ブックラバー宣言


コラムニスト・吉本俊二の書評ブログです。
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選挙権に免許は必要か!?〜『ブラック・デモクラシー』

●藤井聡編『ブラック・デモクラシー 民主主義の罠』/晶文社/2015年11月発行

b0072887_19383774.jpg 橋下徹と大阪維新の会を題材に民主政治のあり方を考えるという趣旨の本である。デモクラシーはつねに独裁政治へと転落する可能性をはらんでいるが、そのような悪しき民主政の状態を本書では「ブラック・デモクラシー」と呼び、それを避けるための方策を模索していく。藤井聡、適菜収、中野剛志、薬師院仁志の論考のほか、湯浅誠+中野剛志の対談が収録されている。

 おしなべて粗っぽい議論が展開されているなかで、末尾に収められている薬師院仁志の〈ブラック・デモクラシーと一筋の光明〉はそれなりに面白く読んだ。ここではその論考について触れておきたい。

 薬師院は、呉智英が提唱する「選挙権免許制度」について言及している。呉は、危険物の取り扱いや自動車の運転に免許が必要であるならば「使い方を誤って最も危険なのは権力」である以上、「こんな極限の危険物の運転に免許がなくていいはずはない」と主張しているのだ。「公正な試験による免許制度だけが、公平で合理的な権力暴走抑制装置だ」。

 もっとも呉の提案はとくに目新しい着想というわけでもないらしい。J・S・ミルも同じような趣旨のことを著作に書き残している。「民衆世論における知性の度が低いこと」を「代議制民主政治に付随する危険」だと言明したのである。そこで彼は登録のために出頭したすべての人に簡単な読み書きや演算の試験の必要性を唱えた。

 そもそも間接民主主義はルソー的にいえば「選挙による貴族政」である。ミルはそれを「代議制民主主義」と言い換えたが内実は同じものだと薬師院はいう。貴族=賢明な人々による統治を目指す以上は、投票者の「知性の度」を確保すべきだという発想はむしろ自然ともいえる。

 しかし考えてみれば、薬師院がいうようにこれはもう少し複雑な問題であろう。そもそも民衆世論というものは自然発生的に生じるという以上に、人為的に形成される面も否定できない。選挙権の資格試験を平然とパスするような高度な「知性」の持ち主たちこそが、ブラック・デモクラシーの使徒となって民衆を誘導する仕事に勤しむのが通例だからだ。

 薬師院は選挙権免許制度に対しては「知識を持つ者に見識や判断力がある保証はない」という表現で斥けてはいるものの、その提案の背後にある衆愚政治的な現象に対しては呉やミルと同様の問題意識を共有しているように思われる。それは直接民主主義のツールとも考えられる住民投票への懐疑的態度にもあらわれている。

 大阪維新の会をはじめとするポピュリズム政党は一般的に住民投票という手法を好む傾向にある。歴史的にみても「住民投票や国民投票による直接表決には、政治を担うエリート層への批判という側面があった」。
 今日の欧州諸国では、住民投票に対する賛否が、民主主義が抱えるジレンマとして理解されることが多い。すなわち「人民による政治」と「人民のための政治」が、実際には両立しないという板挟み状態である。

 そこで薬師院は次のように述べている。

 ……はっきり言ってしまえば、経験的事実に照らす限り、「人民のための政治」を実現して来たのは、「人民による政治」ではなく、むしろエリート主義に立つ代議制民主政治なのである。(p217)

 ……直接投票による表決は、今日の日本で想像されているほど“民主的”な手法ではないのである。極端な話、択一式の多数派争いに負けた側にとって、その表決は、絶対君主による一方的な命令と同じことなのだ。そこには、勝敗しかない。だが、ケルゼンが指摘する通り、「対立する集団の利害を調整して妥協させることができなければ、民主制は成立しえない」のである。(p218)


 対立する集団の利害を調整するためには、議論や熟議が重要になってくることはいうまでもない。本書に収録されている対談のなかで湯浅誠が強調している「面倒くさい民主主義」というのもそういう意味を含む。

 たしかに「民衆世論における知性の度が低いこと」は「代議制民主政治に付随する危険」かもしれない。ゆえに「国民の知識水準の向上を図ることは、国家にとって必須の課題であるに違いない」と薬師院も言う。だが重要なのはその認識をもとに、私たちはどのように振る舞うべきかということだ。

 ……正しい情報や知識の普及を軽視するような社会で民主政治が発展するわけはないだろう。ならば、「民衆世論における知性の度が低いこと」を非難する前に、しなければならないことがある。言うまでもなく、正しい情報や知識を、広く的確に伝えることだ。(p224)

 むろん民主政治に先立って国民全体への啓蒙が必要だという構想には限界があるだろう。熟議民主主義を提唱する研究者ならば、ここで「民主主義が民主主義を鍛えるのだ」と言うのかもしれない。議論をつうじて国民が学び主権者として鍛えられていくというビジョンである。

 その点、薬師院のまとめ方はいささか凡庸で尻すぼみの印象は拭えないし、主権者を方向づけるエリートの立場を重視するような議論にも異論はありうるだろう。が、それもこれも自身の態度表明と理解すべきなのかもしれない。いずれにせよ、政治混迷の今の時期に誰もが目を輝かせるような処方箋があるくらいなら何の苦労もない。代議制民主主義の意義を再検討する一つの契機として薬師院の論考は示唆的な一文ではないだろうか。
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# by syunpo | 2017-06-05 19:45 | 政治 | Trackback | Comments(0)

〈慣習の支配〉から〈議論による統治〉へ〜『日本の近代とは何であったか』

●三谷太一郎著『日本の近代とは何であったか ──問題史的考察』/岩波書店/2017年3月発行

b0072887_18542080.jpg 日本の近代とはいかなる経験であったのか。その大きな問題を考えるにあたって本書がまず参照するのは、ウォルター・バジョットである。バジョットはヨーロッパの近代を「慣習の支配」から「議論による統治」への移行とみなした。その変革要因として「貿易」と「植民地化」を挙げている。もっとも前近代から近代への移行には断絶があるわけではなく、前近代においても古代ギリシャや中世イタリアなどを見ればわかるように「議論による統治」の萌芽はみられたという立場をとる。

 この「慣習の支配」から「議論による統治」への移行という近代化の観念は、福沢諭吉を初めとする当時の日本の先進的知識人にも非常に大きな影響を与えました。そして実際に「慣習の支配」から「議論による統治」への歴史的な移行に相当する状況の変化が、当時の「立憲主義」に相当する体制原理の危機の進行に伴って、幕末日本においても見られたのです。(p63)

 三谷はそうした認識を提示したうえで、日本の近代化を「政党政治の成立」「資本主義の形成」「植民地帝国の形成」の過程に注目して考察する。さらに日本独自の君主制としての「天皇制」についても一章を設けている。このような検証をとおして現在の日本が置かれている歴史的位置を見定めようというのが本書の趣旨である。

 まず第一に日本における政党政治とはいかなるものであったのか。
 一見集権的とされた天皇主権の背後には、実際には分権的・多元的な国家の諸機関の相互的抑制均衡のメカニズムが作動していた。したがって、明治憲法に規定されていたような比較的厳格な権力分立制は、立法と行政との両機能を連結する政党内閣を本来排除する志向をもっていた、という。
 逆にいえば、体制を全体として統合する機能をもつ、憲法に書かれていない何らかの非制度的な主体というものが必要とされるだろう。

 そうした主体の役割を担ったものとして、まず登場したのが「藩閥」である。薩長出身者を中心とする藩閥の代表的なリーダーたちが事実上天皇を代行する元老集団を形成した。しかしそれでも衆議院を掌握することはできなかった。衆議院を支配したのは「政党」であった。藩閥と政党はそれぞれの限界を打破するために相互接近が試みられた。そういうなかから複数政党制が出現した、というのが三谷の見方である。

 ただし日本の政党政治は短命に終わった。大正末期から政党政治が本格的に作動し始めたものの、軍部の台頭などによって、その権威は揺るがされていったのである。それにかわる現象が「立憲的独裁」(蝋山政道)であった。

 国民国家の形成を目的として始まった日本の近代は、自立的資本主義の形成をその不可欠の手段とした。日本の近代化を方向づけ、それに沿う資本主義の発展を正当化する有力な論拠とされた学説は、ハーバート・スペンサーの社会学説である。スペンサーは「軍事型社会」から「産業型社会」へという発展段階の図式を示したことで知られる。

 ただ本書の分析でおもしろいのは、権力による近代化=資本主義の形成の心理的促進要因として「恥」の意識を挙げている点だ。内外の笑いものにならないように腐心する、その意識が文明開化を促し、ひいては資本主義を進展させていったというわけである。

 日本が不平等条約を脱し、資本主義の形態が「自立的資本主義」から「国際的資本主義」へと転化した段階で、植民地を有する植民地帝国の構築を目的とする戦略を採用するにいたる。
 その際、より大きなコストを要する軍事力への依存度の高い「公式帝国」の道を歩んだのは何故か。三谷は「先進の植民地帝国に伍する実質的意味の国際社会のメンバーではなかったこと」「日本の植民地帝国構想が経済的利益関心よりも軍事的安全保障関心から発した」ことの二点を指摘する。

 その後、日本の植民地政策は最終的には帝国主義に代わる国際イデオロギーとしての「地域主義」に移っていく。それは「太平洋における地方的平和機構」のようなスローガンに象徴されるものである。しかし現実には「日本の対外膨張によってつくり出された既成事実を追認し、正当化するイデオロギー」としての役割を担ったものであることはいうまでもない。

 日本の近代化には機能主義的な思考様式が推進力としてはたらいた。そこでは、宗教もまた基本的な社会機能としてとらえられる。ヨーロッパではキリスト教がその役目を果たしたのだが、日本ではどうか。キリスト教の機能的等価物として考えられたのが「天皇制」である。

 ただし明治憲法に定める天皇の地位と教育勅語における天皇とは齟齬をきたしている。その問題を意識していた井上毅らの苦肉の策を概説したうえで、三谷は次のように述べている。

 しかし井上毅の苦慮の奇策にもかかわらず、憲法と教育勅語との矛盾、すなわち立憲君主としての天皇と道徳の立法者としての天皇との矛盾は消えることはありませんでした。そしてその矛盾と不可分の「政体」と「国体」との相剋は、日本の近代の恒常的な不安定要因でした。(p241)

 相互矛盾の関係にある両者のうちで、一般国民に対して圧倒的影響力をもったのは憲法ではなく教育勅語であった。すなわち「立憲君主としての天皇ではなく、道徳の立法者としての天皇」が国民の上に屹立したのである。

 以上のように日本近代を振り返った三谷はまとめとして次のように述べている。

 日本の近代は一面では極めて高い目的合理性をもっていましたが、他面では同じく極めて強い自己目的化したフィクションに基づく非合理性をもっていました。過去の戦争などにおいては、両者が直接に結びつく場合もありました。今日でも政治状況の変化によっては、そのような日本近代の歴史的先例が繰り返されないとは限りません。疑似宗教的な非合理性が儀式と神話を伴って再生し、それに奉仕する高度に技術的な合理性が相伴う可能性は残されています。(p251~252)

 そのうえで三谷はワシントン体制を振り返りながら、その重要な遺産を憲法第九条に遺していることの意味を考えるべきだと締めくっている。いささか硬い読み味ながら、日本の近代化を考えるには有益な一冊といえるだろう。
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# by syunpo | 2017-06-01 19:00 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

ズルい人ほど道徳を利用する!?〜『みんなの道徳解体新書』

●パオロ・マッツァリーノ著『みんなの道徳解体新書』/筑摩書房/2016年11月発行

b0072887_2147566.jpg「日本人の道徳心の低下」を嘆く声はいつの時代にもある紋切型言説の典型である。だから道徳教育を強化しなければならない。とつづくのもお決まりのパターン。パオロ・マッツァリーノは一九五〇年代にもみられたそのような意見を引いて「人間って、いつの時代もおんなじことをいってるんですね。とどのつまりが、少なくともこの六〇年間、日本人の道徳心にはほとんど変化がなかったということです」と述べている。

 戦後の民主主義的自由教育のせいで自由とわがままをはき違えた人間が増え、その結果日本人の道徳心が劣化したとする意見には、何ら根拠のないことは少し考えればわかることだろう。戦後民主主義以前の人々の方が現代よりも道徳心が高かったといえそうな統計調査や研究報告などどこを探してもないのだから。
 現代人が寛容さを失ったという、これまた昨今よく聞かれる声にも当然ながら首肯することはできない。

 現代人は寛容さを失ったとする説には矛盾が多すぎます。そこで私はこう考えました。むかしの人は寛容だったのではなく、鈍感だっただけなのだと。鈍感だったから自分が傷つくこともあまりなかったし、他人を傷つけても平気だったのだ、と説明したほうが腑に落ちます。(p28)

 通常、学問は進歩と改革を目的としている。ところが「道徳」は「なぜ」という疑問を許さない。それは「道徳」が進歩と改革を目的としていないからである。すでに正解が決っている善悪の基準をこどもたちに押しつけて、基準をブレさせないようにすることが「道徳」教育の目的とされてきたのではないか。「なぜ?」を禁止することでオトナたちはメンツを守ってきただけではないのか。あるいは道徳教育の強化を主張するオトナたちは、何らかのズルをして利益をあげるために道徳を方便に使っているだけではないのか。

 そのように冒頭でブチ上げた著者が学校で使用されている道徳副読本を読んでバッサバッサと斬っていくところは本書の読みどころの一つ。ちょいと無理やりなツッコミもなくはないが、おしなべて痛快な切れ味をみせている。

 たとえば、教育出版4年生用副読本で「新聞を読もう!」と呼びかけているのに対して、何故新聞を読まなくてはいけないのかと真っ向から疑義を呈する。一昔前のニュース源といえば新聞しかなかった、テレビでもたいしたニュース番組はなかった、しかし今はニュースを知る手段はいくらでもある。「現代人はニュースで溺れる寸前です。このうえ新聞まで読め? もうかんべんしてください」。

 あるマンションで、ピアノを練習する音をめぐって隣人同士がもめ始めた。そこで管理組合の理事長があいだに入って互いのいいぶんを聞き、ピアノの置き場所を変えて、練習時間にも配慮することで両者ともに納得。その結果、以前よりもなかよくなれた。理事長はこの経験から、同じ音を立てても、仲のよい同士なら気にならないのだなあと考えて、マンション内でクリスマス会やバス旅行などのイベントを企画することにした……。

 ……以上は東京書籍6年生用の副読本に収録されている話。この話に対する著者の見解はふるっている。「もめているおとなりさん双方から話を聞いて、どちらも納得するような条件を模索する」までは「素晴らしい話」としながらも、後半は「ヘンテコな理屈」で、せっかくの成功体験から「誤った方程式を導き出してしまった」という。

 どんなに仲良くなっても、うるさいものはうるさいですよ。こどもが真夜中にデカい声で歌を歌ったら、普段仲のいい親でも「うるさい!」と怒るでしょう。
 相手に文句をいわないのは、仲がいいのではなく、相手に気をつかってるだけです。
 気軽に文句をいいあえる間柄を、本当の仲良しというのです。(p68)

 さらに著者は道徳の副読本に関して共通している問題点として「理想の家族しか登場しない」「樹木信仰」「歴史や数学を無視している」ことに加え、「自分の身を犠牲にしてだれかを助ける」ことを賞賛することにも批判を加えている。

 他人をしあわせにする代わりに自分がいのちを落とす自己犠牲を勧めるのが道徳的だとは、私には思えません。それはむしろ不道徳。
 自分を殺し他人を生かすのはあくまで次善の策、窮余の策にすぎません。他人を殺し自分を生かすのはもっと悪い。他人も自分も死ぬのは最悪です。
 他人も生かし自分も生きよ。これこそが正しい道徳です。
 どのみち道徳などというものは、おしなべて理想論にすぎません。だったら、最高の理想を教えるべきでしょう。(p145)


 一時期世間を騒がせた若者の「なぜ人を殺してはいけないか」という質問をめぐる考察なども下手な哲学的考察よりもよほど知的な感じで読み応えがあった。著者の道徳観に全面的に納得・共感できるわけではないけれど、おもしろい本であることは確かである。
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# by syunpo | 2017-05-29 21:56 | 社会全般 | Trackback | Comments(0)

くるくるまわしながら楽しむ絵本〜『さかさまさかさ』

●ピーター・ニューエル著『さかさまさかさ』(高山宏訳)/亜紀書房/2015年10月発行

b0072887_19491076.jpg マルク・シャガールは「絵画はどの方向から見ても鑑賞に堪えるものでなければならない」と述べた。 キャンバスを逆さにしても横に転がしても作品として成立すること。それが絵画の条件なんだとシャガールは言ったのである。なるほど彼の作品には浮遊感がただよっていて、天地左右の別なく鑑賞できそうな作品が少なくない。

 同じようなことを絵本の魔術師ピーター・ニューエルも考えたらしい。本書はそれを具現化したものである。すなわち上下をひっくりかえして見ても楽しめる絵本。

 とにかく楽しい。かきねから顔を出している象。さかさに見るとダチョウに。クリスマス・イヴにだんろに靴下をさげる少女。ひっくり返すと袋をせおってえんとつを降りようとしているサンタに早変わり。いくさの格好をしたインディアン。かと思えば木の枝にとまった小鳥に……。

 こうしたアイデアは自分の子供がまちがえて上下さかさまに絵本を読もうとしているのをみて思いついたのだという。ヒントはどこにでもころがっているともいえるが、一冊の絵本にするだけの絵を描くのはやはり才能のある人に限られるだろう。ニューエルならではの仕掛けとユーモアには敬服するほかない。

 原書は一八九三年の刊行。日本では紹介が始まったばかりらしいのだが、絵本の分野では古典的名作の一つといっていいのかもしれない。
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# by syunpo | 2017-05-26 19:50 | 絵本 | Trackback | Comments(0)

文理横断的な実験によるアプローチ〜『モラルの起源』

●亀田達也著『モラルの起源 ──実験社会科学からの問い』/岩波書店/2017年3月発行

b0072887_2048055.jpg 人間の社会を支える人間本性とはいかなるものか。これは古来、当の人間にとって最も主要な論題の一つとして繰り返し問われ研究されてきたものである。本書ではその問いに対して実験社会科学という新しいアプローチで答えようとする。

 まずヒトの社会行動や心の働きはほかの動物と比較したときに、どう位置づけられるか。そしてそのような生物学的基礎をもつ「ヒトの心」が、人文社会科学が対象とするような「人の社会」の成立とどう関わるのか。利他性・共感性・正義など「モラル」を構成する人間の心の起源にそのようなステップを踏んで迫っていく。

 当然、そこでは分野横断的な態度が必要になるだろう。本書では、脳科学、進化生物学、霊長類学、行動科学などに加え、人類学、社会学や行動経済学、心理学、哲学などなど、あらゆる科学的知見が動員される。とりわけ様々な実験やゲームによって得られた知見や推論が多く参照されていて、そこに本書が実験社会科学を標榜している所以がある。

 まず、霊長類学者のダンバーの調査によれば、霊長類の大脳皮質の大きさは、その種における群れのサイズとの間に正の相関関係があるという。群れのサイズが大きい種ほど大脳皮質が大きい。群れが増大すればするほど、必要な情報処理量(認知、判断、言語、思考、計画など)の増大も必要となると考えられる。

 進化時間におけるヒトの心の適応には、このような集団での生活形式が重要であることは明らかだろう。

 人間生活のもっとも根本的な基盤が集団にあるとすると、ヒトもまた、集団の中でうまくやっていくための心理・行動メカニズムを進化的に獲得しており、そのようなメカニズムこそ、生物種としてのヒトが備えている行動レパートリーの中でも中心的な位置を占めると考えることは、非常に妥当な推論のように思われます。(p18)

 では、群れ生活への進化的適応を果たすうえで、生物種としてのヒトの社会行動や心はどのような仕組みになっているのか。結論的にいえば、ヒトは他者の行動や思いに対して極めて「社会的感受性」の強い動物だといえる。

 ハチやアリのような社会性昆虫のコロニーでは、自分と同じ巣の仲間は遺伝子を共有する血縁者なので、自分の適応度を下げてもコロニーの仲間を助ける行動は、同じ遺伝子を残すという観点から意味がある。進化生物学では、この行動が個体と血縁者全体を含む包括適応度を上げると考える。
 しかし非血縁の相手とともに生きなければならないヒトの場合は事情は異なる。いくら群れレベルで望ましい結果を生むはずの行動でも、当の個人の生き残りに不利になるようなら、その行動は定着しない。ヒトは、他者の意図を敏感に察知し、極めて戦略的に反応する「空気を読む」動物なのである。

 では、どのようにしたら互いに助け合う安定した協力関係を作ることができるのか。
 そこで言及されるのが「評判」の働きである。前出の霊長類学者ダンバーは、人が集まる場所での会話を分析し、会話のほとんどが「今ここにいない誰か」についてのゴシップであることを示した。そのような噂話によって人は他者の情報を得る。それは対人マーケットにおいて重要な選別の機能を果たしているという。
 近年の研究によれば、間接互恵性で見られるような自発的な親切行為や援助行動は、このような言語を介した評判のメカニズムを基盤として、ヒトの心に定着したのではないかと考えられている。

 そのような考察を重ねてきたうえで本書が最後に重要な問題と考えるのは「共感/同感」である。アダム・スミスが「同感」こそは人間社会における秩序の最大の基礎になると論じたことはよく知られている。
 近年、共感とは「思いやり」だけでなく身体模倣や情動の伝染などを含む重層的なシステムであり、その一部はヒト以外の動物たちにも共有されているのではないかと指摘されるようになった。

 一般に、共感には「情動的共感」のほかに「認知的共感」がある。後者は相手の視点を取るときに働くもので、より複雑な機制をもっている。認知的共感は、必ずしも情動的共感のように、いつでも直ちに「温かくやさしい思いやり」を生むものではないが、内集団を超える利他性を発揮するために、欠くことのできない本質的な役割を担うと考えられるのである。

 正義やモラルの芽ばえのような行動は、さまざまな動物たちの集団にも観察される。しかし、正義やモラルが言語という媒体を活かして、多くのメンバーを吸引する力をもつのは、人間社会においてのみである。たとえば、社会運動における不公正の糾弾、革命家の血湧き肉躍らせるレトリックは、人々を広く動員する。

 では政治的存在としての人間を動かす正義やモラルとは何だろうか。その考察が本書のハイライトといってもいい。その具体的な課題として「分配」が取り上げられる。

 限られたモノをいかに分配するか。この分配の原理は、社会・文化レベルの要因によって規定されていることは、いくつもの実験によって明らかになっている。

 大雑把にいえば、市場経済化が進んでいる社会ほど「フェア」な取引が文化規範となっているのに対して、市場取引とは無縁の伝統的社会では血縁や特定の相手を重視する行動こそが「正義」とされる。アメリカのジャーナリスト、ジェイン・ジェイコブズが「市場の倫理」「統治の倫理」という二つの類型化を提起したのは、そうした命題に対応するものといえるかもしれない。

 分配をめぐる道徳規範には文化差があるとすれば、個別のモラルを統合する「メタモラル」を構想するにはいかなる考え方が適切だろうか。本書では、ジョン・ロールズの『正義論』などにも熱く言及しているのだが、結論として「功利主義」を挙げている。

 哲学者のジョシュア・グリーンは功利主義こそが人類共通の基盤となり得ると考えた。功利主義には固有名詞がないからである。「功利主義は、自分を含めて誰かを特別扱いすることなく、人々の平等を前提として『幸福』の総量を最大化しようとする考え方」である。そこで著者は「功利主義の難しさ」を指摘したうえで、グリーンの主張する功利主義に共感を示すのである。

 この結論にはおそらく賛否両論あるだろう。ここに至るまでの論考が多彩なものであっただけに、私にはいささか凡庸に感じられたというのが率直な感想。しかしそれを差し引いても、本書における様々な実験とそこから得られる知見には学ぶところ大であったことは間違いない。一読に値する面白い本であると思う。
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# by syunpo | 2017-05-24 21:06 | 実験社会科学 | Trackback | Comments(0)