ブックラバー宣言


コラムニスト・吉本俊二の書評ブログです。
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問い続けることの可能性〜『哲学への権利』

●西山雄二著『哲学への権利』/勁草書房/2011年2月発行

b0072887_173220.jpg ジャック・デリダが創設に尽力した国際哲学コレージュ。既存の大学とは一線を画す新しいタイプの研究教育機関として一九八三年パリを拠点に開設された。五〇名のプログラム・ディレクターの合議制によって運営され、多種多様な活動──セミナー、シンポジウム、ワークショップ、フォーラム、書評会など──が展開されている。原則的に誰もが自由に聴講、参加できるのが大きな特長だ。

 西山雄二は二〇〇九年、国際哲学コレージュの理念や現実について七名の関係者にインタヴューした記録映画《哲学への権利──国際哲学コレージュの軌跡》を完成させた。その後、映画を携えて海外を含む各地を巡回し、上映後には必ず討論会を開くという活動を続けている。
 本書は、映画での関係者たちの発言をそのまま採録し、チャプターごとにそれに関連した西山のエッセイを挿入して編んだものである。映画本編と特典映像(討論会の様子を編集したもの)を収録したDVDが付録についている。

 いささか違和感を覚えぬでもないタイトルは、デリダの著作『哲学への権利について』からの引用である。哲学は「すべての人に宛てられていると同時に、特定の誰かのものではない」(ボヤン・マンチェフ)が、現実には、教育・研究・出版などといった諸制度によって哲学へのアクセスは制限され、正当化されている。〈哲学への権利〉という表現は制度によって保存され継承されてきた哲学へのアクセス権を問うものでもある。

 映画においても本書の叙述においても当然ながらデリダが提唱したそのような「哲学への権利」の問題や「脱構築」「歓待」などをめぐって真摯な対話や考察が繰り広げられている。同時に哲学や大学が抱えている今日の深刻な課題を照らし出すものともなっている。新自由主義的な高等教育政策は世界的な規模で進行しつつあり、社会に対する実用性をアピールすることの難しい哲学のような人文学の領域は予算的にも人員的にも縮減の傾向にあることは周知の事実だろう。そうした潮流に対して本書では様々な回答が模索されている。たとえば西山の次のような記述である。

 大学での研究教育をめぐって、「何の意味があるのか」「何の役に立つのか」と問われることは多い。しかし、人文学に関しては、「どんな情動を得ることができるのか」とも問うべきだろう。……人文学は意味や有用性を導き出すというよりも、むしろ、生きることの臨場感や立体感を提供する分野である。人文学がもたらす情動は生きることの方向性を示唆する。(p99〜100)

 ただ率直にいえば、映画の内容に関しては一方通行的で単調であることは否めない。西山自身も言及しているように、ここではもっぱら哲学を教える立場の人間たちの証言のみが取り上げられているばかりで、受講者たちの声も授業風景もまったく出てこないのだ。そのため全般的にはコレージュや哲学に関する公式的スローガンの連呼といった印象も拭いきれない。撮影許可をとることができなかったという政治的・物理的な事情があったにせよ、それじたいがデリダの理念に反する事態ではないかと思う。

 しかし本書と映画全体を通して、哲学自身が哲学を問いつづける、制度じたいが制度を問いつづけるという再帰的な姿勢で知のあり方を模索していく姿勢は一般読者にも共有しうる広い射程をもつもののように思われる。

 「……他の分野を哲学の補強のために利用するのでもなく、哲学は永遠に自らを問い直さなければならないのです」(ブリュノ・クレマン)
 「コレージュは既成の制度のひとつとして定義することはできません。それは制度そのものに対する問いなのです」(カトリーヌ・マラブー)

 そのなかでも西山が引用している「日本社会において子供には哲学が必要であり、〈哲学への権利〉は彼らの死活問題」という教育学者・森田伸子の発言がとりわけ印象深い。
 ここに紹介されている発言や西山の考察は、総じて論者自身の立場に拠ってたつ真摯なものである。何より映画の上映活動のために各地を経巡る西山の活動はかつての西欧社会における大学人たちのノマド的なあり方を小振りながらも体現しているようで、おもしろく感じた。
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by syunpo | 2011-04-03 17:12 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

ぼくたちは世界の終わりに生きる〜『クォンタム・ファミリーズ』

●東浩紀著『クォンタム・ファミリーズ』/新潮社/2009年12月発行

b0072887_1842917.jpg 今、小説を書こうとすればSF小説のようなものにならざるをえない。柄谷行人がそのような意味のことを話していたのはいつのことだったか。その柄谷に認められて論壇にデビューした東浩紀が初めて単独で小説をものした。当然ながら(?)それはSF小説のような体裁の作品となった。もっとも本人の弁によれば「僕は元々がSF読者。その上に現代思想が乗っている」(毎日jp)ということらしいのだが。

 大学教師で芥川賞候補にもなったことのある作家のもとに、娘と名乗る人物から「未来からのメール」が送られてくる。モニタの彼方にはまったく異なる世界のまったく異なるわたしの人生がある——。アリゾナの砂漠、郊外のショッピングモール、寂れた日本の廃村……舞台が目まぐるしく変転していくなかで「量子家族」のいくつもの物語が語られていく。

 『クォンタム・ファミリーズ』はまず二人の村上を意識した作品であるように思われる。
 村上春樹という固有名詞は作中においても登場人物によって何度か言及されているように、これは『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の世界の二一世紀的な展開といえるのではないか。そしてこの世界ではない別の世界の存在という点では「五分のずれで現れたもう一つの日本」を描いた村上龍の『五分後の世界』を思い起こさせる。

 もちろん物語の構造は両者に比べ数段複雑化していることはいうまでもない。近未来と現代が錯綜する多層的な構成をもつこの作品では、量子力学や精神医学、情報工学などの知識がフル動員されている。タイムトラベリングや並行世界といったSFの世界ではおなじみの仕掛けを採りながらも決して陳腐な印象を与えないのはそのためだろう。

 現代思想の先人の認識も当然ながら随所に織り込まれている。
 現実と虚構の曖昧化という本作の基本構造はボードリヤールのシミュラークル論に依拠したものであろうし、複数の世界がグリッドをずらしつつ重なりあっていくような多層世界は、いうまでもなくジャック・デリダに発する脱構築的なスタイルを強く感じさせるものだ。

 叙述が全般的に状況説明に追われてしまい、「文学の言葉」に触れているという愉悦感を覚える場面には乏しいうらみは残る。しかしながらSF的枠組みと現代思想の先行知を借りながらこれまでの東の問題意識を巧みに小説という形式に仮託して、高度情報化社会の空虚感や家族の解体という今日的な問題とどう向きあっていくべきなのか、私たちに再考を促す労作といえるだろう。
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by syunpo | 2010-02-16 18:51 | 文学(小説・随筆) | Trackback(1) | Comments(0)

理論も建物も崩壊してしまった〜『Any: 建築と哲学をめぐるセッション 1991-2008』

●磯崎新、浅田彰編『Any: 建築と哲学をめぐるセッション 1991-2008』/鹿島出版会/2010年1月発行

b0072887_10522941.jpg 一九九一年から二〇〇一年にかけて、建築に関する国際会議「Any Conference」が毎年場所を変えて開催された。主導したのは磯崎新、ピーター・アイゼンマン、イグナシ・デ・ソラ・モラレスの三人の建築家。その討議内容はNTT出版より《Anyシリーズ》として順次刊行されている。本書はそのコンファレンスに関連して日本で行なわれたトーク・セッションを集成したものである。セッションでは磯崎に加えて浅田彰がほぼ毎回顔を出しており、そのほかジャック・デリダ、柄谷行人、岡崎乾二郎ら錚々たる顔ぶれが入れ替わり立ち替わり参加している。

 思想家が建築のボキャブラリーを使い、建築家もまた現代思想の流れを掴んでそれを具現化あるいは展開していく、という現象は歴史的に繰り返されてきた。本書を通読するとその史実があらためてよく理解できる。
 たとえばデリダの〈ディコンストラクション(脱構築)〉。その言葉じたいが建築のアナロジーともいえるのだが、これがアイゼンマンらによって建築にも応用され、脱構築主義として一つのスタイルを形成することとなった。
 やがてそうした流行は、ドゥルーズ的(というよりベルクソン的)な生気論へととって替わられ、そうした理論のもとにCGでシュミレートされた流体的な建築へと移行していくかにみえたのだが、そうしたパラダイム転換は不発に終わった、というのが九〇年代に関する浅田の大雑把な見立てである。

 何はともあれ、みずから提起した概念をめぐって世界各地で生じた誤解や混乱を目の当たりにしたデリダ当人がここであらためてコメントしているのはいかにも興味深い。〈脱構築〉が被った誤解の代表的なものの一つに否定性やニヒリズムとの混同がある。デリダはいう。——ディコンストラクションとは「哲学ではなく、ましてや否定性の哲学でもなく、ある意味で肯定=断言の思考なのだ」。
 なお、コンファレンスではアイゼンマンによって挑発を受けたデリダが「ディコンストラクションというのは実はリビルディング(再構築)だ」と再定義を試みたことが浅田によって紹介されている。

 コンファレンスの内容を把握していない読者にはいささか消化不良の感が残るものの、二〇世紀末における世界の建築を時代思潮との関連から概観できるという点ではそれなりに面白い本ではないかと思う。
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by syunpo | 2010-02-10 11:10 | 建築 | Trackback | Comments(0)