ブックラバー宣言


コラムニスト・吉本俊二の書評ブログです。
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日本におけるコモンの可能性〜『ネグリ、日本と向き合う』

●アントニオ・ネグリ、市田良彦、伊藤守、上野千鶴子、大澤真幸、姜尚中、白井聡、毛利嘉孝著『ネグリ、日本と向き合う』(三浦信孝訳)/NHK出版/2014年3月発行

b0072887_19303161.jpg マイケル・ハートとの共著で、グローバルな現代社会を〈帝国〉と〈マルチチュード〉の二元的対立として描き出し、日本にも大きな影響を及ぼしているアントニオ・ネグリ。最初の来日予定のときには日本政府の不当ともいえる対応があって果たせず、二度目は東日本大震災のためキャンセルとなり、ようやく二〇一三年四月に来日が実現した。迎え入れる日本側もこれまでの経緯もあって相当に熱のこもったものだったようだ。

 本書はネグリが日本で行なった講演やシンポジウムの記録を中心に編んだものである。ネグリの発言に対する日本側パネリストの「応答」を加えて、ネグリの理論を(震災から原発事故というカタストロフィを体験した)日本の文脈において読み直そうとする本書の趣旨は、政治哲学的観点からいっても時宜にかなったものといえるかもしれない。

 ネグリは東日本大震災以降の日本に触れながら「原子力国家」という概念をもちだして、マルチチュードの敵をあぶり出そうとする。原子力国家とは「エネルギー政策だけでなく政策全体の基礎を、原子力の活用と、それが意味する重大な社会的リスクのうえに据え、このテクノロジーを前提として巨大なピラミッドをなす金銭的均衡のうえに据えている国家」のことである。その本性は幻想に基づいているとはいえ、その社会では、マルチチュードはそのパワーを発揮したくても十分には発揮できないという。マルチチュードのパワーを確立するためには、真のデモクラシー、〈コモン〉のデモクラシーが必要となるだろう。ネグリはその実例として伊東豊雄の「みんなの家」プロジェクトに言及し、〈コモン〉へと向かう一つの可能性を見ようとする。

 姜尚中をはじめ、市田良彦、毛利嘉孝、白井聡、大澤真幸の応答や論考はぞれぞれの特徴がにじみでたものではあるものの、状況解説や理念レベルでの話に傾いているという印象が拭い難い。
 その点、上野千鶴子のマルチチュード論は社会学者らしく具体的なもので、他の男性論者の議論の抽象性を補ってあまりある。マルチチュードの実践を介護や被災地の現場における女性たちの活動に見出そうとする上野の主張は、時に「マルチチュードの力を詩的に賞賛」(大澤真幸)するだけに終わってしまう政治哲学的言説のなかにおかれると、とりわけ異彩を放っているように感じられる。
 ただし上野は同時に代議制民主主義の欺瞞を明快に指摘していて、原発事故以降に生まれた反原発運動やその後の成り行きに対してはきわめて悲観的である。女性たちのマルチチュード的な実践を政治決定につないでいく回路をいかに構築していくべきか、なお課題は残る。「わずかな希望」をもっと大きな希望へとふくらませるにはどうすべきなのか。今度は読者の側がそれに応答していかなければならない。
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by syunpo | 2014-04-04 19:42 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

新しい民主主義のための〜『マルチチュード』

●アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート著『マルチチュード 〈帝国〉時代の戦争と民主主義 上下巻』(幾島幸子訳)/NHK出版/2005年10月発行

b0072887_18524015.jpg アントニオ・ネグリ=マイケル・ハートの『〈帝国〉』に続く第二弾ともいうべき著作。二冊ともに今や現代の古典ともいえるほどに引用される機会は多い。前著で新しいグローバル秩序──〈帝国〉的秩序──の分析を行なったネグリ=ハートは、本書において〈帝国〉的秩序に対するオルタナティブの可能性と抵抗の主体性の探究を行なっている。ここで鍵言葉となるのが書名にも採られた〈マルチチュード〉だ。

 マルチチュードとは何なのか。それは「大衆」や「労働者階級」とは区別される。マルチチュードとは「さまざまな社会的差異はそのまま差異として存在しつづける」ような人びとの開かれた関係性とでもいうべきものである。それは現在のポストモダン的な生産体制のもとで主流となっている非物質的労働や生政治的労働が必然的に創り出すあり方でもある。

 マルチチュードという概念が提起する課題は、いかにして社会的な多数多様性が、内的に異なるものでありながら、互いにコミュニケートしつつともに行動することができるのか、ということである。(上巻p20)

 従来の政治哲学においては、君主制であれ貴族制であれ民主制であれ、主権は一者が担うものとされてきた、というのが本書の認識である。〈帝国〉的秩序の時代にあっては、単一の者が統治する必要はないだけでなく、一者が統治することはありえない。単一の主権主体が社会の上に君臨するという超越的モデルが不可能となれば、マルチチュードの出番となる。マルチチュードは一者たりえない。差異は差異として相互に認め合うのが原則だからだ。ゆえにマルチチュードが〈帝国〉的秩序の主権を担うことはない。それは〈共〉的なものとして、〈共〉的なネットワークの運動体として存在する。

〈共〉にもとづく社会的諸関係を創造するマルチチュードの力は主権とアナーキーの間にあり、したがってそれは新しい政治の可能性を指し示しているのである。(下巻p231)

b0072887_18581159.jpg「新しい政治の可能性」として本書では、メキシコ・チアパス州におけるサパティスタ運動や、一九九〇年代に活躍したイタリアでの「白いツナギ」運動など多くの実例を引いている。あるいは反戦運動や環境問題の活動家グループ、性的少数者たちが時に連帯してグローバルな規模で運動を行なっているようなケースもマルチチュードの可能性の発現として好意的に紹介している。
 本書の認識にあっては、自分の頭だけで考えるというような個人的な思考のあり方にも懐疑の目が向けられる。「思考とは本来、単独でなされうるものではない──どんな思考も過去や現在の他者の思考との共同作業によって生み出されるのだ」と。

 とはいうものの率直にいってマルチチュードなる存在が政治の具体的な場所で主導的に政治決定していくすがたを明瞭にイメージすることは私にはむずかしい。それはマルチチュードが本書において適当な日本語が見つからずそのままカナ書きで表記されていることにも表れているかもしれない。著者たちのいう「代表制を超えた新しい民主主義の形態」がいかなるものなのかも判然としない。末尾において「愛」を持ち出しているのも日本の読者には今ひとつピンとこない表現ではなかろうか。本書の大振りな分析に異論を唱えることはさほど難しいことではなかろうし、現に多くの異論反論が提起されてもいる。

 ただそれにしてもマルチチュードがよくも悪しくも様々な方面に多大な影響を与えたこともまた否定できない事実だろう。オープンソース社会という本書の比喩に注目するなら、ドン・タプスコットとアンソニー・D・ウィリアムズのいう『ウィキノミクス』は、マルチチュードの〈共〉的な活動のビジネス版という感じがするし、シャンタル・ムフに代表される闘技的民主主義理論が合意よりも差異を重視するという点でいえばマルチチュードの政治に通じる面があるように思われる。また昨今、日本でも少なからぬ政治学者が提唱している「多数性の政治」も本書の影響を抜きには考えにくいものだろう。

 本書の分析が目指すのは「民主的なマルチチュードがいかに形成され、人びとが日常生活や労働活動においてすでにもっている能力と知識によって、それがいかに活気づけられるかを明らかにする」ことだと冒頭に述べている。日本の某政治哲学者がナショナリズムの不可避性をいうだけのために本書に執拗な批判を加えている、その退屈な書物に比べれば、来るべき民主主義のためにマルチチュードの潜勢力を浮かび上がらせようとする本書の試みは充分に創造性にみちたものではないかと思う。
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by syunpo | 2013-12-21 19:05 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

可能性としてのマルチチュード〜『〈帝国〉』

●アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート著『〈帝国〉──グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』(水嶋一憲、酒井隆史、浜邦彦、吉田俊実訳)/以文社/2003年1月発行

b0072887_10151477.jpg 世界情勢を論じるにあたって本書を引用する者は多い。二一世紀の古典とも呼び得る著作ではなかろうか。ペルシア湾岸での戦争が終わった後に開始され、コソヴォでの戦争がまさに始まる前に完了したという本書の執筆時期は日本においては「失われた十年」に相当する。

 一般に「グローバリゼーション」と呼ばれている現象を包括的に分析した本書のキーワードはまさに標題にある。〈帝国〉。──それはかつての帝国主義とは異なり、ある中心的な国民国家の主権とその拡張の原理に基づくものではない。〈帝国〉的な主権は脱中心化されたネットワーク状の支配装置であり、特定の領土を持たない〈非ー場〉であるというのだ。
 帝国主義から〈帝国〉への移行(=ニューディールの帝国的権力)を定義づけるのは「脱植民地化」「生産の脱中心化」「規律社会」の三点である。

 そのような〈帝国〉に対抗するために、ネグリ=ハートが導入する概念が〈マルチチュード〉である。かつては「群衆」「多数性」などと訳されてきたこの言葉に対して、本書では原語の読みをそのままカタカナ表記することで、従来の訳語が孕んでいた受動性を取り払おうとした。かつての〈民衆〉がもっぱら「既存の特権と財産を防衛する、組織された個別性」をあらわすのに対して〈マルチチュード〉は「自由で生産的な諸実践の普遍性」を有するというのである。
 さらに政治的自律性や生産的活動にあるマルチチュードを示すためのアクティブな用語として、活動性としての力を表わす動詞〈posse=ポッセ〉が用いられる。

 もっともスピノザから借りてきた〈マルチチュード〉なる概念を一般読者が理解するのは必ずしも容易ではない。マルチチュードの可能性をいかに高めていくのか。それこそ世界に散在するマルチチュードの諸実践にかかっているということなのかもしれない。
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by syunpo | 2012-09-13 10:25 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

「干物」の知が第六感を磨く〜『姜尚中の政治学入門』

●姜尚中著『姜尚中の政治学入門』/集英社/2006年2月発行

b0072887_202788.jpg 集英社新書における著者の四冊目の本。「アメリカ」「暴力」「主権」「憲法」「戦後民主主義」「歴史認識」「東北アジア」の七つのキーワードを手がかりに、日本と世界の姿を読み解いていく。政治思想史を専門とする著者だけに、ルソーやホッブズ、カント、ハンナ・アーレントなど政治学の範疇を超えた思想家の名も数多く出てくる。
 生真面目にして堅実な語り口だが、入門と銘打っていることもあって、先行者の知見の紹介や読解に重きがおかれ、著者独自の独創的な政治学的展望を期待する者は物足りなさを感ずるかもしれない。

 「暴力」や「主権」の章では、話題のアントニオ・ネグリとマイケル・ハートの唱える概念「マルチチュード」が引用されるあたり、いかにも「今風」なのだが、擦れっ枯らしの思想家連中とは違い、好意的に紹介されているのが本書の特色といえよう。
 ただ、国民国家の限界が明らかになった今、グローバルな主権を誰が担うのか、という問題に対して、ネグリとハートの「帝国」やハンス・ケルゼンの「国際連合」構想の引用に終わっているのは、ややさびしい気がする。

 「憲法」の問題では、「人民から権力を受託した側が、それを恣意的に行使できないように制約を課すもの」との基本認識を再確認して、「国の伝統や文化、義務についても書き込もう」という昨今の改憲論に釘をさしている。
 章末にイェーリングの『権利のための闘争』が推薦されているのが、興味深い。イェーリングにとって、権利のための闘争とは、倫理的な人格の自己主張であると同時に「国家共同体に対する義務」でもあった。

 最終章の「東北アジア」の地域構想に関する記述に、姜尚中の立場が明確に現れている、というべきだろう。戦前、日本が主導した「大東亜共栄圏」とは異なる文脈と異なる主体によって提唱される東北アジア共同体構想に、日本は積極的に関わっていくべきだと主張する。

 歴史認識をめぐる相克と冷戦構造の残滓は、ユーラシア大陸の東端の未来構想に暗い影を投げかけています。これらの問題が解決されない限り、おそらく地域主義の夢は、虚妄に終わることでしょう。
 しかし私自身は、たとえそれが決断主義ではないかと謗られても、ナショナリズムの実在よりは、東北アジア共同体の虚妄に賭けるべきだと考えています。それこそが、太平洋の向こう側だけでなく、玄界灘にも架け橋をつくることになるからです。(p161〜162)


 この構想の具現化が成った暁には冷戦以降の世界の一極化に歯止めをかけることができる、という見解に異論はないが、世界の現実を前にするとき、どれほどの実現性があるのかいささか心もとないのは、なんとも残念である。
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by syunpo | 2006-07-28 20:38 | 政治 | Trackback | Comments(4)