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戦後の出発点を飾る好著〜『現代政治の思想と行動』

●丸山眞男著『新装版 現代政治の思想と行動』/未来社/2006年8月発行

b0072887_18372898.jpg 大日本帝国の「実在」よりも戦後民主主義の「虚妄」の方に賭ける。
 ……今でもしばしば引用される丸山眞男のこのフレーズは、本書の〈増補版への後記〉の末尾に記された一節である。ごく常識的なことを簡潔に述べているだけだが、それでもこの言葉に丸山の戦後民主主義に対する両義的な態度が凝縮されているようにも読める。「虚妄」の語句に注目すれば、(丸山に対する批判陣営の言辞をそのまま借用したものとはいえ)日本の戦後のありように向けた丸山自身の醒めた眼差しが感じられようし、「賭ける」という動詞に重きをおくならば、政治学者あるいは市民としての強い意思のようなものを感受することができるだろう。

 本書は戦後まもなくから安保闘争の頃までに発表された短い文章を集めたものであり、初版本は二巻にわけてそれぞれ一九五六年、五七年に刊行された。一冊にまとめた増補版が出された後、二〇〇六年に新装版が登場するに至っている。丸山の代表的著作の一つと見られているが、その語り口は必ずしも学術専門的な堅苦しいものではなく、かといって時評的なエッセイというほど軽いノリで読めるようなものでもない。そのあたりにも良くも悪くも丸山の特性が出ているかもしれない。

 丸山は六四年に増補版を出すに際して、この書物を「研究」としてよりは戦後日本政治史の「資料」として提供したい旨、述べている。たしかにラスキを取り上げて旧ソ連や中国の成り行きに熱い関心を寄せた論考〈西欧文化と共産主義の対決〉〈ラスキのロシア革命観とその推移〉などは、冷戦終結後の今となってはそこから知的刺戟を得るのは難しいシロモノだ。

 しかしながら、ナショナリズム論の現代の古典ともいえるベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』には、日本のナショナリズムを叙述したくだりで本書の一節が引用されているように、丸山の思索の根幹が朽ちてしまったわけでは、もちろんない。
 民主政の擬制を認識しつつ政治に対する真摯な姿勢を崩さなかった丸山の思考、権力構造全般やファシズムの運動を歴史的に分析した一連の考察には、政治が混迷化している今だからこそ噛みしめるべき言葉がいくつも刻まれているようにも思える。

 民主主義の名のもとに整備された諸々の制度によってかえって「支配関係」が隠蔽されてしまう危険性を指摘した〈支配と服従〉は、フーコーの政治哲学にも通じる権力構造に対する鋭い洞察の片鱗がうかがわれるし、〈現代における態度決定〉では保守思想の元祖ともいえるエドマンド・バーグを引用しながら非職業政治家たちによる日々の政治行動の重要性を説いて、今日提唱されることの多くなった参加主義的デモクラシーの原論的な内容となっている。
 また日本の文化形態と政治との関連を述べた〈肉体文学から肉体政治へ〉と題した戯文など、面白いような面白くないような微妙な味を醸し出していて、丸山のジャーナリスティックな筆致をも感じ取ることができ、その意味で興味深い。

 現在も様々な立場から批判的に論評されることの多い丸山だが、なかにはどれだけ丸山自身の著作にあたって発言しているのか首を傾げてしまいたくなるような非難も少なからず見受けられる。直接間接に多くの論客に影響を与えてきた丸山の考え方を理解するうえで、本書は格好の書物といえるかもしれない。
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by syunpo | 2010-05-22 18:45 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(2)

出版資本主義のもたらしたもの〜『定本 想像の共同体』

●ベネディクト・アンダーソン著『定本 想像の共同体——ナショナリズムの起源と流行』(白石隆、白石さや訳)/書籍工房早山/2007年7月発行(増補新版)

b0072887_9574719.jpg ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』は今や「新古典」的な地位を確立したテクストであるが、何度か改訂されている。一九八三年に初版が刊行された後、一九九一年に改訂増補版、さらに二〇〇六年に書き下ろし新稿を加えて新しいバージョンが刊行された。本書はそれを訳出したものである。

 国民(ネーション)とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体である。そして、そのような想像を何にもまして促進し、実りあるものとしたのが出版資本主義(プリント・キャピタリズム)であった。——これが本書の結論であり、日本でも引用される機会は多い(原書の翻訳を世界に先駆けて出版したのが日本である。)ので、本書を読んでいない読書人の間でもこの命題だけはよく知られていることだろう。

 一般に出版によって規範化された言葉は、その言葉を読み書きする数十万、数百万の人々に相互了解の可能性をもたらし、国民的なものと想像される共同体の胚を形づくった。
 出版語の固定化と口語間の地位分化は、本来、資本主義や技術、人間の言語的多様性の爆発的な相互作用が生み出した多分に無自覚的な過程ではあったが、ひとたび出版語が出現すると、それは模倣さるべき公式のモデルとなり、マキアヴェリ的な便宜主義によって意識的に利用されることとなった。
 アンダーソンが秀でているのは、そうした歴史的過程をヨーロッパのみならず、アジアや南北アメリカ大陸など広範な視野をもって分析している点にある。
 その切り口の鮮やかさ故に、懐疑的・批判的に読み解いた論考も少なからず提起されてはいるものの、やはりナショナリズムを議論する際には避けて通ることのできない本だろう。

 なおニューエディションで追加された〈旅と交通〉は、『想像の共同体』の刊行以来、翻訳書や海賊版がいかに広まっていったのか、「出版資本主義」の力を解析した書物の、文字どおり出版資本主義的拡大の過程をトレースしたものである。
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by syunpo | 2010-03-07 10:02 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

冒険精神をもって〜『ヤシガラ椀の外へ』

●ベネディクト・アンダーソン著『ヤシガラ椀の外へ』(加藤剛訳)/NTT出版/2009年7月発行

b0072887_1022435.jpg ナショナリズムを語る際には今や必須のテクストともいえる『想像の共同体』。その著者ベネディクト・アンダーソンが日本の読者向けに書き下ろした本書は、アンダーソンの愛読者でなくともそれなりに関心を維持しながら読み通せる本ではないかと思う。

 前半は個人の生い立ちや学生時代の足跡などが語られる。学究生活に入って以降の記述は、欧米や日本の大学・教育に関して、さらには学問のあり方にまで射程を広げた論考を含んでいて、立派な大学論・教育論になりおおせている。後半では『想像の共同体』執筆の背景が詳らかに叙述されており、新しい古典ともなっている好著の理解を深めるうえでの手がかりを与えてくれる内容だ。

 アンダーソンが関わってきた「地域研究」の位置付け、具体的には「ディシプリン(学問領域)」との関係について縷々述べているくだりは近代の学問史という見地からいってもたいへん面白い。
 当初、地域研究プログラムは大学で開講されるにしても「副専攻」扱いで、「主専攻」の学問分野として認知されてはいなかった。博士号取得を目指す者は、歴史学や人類学の分野においてそれを行ない、副専攻として地域研究プログラムを学ぶ、という形をとった。

 先進世界における地域研究、とりわけ東南アジアのそれは、当然ながら世界の政情と切っても切り離せない関係にある。
 著者によれば、西洋にとって「東南アジア」とは歴史的に極めて目新しい言葉であるという。最初期の地域研究はもっぱら植民地官僚によって為されてきたが、それはひとつの植民地、つまり自分の赴任地だけについて一国単位で研究すれば良かった。「東南アジア」という概念は欧米列強にとって必要不可欠なものではなかったのである。
 第二次大戦中に米国は軍事的必要から「東南アジア総司令部」を創設する。その地域全体を影響下におこうとしたからである。もっとも戦争が終わると総司令部は廃止され、戦後の東南アジア研究は官僚から大学に移ることとなった。

 米国での東南アジア研究は、米国がインドシナへの介入を開始したあたりから需要が一挙に高まる。ベトナムやインドネシアの研究者の大半はベトナム戦争に強く反対したものの、その戦争が結果として彼らに就職戦線での売り手市場をもたらすことになった。

 アンダーソンは「比較の枠組み」で物事を考えることを重視する。
 一般にナショナリズムはヨーロッパに生まれ、これが真似された形で他所へ広がった、とする前提——ヨーロッパ中心主義——があった。そうした認識はヨーロッパ以外の地域を知らない、あるいは無関心でいることと無関係ではない。ナショナリズムやグローバリズムの視野狭窄から免れるためにも「戦略」的な比較が必要なのである。アンダーソンをして比較への思いを深化せしめたのは、アジア各地で行なったフィールドワークであったことはいうまでもない。

 なお本書の標題は、インドネシアやシャム(タイ)における諺「ヤシガラ椀の下のカエル」から借用したものである。ニュアンスは微妙に異なるものの日本語の「井戸の中の蛙」に近い。
 ヤシガラ椀の外へ。欧米のインテリにとっては必ずしもメジャーな分野とは言い難い東南アジア研究に精力を注ぎこみ比較的視点を手放すことのなかったアンダーソンらしい警句ではないだろうか。
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by syunpo | 2010-01-06 10:30 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

叡知を求める人の言葉〜『日本語が亡びるとき』

●水村美苗著『日本語が亡びるとき』/筑摩書房/2008年10月発行

b0072887_18345928.jpg いささか刺激的なタイトルが付けられているが、水村が憂えている「日本語が亡びる」事態とは、具体的にいえばもっぱら「日本近代文学」や学問する言葉としての日本語を誰も読み書きしなくなる状況をさす。その意味では「日本近代文学が亡びるとき」とでも題した方が本書の論旨に適っているだろう。
 そのように言い換えた途端、すぐに想起されるのは柄谷行人の『近代文学の終り』である。実際、本書における水村の論考は柄谷の影響を強く感じさせるものだ。ただし考察の基点として直接的に依拠しているのは『想像の共同体』のベネディクト・アンダーソンである。

 水村は、まず彼の概念を援用して、言語を〈普遍語〉〈国語〉〈現地語〉の三つの位相にわけて考察する。〈普遍語〉とはその時代において共通の〈学問の言語〉としての地位を占めている〈書き言葉〉である。かつてのラテン語やギリシャ語、そして現代では英語がその座にあることはいうまでもない。〈国語〉は「国民国家の国民が自分たちの言葉だと思っている言葉」として定義される。それは決して「自然」なものではない。〈現地語〉は〈普遍語〉と対になりつつ対立する概念で、人々が巷で使う言葉をさす。

 本書を貫く基本認識は、〈書き言葉〉とは〈話し言葉〉の音を書き表したものではないという点にある。そのうえで〈書き言葉〉として広く国民に定着した〈国語〉とは、〈普遍語〉から〈現地語〉への翻訳を通じて規範化されたものである、という歴史的事実を跡付けていく。たとえば、十六世紀初頭にマルティン・ルターは『聖書』をギリシャ語からドイツ語へと翻訳したが、その『聖書』のドイツ語が今のドイツ語の規範となっていることはよく知られている。

 日本語の仮名は、当時の〈普遍語〉であった漢文を翻訳し読み下す過程で発明されたものである。さらに現在私たちが日常的に〈書き言葉〉として用いている漢字かな交じり文としての〈国語〉は、明治以降に外国文学の翻訳、翻案を通じて形成され鍛えられてきたものである。それは〈日本近代文学〉の成立と並行的に進んだ。
 日本の〈現地語〉が〈国語〉となり植民地化を免れることで、〈普遍語〉が社会を覆う二重言語社会にならずにすんだのは、地理的条件や歴史的偶然などいくつもの条件が重なったものだが、とにもかくにも近代に成立した独自の〈国語〉のために日本の近代文学が花開いたことは、水村にいわせると一つの「奇跡」なのである。

 このような考察を経て、後半ではインターネットなどの技術の進展により英語の普遍語化が加速されていることを指摘して、同時に日本語の衰退を憂慮する。グローバリズムの世界にあっては〈普遍語〉をベースにした〈文化商品〉が〈文化商品〉として広く流通するのはそれが広く流通しているからにほかならないという論法は、夫君の経済学者・岩井克人の自己循環論法による貨幣論を応用したものだろう。

 「英語の世紀」に対する処方箋として、水村はエリート的な英語話者の育成を主張しているほか、日本語が「亡びる」のを防ぐために学校教育の充実とりわけ近代文学を読み継いでいくことを力説するなど「憂国」の心情を具体的な教育政策として提言している点は、議論を呼ぶところかもしれない。
 何はともあれ、本書がきわめて知的刺戟にみちた日本語論・文学論であることは確かである。
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by syunpo | 2008-11-25 18:47 | 文学(小説・随筆) | Trackback | Comments(0)

来日講演の記録〜『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』

●梅森直之編著『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』/光文社/2007年5月発行

b0072887_19281521.jpg ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』は、ナショナリズムについて論じた二〇世紀の古典ともいえる名著である。「出版資本主義」や「公定ナショナリズム」などの独自の概念を提唱しつつ、ナショナリズムが生成されていく過程を明らかにした、その著書は多くの反響を呼んだ。とりわけ、「標準語」という規範が、小説や新聞など「出版資本主義」の隆盛により成立し、そのことがインドネシアという国民国家、ナショナリズムの形成に大きく寄与したという見解は、日本でも多くの論者によって引用されることとなった。
 
 二〇〇五年、ベネディクト・アンダーソン教授は、早稲田大学の招きで来日、二日間にわたって開催されたシンポジウムで二つの講演を行なった。本書は、その講演と聴衆との間で行なわれた質疑応答の記録をまとめたものである。間に挟まれた編著者の梅森直之による解題も平易な語り口でアンダーソン理解の一助となるものだ。

 講演の内容は、一日目が『想像の共同体』について自己批判を含めて概括するもの、二日目は、彼が当時執筆中であった著作の意図を紹介しながら、ナショナリズムとグローバリゼーションの関係を明らかにしたものである。

 比較政治学者としてのアンダーソンは、アメリカ帝国主義の産物である、とみずから述べているのがまず面白い。第二次世界大戦後、東南アジア全域に覇権を打ち立てようとしていた米国では、当然ながら、単一の国家研究ではなく東南アジア全般の文化研究が必要とされたのである。
 社会科学のいくつかが植民地統治の要請から産み出され、発展を遂げてきたものであることは常識だが、ベネディクト・アンダーソンのような複眼的思考に持ち味のある学者が、今日、世界の一極支配を進める米国の野心のなかから生まれた、という事実は世界史の逆説的な一面を映し出してまことに興味深い。

 二日目の講演では、アジアの初期グローバリゼーションの時代に、いかに宗主国からの独立を目指すナショナリストやアナーキストたちのネットワーク化が進み、情報や思想の流通が活発に行なわれたかを論じている。そのようなダイナミックな世界史を振り返りながら、異なる言語を話す者とのコミュニケーションによって得られる国際理解の重要性を力説する。

 学ぶべき価値のある言葉は、日本語と英語だけだと考えているような人は間違っています。そのほかにも、重要で美しい言語がたくさんあります。
 本当の意味での国際理解は、この種の異言語間のコミュニケーションによってもたらされます。英語だけではだめなのです。保証しますよ。(p100)


 質疑応答では、情報技術革命によるネットワークのスピードの加速化のなかで、自閉したナショナリズムが生まれつつある懸念を表明した聴衆の問いを受けて、アンダーソンは、その懸念を共有しながら人々がおたく的な特定領域に分裂していくことを憂えている。

 ネット中毒の人間の行動、例えばアメリカのネットだけずっと眺めているような人の行動を観察していると、ほかの人が何をやったかに関心を持たなくなっていることがわかります。
 ……(中略)……
 マーケティングの技術、インターネットの技術によって、本当に一つのことだけしにしか興味の持てない人間が生みだされているのではないかと思います。(p212)


 一九世紀末から二〇世紀の初頭、本格的なグローバル化の黎明期において、各大陸に散在した植民地の少なからぬナショナリストたちは、当時、発展しつつあった交通・通信手段を駆使して世界的なコミュニケーションを行なった。今日、格段に進展したネットワーク網に生きる人々が、しばしばその環境を充分に活かすことをせず、社会変革への契機を持ちえない自閉的な営みに甘んじているとは、何と皮肉なことであろうか。

 何はともあれ、アンダーソンの発言は、その著作とともにナショナリズムやグローバリゼーションを考えるうえで、私たちを大いに挑発してやまない。
 『想像の共同体』を読んだ者にとっては同書のさらなる理解のために、読んでいない人にとってはアンダーソン入門への良き道標として、本書を手にとる価値は充分にあると思われる。
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by syunpo | 2007-05-26 19:34 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)