で歴史的に深く掘り下げた点にあるといえるだろう。

 前述したように國分は本書の冒頭でアルコールや薬物の依存症をめぐる「意志」の問題を対話形式で記している。それは中動態の考え方がそのような依存症の治癒にも貢献できる可能性を示唆している。つまり中動態の世界は、単に思考のあり方を鍛えるだけでなく、実社会の臨床現場においても寄与しうることが示されているのである。

 哲学の研究者でもない私が本書を完全に理解したと断言できる自信はないけれど、本来なら地味で辛気臭いはずのインド=ヨーロッパ語における文法の話から、広汎な哲学的思考へとつなげていく本書の叙述がきわめて知的スリルにみちたものであることは確かである。余談ながら読了後に本書が今年度の小林秀雄賞を受賞することが発表された。一読者として心から祝福したい。
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# by syunpo | 2017-08-20 18:56 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

ナチス占領下で作られた詩集の本邦初訳〜『世界』

●チェスワフ・ミウォシュ著『世界 ポエマ・ナイヴネ』(つかだみちこ、石原耒訳)/港の人/2015年9月発行

b0072887_21381138.jpg ポーランドの詩人、チェスワフ・ミウォシュの詩集。たいした予備知識もなく一読したかぎりでは、この詩集がナチス占領下のワルシャワで発行されたことを感じとるのはむずかしいかもしれない。

「そこは緑したたる谷間/道はなかば草におおわれ/花をつけはじめた楢の木立ちをぬけて/学校帰りの子供たちが家路をたどる」(〈道〉より)

 もっぱら穏やかな自然だとか家族との思い出だとかがうたわれているので、牧歌的な雰囲気すら感受したとしても不自然ではないだろう。
『世界』の要点はなにか──これは、世界はいかにあるべきか、という問題をめぐる詩なのです、とミウォシュ本人は語っていたらしい。

 とはいえ時代の暗黒面をまったく感じさせないかといえば、そうでもない。ところどころに戦争の暗い影が表現されていることもたしかである。

「開かれたままの本 一匹の蛾がふるえながら/砂煙をまきあげて疾駆する戦車の上を舞う/触れたとたん 金色の粉をまき散らし/市街を席巻するギリシャ軍の上に落ちる」(〈絵〉より)

 全体をとおして平易な言葉遣いではあるが、なかには私には理解しづらい詩篇もいくつかあった。信仰にまつわるような作品群だ。

「信仰は 水に浮かぶ木の葉や/露のひとしずくを目にして それが/そうあるべくしてあるのだと悟ること……」(〈信仰〉より)

 巻末に解説を寄せている小山哲によれば、それらの詩篇は「聖トマス(トマス・アクィナス)の存在論を詩的なことばで語った注釈として読むこともできます」という。

 何はともあれ、ナチス占領下の苦難にみちた時空間で紡ぎ出された言葉たちが、時を経てわれわれの言葉に紡ぎ直され、とどけられたのだ。この奇蹟のような遭遇こそは文学に触れることの一つの驚きであり歓びであるというのは陳腐にすぎる感懐だろうか。
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# by syunpo | 2017-08-10 21:40 | 文学(翻訳) | Trackback | Comments(0)

翻訳者とは幽霊のようなもの!?〜『8歳から80歳までの世界文学入門』

●沼野充義編著『8歳から80歳までの世界文学入門 対話で学ぶ〈世界文学〉連続講義4』/光文社/2016年8月発行

b0072887_844764.jpg ロシア・ポーランド文学の研究者として知られる沼野充義がホスト役をつとめる「対話で学ぶ〈世界文学〉連続講義」シリーズの第四弾。『世界は文学でできている』『やっぱり世界は文学でできている』『それでも世界は文学でできている』につづくものである。

 今回のゲストは、池澤夏樹、小川洋子、青山南、岸本佐知子、マイケル・エメリックの五人。
 私にはいささか退屈な対話がつづいたなかで、最後に収められているマイケル・エメリックの発言がもっとも面白く感じられた。エメリックは日本の現代文学の翻訳や源氏物語の研究で知られるジャパノロジストである。

「翻訳者というのは二つの世界に属しながら、どちらにも完全には属していない幽霊のようなもの」とエメリックは考える。それは「異文化間の架け橋」というありふれた認識を斥けるものである。翻訳者=幽霊説には大いに惹かれるところがあるのだが、沼野はあくまでも「足がついていないとちょっと困る」という自説に拘泥してしまって、それ以上議論を深めることなく別の話題にうつってしまったのはちと残念。

 マイケル・エメリックには日本語の著作は少ないようだが、彼の存在に関心をもつ契機を与えてくれただけでも本書を手にとった甲斐があったというべきだろう。
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# by syunpo | 2017-08-05 08:45 | 文学(小説・随筆) | Trackback | Comments(0)

したたかでいい加減な存在〜『生きているとはどういうことか』

●池田清彦著『生きているとはどういうことか』/筑摩書房/2013年12月発行

b0072887_18275590.jpg あるものが生物か無生物か、私たちは直感的にわかる。ところが「生物とは何か」と問われてすぐに答えられる人はあまりいない。生物には物理化学法則とは別の「生きもののルール」があるからだ。それはどういうものなのか。本書はその問いに、生物の起源、発生、進化、免疫、性、老化と死といった生命現象から答えようとする。

 生きているとはどういうことか。「生まれてから死ぬまで自己同一性を保ちながら、外部からの指令がなくても勝手に成長して死んでいく、それが『生きている』ことの本質である」と池田はいう。「そういった内と外を分ける『空間』を、われわれは『生物』と呼んでいるのである」。(p45)

 この一連の生命現象を説明するうえで、池田は「動的平衡」をキーワードとして使っているのだが、これは福岡伸一がルドルフ・シェーンハイマーの「生命の動的状態」という概念を拡張して提唱したもの。一般書とはいえ、ここは福岡の名を明記しておくのが仁義というものではないか。

 それはともかく、性と死との関係を述べているくだりが私には最も印象的だった。生殖細胞は不死性を受け継いで、個体が死んでも細胞を残す。新しい個体(システム)をつくれば、自分は死んでもかまわない。これが生物のあり方なのである。

 ……死ぬ能力のおかげで、われわれは多細胞生物になることができ、複雑なシステムを手に入れたのだ。(p146)

 このような認識は私のような生物学の素人には新鮮に響く。哲学者が生や死の問題を論じるときに生物学の知見を引用することは珍しくないが、観念論としてでなく唯物論的に生死の問題を考える態度は大いなる説得力をもたらす。

 生命をもたない物体は初期条件さえ決まれば、決定論にしたがって未来の状態も決まる。しかし、生命は同じ条件からスタートしても行き着く未来は厳密に決定されない、という。そこでは偶然が大きく支配している。

「枠だけが決まっていて、その中では比較的自由度があるのが生命の特徴」である。その意味では本書においては、生きものとはものすごくしたたかで案外いい加減であるという基本認識が貫かれている。肩肘張って生きている読者には絶妙のメッセージがこめられているというべきかもしれない。
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# by syunpo | 2017-08-03 18:31 | 生物学 | Trackback | Comments(0)