ブックラバー宣言


コラムニスト・吉本俊二の書評ブログです。
by syunpo
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30
検索
記事ランキング
最新の記事
カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
最新のトラックバック
マーラーが死の前年に書き..
from dezire_photo &..
経済成長がなければ私たち..
from 天竺堂の本棚
『せつない(新訳 チェー..
from 施設長の学び!
カール・マルクス『ルイ・..
from 有沢翔治のlivedoorブログ
愛国の作法
from 蔵前トラックⅡ
雑考 自由とは何か④
from 読書メモ&記録
東浩紀 『クォンタム・フ..
from 身近な一歩が社会を変える♪
純粋に哲学の問題だ「ベー..
from 夕陽の回廊
バーンスタインのミュージ..
from クラシック音楽ぶった斬り
memento mori..
from 試稿錯誤
タグ
ブログジャンル

短歌に人生の居場所を見つけた〜『キリンの子』

●鳥居著『キリンの子 鳥居歌集』/KADOKAWA/2016年2月発行

b0072887_18341739.jpg 壮絶というほかない。ここに収められた短歌を読むと、言葉にすがるようにして何とか生きている人もいるのだ、ということを思い知る。

 著者の鳥居は、小学校五年生のとき、目の前で母親に自殺され、その後は養護施設での虐待、ホームレス生活などを体験。義務教育もまともに受けられず、文字を覚えるのも短歌に関してもほぼ独学で学んだとプロフィール欄にはある。自殺をはかったこともあるようで、そのことをうたった短歌もいくつか収められている。

 亡母や祖母との思い出にふれた歌は、美しくも哀しい。母や家に関する歌といえばあの寺山修司を想起するが、それはかなり虚構性や演技性に富んだ、作り込まれたものだっただろう。寺山の真価はまさにそうしたところにあったと思われるが、鳥居の場合はもっと切羽詰ったところから絞り出してきた言葉という印象を受ける。もちろんどちらが良いとか悪いとかいう話ではない。

 いずれにせよ本書に付された「短歌に出会って人生に居場所を見いだせた」というキャッチコピーには誇張はないだろうと思う。

 あたらしいノートの初めの一頁まだぎこちない文字を並べる
 目を伏せて空へのびゆくキリンの子 月の光はかあさんのいろ
 雑草の葉の部分だけむしりつつ祖母の畑に見上げるトマト
 女子生徒たちの自転車石鹸の香り引きつれ隣町まで
 手を繋ぎ二人入った日の傘を母は私に残してくれた

[PR]

# by syunpo | 2017-02-03 18:35 | 文学(詩・詩論) | Trackback | Comments(0)

そしてジャズ者に人類の命運は託された!?〜『ビビビ・ビ・バップ』

●奥泉光著『ビビビ・ビ・バップ』/講談社/2016年6月発行

b0072887_18443980.jpg 物語の舞台は、まもなく二十二世紀を迎えんとする近未来の世界。語り手は夏目漱石よろしく一匹の猫である。ドルフィーという名のその猫は、ビッグバン以来宇宙で生起せる全事象がデータベース化された《超空間》に接続できるというワケで、神様視点を獲得しているのだ。

 肉体が滅んでも電脳内で生きつづけることが可能になった近未来の地球では、リアルと疑似現実環境の境界は曖昧模糊としている。空間の移動もまた現代とは様相を異にするスピードと利便性を得て容易になっている。その一方、貧富の格差は拡大し富者と貧者の棲み分けがすすんでいる。主人公はジャズ・ピアニストで音響設計士のフォギー。

 その世界にパンデミック(大感染)の危機が訪れようとしていた。フォギーを可愛がってくれているロボット製造販売の巨大企業の偉い人、山萩氏との交流をとおして、フォギーは思いがけずその危機の渦中に巻き込まれ中心的な役割を演じることを余儀なくされる。その場その場で臨機応変に対処することをよしとする〈ジャズ者魂〉を発揮しつつ、さて、フォギーは人類の危機を救うことができるのか?

 おもしろいのは、そこに古き良き時代(?)の懐かしい人々がアンドロイドとしてフォギーの眼前に登場することだ。異次元の空間を往還すると同時に、時代もまた錯綜する。エリック・ドルフィーとの共演やら、大山康晴と人間との対局やら、末廣亭での立川談志の高座やら、新宿ゴールデン街のバーで伊丹十三・寺山修司・野坂昭如らと同席するやら……。奥泉はみずからの余技や趣味にまつわる愛着と薀蓄を遺憾なく動員して物語を動かしていく。時おり混じる敬体のセンテンスもヒューモラスな雰囲気を醸し出すのに効果的だ。近未来SF小説という枠組を採りつつ、一九六〇〜七〇年代の日本文化をノスタルジックに批評するという趣向を同時に盛り込んでいるのが本作の特色の一つといえよう。

 そしてフォギーの冒険譚のなかからいくつもの哲学的問題があらためて浮かびあがってくる。自己とは何か。主体とは? 生命とは? 進化とは? 人間とは?……波乱万丈の物語のなかに盛り込まれた人類永遠の問題をめぐる思考の迷路へと真面目な読者ならば誘いこまれるのではないだろうか。
 さらに野暮を承知で付け加えるなら、最終盤に描かれるフォギーと山萩博士とのやりとりには、奥泉の音楽に対する愛、ひいては人間という存在に対する愛が吐露されているように感じられた。
[PR]

# by syunpo | 2017-01-26 18:45 | 文学(小説・随筆) | Trackback | Comments(0)

権力企業が支配する暗黒世界!?〜『ひょうすべの国』

●笙野頼子著『植民人喰い条約 ひょうすべの国』/河出書房新社/2016年11月発行

b0072887_12461213.jpg「ひょうすべ」とは九州に伝わる妖怪である。「河童の仲間」と言われているらしい。けれども本書に登場する「ひょうすべ」はその妖怪とは無関係。「表現がすべて」略して「ひょうすべ」。というと言論の自由を守っている良いものみたいだけど、実際は違う。

 ひょうすべとは「逆に報道を規制してくる存在」で、しかも「芸術も学問も、売り上げだけでしか評価しないで絶滅させに来る、いやーな存在」で、「世界的権力企業の金庫守護霊」なのである。

 ひょうすべの活躍によって、TPP批准に象徴される強者に有利な自由世界、すなわち大企業と投資家たちに支配される世界になる。世界企業を批判するのは「個人攻撃」として逆にタブーになり、日本ならぬにっほんは「NPOひょうげんがすべて」と「知と感性の野党労働者党」(知感野労)が支配する社会になったのだ。

 千葉県に住む埴輪詩歌。おばあちゃんは膠原病を患い満足な治療を受けられずに死んでしまい、母とは不仲、詩歌はその後女人国ウラミズモへの移住をはかるが失敗する……。詩歌とその家族を軸に描き出すアイロニカルなディストピア小説。

 文学者の荒唐無稽な想像の世界とも言い切れない。世界の現実がこの作品が描きだす社会の様相に近づきつつある、と思ったのは私だけではないだろう。新自由主義への批判的視座、ジェンダー差別や言論統制への対抗的姿勢は明快である。笙野の作品を読むのは初めてだが、設定としては『だいにっほん』三部作の前日譚に相当するものらしい。

 ただしこれ以外の作品を読んでみたいという気はあまり起こらない。文芸作品としては前半の記述が一本調子で、途中で読むのに飽きてしまった。またインターネットの言葉使いを採り入れた意図的な悪文調の文体は別に珍しくはないだろうけれど、私にはどうもなじめなかった。
[PR]

# by syunpo | 2017-01-07 12:50 | 文学(小説・随筆) | Trackback | Comments(0)

近代日本のアイロニー考〜『未完のファシズム』

●片山杜秀著『未完のファシズム 「持たざる国」日本の運命』/新潮社/2012年5月発行

b0072887_1985033.jpg 片山杜秀のいう「未完のファシズム」とはいかなる意味か。
 明治憲法は権力分立の思想が徹底しており、一元的な独裁政治に陥る危険性をあらかじめ排除するものだった。国家を一つの意志に束ねて戦争するには不都合な仕組みだったのである。東条英機は首相になってそのことを悟り、一人で複数の役職に就いて言論弾圧などを行なったものの、一元的な総動員体制を構築することは完全にはできなかった。未完のファシズムとはそのような状態を指している。

 むろんファシズムの定義は多様であり、権力の一元性を重視した場合に日本のそれは「未完」であったというにすぎない。その意味では片山の命題にさして独創性があるとも思えないけれど、現代政治史の一つの見方を示したものには違いなかろう。

 さて、大正から昭和の敗戦へと至る道を考える時、一つの不思議がある。時代が下れば下るほど、近代化が進展すればするほど、日本人は神がかっていったという事実だ。
 片山は第一次世界大戦に注目する。その大戦に衝撃を受けた軍人たちがそれぞれに戦争哲学を組み立てていったからである。それらが「未完のファシズム」体制下で、様々な葛藤や対立の結果、はからずも一つの神がかった流れを作りだすことになる。本書はそのような近代日本のアイロニカルな過程を描き出していく。

 日本の軍部は第一次世界大戦を契機に今後の戦争は肉弾戦から火力優位・物量重視の近代戦へと変化していくことを感じとっていた。そこで日本の採るべき戦略については、二つの系統が現れる。

 一つは、荒木貞夫、小畑敏四郎、鈴木率道らのちに「皇道派」と呼ばれることになる人々が提唱した、精神主義を基盤とする「即戦即決・包囲殲滅戦」の思想である。それは「持たざる国」の苦肉の戦略ともいえるものだが、その考えを柱にして出来たのが『統帥綱領』『戦闘要綱』だ。
 もう一つは、「持たざる国」であるのなら「持てる国」になろうと主張する石原莞爾ら統制派の考え方である。石原は満洲国を拠点にして生産力を高め、戦争準備が充分に整ったところで「世界最終戦争」に打ってでるべきだと主張した。

 しかし、その二つの考え方はともに大きな時流に呑み込まれていく。軍隊が政治に容喙できない以上、軍人はいついかなる場合でも既存戦力で戦う準備をしておかねばならない。つまり、物量において負けると分かっている戦争でも、やらねばならんときはやるべきだ、精神力による嵩上げ分を無限に膨らませられるはずだという「ある種の狂気を孕んだ信仰」に傾く人々が出現したのである。片山はその代表的論客として東条のブレーンでもあった中柴末純を指名する。

「持たざる国」でも「持てる国」の相手を怖じけづかせられれば勝ち目も出てくる。中柴はそのためには、なんと、日本人がどんどん積極的に死んでみせればよいのだと考えた。その思想は日米戦争時代の日本人の死生観に決定的影響を及ぼした『戦陣訓』にはっきり表現されている。

 むろん、中柴も東条も玉砕を賛美するような「精神主義」で米英に勝てると本気で信じていたわけではない。片山は彼らが残した文献を読み込んだうえで、その哲学は「『もたざる国』が『持てる国』と正面戦争をしうる格好を取り繕っておくための方便にすぎなかったと言ってよい」と結論している。

 皮肉にも中柴は合理的計算が仕事の工兵の出身であった。しかし中柴にしてみれば玉砕戦法だけで勝てると高唱するしか戦い続ける気力を喚起させることはできなかっただろう。片山は本書の末尾で次のように痛切にまとめている。

 この国のいったんの滅亡がわれわれに与える歴史の教訓とは何でしょうか。背伸びは慎重に。イチかバチかはもうたくさんだ。身の程をわきまえよう。背伸びがうまく行ったときの喜びよりも、転んだときの痛さや悲しさを想像しよう。そしてそういう想像力がきちんと反映され行動に一貫する国家社会を作ろう。物の裏付け、数字の裏打ちがないのに心で下駄を履かせるのには限度がある。(p333)

 本書は戦前戦中の陸軍関係者の国家観・戦争観を軸にして、小川未明や徳富蘇峰、宮沢賢治や倫理学者の吉田静致らの著作をも参照しながら、日本近代のアイロニカルな思想史を浮き彫りにした労作といえるだろう。
[PR]

# by syunpo | 2016-12-27 19:10 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

印象派と日本美術的な感性〜『モネのあしあと』

●原田マハ著『モネのあしあと 私の印象派鑑賞術』/幻冬舎/2016年11月発行

b0072887_18235110.jpg 本書はアートを主題にした作品で知られる作家の原田マハの講演記録に加筆修正したもの。モネに魅せられた原田がモネの魅力を存分に語っている。個人的なモネとの出会いの回想にはじまって、モネの生涯、彼が生きた時代の背景、印象派の美術史的な意義づけなどを要領良く解説していく。

 話の内容は、日本の浮世絵からの影響やチューブ入り絵の具の開発と風景画との関連など、毎度おなじみのもので特に斬新な視点が打ち出されているわけではない。ただ個展というスタイルの展覧会を始めたのがニューヨークにおけるモネ展だったというのは初めて知った。

 原田は「草や花を、命が宿っているように」描いている点に日本人との共通の感覚を見出し、「ひょっとしたらモネが感じ取って作品に表現しようとしていることを、私たちはモネ以上にキャッチしている、そんなふうに思えてならないのです」と締めくくっている。印象派絵画の日本での人気はよく指摘されるところだが、睡蓮を一つのモチーフとして描いたモネはことのほか日本人の感性と親和性が高いといえるのかもしれない。

 末尾にはモネを収蔵するミュージアムについての一覧も付されており、実際的な情報も含まれている。初心者にとってはモネ鑑賞の指南書として有益な本といえるだろう。
[PR]

# by syunpo | 2016-12-22 18:32 | 美術 | Trackback | Comments(0)