ブックラバー宣言


コラムニスト・吉本俊二の書評ブログです。
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恩人たちへの感謝〜『おわらない音楽』

●小澤征爾著『おわらない音楽 私の履歴書』/日本経済新聞出版社/2014年7月発行

b0072887_19365281.jpg 本書は日本経済新聞の〈私の履歴書〉に連載した文章に加筆修正をほどこしたものである。すでに新潮文庫に入っている『ボクの音楽武者修業』という自伝的な書物があり、当然ながら記述内容に重なる部分も少なくないのだが、本書では「恩人たちを紹介する」ことに重きが置かれているのが特長。

 世界的指揮者として活躍してきた小澤だけあって、音楽畑以外の「恩人」たちも錚々たる顔ぶれであることにあらためて驚かされる。日野原重明、小林秀雄、井上靖、イサム・ノグチ、広中平祐……。

 一九六〇年、ヨーロッパでの活動をあきらめて帰国を考えていた時に「どんなことがあっても、ここにいなさい」と助言してくれたのが井上靖で、その言葉がその後も心の支えになったという挿話はなかなか興味深い。「文学者の場合、外国の人に自分の作品を読んでもらうのは難しいことなんだ。ひどい時には会ったこともない人が翻訳する。音楽なら外国の人が聴いても翻訳なしで理解してくれるじゃないか……」

 音楽仲間との関係では、オペラについて助言をくれたクラウディオ・アバドやコンサート・キャラバンを一緒に始めたムスティスラフ・ロストロポーヴィチらにまつわる話が印象に残った。

 ただ本書はもっぱら社交上のエピソードが中心になっていて、内容的にはやや皮相的で薄味。文体の軽さもそのような読後感を強めている。功成り名遂げた音楽家としての含蓄豊かな文化論的な読み物を期待した私にはいささか物足りない感じがした。
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by syunpo | 2016-10-14 19:38 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

搦め手から迫る〜『クラシックの核心』

●片山杜秀著『クラシックの核心 バッハからグールドまで』/河出書房新社/2014年3月発行

b0072887_1981957.jpg 片山杜秀とは私にとってはまず現代音楽の批評というジャンルで知ることになった名前である。ナクソス・レーベルのカタログに解説文なんかも書いていて、私などはその影響でCDを買ったりもした。政治学を専攻する学者であることを知ったのは少し後のことである。

 さて本書は編集者相手に問わず語りに喋った内容を一冊にまとめたもの。バッハ、モーツァルト、ショパン、ワーグナー、マーラー、フルトヴェングラー、カラヤン、カルロス・クライバー、グレン・グールド……と九人の作曲家・演奏家が俎上にのせられている。

 カラヤンもフルトヴェングラーも知らない人が入門書的な意味合いで手にとったならば、それなりの役目を果たす本かもしれない。しかし少しでもクラシック音楽に親しんできた読者には失礼ながら新味はほとんどない。どこかで聞いたような紋切型の論評もしくはそのヴァリエーションといった印象を大きく超えることはないのだ。「へそ曲がり」を自称する片山でも、スタンダードな音楽家を語ると批評の言葉もまたスタンダードになってしまうのか。カルロス・クライバー論など伝記的事実に基いて同じことを延々と喋っているだけで退屈極まりない。

 面白味があるとすれば、個人的な随想としての味わいとでもいえばよいか。たとえばテレビ番組との組み合わせで強烈にインプットされてしまった音楽体験(『レインボーマン』におけるバッハ《トッカータとフーガ》!)の懐旧談など、ほぼ同世代の私にも懐かしさを共有できる事例もあったりして、そういうくだりは楽しく読めた。
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by syunpo | 2016-05-01 19:12 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

演奏家はいかに楽譜を無視してきたか〜『クラシック魔の遊戯あるいは標題音楽の現象学』

●許光俊著『クラシック魔の遊戯あるいは標題音楽の現象学』/講談社/2014年2月発行

b0072887_22272620.jpg 大仰なタイトルが付けられているが、早い話が有名な標題音楽の録音聴き比べである。ありきたりの企画ながら類書と一線を画すところがあるとすれば、凡百の専業音楽評論家と違い、その書名からも推察されるように音楽の領域を超えた人文系教養を(ぎこちない身振りながらも)感じさせる点だろうか。プロローグで本書の試みをベンヤミンの翻訳論に準えることに始まって、ヴィヴァルディ《四季〜春》のカラヤンの演奏評にエドマンド・バークを引用してみたり、パイヤールを賞賛するのにフーコーの『性の歴史』を持ち出してみたり、あるいはスメタナの音楽を語るにサイードを参照してみたり。

 本書には全体をとおして貫かれている一つの認識がある。「演奏の歴史とはまったく驚くべきことに、演奏家がいかに楽譜を無視し、自分の感覚や想像力に従ってきたかという歴史である」という命題だ。演奏家の「感覚や想像力」を語ろうとするときに思想家たちの言説がふと紛れ込んだりするわけである。

 ヴィヴァルディ《四季〜春》、スメタナ《わが祖国〜モルダウ》、ベルリオーズ《幻想交響曲》、ムソルグスキー《展覧会の絵》のわずか四曲のCD聴き比べだけで、薄くはない一冊の選書を書いてみせた著者の饒舌には驚嘆すべきかもしれない。

 もっとも著者の「理念」を追求せんとする文章が読者を音楽の楽園へと向かわせる魔力を有しているかどうかは微妙である。オーケストラの特徴を論じるくだりなど紋切型に収まってしまう記述も多く、新たな感興を呼び起こすようなインパクトには欠ける。何よりも高みから演奏家を見下ろすような官僚的な書きぶりからは、書名に示されている「遊戯」の悦楽も恍惚も当然ながらほとんど伝わってこなかった。
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by syunpo | 2016-01-07 22:30 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

人が集まって音楽をすること〜『オーケストラ再入門』

●小沼純一著『オーケストラ再入門』/平凡社/2012年8月発行

b0072887_991793.jpg オーケストラ入門ではなく、再入門となっているのがミソである。クラシック音楽を演奏する楽団にまつわるありがちな概説ではなく、ここではオーケストラが何よりも一つの〈場〉として捉えられている。端的にいえば「大勢の人が集まって音楽をする」ことをめぐって自在に記述された書物といえようか。

 むろんヨーロッパ近代にひとまずの完成形をみたオーケストラに関する歴史的経緯に多くの紙幅が割かれてはいる。西欧列強の帝国主義化とオーケストラの拡大に相関関係をみるのは型どおりだ。が、雅楽やガムランの楽団、ジャズオーケストラやYMOなど、いかにも著者らしく様々なジャンルに目配りしているのが本書の大きな特長となっている。

 日本の大都市圏におけるオーケストラへの補助金の削減などの事例を引きつつ「オーケストラなるものへの無関心、無理解は、とりあえず十八世紀以降につくられてきた、個人個人が参加して社会を成り立たせてゆくありようへの危機であるように考えるのは無理があるでしょうか」と問いかける本書の問題提起は示唆にみちている。
 記述がいささかカタログ的でとくに目新しいことが書かれているわけではないけれど、入門書としては充分におつりのくる内容だと思う。
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by syunpo | 2012-08-31 09:14 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

心の響きを求めて〜『小澤征爾さんと、音楽について話をする』

●小澤征爾、村上春樹著『小澤征爾さんと、音楽について話をする』/新潮社/2011年11月発行

b0072887_19204899.jpg 小澤征爾の対談集はこれまでいくつも出ている。武満徹との『音楽』、広中平祐との『やわらかな心をもつ』、大江健三郎との『同じ年に生まれて』。いずれもおもしろい本。本書が既刊書と異なるのは相手の村上春樹が聞き役に徹していて対談というよりもインタビュー的にまとめられている点だ。

 村上はクラシック音楽にもことのほか造詣が深い。小澤の口にする固有名詞にも逐一的確な反応を示していくので、対話は大いに弾んでいく。ベートーヴェンのピアノ協奏曲第三番の演奏論やマーラーをめぐるかなり突っ込んだ話があるかと思うと「タクトを振るのってむずかしいんですか?」というような素朴にすぎる質問にも小澤は誠実に対応する。小澤の音楽観や楽屋話がざっくばらんに語られていて愉しい本である。
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by syunpo | 2011-12-08 19:25 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

ベルリン・フィルへの道〜『僕が大人になったら』

●佐渡裕著『僕が大人になったら』/PHP研究所/2011年6月発行

b0072887_1035269.jpg 先頃、念願のベルリン・フィルへのデビューを果たした佐渡裕のエッセイ集。一九九七年から二〇〇〇年まで『CDジャーナル』誌に連載したものの文庫本化である。フランス、イタリアを中心にヨーロッパのオーケストラやオペラハウスで快進撃が始まった頃の楽屋話が綴られている。
 カラヤンの指揮が気に入らずリハーサル後に演奏会をキャンセルしちゃったという武勇伝をもつピアニストのポゴちゃんことイーヴォ・ポゴレリッチとの良好な共演の様子やら、マルメ交響楽団の演奏会でのカーテンコールのステージ上でオケのメンバーからファンファーレを鳴らしてもらった話やら、書き方次第では鼻につくかもしれない成功譚を関西風味のベタな文章によってなんとか愉しく読ませてしまう。同時に心身の不調や仕事への不安などネガティブな側面も随所に吐露されていて、夢に向かって突き進むマエストロにいっそうの人間味を感じさせる効果を与えている。

 玉木正之の解説が興味深い。
 山本直純が盟友の小澤征爾に言ったという有名なセリフがある。「自分は音楽の裾野を広げる。お前は世界を目指せ」。玉木はその言葉を引いて、日本人音楽家にとっては「裾野を広げる」作業と「世界を目指す」作業とはかつて両立しがたく分業体制にあったのだが、今では時代が変わり佐渡裕がその二役をこなしていることを指摘している。なるほどその意味では佐渡は「新しい時代」の「新しい人間」なのかもしれない。
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by syunpo | 2011-06-26 10:06 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

永遠の存在のひとりとなるべき〜『マーラー』

●吉田秀和著『マーラー』/河出書房新社/2011年3月発行

b0072887_926163.jpg 二〇一〇年が生誕一五〇周年、二〇一一年は没後一〇〇年と二年続きでマーラーのメモリアル・イヤーにあたっているらしい。ということで、昨年から音楽や映画の世界ではこの異能の音楽家に関連した企画が目立ってきている。日本の出版界ではさほどの動きはなかったものの、今年になって音楽批評の大御所・吉田秀和がマーラーについて書いた文章を集めた文庫本が登場した。

 江戸前のやや古風な口語調が時折混じる言葉遣いと、必要以上に読点を打って呼吸を整えているかのようなたどたどしさを装った吉田独特の文体(確信犯的悪文といっていいだろう)が私にはどうも肌に合わず、近頃は新聞や雑誌に掲載される文章に接する以外には纏まったものを読むことはなかった。が、本書に関していえば、とかく晦渋な議論に傾きがちなマーラーを論じるには吉田の良い意味で緊張感を解いた語り口はあるいは合っているのかもしれないと思う。

 収録されている文章の初出時期をみると一九四八年頃から二〇〇九年までとかなり長いスパンにわたっていて、その意味では日本における戦後のマーラー演奏=批評の移り変わりが吉田を通して概括できるようにも読める。戦後まもなくの頃は今とは違って演奏会で取り上げられる曲目もかなり限定されていたらしいこともわかって、マーラーを真剣に聴き始めてまもない私のような読者にはいろいろと教えられるところも多い。

 前半部にマーラーの楽曲に関するかなり分析的な長文がおかれている。譜例をふんだんに盛り込み、楽理的にかなり立ち入った専門的な議論を展開していて、私には十全に理解しえたとは言い難いものの、とにもかくにもこれが本書の骨格を成しているといっていいだろう。吉田は、晩年に書かれた《大地の歌》《交響曲第九番》と《交響曲第一〇番のためのアダージョ》を「最も高いところに達し」た音楽として称揚している。マーラーの音楽を語るときに彼の精神的な病いに着目する論者が多いのだが、その点にはほとんど触れないのは吉田の見識といっていいかもしれない。その後は主に録音を中心に演奏評がづづく。

 カラヤンに関する辛口の批評など紋切型の域を出ていないようにも思われるが、レヴァインやシノーポリに好意的な論評を加えているのは愉しく読んだ。とかく主観性の強さが批判の的になっているらしいシノーポリの演奏に対して「より軽い音楽」と評しているのはおもしろい。レヴァインのマーラーは迂闊にもノーマークだったけれど、外資系CDショップの店頭で割安のマーラー全集のボックスセットを見かけたばかりだし、試しに聴いてみようかな。

 残念なのは、ここで取り上げられている録音には廃盤になったものが少なくないこと。逆にマーラーを精力的に演奏・録音している現役組のアバドやインバル、ティルソン・トーマスに関するコメントがほとんどないのが物足りなく感じられた。
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by syunpo | 2011-04-23 09:52 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

“越境”する表現としての〜『音楽のエラボレーション』

●エドワード・W・サイード著『音楽のエラボレーション』(大橋洋一訳)/みすず書房/2004年10月発行(新装版)

b0072887_19243356.jpg 『オリエンタリズム』で西欧の思想史を根底から書き換える視座を提供したエドワード・W・サイードは、音楽にも造詣が深く、みずからピアノを演奏することでも知られた。本書はサイードが行なったカリフォルニア大学アーヴァイン校におけるウェレック・ライブラリー講演の記録をまとめたものである。

 本書のキーワードは、書名にも使われている「エラボレーション」である。ただし適切な訳語が存在しないということで、「錬磨育成」「錬成」「変容」「加工」「創造加工」「練り上げ」「熟成」など、文脈によって複数の訳語が使い分けられている。
 このことからもわかるようにサイードのいう「音楽のエラボレーション」とは、すぐれて多義的で多様なニュアンスを包含するものといえるだろう。逆にいえば、いささか抽象的な印象も拭えないのだが、そのなかでは「エラボレーション」に「創造加工」という訳語が与えられている以下のような記述は私には比較的理解しやすいものである。

 ……クラシック音楽が、あまたの競合する文化編成体のなかで、他の文化編成体と連帯するか、区別されるか、あるいは一体化しながらつねに存在してきたことをひとたび認めるならば、わたしたちは、音楽の創造加工(エラボレーション)そのもの——つまり音楽の作曲と演奏——が市民社会のなかにおける一活動であり、他の活動と重なりあい、相互にささえあう関係にあることをみることができるはずだ。(p168)

 サイードが繰り返し強調しているのは、音楽が一見自律的にみえるが故に社会から隔絶しているものと捉え、そうした観点から演奏されたり批評されたりすることの陥穽である。音楽は社会や歴史と切り離されることはなく、むしろ「社会に関与し社会において活動的」なものとして存在し続けてきた。
 もちろん、それはしばしばネガティブな関与として、たとえば階級差を増大させたり女性のステレオタイプの形成に加担したりしてきたのであるが、同時に人間の多様な思考様式を練り上げていくことも可能にするのである。

 本書におけるサイードの論考はテオドール・アドルノが展開した音楽論を批判的に受け継いだものであり、訳文がこなれないこともあっていささか難解ではあるものの、専門分化したクラシック音楽研究家によるあまたの著作とは一味ちがった知的刺戟に満ちたものといえるだろう。
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by syunpo | 2009-03-31 19:39 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

あらゆる禁忌を超えて〜『バレンボイム音楽論』

●ダニエル・バレンボイム著『バレンボイム音楽論』(蓑田洋子訳)/アルテスパブリッシング/2008年11月発行

b0072887_17301275.jpg 音楽とりわけ「クラシック音楽」と呼ばれているものは、長らく王侯貴族たちの宮廷音楽としての歴史を有してきたことからもわかるように、政治とは密接な関係にある。ヨハン・シュトラウスのマーチにしてもヘンデルの楽曲にしても、それらはしばしば政治の所産として世に送り出されたものであり、同時に政治を内包するものでもあった。またオーケストラとは「ヨーロッパが帝国主義で拡大していく過程と合わさって拡大していった」(三浦雅士)ものである。
 ところが、わが国ではプロアマを問わずクラシック音楽に関する議論においては、政治的問題を回避する政治アレルギーや政治的カマトトの言説が相変わらず散見されるのを私は奇妙に思っている。

 本書は、盟友の故エドワード・サイードとともに中東和平の問題に心をくだき、イスラエル人やアラブ人が一緒に音楽を学び演奏するウェスト=イースタン・ディヴァン・プロジェクトを推進するなど多彩な活動を続けているユダヤ人音楽家ダニエル・バレンボイムの「音楽論」を集めたものである。
 本書の特色は、良くも悪しくも音楽と政治を互いにアナロジカルに論述している箇所に見出すことができよう。

 ……音楽においては人生においてと同様、速度と実体のあいだに不可分な結びつきがある。和声進行の速度は、政治的プロセスの速度と同じように、和声進行そのものの有効性を左右し、けっきょく、それが影響をおよぼすはずの実体そのものを変化させることもできる。たとえば、オスロ和平交渉は——その是非はともかく——まさに内容と速度の関係が誤っていたせいで、失敗すべくして失敗したと確信している。(p26)

 一国の憲法はスコアに、そして、政治家は演奏者にたとえられるだろう。(p72)


 バレンボイムのこうした思考スタイルは、ウェスト=イースタン・ディヴァン・プロジェクトについて言及した《オーケストラ》《二人のパレスティナ人》と題された論考・レポートに最もよく凝縮されている。それらはサイードとの共著『音楽と社会』で示された音楽観・世界観がより具体的な形で発展したような意欲的な文章だ。

 また、音楽であれ社会問題であれ、あらゆる「禁忌」について批判し、対立する要素や文化の「共存」に大きな価値を見出している点もバレンボイムの姿勢を特長づけていることの一つである。
 その意味では、イスラエルでワーグナーの演奏が禁じられてきたことに彼が反対してきたのも理解できるし、昨今の一大潮流ともなっているピリオド奏法に関して、その実践者が「真正」さをことさら強調するために「人間がもつ創造性の幅を狭めてしまう」として否定的にみているのも興味深い。

 本書におけるバレンボイムの主張は、当然ながら政治的にも音楽的にも大いに議論を呼びそうな内容を含んでいるが、彼自身の音楽活動を理解するうえで、さらには音楽と社会との関わりを考えていくうえで、たいへん意義深いものであることは間違いない。
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by syunpo | 2009-02-23 18:34 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

人を狂わせる至高の楽器〜『ストラディヴァリウス』

●横山進一著『ストラディヴァリウス』/アスキー・メディアワークス/2008年10月発行

b0072887_16184585.jpg クラシック音楽に関心のない者でも一度はその名を聞いたことがあるであろう弦楽器の名器「ストラディヴァリウス」についての本。著者は、みずから楽器製作をも手がける写真家である。口絵に著者自身が撮影したストラディヴァリウスの数々、名器を生んだ古都クレモナの美しい写真が掲載されている。

 昨今とみに価格高騰の著しいストラディヴァリウスの名器の名器たる所以を述べたくだりは、凡庸な講釈が続いていささか退屈させられたが、スパニッシュ・セットをめぐる歴史的挿話や楽器商・コレクターのサラブーエ伯爵、ルイジ・タリシオに関するエピソードなどは楽しく読んだ。
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by syunpo | 2008-10-22 20:02 | 音楽 | Trackback | Comments(0)