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最高の権力作用に関する考察〜『憲法改正とは何だろうか』

●高見勝利著『憲法改正とは何だろうか』/岩波書店/2017年2月発行

b0072887_1949084.jpg 日本の国会は衆参両院で改憲派の議員が三分の二以上を超え、いつでも憲法改正案を国民に発議し、国民投票に持ち込むことができる状態になった。本書は憲法を改正するということの法哲学的な意味を考え、現憲法の改正規定の成立過程をたどり、改正手続法の問題点を洗い出し、そのうえで安倍首相の憲法観の危うさを論じるものである。

 前半、憲法を改正するという営みがもつ法哲学的な意味をジョン・バージェスやハロルド・ラスキやらを参照しながら考察するくだりは私にはたいへん興味深いものだった。「改憲とは最高の権力作用である」という言葉は心に刻んでおく命題であるだろう。
 憲法改正による体制転換は正当かという問題については昔から種々の議論があるが、高見は芦部信喜の説を引いて次のように述べている。

 もとより、国民がそのオリジナルな制憲権を行使して憲法を創設する場合であっても、それが「立憲主義憲法」と評しうる憲法であるためには、「人間価値の尊厳という一つの中核的・普遍的な法原則」に立脚したものでなければならない。そして、この憲法をして憲法たらしめる「根本規範」ともいえる「基本価値」が、憲法上の権力である改正権をも拘束する。(p34)

 そのような理路を示したうえで「憲法の永続的性質ないし安定化作用の観点からすれば、憲法改正には限界があるとする」見解が「基本的に支持されるべきである」というのである。

 現憲法の改正規定の成立過程をたどるくだりは、かなり詳細な記述になっていて一般読者には専門的にすぎるかもしれない。とはいえ、国民投票法が長いあいだ整備されてこなかった背景についての分析は明快である。
「政府は、一貫して、憲法改正案とワンセット論で国民投票法の整備を考えてきた」と述べ、「したがって、憲法第九六条の手続の未整備は、憲法の明文改正を意図的に回避し、その解釈・運用で賄ってきた自民党歴代政権のしからしめるところである」と指摘しているのには納得させられた。

 安倍首相の憲法観にはむろん批判的だ。欧米首脳の前では憲法的価値の共有を力説しながら、国内向けには日本精神を基に憲法一新を説く姿勢を「二枚舌」と喝破するくだりはとりわけ舌鋒鋭い。
 全体的にややかったるい読み味といえば失礼かもしれないが、憲法改正を考えるうえでたいへん勉強になる本であることは間違いない。
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by syunpo | 2017-04-20 19:50 | 憲法・司法 | Trackback | Comments(0)

最高法規に実質を込めてゆく〜『憲法の「空語」を充たすために』

●内田樹著『憲法の「空語」を充たすために』/かもがわ出版/2014年8月発行

b0072887_903598.jpg 二〇一四年五月三日の憲法記念日に兵庫県憲法会議主催の集会で行なった講演記録。内田樹お得意のアイロニカルな言い回しが随所に炸裂していて面白い本には違いないが、結論に至る理路の部分に首肯しえない点もあるので、まずはそのあたりから記してみる。

 憲法とは本来、その内容についての合意があって起草されるわけではない。その意味ではあらゆる憲法は「空語」である。憲法というのは憲法制定主体を事後的に作り上げてゆく生成的な営みなのだ。……内田の憲法観を結論的に要約するとそのようになる。

 憲法制定時点ですでにその内容についての広汎な国民的合意があったというケースは、歴史上ほとんどなかったのではないかと僕は思います。大事なことなので確認しておきたいと思いますけれど、憲法のリアリティはその方向性についての国民的合意が「すでにあった」という事実によって基礎づけられるわけではありません。そうではなくて、憲法に示された国家像を身銭を切って実現しようとしている生身の人間がいるという原事実が憲法のリアリティを担保する。(p23〜24)

 ところで自民党改憲草案について内田はいうまでもなく批判的である。草案が「自民党革命」によって「戦後レジーム」が解体された後に提出されたものならわかるが、現状はそうではないと疑義を呈しているのである。

 ……彼らはただ前の選挙で相対的な過半数を得ただけです。総選挙での絶対得票率が一五・四%しかない政党が、革命や独立戦争の遂行主体しか自らに賦与しえない「超憲法的主体」の座を要求するのは、やはりグロテスクという他ない。(p47)

 しかし、この言い分は明らかに前言と矛盾している。「憲法制定時点でその内容について広汎な国民的合意があったというケースは、歴史上ほとんどなかった」のだから、草案起草時点で大筋の合意も革命的事実も存在しないのはむしろ当然ではないだろうか。これからこの草案をたずさえて革命を起こすのだ、これから「空語」を充たしてくのだ、と私が自民党員なら反論するだろう。その意味では内田の批判はいかにも筋が悪いというほかない。自民党改憲草案は、自民党の得票率が一五%だろうが九〇%だろうがその実勢に関わりなく、グロテスクな内容だと私は思う。

 後半の「法治国家から人治国家へ」の変質を分析する章では、その根底に国家運営の株式会社化をみてとり、その点を厳しく糾弾している。こちらは同意できる点も多い。

 株式会社は有限責任を基本とするが、国民国家の政策判断ミスがもたらす損害は無限責任であり、どこにも外部化することが許されない。国民国家と株式会社は同一に論じることはできないのは当然であるが、現状ではその当然の認識が国民のなかで共有されていない。そこから様々な問題が生じ、さらには問題の解決を遅らせている。
 たとえば衆参で議席配分が異なる「ねじれ国会」により「決められない政治」が表面化した時、メディアも世論もそれを否定的にとらえた。スピーディな決断を是とする株式会社の規範に基づく判断であるだろう。

 そのような現状に対して、内田は具体的な対抗策を提示しているわけではないが、今の日本で起きている政治的現象は「グローバル資本主義の熟爛期に固有の『うたかた』のようなものだ」という。「いずれ安倍政権は瓦解し、その政治的企ての犯罪性と愚かしさについて日本国民が恥辱の感覚とともに回想する日が必ず来るだろうと僕は確信しています」。

 憲法の「空語」を充たすこと、その生成的営みこそが憲法的行為だという内田の姿勢は、憲法とは未完のプロジェクトであるとする故奥平康弘の憲法観を踏襲するものだろう。憲法の「空語」を充たすのは私たち国民をおいてほかにない。
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by syunpo | 2016-10-16 09:01 | 憲法・司法 | Trackback | Comments(0)

「立憲派」の立場から考える〜『憲法問題』

●伊藤真著『憲法問題 なぜいま改憲なのか』/PHP研究所/2013年7月発行

b0072887_8255751.jpg 自由民主党が野党時代に発表した「日本国憲法改正草案」を仔細に検討した本である。護憲でも改憲でもなく「立憲派」を自称しているところに著者の特質をみることができるだろうか。類書もすでにたくさん出ているが、本書は草案に対する批判の論法がいささか紋切型で率直にいって「目からウロコが落ちる」的な読後感に乏しかったというのが偽らざる感想である。

 そのなかでは、平和主義や基本的人権の問題のカゲに隠れて議論されることの少ない地方自治に関する考察は少し勉強になった。とりわけ「中央集権的な発想と地方分権的な発想を都合よく使い分けている点」を具体的に指摘している点は重要だろう。地方を国の出先機関におとしめるような条文がある一方で、「本来は国が責任を負わなければいけないところになると、一転して地方分権色を出して、負担を地域住民に押しつけます」。明らかに地方自治・地方分権の流れに逆行する改正案で、このような草案に地方の自民党議員は本当に抵抗を感じないのか聞いてみたいところだ。

 また道州制をにらんだ条文の追加も草案には含まれている。伊藤は「地方分権を進めるという点で道州制を肯定的にとらえています」との立場を明示しつつも、賛否両論のある問題を憲法で言及するのは「時期尚早」としているのは見識を示したものといえるだろう。

 立憲主義の歴史をたどる最終章はやや論争含みの内容といえるだろうか。ワイマール憲法の歴史的評価をする際に、その弱点として「完全比例代表制」や「直接民主制」を採用していたことを挙げているのにはいささか驚いた。通常それらは肯定的に論じられることが多いと思うのだが、本書ではそうした制度がナチスの台頭を生み出したというので「弱点」扱いになっているのだ。実際、戦後のドイツは直接民主制の常套手段たる国民投票を封印しているらしい。ナチス賛美の言論を禁止するなど、表現・言論の自由にも一定の枠組をつくったことはよく知られている。当然ながらドイツのやり方には賛否両論ある。

 私見では、そもそも民主制とは悪い結果が出たときにも有権者全員が責任を引き受けるところに真骨頂があるのであって、悪い結果だけをみて、民意の質を問わずに制度そのもののせいにするのは乱暴ではないかと思う。完全比例代表制にしても民意を集約する方法としては得票率にバイアスをかける小選挙区制よりも高い評価を与えている研究者は多いと思うのだが。伊藤は戦前の反省を踏まえたドイツの戦後立憲主義に一定の理解を示しているけれど、自民党政権が今後、(蓋然性としては低いが)直接民主制的な制度や完全比例代表制を導入しようとする場合にも、やはり賛同より先に警戒を呼びかけるのだろうか。
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by syunpo | 2016-10-10 08:27 | 憲法・司法 | Trackback | Comments(0)

国家の失敗を解決する道筋〜『憲法という希望』

●木村草太著『憲法という希望』/講談社/2016年9月発行

b0072887_20122387.jpg 憲法学の対象は一般に「人権論」と「統治機構論」の二つに大きく分かれているらしい。これは立憲主義の目的が人権保障と権力分立に分類されるのに応じたものである。本書では、前者のケーススタディとして婚外子の相続差別や夫婦別姓訴訟、後者では辺野古基地建設の問題をそれぞれ憲法学の観点から考察する。その前段に立憲主義の概説がおかれ、後半には国谷裕子との対談が収録されている。

 夫婦別姓を認めない現行制度の問題は、女性差別ではなく「同性になることを許容するカップル」と「同姓になることを許容しないカップル」との間の不平等にある、という木村の見解にはなるほどと思う。その見地から二〇一五年の合憲判決に一定の理解を示しているのも理屈としては一応筋が通っている。逆にいえば、アプローチ次第では違憲判決を引き出せる可能性があるということだ。
 国谷はその点を捉えて「とても不思議ですね。夫婦の同姓を定める民法七五〇条の規定が、ある闘い方をすれば合憲と言われ、また違う闘い方をすれば違憲という判決を引き出せたかもしれない」と疑義を呈するのだが、木村は次のように応じている。

「法律構成」と言われる分野ですが、まったく同じ事件でも、法律の主張の仕方が変わるだけでまったく結論が変わるというのはよくあることなのですね。弁護士がプロフェッションとして頑張らないといけないのは、まさに法律構成です。(p125)

 辺野古基地建設をめぐっては、憲法四一条、九二条、九五条を引いて、立法や地方自治の本旨、住民投票の観点から「木村理論」を提起しているのが注目されるだろう。これは米軍基地の場所を閣議決定だけで決めてしまうのは、以上の条項に違反するというものである。その解決策として、木村は以下のような手続きを提案する。すなわち基地建設は国政の重要事項であるから法律によって決められるべきであり、それは特定の地方の自治権を制限するのであるから地方自治の本旨に沿った手続きが求められる、そのためには当該自治体の住民投票で過半数の賛成を得ることが必要、というものである。

 本書は大阪弁護士会主催の講演会記録をベースにしているので語り口は平易。ボリューム的に不足している分を憲法全文や本文に関連する国会質疑を巻末に収めて、何とか一冊の本に仕立てあげたというところか。やや薄味な読後感を拭えないものの、木村憲法学の面白味の一端は伝わってきた。
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by syunpo | 2016-10-03 20:13 | 憲法・司法 | Trackback | Comments(0)

機能する憲法を作り上げる〜『安保法制から考える憲法と立憲主義・民主主義』

●長谷部恭男編『安保法制から考える憲法と立憲主義・民主主義』/有斐閣/2016年6月発行

b0072887_20402726.jpg 昨年九月に成立した安保法制について考察する本は、成立前後からいくつも刊行されてきた。本書は法案成立後に、憲法学者、政治学者、政治記者たちが集まり、あらためて安保法制と憲法との関わりについて検討したものである。

 三つのパートから構成されている。杉田敦・木村草太・柿崎明二による鼎談〈「安保法制」から考える憲法と立憲主義・民主主義〉、長谷部恭男・青井未帆・豊秀一による鼎談〈「安保法制」から考える最高裁と内閣法制局の役割〉、長谷部恭男の論考〈安保関連法制をあらためて論ずる〉。

 杉田・木村・柿崎の鼎談は安保法制に関してはとくに新味のない内容ながら、柿崎が披露する政治家の楽屋話はそれなりに面白い。また自民党改憲草案の緊急事態条項について、木村が「通常の憲法学の常識でイメージする緊急事態条項からはかけ離れていて、むしろ、一時的な独裁権条項です」と明言している点は特記しておきたい。

 長谷部・青井・豊による鼎談はたいへん勉強になった。自衛権に関する内閣(法制局)の解釈は時代ととともに変化してきている、解釈改憲は今回に限ったことではないとの意見に対する長谷部の回答は明快である。

 自衛隊の創設時に、政府が九条の解釈を変えて個別的自衛権を認めるようになったと言われることがあるが、それは事実に反する。日本国憲法の公布時に政府が発行した『新憲法の解説』というパンフレットに明記されているように、日本がいずれ占領が終わって国際連合に加盟したときには、国際連合憲章自体、実は自衛権を認めているのだから、少なくとも個別的自衛権の行使については、日本国憲法公布時においてすでに内閣法制局のメンバーは想定をしていたのだということは言えるだろう。……以上が長谷部の説明である。

 ただし長谷部がそのあとの論考でも述べている「機能する憲法」論は必ずしも理解しやすいものではない。

 一般的には実定法は解釈抜きで意味を理解できるのでなければ、実定法としての役割を果たし得ない。しかし、条文自体を権威として受け止め、文言通りに理解して従うべきでないという条文は、憲法の中には少なくない。九条はそうした条文だという。絶対的平和主義を万人に押し付けることは、多様な価値観・世界観の公平な共存を目指す近代立憲主義と両立しないからである。ゆえに九条については「解釈」が必要になる。そして人々の行動を方向づけることのできる解釈が確定すれば、その解釈が権威として機能することになる。今回の安保法制は権威として機能してきた解釈を毀損するがゆえに違憲だというのが長谷部の見解である。

 もともと戦後憲法のもとで、日本は自衛隊を作ったり海外派兵したりと無理を重ねてきたわけで、政府はその矛盾を説明するためにあれこれ工夫を凝らしてきたことは周知の事実。護憲を前提とした長谷部の持論もまたアクロバティックな理屈という印象は否めず、容易には納得しがたい。
 対米従属を強化するだけの安保法制も現政権が目論んでいるような改憲のための改憲にも到底賛同しえないけれども、長谷部の論考を読むかぎりでは残念ながら井上達夫らのいう護憲派は欺瞞的という批判に説得力ある反論ができているようにも思えない。
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by syunpo | 2016-08-01 20:43 | 憲法・司法 | Trackback | Comments(0)

実力を統制するということ〜『憲法と政治』

●青井未帆著『憲法と政治』/岩波書店/2016年5月発行

b0072887_1941479.jpg 本書は日本国憲法の平和主義に焦点をあてながら、憲法と政治の関係の断面を捉えようとする試みである。二〇一五年九月の安保法案の強行採決など安倍政権と与党議員によって毀損された立憲主義に対する危機意識が背景にあることはいうまでもない。

 政治が憲法に従うのは当たり前という前提が崩れて、「憲法を守る」ことと「憲法を変える」ことが同列になっているような構図が作られ、その構図自体は市民から大きな抵抗感なく受け入れられているようにみえるところが、ここ数年の間に日本の「立憲主義」に与えられた打撃の深さを物語っていよう。(p3)

 九条のもとで展開されてきた自衛隊をはじめとする諸政策には、九条から引き出された「軍事の否定」という論理によって限界が画されてきた。これは「かつてない実力統制の方法」だと著者はいう。本書ではそれを実力の「論理による統制」と呼び、考察の基点としている。

 日米ガイドライン、秘密保護法の制定から安保法制成立へと至る防衛政策の流れを憲法との関係から記述する手際は新書にふさわしく簡潔にまとまっている。とりわけ武器輸出三原則の確立から撤廃までの経緯や法的位置づけに関する記述はたいへん勉強になった。

 著者の理解によれば、昨年の安保・外交政策の転換により「論理による統制」については大きな穴があいてしまった、ということになる。では「論理」による統制に綻びが生じた状況を立て直すために何をすべきなのか。新たな議論を切り拓いていく必要があるのではないか。

 国会については、市民が声をあげ「議院が高度の自律を享有する責任を問う必要」を訴えている。さらに裁判所の役割についても一章を割いているのが注目に値するだろう。この問題ではこれまで統治行為論が幅を利かせてきた。しかし「そもそも、統治行為論なるものについては、学説でもかねてより『不要』という議論が有力に説かれてきた」のであって、「事案の性質や経緯、諸機関の行動等に着目し、裁判所の任務や、裁判所に求められる行動を具体的に考えること」が必要だという。内閣法制局の安定化装置としての役割に一定の評価を与えつつも、憲法解釈が一義的に確定されるものでない以上、裁判所の役割もまたおおいに期待されているというのである。

 ……司法権もまた政治権力であることは、そろそろ正面から認められるべきだろう。そして憲法八一条に明文で規定された司法審査権は裁判所の権限であり、裁判所に他権力の統制による憲法秩序維持の責務を負わせている。国防軍の創設や緊急権条項の新設に関して政権が意欲を示しており、現実味を帯びる現状で、裁判所が事後的に政治のなしたことの正しさのチェックをする必要性は高まるばかりである。動態的な憲法秩序の維持の一部としての役割を果たすことへ、期待が高まっているというべきであろう。(p243)

 いささか専門的で細かい議論も展開されているが、それらを含めて憲法の平和主義と政治の関係を考えるには有意義な本といえるだろう。
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by syunpo | 2016-06-23 19:42 | 憲法・司法 | Trackback | Comments(0)

いにしえの日本に向かう力に抗して〜『「憲法改正」の真実』

●樋口陽一、小林節著『「憲法改正」の真実』/集英社/2016年3月発行

b0072887_20501872.jpg 二〇一五年九月に行なわれた安保法案の強行採決をはじめとする「壊憲」の動きに警鐘を鳴らし、自民党改憲草案を批判的に吟味するのが本書の趣旨。今や立憲主義擁護の看板学者となった二人の憲法学者が存分に語り合った記録である。

 自民党の改憲案は「明治憲法への回帰」と評する声がよく聞かれる。だが樋口に言わせれば、明治どころではない。「この草案をもって明治憲法に戻るという評価は、甘すぎる評価だと思うのです。明治の時代よりも、もっと『いにしえ』の日本に向かっている」。

 樋口がそのように言うのは明治時代の政治家たちの憲法意識に一定の評価を与えているからだ。彼らは今の与党政治家よりも立憲主義の本旨を理解していた。その例として引用する伊藤博文と森有礼の対話はなるほど示唆的だ。
 伊藤は「そもそも憲法とは君権を制限し、臣民の権利の保護することにある」と語ったといわれるが、それに対して森有礼は「臣民の人権は生まれながらにして保障されるのであり、わざわざ憲法に書くには及ばない」とさらに一歩進んだ考えを持っていたのである。自民党改憲案では、基本的人権の保障について「個人」という語句を「人」に言い換えて、より強い制限を設けようとしているのとは好対照だ。

 自民党改憲草案は「国と郷土」「和」「家族」「美しい国土と自然環境」「良き伝統」などなど情緒的な語句を並べつつ、一方ではそれを破壊せずにはおかない新自由主義的な「活力ある経済活動」をうたいあげている。改憲案は、新自由主義と復古主義を権威主義がつなぐ「キメラのように不気味」なものだと小林はいう。
 国家緊急権の明記に対しては、ナチスドイツを引用しながら警鐘を発する型どおりの議論をしているが、小林は最近まで必ずしも反対の立場でなかったことを吐露しているのは興味深い。

 さらに小林は九条改正論者であることは周知の事実、本書ではその点についてははっきりと樋口と意見を異にしている。しかしそれにしても現政権での改正には小林も反対していることは重要だろう。樋口は小林の意見を受けて、九条改正を主張するなら徴兵制を正面から議論すべきだという。

 戦争が好きな者だけで軍隊をつくれば、国民的な常識から乖離した集団になってしまいます。かつての関東軍のように、中国要人を爆殺せよなどという動きが出てきたとき「いや、ちょっと待て、全国民を巻きこむ戦争をしていいのか」と思わずにいられない人たちが組織のなかにいなければなりません。(p179〜180)

 つまるところ、国民が国民投票によって、国防軍をつくることを是とするならば、それはあなた自身、主権者として、ある種の分担をすることを覚悟してくださいね、という話ですね。今の自衛隊の名前が変わるだけで、勝手にしてくれ、自分には関係ない、というわけにはいきませんよと。(p181)


 物足りない点もなくはない。集団的自衛権の行使容認が解釈改憲だとしても、自衛隊創設も明らかに解釈改憲のうえでなされたものであろうし、内閣法制局の憲法解釈もまた時代とともに変化してきた、すでに何段階かの解釈改憲を踏んできた社会に住みながら今回だけ騒ぐのは欺瞞的・政治的ではないか。──苅部直や井上達夫らのこうした批判に二人の対論は充分に応えているようには思えない。長谷部恭男らの反論はすでに出ているものの、ここは二人の対応も聞きたかったところだ。
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by syunpo | 2016-06-05 20:51 | 憲法・司法 | Trackback | Comments(0)

〈笑い〉のある政治を!?〜『民主主義の敵は安倍晋三』

●佐高信著『民主主義の敵は安倍晋三』/七つ森書館/2014年8月発行

b0072887_2035421.jpg《佐高信の緊急対論50選》シリーズ三冊のうちの一冊。本書は《地の巻》と銘打たれている。緊急対論といっても実際には巻頭の一つを除いて過去数年間に行なわれた対論を収録したものである。とくに後半は、徳間康快や久野収、藤沢周平らの回顧談をゆかりの人と交わしたもので、緊急性はまったくない。

 政治を主題とした対論では良くも悪しくも佐高の特徴がよく出ている。「左翼」的言説は自分の役割をよく弁えたものであるとはいえ、やはり平板な印象も拭えず、知的刺激には乏しい内容といったら失礼か。象徴的なのは赤木智弘をめぐる雨宮処凛との対話。雨宮は赤木に理解を示そうとするのに対して、佐高はもっぱら新自由主義的な政治傾向を批判するばかりで最後まで議論が噛み合わない。

 もっとも多士済済の対談相手の言葉には印象に残るものが少なからずあった。二〇〇七年の座談で、小森陽一が立憲主義の重要性を力説していたことは注目に値するだろうし、鈴木邦男が北朝鮮訪問した時の挿話も読み物としてはおもしろい。師弟関係がテーマになっている四方田犬彦との対談では「一子相伝がなくなると文化は滅びてしまうでしょう」との言葉を四方田から引き出すなどそれなりに含蓄に富んだ内容である。
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by syunpo | 2016-05-25 20:38 | 政治 | Trackback | Comments(0)

「帝王学」にかわる「主権者学」を〜『憲法読本』

●杉原泰雄著『憲法読本 第4版』/岩波書店/2014年3月発行

b0072887_2012948.jpg 憲法の入門書としてはロングセラーといえるのだろう。本書は一九八一年に初版が刊行され、二度の改定を経て二〇一四年に第4版を出すにいたった。とくに目新しいことが書かれているわけではないが、立憲主義に対する国民の関心も高まっているおり本書のような初学者向けの入門書にも出番が増えたといえるかもしれない。

 著者によれば、現在は憲法の歴史における第三の転換期にあたる。近代市民憲法によって立憲主義の政治が始まったのが第一の転換期。両性の不平等を改め、賃労働者を含む民衆層にも人間らしい生活を保障しようとしたのが第二の転換期。そして第三の転換期の重要課題となるのは上記の課題に加えて軍縮と地球環境破壊への対処だという。

 立憲主義の立場から現政権の言動を批判的に吟味する類の書物はすでに数多く出ているが、本書は明治憲法と比較しつつ戦後政治を概観し、憲法の理念が活かされているとは言えない政治の実態について満遍なく切り込んでいる。その批判の筆致にはいささか紋切型におさまる箇所も散見されるものの、国民主権を重視し一般国民にも政治への関心をくり返し説く姿勢は現憲法が想定している主権者のすがたを目指すものとして支持したいと思う。

 ただし引っかかる点もある。たとえば自衛権に関しては国民の生存権を明記した二五条を引いて個別的自衛権を容認する解釈が一般的だと思うのだが、本書では九条の条文からただちに武力行使そのものに否定的な態度を示している。「(安全保障に関して)憲法9条の文言だけを見て議論するのは、檻の中のシマウマを黒馬だ白馬だと騒ぐようなもので、意味のあるものとは言い難い」という木村草太の見解に対して著者はどう答えるのか、聞いてみたいと思った。
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by syunpo | 2016-03-30 20:06 | 憲法・司法 | Trackback | Comments(0)

〈民主主義〉を問い続けること〜『近代政治哲学』

●國分功一郎著『近代政治哲学──自然・主権・行政』/筑摩書房/2015年4月発行

b0072887_19345728.jpg 私たちは近代政治哲学が構想した政治体制の中に生きている。現在の政治体制に欠点があるとすれば、その欠点はこの体制を支える概念の中にも見いだせるであろう。本書はそうした問題意識に基いて、近代政治哲学の流れを検討し、これからのありうべき政治社会へのヒントを得ようとする試みである。初年次の学生を対象とした講義をもとに書かれているので、たいへん平易で読みやすい。

 俎上に載せられているのは、ボダン、ホッブズ、スピノザ、ロック、ルソー、ヒューム、カントの七名の哲学者。サブタイトルにあるように〈自然〉〈主権〉〈行政〉をキーワードにしてかれらの政治思想を読みこんでいく姿勢は筋がとおっていて明快である。

 絶対主義擁護論から近代政治哲学を決定づける重要な〈主権〉概念を生み出したボダン。自然状態から説き起こし社会契約なる概念で〈主権〉の絶対化をほどこしたホッブズ。その社会契約を一回性ではなく反復されるものと考えたスピノザ。国民主権の実現を立法権に見いだして今日の政治理論に多大な影響を与えたロック。統治行為には必ず立法と執行(行政)の間のズレと緊張関係が存在していることをみていたルソー。共感をもとに政治体制を考えたヒューム。民主制の欺瞞を行政の局面に見てとったカント。著者の問題意識から再吟味されると、おなじみの哲学者たちの思想が別の相貌をあらわして立ち上がってくるようだ。

 とりわけルソーの社会契約論の読解がおもしろい。ルソーの「一般意思」についてはこれまで様々な読解がなされてきたが、ここでは立憲主義の観点から検討されている。
 大雑把に要約すれば、ルソーが「一般意思は個別的な対象に対しては判断を下させない」とくり返し述べている点に國分は着目する。「一般意思に何ができるのか?」と問うのではなく「何を一般意思の実現と見なせるのか?」と問うのだ。その一つの回答が、法、あるいは最高法規としての憲法である。
 近代国家は民主主義的な下からの力だけでなく、立憲主義的な上からの監視を組み込んでいる。両者が完全に統一されることはない。「一般意思」なる概念を作り出すことによって、ルソーは近代国家の姿を正確に予言していたのではないか、と國分はいう。

 カントへのアプローチも私には新鮮に感じられた。カントは民主制に形式上の問題点を見出したことを國分は指摘する。立法ではなく執行(行政)において欺瞞があらわれるというのである。何故なら執行の局面において「全員が賛成しているわけではないのに全員の賛成であるかのように決定が下されてしまう」から。これは今日の行政にそのままあてはまる事態ではないだろうか。むろん、カントはそこから明快な指針を導き出すところまで考察しているわけではない。我々は「カントの問いかけに留まらない政治的思考を生み出さねばならないだろう」。

 かくして本書をとおして政治哲学の系譜がとりこぼしてきた課題も浮かびあがってくる。その最大の問題点の一つは、国民主権や民主主義が理論的にも立法権を軸に確立しようとしきてきたことの限界と矛盾である。行政権に民意が充分に及ばないことの弊害はすでに多くの指摘があるが、本書が優れているのは理論的にその問題にアプローチしている点だろう。端的にいって近代政治哲学には「行政組織に対する視点の欠如」がみられるというのが國分の見方である。

 國分のそのような問題意識はいうまでもなく現代日本の現実の政治に立脚したものでもあるだろう。みずから関与した小平市の道路建設問題にしても、安倍政権の一連の暴走にしても、行政権力がたとえ民意から逸脱していても歯止めをかけることの困難さを露呈させた。

 國分が取り上げた哲学者たちは、行政における欺瞞や限界を認識していた形跡が認められるものの、その点について考察を深く掘り下げるところまではいかなかった。課題はなお現代人に残されているといっていい。國分自身が本書において有効な処方的理論を提起しているわけではないが、克服すべき問題点を明確に提示したという点だけでも本書は意義深いものといえるのではないだろうか。
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by syunpo | 2016-02-13 19:36 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)