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民主主義に対する諸刃の剣!?〜『ポピュリズムとは何か』

●水島治郎著『ポピュリズムとは何か 民主主義の敵か、改革の希望か』/中央公論新社/2016年12月発行

b0072887_1849371.jpg ポピュリズムを扱った政治学の書物にあまりおもしろい本はない。というのが私のこれまでの読書体験から得てきた管見である。おしなべて、手垢のついた用語に恣意的な語釈をあてはめただけのどうとでもいえる大味な論調という印象が拭えなかったのだ。
 本書はタイトルどおりまさにポピュリズムを真正面から考察した本である。結論的にいえばそれなりに有益であると思うが、やはり疑問も残った。

 ポピュリズムには大まかにいって二つの定義があるという。
 一つは「固定的な支持基盤を超え、幅広く国民に直接訴える政治スタイル」をいうもの。今ひとつは「『人民』の立場から既成政治やエリートを批判する政治運動」をいうもの。本書では後者を採る。何故なら「現在、世界各国を揺るがせているポピュリズムの多くは、まさにエリート批判を中心とする、『下』からの運動に支えられたものだからである」。

 水島はマーガレット・カノヴァンを引用して、実務型デモクラシー(立憲主義的)と救済型デモクラシー(ポピュリズム的)の緊張関係においてポピュリズムを捉えようとする。二つの型は民主主義にとっては欠くことのできない要素である。デモクラシーは純粋に実務型であることはできず、部分的には救済的な要素に基づくものであるから、ポピュリズムの発生する余地を常に与えることになるだろう。

 以上のような基本認識をもとに、ラテンアメリカ、ヨーロッパ、米国におけるポピュリズムの変遷をあとづけていく。それらの地域の政治状況を簡潔にまとめている点で、海外の事情には疎い私にはたいへん勉強になった。

 とりわけ労働者の権利拡張を推し進めたアルゼンチンのベロニズム(本書ではポピュリズムに類型化されている)による消費社会の到来が独自の政治的行動様式を持つ「消費者」を誕生させたとする記述は興味深い。また、デンマークやオランダ、スイスのポピュリズム政党は「リベラルな価値」の観点から、近代的価値を受け入れないイスラムへの批判を展開している、という指摘にも驚かされた。

 それらのポピュリズムを分析してわかることは、その両義性である。本書では随所にそのことが述べられている。

 ポピュリズムはデモクラシーの発展を促す方向で働くこともあれば、デモクラシーへの脅威として作用することもある。(p20)

 既成政治に対する批判、不満の表明は、それが法治国家の枠に収まる限りにおいて、意味を持ちうる。しかし実際には、安全弁だった思っていたポピュリズムが、かえって制御不可能なほどに水を溢れさせるリスクもある。(p230)

 ただし現在、世界の諸地域で進行している政治動向をポピュリズムなる包括的な概念で説明を試みることの意義や有効性については最後まで疑問が消えなかった。

 そもそもポピュリズムとは政治上の理念モデルというよりも現実に存在する政治勢力に向けられた一つのラベリングである。語源となった米国人民党の活動と直接関連づけられることも少なくなった。今ではみずからポピュリズムを名乗る政党はない。分析者が現実にあわせていかようにも定義を上書きしていくことが可能だろう。

 前述したように本書では、ポピュリズムについて「『人民』の立場から既成政治やエリートを批判する政治運動」との定義を採って論を進めているのだが、欧州における既成政治・エリート批判とは、既成の制度が行なう再分配による受益者(移民や生活保護受給者など社会的弱者を含む)をも特権層として批判するというアクロバティックな理路をたどる。

 ついでに記せば、大阪維新の会もポピュリズムの文脈で論じられているけれども、彼らは特権層を解体するポーズをとりながら、実際にやっていることは別の特権層を生み出している気配が濃厚である。そのような政治勢力はポピュリズムの定義にかなっているのかどうか。そもそもそのような議論がさして重要だとも思えない。

 近代西欧が育んできた「リベラル」な価値観がいわば「反転」を見せ、むしろ強固な「反イスラム」の理論的根拠を提供するに至っている。……という事例が顕在化しているのなら、素人的には、ポピュリズム云々よりも、じゃあ「リベラリズムとは何か」と問い直してみたい気がする。
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by syunpo | 2017-03-07 19:02 | 政治 | Trackback | Comments(0)

現代に甦るヘラクレス神話〜『英雄はそこにいる』

●島田雅彦著『英雄はそこにいる』/集英社/2012年5月発行

b0072887_10203423.jpg 島田雅彦は混迷する現代に英雄を甦らせる。英雄の中の英雄ヘラクレス。前作『悪貨』につづくエーターテインメント風味濃厚の小説であるが、島田はあえて古代神話の荒唐無稽の物語を流用しながら、ネグリ=ハートのいう世界の〈帝国〉化や、政治的ポピュリズム、民族間の対立、新宗教の台頭などなど現代社会の諸問題に言及しようとする。

 ヘラクレスに準えられるのは天才暗殺者サトウイチロー。それに相対するはシャーマン探偵ナルヒコと警視庁特命捜査対策室の穴見警部と八朔刑事。ヘラクレスを操るゼウスはイチローの父で世界経済を牛耳るカール・ロスマン。はたして正義はいずこにあるのか。

 ナルヒコが捜査協力することになった五つの迷宮入り事件は深層でつながり、それに続く事件とともにヘラクレスの十二の奇跡と重ね合わされる。イチローの神出鬼没というべき行動は彼を追うナルヒコや八朔刑事をも魅了せずにはおかないだろう。

 神話を下敷きにしているだけに登場人物や組織の造形がいささか類型的だったり、話の展開に強引なところがなきにしにもあらずだけれど、とにもかくにも最初から最後まで読者を弛緩させずに引っ張っていく疾走感は現代の英雄譚にふさわしいといえるかもしれない。
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by syunpo | 2012-10-10 10:21 | 文学(小説・随筆) | Trackback | Comments(0)

民主政治再生のために〜『ポピュリズムへの反撃』

●山口二郎著『ポピュリズムへの反撃』/角川書店/2010年10月発行

b0072887_9395529.jpg 「ポピュリズム」とは一九世紀の米国で農民を支持基盤とした政党(ポピュリスト・パーティ=人民党)による重農主義的な政治運動を意味する言葉であったことは、政治学の入門書や事典には必ず書かれている。ただし今日ではこの言葉は原義を離れてしまい、論者によって異なった意味内容を込められ、時には明確な定義を与えられず漠然と使われていたりする。ゆえに「ポピュリズム」という言葉を使って政治を語る時には、明快な再定義をほどこしたうえでなければ、いたずらに議論を空転させるだけでたいした成果は得られないだろう。

 本書はその「ポピュリズム」をキーワードに現代日本の政治を考察した本である。
 手垢にまみれた言葉に新鮮なコンセプトを盛り込んで政治の新たな可能性を提示してくれるのか。それとも混乱のうえに混乱を重ねるようなつまらない結果をもたらすのか──。

 山口はポピュリズムについて英国の政治学者バーナード・クリックの定義を掲げることで叙述を開始している。

 ポピュリズムとは、多数派を決起させること。あるいは、少なくともポピュリズムの指導者が多数派だと強く信じる集団(中略)を決起させることを目的とする、ある種の政治とレトリックのスタイルのことである。(p14)

 いきなりここでズッコケた。ポピュリズムを定義するのにポピュリズムという言葉を用いる同語反復に陥っているのだから定義になっていない。議論の根幹部分がこのような杜撰なものなので、本書において「ポピュリズム」なる言葉は結局いかようにも拡大解釈され濫用されているような印象である。

 山口によれば社民党もみんなの党もポピュリズム的政党ということになるらしい。さらに小泉純一郎に代表される今のポピュリスト的リーダーについて「本来利害を共有する人々の中に分断線を引き、人々のエネルギーの分散させます。そういうポピュリズムなのです」と述べるに及んでは、およそクリックの定義ならざる定義の対極にまで意味内容が拡散してしまっている。ポピュリズムの内実が変容したというよりも、山口が恣意的にこの語句を使っているだけではないかと感じた。

 ありていにいってしまえば、著者の賛同できない政治リーダーを批判するのに「ポピュリスト」のレッテルをはり、随時彼らに適した定義や解釈をあてはめているにすぎないのではないだろうか。
 もっとも山口はポピュリズムを全面的に否定しているわけでもなく、「ポピュリズムにはポピュリズムで反撃を」と嗾けてもいる。そうなると実質的なことは何も言っていないに等しい。

 手垢にまみれた言葉に新鮮なコンセプトを盛り込んで政治の新たな可能性を提示してくれるのか。それとも混乱のうえに混乱を重ねるようなつまらない結果をもたらすのか──。
 ……最初に示した問いかけに対して、今ここで私の読後感を記すならば、答えは明らかに後者ということになる。

 山口二郎の識見には私はこれまで多くのことを教えられてきた。小泉・竹中の新自由主義路線を未だに主張してやまないエコノミストや自民党政権からお金を頂戴して長期腐敗政権の太鼓持ちを演じてきたエセ言論人などに比べれば、はるかに信頼できるし共感できる点は多い。
 本書においても、高福祉高負担のスウェーデンと税負担の軽い米国とを比較して、可処分所得の割合をみればほぼ同じという指摘など、キラリと光る叙述にも少なからず触れることができた。
 しかし全般的には上に記したような議論の粗雑さや混乱が目立ち、山口の最近の著作のなかでは残念ながら最悪の出来映えといわざるをえない。
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by syunpo | 2010-10-16 09:52 | 政治 | Trackback | Comments(0)

犯罪社会学の最前線〜『グローバル化する厳罰化とポピュリズム』

●日本犯罪社会学会編『グローバル化する厳罰化とポピュリズム』/現代人文社/2009年4月発行

b0072887_19323285.jpg 刑事政策における厳罰化の流れは世界的にみられる一般的傾向である。本書は、昨今の厳罰化について“Penal Populism”(刑罰のポピュリズム)をキーワードにして国際比較の観点から考察・分析した論考を集めたものである。

 Penal Populismとは、ニュージーランドの刑罰社会学者ジョン・プラットが提唱しているもので、昨今、犯罪学の分野ではしばしば引用される概念である。それは要約すれば以下のように特徴づけられる。

 戦後の刑事政策を形作っていた多くの前提がひっくり返され、刑罰を運用・執行する権力構造の劇的な再構成が行なわれる。そこでは刑事司法の専門家による研究成果よりも、犯罪被害者などの個人的な体験や逸話といったものが重視されるようになり、複雑な問題に対して分かりやすい言葉で解決策を語る者に対する信頼感が高まっていく……。

 米国での峻厳な刑罰政策の背景を検証したマイケル・トンリーの論文は、Penal Populismといった観点よりも米国独自の歴史文化を重視し「政治的偏執病」「プロテスタントの原理主義と不寛容」「憲法の構造」「人種問題」の四つの観点から説明を試みて米国の特殊性を浮かびあがらせる。

 ジョン・プラットはニュージーランドの厳罰化を文字どおりPenal Populismの視点から分析して本書の根幹を成す考察を展開している。彼によれば、メディアなどの発達によって犯罪情報が増え、被害者支援活動家やメディアの提示する「常識的」で分かりやすい議論が統計などを駆使した犯罪学者や司法実務家の「複雑」な議論を凌駕して、市民感情に応えようとする政治家の厳罰化政策を促す結果となった。

 デイビッド・ジョンソンの「国際比較から見た日本の刑罰」は、アジア諸国で死刑適用の減少傾向がみられることを指摘して日本の刑事政策の転換の可能性を探ったもので、示唆に富む内容である。
 浜井浩一とトム・エリスが日本におけるPenal Populismについて検証した論考には教えられるところ大であった。客観的にみた治安情勢は悪化していないにも関わらず、日本で厳罰化が進んだ背景には何が考えられるのか——。二人はメディアの扇情的な報道や被害者支援活動などをめぐって冷静に分析を加える。結論として、日本の刑事政策の舵を握っているのは、今も昔も市民や世論ではなく検察官であり、日本の急速な厳罰化はそれを求める市民感情を司法官僚が巧みに利用した結果であるとする。その意味ではプラットのいうPenal Populismの一つの特徴——司法実務家の決定権が相対的に低下する——という要素は日本ではみられない。

 拘禁刑の活用をめぐる国家間の差異を検証するタピオ・ラッピ=ゼッパーラは「犯罪との戦い」より「貧困との戦い」を重視する福祉的国家ほど犯罪者に対して寛容な政策を採っており、受刑者率の低いことを指摘する。また二大政党による劇的な政権交代が行なわれる「多数決民主主義」よりも比例代表制を基盤とした複数政党による連立政権に象徴される「合意形成的民主主義」の方が一般にPenal Populismに対する耐性は強い、という。

 本書に寄稿している論者はおしなべて厳罰化にもPenal Populismにも批判的である。
 とりわけ裁判官や検察官が選挙によって選出される米国の「民主的」司法制度がポピュリズムを招きやすいとしてやり玉にあげられているのはまことに興味深い。
 考えてみれば、市民の感情や個人的挿話が科学的知見をさしておいて政策決定に反映されるという「ポピュリズム」的現象は何も刑事政策にかぎった話ではないだろう。とりわけ日本では教育においても福祉政策においても程度の差こそあれ、ポピュリズム的過程がみられる。(安倍政権時に発足した教育再生会議には教育学の研究者は一人も入っていなかった。)

 その意味では、民主政国家においてはほとんどの政治決定が多かれ少なかれポピュリズム的な色合いを帯びざるをえない。また社会科学の知見は常に一つの結論に集約されるわけでもなく、実際日本では(説得力の程度は別にして)アカデミズムの名において治安の悪化を指摘しそれを前提に厳罰化を主張する学者も存在する。さらにいえば第三者のチェックがほとんど入らない現在の日本の検察のあり方には批判の声も少なくない。
 すなわち、結果において論者の歓迎すべき決定がなされれば、その過程の「民主主義」的側面が賞賛され、逆の場合には「ポピュリズム」の汚名をきせられて糾弾される、ということではないのか。
 そのことを考えれば、本書にみられる考察は寄稿者たちの意図を超えて、「民主政」そのもののあり方についても再考に導くような根本的な問題提起をはらんだ内容をもっているのではないかと思った。
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by syunpo | 2010-01-26 19:57 | 犯罪学 | Trackback | Comments(0)

共存のための原理〜『変貌する民主主義』

●森政稔著『変貌する民主主義』/筑摩書房/2008年5月発行

b0072887_19431538.jpg 現代の日本人にとっては自明の前提のように思われ、それ故に陳腐なお題目と化してしまった感のある民主主義だが、それは当初提起された時には「過激」な思想で、誰もが容易に賛同できるものではなかった。時を経て民主主義が輝かしい生命力をもって人々の道標として掲げられた時代もあった。
 政治社会の変化に伴って民主主義が意味する内容もそれを支える政治思想も変貌を遂げてきた。民主主義とは「それだけで自足した規範としてあるのではなく、それが置かれているさまざまな社会関係のなかではじめてその意味が決まるという性格を持つ」(p17)ものなのだ。

 政治思想史を専攻する森は、本書において民主主義思想がどのような変化を経験して現在に至ったのか、もっぱら一九六〇〜八〇年代における断絶を重視しながら概観する。「戦後政治学」の頃から比べると、その時期を境に民主主義思想を構成する地平が大きく変化した、というのが森の認識だからである。

 何が変化したのか。著者はそれを「四つの視点」として提示する。
 自由主義と民主主義との関連を論述した第1章、民主主義における多数者と少数者の問題を扱った第2章、ナショナリズム・ポピュリズムと民主主義との関係を検証した第3章、民主主義と主体性の問題を考察した第4章……という構成だ。

 もともと民主主義と人民主権とは別次元の問題であったが、民主主義が「主権」という考え方を取り入れたことで民主主義そのものが大きく変化することとなった、という指摘(第2章)は興味深いし、昨今隆盛のガヴァナンス論に基づく「外部評価」が「自己であることの不安な時代」を映し出したものという記述(第4章)なども面白く感じた。民主主義思想を歴史的に再考するうえでの良き入門書ではないかと思う。
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by syunpo | 2009-06-27 19:57 | 政治 | Trackback | Comments(0)

社会を捉える鍵としての〜『権力の読みかた』

●萱野稔人著『権力の読みかた 状況と理論』/青土社/2007年7月発行

b0072887_22535599.jpg 『国家とはなにか』で、国家を暴力の運動体として捉えた萱野稔人による権力論である。内容的にはアクチュアルな問題を扱った「状況」論と、ミシェル・フーコーの権力論を読み解いた「理論」とに大別される。

 小泉政権による「構造改革」を「権力の再編成」の視点からみた論考はなかなか面白い。
 一般に「構造改革」は「ネオリベラリズムや市場原理主義といった経済政策上の立場の問題としてとらえられることがおおい」が、萱野は「権力の再編成と利権の回路の再配置をめぐるひとつの運動」として捉えるのである。そこでは「自由化」といわれるものがむしろ権力の強化をもたらすのだ。
 以下の一文が小泉ー安倍路線の民営化政策を端的に評しているように思われる。 

 多くの場合、民営化とは、国家が責任をとらずに権力を強化・集中するための巧みな方策になっている。教育現場においてもそうだ。市場原理に教育をゆだねればゆだねるほど、教育行政の権力は強化されていく。教育におけるさまざまな問題の責任は現場に負わせる一方で、市場で競争するためのルールをさだめたり、競争を監督したり、どこが競争に勝ったのかを判定する権限は行政が握ることになるからだ。(p104)

 また、小泉政権が仕掛けた郵政改革については、ナショナリズムとの関連が指摘される。郵貯や簡保を通じて集まった郵便局の巨額のカネは、財政投融資をつうじて公共事業の資金として使われるが、そこには政治家や官僚、業界が利権のために群がっている。「国家とは国民みんなのものであり、一部の特権者がそれを私物化してはならない」というナショナリズムの主張が小泉郵政改革を支えた、というのである。

 「ポピュリズムのヨーロッパ」と題する一文では、フランスを中心にヨーロッパの政治状況を概括しながら、ポピュリズムとナショナリズムと国民国家との関連についてみていくもので、やはり興味深く読んだ。

 「理論」として後半に収録された「フーコーの方法」は、フーコーの一連の権力論についてジル・ドゥルーズの助けを借りながら考察したもの。権力を思考するにあたってフーコーは避けて通れない思想家だが、筆者にいわせれば「そもそもフーコーは権力ということでなにを問題にしているのか、どのような着想のもとで権力をとらえているのか、その権力分析はかれの言説分析とどのような関係にあるのか、といったことを明確に論じられる人はあまりいない」。そうした問題に理論的に答えようとしたのが本稿である。
 だが正直にいえば、これはかなり難解であった。
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by syunpo | 2007-11-01 22:56 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

スリルに満ちた言葉の交感〜『対話の回路』

●小熊英二著『対話の回路 小熊英二対談集』/新曜社/2005年7月発行

b0072887_2249476.jpg 『単一民族神話の起源』『〈日本人〉の境界』などの力作を世に問うた実力派学者の対談集である。対談相手は、村上龍、島田雅彦、故網野善彦、谷川健一、赤坂憲雄、上野千鶴子、姜尚中、今沢裕……と多士済々だ。
 対談とは銘打たれているが、多くは、著者がもっぱら聞き手に回って対談相手の話を引き出す体裁になっている。よく言われるように、小熊は相手の仕事を丹念に読み込んで精緻な質問を繰り出し、時に相手をたじろがせる。したがって、ここに名を連ねた作家や学者たちの仕事の再吟味といった意味でも、極めて有意義な書物といっていいだろう。
 小熊英二自身の著作にせまっているのは上野千鶴子で、『〈民主〉と〈愛国〉』をめぐりスリリングな対話が交わされているものの、これは聞き役の上野のツッコミが無理やりな感じで、今一つ冴えない。
 いずれにせよ、本書全体を通じていえるのは、そんじょそこらの御座なりの対談でない、ということだ。

 私が最も印象に残ったのは、冒頭の村上龍との対話だ。小熊は、今、この社会を被いつつある「日本人が劣化している」「この国の制度が崩れてきている」式の言い方に苦言を呈している。

 現在起きていることは、けっしてあるものが崩れて、「だめ」になってきたのではなくて、変化しているのだと思うんですね。それは特定の価値観から見ると、崩壊して、だめになりつつあると考えると思うんですけれども、そう考えてしまうと話は終わってしまう。(p55)

 ……少年犯罪が起きていますとか、景気が悪くなってきましたとか、官僚の不祥事が起きていますとか、そういったことを何とはなしに全部つなげて、「日本がだめになっている」という言い方をするというのは適切ではないと思うんですよ。それでは個々の問題に対して適切な処方箋も出せないと思うんです。(p57)


 すべてを大雑把にわかりやすい「物語」に回収してしまう現代の風潮を、小熊と村上は、やんわりと窘めている。「日本社会の危機」を救えるような万能のソリューションなどない、個々の問題に対して、より丁寧に向かいあうこと、「言葉の回路」を考えること——の大切さを強調するのだ。

 また、今は亡き網野善彦との対談も、内容は濃い。網野に批判的な質問を重ねつつ、最終的には日本の多様性を叙述する網野史観の豊かさや可能性を引き出している。
 姜尚中との対話では、ポピュリズムをめぐってその危険性や問題点を指摘しながら、石原慎太郎や横山ノックらの登場に疑問を投げかける。

 「単一民族」「日本人」「民主」といった一見すると素通りしてしまいそうなキーワードから大部の書物をモノにした著者ならではの、含蓄に富んだ「言葉」たちを味わおう。
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by syunpo | 2006-04-15 22:52 | 思想・哲学 | Trackback(3) | Comments(2)