近代日本の歴史をくぐりぬけてきた歌〜『ふしぎな君が代』

●辻田真佐憲著『ふしぎな君が代』/幻冬舎/2015年7月発行

b0072887_12191238.jpg 一八六九年、英国王子エディンバラ公アルフレッドが来日し、明治天皇に謁見することになった。日本史上初めての西洋王族の来朝である。明治新政府は失礼のないように周到に準備を始める。歓迎の準備が進むなか、横浜に駐屯していた英国陸軍の軍楽隊長が「日本国歌はいかなるものでよろしいか」と問い合わせてきた。外交儀礼として両国の国歌を演奏するというのだ。接伴掛は急遽、古歌「君が代」を用いることを思いつく。曲は鹿児島で愛唱されていた琵琶歌「蓬莱山」の一節を転用することになった。接伴掛の一人が蓬莱山の節で君が代を歌い、軍楽隊長に譜面に起こしてもらった。──これが「君が代」の始まりとされる挿話の一つである。が、定説とはなっていない。様々な異説が今なお存在しているのである。

 いずれにせよ、当時「国歌」が重視されていなかったということは確かである。確実な記録がなく関係者の記憶さえ曖昧で、国家全体として「国歌」に取り組んだ形跡がまったく見当たらない。はっきりしているのは、千年近く「あなた」の健康長寿を祈ってきた古歌が「国歌」に選ばれた時に「天皇」のみを讃える歌へと変貌したということである。

 そのようなスタートを切った歌であるからして、国歌として定着していくには、幾多の試練を経なければならなかった。様々な批判が戦前戦後を通じて寄せられた。「君が代」に代わる国歌が模索されたことも何度かあった。それらをはねのけて現代まで生き延びてきたのである。

 本書はそのような「君が代」の波乱万丈の歴史を丁寧に検証している。歌詞をめぐる解釈が時代に合わせて巧みに変化をとげていったこと。民間による普及活動がその定着に大きく貢献したこと。息つぎの箇所を含めて「君が代」の歌い方が統一されたのはレコードやラジオが普及した昭和時代に入ってからのこと。……などなど本書によって初めて知った史実はたくさんあった。
 著者が結論的に提起している「君が代」運用論には今ひとつ賛成できないけれど、君が代を理解するうえでは良き入門書であることは間違いない。
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# by syunpo | 2017-03-10 12:21 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

民主主義に対する諸刃の剣!?〜『ポピュリズムとは何か』

●水島治郎著『ポピュリズムとは何か 民主主義の敵か、改革の希望か』/中央公論新社/2016年12月発行

b0072887_1849371.jpg ポピュリズムを扱った政治学の書物にあまりおもしろい本はない。というのが私のこれまでの読書体験から得てきた管見である。おしなべて、手垢のついた用語に恣意的な語釈をあてはめただけのどうとでもいえる大味な論調という印象が拭えなかったのだ。
 本書はタイトルどおりまさにポピュリズムを真正面から考察した本である。結論的にいえばそれなりに有益であると思うが、やはり疑問も残った。

 ポピュリズムには大まかにいって二つの定義があるという。
 一つは「固定的な支持基盤を超え、幅広く国民に直接訴える政治スタイル」をいうもの。今ひとつは「『人民』の立場から既成政治やエリートを批判する政治運動」をいうもの。本書では後者を採る。何故なら「現在、世界各国を揺るがせているポピュリズムの多くは、まさにエリート批判を中心とする、『下』からの運動に支えられたものだからである」。

 水島はマーガレット・カノヴァンを引用して、実務型デモクラシー(立憲主義的)と救済型デモクラシー(ポピュリズム的)の緊張関係においてポピュリズムを捉えようとする。二つの型は民主主義にとっては欠くことのできない要素である。デモクラシーは純粋に実務型であることはできず、部分的には救済的な要素に基づくものであるから、ポピュリズムの発生する余地を常に与えることになるだろう。

 以上のような基本認識をもとに、ラテンアメリカ、ヨーロッパ、米国におけるポピュリズムの変遷をあとづけていく。それらの地域の政治状況を簡潔にまとめている点で、海外の事情には疎い私にはたいへん勉強になった。

 とりわけ労働者の権利拡張を推し進めたアルゼンチンのベロニズム(本書ではポピュリズムに類型化されている)による消費社会の到来が独自の政治的行動様式を持つ「消費者」を誕生させたとする記述は興味深い。また、デンマークやオランダ、スイスのポピュリズム政党は「リベラルな価値」の観点から、近代的価値を受け入れないイスラムへの批判を展開している、という指摘にも驚かされた。

 それらのポピュリズムを分析してわかることは、その両義性である。本書では随所にそのことが述べられている。

 ポピュリズムはデモクラシーの発展を促す方向で働くこともあれば、デモクラシーへの脅威として作用することもある。(p20)

 既成政治に対する批判、不満の表明は、それが法治国家の枠に収まる限りにおいて、意味を持ちうる。しかし実際には、安全弁だった思っていたポピュリズムが、かえって制御不可能なほどに水を溢れさせるリスクもある。(p230)

 ただし現在、世界の諸地域で進行している政治動向をポピュリズムなる包括的な概念で説明を試みることの意義や有効性については最後まで疑問が消えなかった。

 そもそもポピュリズムとは政治上の理念モデルというよりも現実に存在する政治勢力に向けられた一つのラベリングである。語源となった米国人民党の活動と直接関連づけられることも少なくなった。今ではみずからポピュリズムを名乗る政党はない。分析者が現実にあわせていかようにも定義を上書きしていくことが可能だろう。

 前述したように本書では、ポピュリズムについて「『人民』の立場から既成政治やエリートを批判する政治運動」との定義を採って論を進めているのだが、欧州における既成政治・エリート批判とは、既成の制度が行なう再分配による受益者(移民や生活保護受給者など社会的弱者を含む)をも特権層として批判するというアクロバティックな理路をたどる。

 ついでに記せば、大阪維新の会もポピュリズムの文脈で論じられているけれども、彼らは特権層を解体するポーズをとりながら、実際にやっていることは別の特権層を生み出している気配が濃厚である。そのような政治勢力はポピュリズムの定義にかなっているのかどうか。そもそもそのような議論がさして重要だとも思えない。

 近代西欧が育んできた「リベラル」な価値観がいわば「反転」を見せ、むしろ強固な「反イスラム」の理論的根拠を提供するに至っている。……という事例が顕在化しているのなら、素人的には、ポピュリズム云々よりも、じゃあ「リベラリズムとは何か」と問い直してみたい気がする。
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# by syunpo | 2017-03-07 19:02 | 政治 | Trackback | Comments(0)

源ちゃんが大学で行なった読書のススメ〜『読んじゃいなよ!』

●高橋源一郎編『読んじゃいなよ! ──明治学院大学国際学部高橋源一郎ゼミで岩波新書をよむ』/岩波書店/2016年11月発行

b0072887_1855430.jpg 明治学院大学の高橋源一郎ゼミで行なわれた「特別(白熱?)教室」の模様を記録したもの。一冊の本を徹底して読み、その上で著者に教室に来てもらって質疑応答するという形式で、哲学者の鷲田清一、憲法学者の長谷部恭男、詩人の伊藤比呂美の三人が登場する。

 鷲田の哲学談義は総じて凡庸でいささか退屈したが、社会運動に関して述べているくだりは鷲田の創見というわけではないけれど、一つの真理を突いていると思われる。

 僕は基本的にこう考えているんです。自分たちがこう変えたいと思う社会の形とか、あるいは運動の形とかいうのは、それをどうしようってみんなで相談するその集団の中で先に実現されていなかったら、あるいは目指されていなかったら絶対に実現されないということです。(p84)

 長谷部の憲法論はその著作に親しんできた者には新味はまったくない。「良識」をキーワードの一つにしているのだが、論理的に危なっかしい運びなのは相変わらず。学生との質疑応答もやや押され気味。日本政府の情報管理の杜撰さに関する学生の質問に「一〇〇パーセントいつも完璧だという話ではないです」「日本の役人っていうのは、そんなに悪いことをいつも考えている人たちの集団ではないです」などと凡庸な一般論で対応しているのにはズッコケた。こんな講義で学生たちは本当に納得できたのだろうか。

 なかで伊藤のトークには詩人らしい自由奔放さが横溢していていちばん楽しめた。学生に対して媚びることなく「だいたい、あなた方は何も考えていないし、教養もないし、そんな人たちが、我々が一所懸命作ったものを分かるわけがないの、初めから」と挑発的に言い切っているのには感心した。

 最近は新書でもオムニバス形式の講義録が増えてきたが、心から推賞できそうな良書にお目にかかれることは滅多にないというのが率直なところである。
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# by syunpo | 2017-03-02 19:03 | ノンカテゴリ | Trackback | Comments(0)

普遍的な概念でストーリーを語る〜『げんきな日本論』

●橋爪大三郎、大澤真幸著『げんきな日本論』/講談社/2016年10月発行

b0072887_1957078.jpg 今や講談社新書の名物コンビとなった橋爪大三郎と大澤真幸の対談シリーズ第三弾。テーマは日本史である。時流に媚びたような書名にはあまり共感できないが、ここにいう「げんき」とは「自分なりのストーリーを見つけること」。具体的には「普遍的な概念をもって説明」することで「科学的な検証にたえる」ようなストーリーを再発見するという意味らしい。
 社会学者二人による議論なのであくまで「仮説」の提起というレベルにとどまるものの、歴史の読み物としてそれなりにおもしろいことは確かである。

 全体を古代・中世・近世に対応する〈はじまりの日本〉〈なかほどの日本〉〈たけなわの日本〉と三部構成にしたうえで、それぞれに六つの問題を配して二人が語りあっていくというスタイルをとる。

「なぜ日本では、大きな古墳が造られたのか」を考える一章では、「余剰労働を『非軍事的に消費する』こと自身が、目的だったのでは」と推察したり、平安時代における古典文学の成立によって「日本という文化的空間の、アイデンティティ(自己同一性)が揺るぎないものになった」といった橋爪の発言はなるほどおもしろい。

 承久の乱の画期性を指摘するあたりの議論も勉強になったし、戦国大名は統治権が伝統に基づかないという橋爪の指摘を受けて「日本史上初めて出現した事実上の政府」と大澤が受けるやりとりも異論はありそうだが、興味深く読んだ。

 安政の不平等条約について「条約の内容は不平等かもしれないけれども、条約という形式は、両者の対等性を前提にしている」という認識にもなるほどと思う。二人の認識によればこの条約のおかげで日本の独立が保障され、ヨーロッパ列強による植民地化を免れたということになる。

 日本史学の専門家であればもっと精緻な議論が求められるだろうが、専門外の気楽さから自由闊達に仮説を披瀝している点に良くも悪くも本書の特質があるといえるだろう。
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# by syunpo | 2017-02-24 20:01 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

気合いと絆とバッドセンス〜『ヤンキー化する日本』

●斎藤環著『ヤンキー化する日本』/KADOKAWA/2014年3月発行

b0072887_18433816.jpg 斎藤環は二〇一二年刊行の『世界が土曜の夜の夢なら──ヤンキーと精神分析』で日本文化に偏在する「ヤンキー・テイスト」を分析した。本書はその続編ともいうべき対談集。

 日本社会はヤンキー化している。ではヤンキー化とは何なのか。それは不良や非行のみを意味しない。著者が「ヤンキー」の用語に込めているのは次のようなことである。

 ……彼らが体現しているエートス、すなわちそのバッドセンスな装いや美学と、「気合い」や「絆」といった理念のもと、家族や仲間を大切にするという一種の倫理観とがアマルガム的に融合したひとつの“文化”、を指すことが多い。(p9)

 斎藤はヤンキー化に対して批判的ではあるものの「単純に軽蔑したり排除したりできない」とも述べている。本書は、斎藤のこうした基本認識を踏まえての対話なので、比較的まとまりのある対談集にはなっていると思う。登場するのは、村上隆、溝口敦、デーブ・スペクター、與那覇潤、海猫沢めろん、隈研吾。

 村上との対話は、本書のテーマにしっくりハマっているとは言い難い雰囲気をもって始まるのだが、村上の仕事が「気合い」を重視していることを言明している点などは興味深く読んだ。

 溝口は暴力団の実態に詳しいジャーナリスト。斎藤の認識に同意を示しつつ、「暴力団や半グレと、ヤンキーの両者は近接領域にあっても別モノ」と指摘する。

 デーブとの対談はリラックスした雰囲気ながら本書の趣旨からは逸脱することなく進んでいく。それなりに楽しい対話。選挙の古臭さとヤンキー文化をからめる文脈で橋下徹人気を語るのは良いとしても、それにデーブが好意的なのは同意できないが。

 與那覇は安倍政権についてトンチンカンな発言も散見されるが、「インテリ派とヤンキー派」の対立を自民党政治にあてはめて「官僚派と党人派」と言い換えているくだりなどにかろうじて面白味が感じられた。

 梅猫沢は、社会心理学者の山岸俊男の(「頭でっかち」に対する)「心でっかち」というフレーズを引用して、心を重視するヤンキーリアリズムを批判的に語っているのが印象的。

 隈は建築という営みそのものがヤンキー的といい、日本のヤンキー文化を建築業界に沿って語っているのは勉強になった。「おたくとヤンキーというのは、ノンヒエラルキーな二〇世紀的工業社会が崩れてきた中で人間が生きていくための二つの道」と隈はいう。本書のなかでは私にはもっとも面白い対談だった。
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# by syunpo | 2017-02-15 18:45 | 精神医学 | Trackback | Comments(0)