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「蒐集」の歴史のあと〜『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』

●水野和夫著『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』/集英社/2017年5月発行

b0072887_1942698.jpg 資本主義の破綻。国民国家の機能不全。……それらは無関係に生じているのではない。国民国家の基盤である、五〇〇年続いた近代システムそのものが、八〇〇年の資本主義とともに終わりを迎えつつある。これが本書の基本認識である。

 では、新たな時代にはいかなるシステムや社会形態が望ましいのか。エコノミスト・水野和夫は、歴史的な視点をもとに経済学の垣根を超えた知的成果に立脚して、近未来への道標を提示しようとする。

 人類史を読み説くうえでの本書のキーワードは「蒐集」。英国の歴史家、ジョン・エルスナーとロジャー・カーディナルが「社会秩序それ自体が本質的に蒐集的」と述べたことに基づいている。
 水野によれば、現代は蒐集することが限界にいたった時代である。フロンティアはもう地球上には残っていない。すなわち「五〇〇〇年も続いた『蒐集』の歴史の終わり」のときを迎えているのだ。

 平等が要請される国民国家システムと格差を生んで資本を増やす資本主義が矛盾を露呈することなく両立できるのは、「実物投資空間」が無限で経済が成長し続ける場合においてのみなのです。(p183)

「作れば売れる」というセイの法則が成立しない現代において、資本主義と民主主義が結合することはない。この条件を忘れて成長を追い求めれば、そのツケは民主主義の破壊となって現れる、と水野はいう。

 水野はそのような議論を、利子率や経済成長率の世界的変遷やなどを検討し、エビデンスに基いてすすめていく。日本は一九九七年に、一〇年国債の利回りが二・〇%を下回った。超低金利の時代がすでに二〇年続いている。それは端的に資本主義の危機を示すものなのである。

 中世から近代への移行期、ブローデルが「長い一六世紀」と呼んだ大転換期のさなかに超低金利が生じたが、それは「歴史の歯車が動くサイン」だった。同じことは低金利を迎えている現代にもいえる。いわば「長い二一世紀」と呼ぶべき大転換期を迎えているのだ。

 それでは、以上のような歴史的危機を乗り越えるために求められるシステムとはいかなるものであろうか。

 世界を拡張していくような従来のやり方では経済をうまく回していくことは望めない。また現在の国民国家では政治的な要請に対しては充分に対応することができない。世界秩序に対して責任を担うことができないし、地域の細かなニーズを吸収することもむずかしい。

 もはや、無限の膨張が不可能なことは明らかなのですから、ポスト近代システムは、一定の経済圏で自給体制をつくり、その外に富(資本)や財が出ていかないようにすることが必要です。その条件を満たすには、「閉じてゆく」ことが不可欠になります。(p207)

 すなわち「政治的には地域帝国、経済的には定常状態、すなわち資本蓄積をしないという方向性」を提起する。「閉じた帝国」が複数並び立つという世界システム。それこそがこれからの時代を生きていくために適した世界のあり方なのだと水野は結論づける。

 ちなみに「地域的・世界的権威」は地域帝国がもち、「国家・民族の下位にある権威」は地方政府がもつという構想は、水野の創見ではなく国際政治学者のヘドリー・ブルを参照したものである。

「閉じた帝国」の具体例として、水野はEUの例を挙げている。一国単位の主権でおこなうのが難しい政治課題については「帝国のような大きい単位の共同体」で対応すべしというわけである。

 また経済のあり方としては、ブローデルの市場経済論を引用している。ブローデルは市場経済と資本主義を区別した。前者は「予想外のことの起こらぬ『透明』な交換、各自があらかじめ一部始終を知っていて、つねにほどほどのものである利益が大体推測できるような交換」を指す。それは資本家が不透明な取引から富を獲得する資本主義とは異なるものである。水野はこの「市場経済」という概念が、新しい経済システムのヒントになると指摘する。

 留保つきながらも「帝国」を再評価する議論じたいは、文脈がやや異なるとはいえ柄谷行人や佐藤優など何人もの論客が提起してきたもので、とくに斬新というわけではない。また帝国が並び立つ世界秩序は地球全体の秩序に責任をもちうる主体とは言い難く、資本主義の暴走がもたらした地球規模の課題をうまく解決できるのかという点では疑問もなくはない。
 しかしながら、広汎な分野から知見をとりいれたスケール豊かな本書の考察は、熟読に値するものだと私は思う。
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by syunpo | 2017-10-30 19:15 | 経済 | Trackback | Comments(0)

成長なき未来を展望する〜『資本主義という謎』

●水野和夫、大澤真幸著『資本主義という謎 「成長なき時代」をどう生きるか』/NHK出版/2013年2月発行

b0072887_10115199.jpg 世界史的な観点から経済を語ることで昨今引っ張りだこの水野和夫が社会学者の大澤真幸と対論した記録。ほぼ同じような趣向で哲学者の萱野稔人と語り合ったものが集英社新書から出ていて、その学際的な世界の捉え方には感心させられたものである。

 しかしここでの水野の発言は今一つ冴えない。前半部で資本主義とキリスト教との関連について、大澤は型通りにウェーバーに依拠してプロテスタンティズムの倫理である「禁欲」の観点から資本主義の動因を見るのに対して、水野はジョン・エルスナーを引いて資本主義の本質を「蒐集」や「強欲」にみようとする。
 大澤のみならず多くの研究家が未だにウェーバーを引用することが多いのは、やはりその説に説得力があるからだ。水野はそれに異議を唱えて「蒐集」という概念をしきりに持ち出すのだが、その概念の凡庸さもあってかウェーバー説を覆すほどの切れ味は感じられなかった。

 成長なき資本主義の行く末や「未来の他者」とどう向き合うかを論じる後半部も、大まかな方向性としては二人の見解にとくに異存はないけれど、何か茫漠とした読後感が拭いきれない。「蒐集」の行動・思考様式からの撤退を繰り返し提言している水野の議論に同調するとしても、それを具体的に政治や社会の場でどう実現していくのか本書を最後まで読んでも判然としないのだ。
 壮大なテーマに対して真正面から大上段に構えたまでは良かったが、議論は抽象論と具体論を行ったり来たりで今一つ噛み合わないし、二人の学識がかえって議論を散漫にしてしまったような印象である。
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by syunpo | 2013-07-27 10:25 | 経済 | Trackback | Comments(0)

動的平衡の美しさ!?〜『ルリボシカミキリの青』

●福岡伸一著『ルリボシカミキリの青』/文藝春秋/2010年4月発行

b0072887_18315461.jpg 当代売れっ子の生物学者・福岡伸一が週刊文春に連載したコラムを一冊にまとめた本。総合週刊誌の読者といえば今やオジサン層がコアだと思うのだが、ここでは若者向けの媒体でリラックスして語りかけるような文体が採られている。もっぱら使われる一人称は「私」や「筆者」ではなく「福岡ハカセ」。
 ここまでくだけてしまうと文人・福岡の魅力がかえって削がれてしまうような気がしないでもないが、そこは福岡ハカセ。自説のキーワードである「動的平衡」や「できそこないの男」について様々なアングルから接近していく筆致にはやはり巧みを感じさせる。

 風邪のウイルスから動的平衡を説き起こしたかとおもえば、文楽人形の様式的な動きにも動的平衡の美を見出す。政治問題化した臓器移植に対して動的平衡の観点から懸念を表明し、ハチミツの大量死や狂牛病に動的平衡への人間の介入の傲慢さをみる。
 生物学的に「少しだけ足りない」存在としての男性を語る姿勢もまたしかり。Y染色体の発見物語を簡潔に紹介したあとに、男の子に顕著にみられる「蒐集癖」に関して「蒐集行動は、不足や欠乏に対する男の潜在的な恐怖の裏返しとして生まれ」たのではないかと面白おかしく推察したりするのだ。
 
 センス・オブ・ワンダーこそがハカセの原点、というのも本書を貫く福岡ハカセの基本認識である。末尾におかれたルリボシカミキリの青について語った一文での締めの言葉がキマっている。

 ある年の夏の終わり、楢の倒木の横を通り過ぎたとき、目の隅に何かがとまった。音を立てないようゆっくりと向きをかえた。朽ちかけた木の襞に、ルリボシカミキリがすっとのっていた。嘘だと思えた。しかしその青は息がとまるほど美しかった。……こんな青さがなぜこの世界に存在しているのだろう。
 福岡ハカセがハカセになったあと、ずっと続けてきたことも基本的には同じ問いかけなのだと思う。こんな鮮やかさがなぜこの世界に必要なのか。いや、おそらく私がすべきなのは、問いに答えることではなく、それを言祝ぐことなのかもしれない。(p234)

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by syunpo | 2011-02-02 18:38 | 生物学 | Trackback | Comments(0)

それはひとつの美徳なのだ〜『蒐集行為としての芸術』

●四方田犬彦著『蒐集行為としての芸術』/現代思潮新社/2010年7月発行

b0072887_2014551.jpg 四方田犬彦が蒐集という行為にひとかたならぬ拘泥を示してきたことは、これまで発表されたいくつもの文章からうかがい知ることはできた。ここに芸術の起源としての蒐集行為をめぐって綴られたエッセイを中心に、四方田が親しんできた美術家やフォトグラファー、音楽家たちの創作に関する文章が一冊にまとめられたのは、まことに興味深い。

 人はいろいろなモノを蒐集する。郵便切手。人形。鉱石。蝶。観光みやげの定番アイテム・スノウドーム……。人はたいてい一時期、あるいは生涯を通して、何らかのモノを蒐集することに熱中した経験をもち、今なお熱中したりしているのではないか。

 そもそも蒐集とはいかなる営みであろうか?

 ……それは秘密のうちに閉じられた、世界の親密な出来事。(p36)

 ……蒐集行為は、……近代の経済システムに対する微小の倒錯である。事物は当初、貨幣と交換されるが、やがて停滞する。反動的な「堰き止め」行為によって、事物の質的価値が退蔵される。それは価値の逆関数、個人のレヴェルで生きられた、意図せざる〈中世〉への回帰である。(p37)

 ……蒐集家に許されるのは、ほんの些細な行為だ。彼はみずから創り出すことがない。みずから書かない。描かない。
 蒐集家は引用する。(p40)


 みずからも郵便切手やスノウドームを蒐集してきたという四方田の〈蒐集行為としての芸術〉論は、時に生硬で時に難解ではあるものの、軽快なフットワークと奔放な想像力とに支えられ立派な文化論・芸術論となりおおせている。

 本書を通して、たびたびその名が出てくるのがヘンリー・ダーガーとジョゼフ・コーネルだ。
 ダーガーは子供の時にささいな誤解が原因で教師から「知恵遅れ」と判断され、十三歳のときに父親と死別すると、養護施設に送られた。その後、紆余曲折を経て、病院の雑役夫や門番といった仕事につきながら、ひたすら小説と絵画の創作に打ち込んだ。ただしそうした事実は彼の死後に明らかになったことである。孤独な老人の部屋に遺されていたのは、一万五一四五ページに及ぶ長編小説と何ページあるか見当もつかない日記、小説のために制作した七百枚もの絵巻物風水彩画などであった。むろん「作品」だけでなく、それらを創作する際に参照したでろう、書物や絵画なども遺されていた。

 コーネルの経歴も特異であるが、こちらは切手蒐集という趣味を持っていたので、本書のコンセプトにより適った存在といえよう。彼もまた内気な性格であったことはダーガーと共通していて、もっぱらコラージュや箱型の美術作品の創作に勤しんだ。

 四方田は、本書の前半部にダーガーとコーネルに直接言及したエッセイをおいている。そうして、漫画家の杉浦茂や楳図かずおを論じる際に比較検討の対象としてダーガーを召喚し、『CRジャンジャン飯店』のパチンコ台を語るにコーネルの作品を脇に並べる、という寸法である。

 それにしても、ここで取り上げられている芸術家たちの何と多彩なことだろう。
 ヒロシマを撮り続ける写真家・石内都に関するエッセイは、「世界はわたしの傷である」とのディラン・トマスの詩句を引きつつ、聖ヴェロニカの顔布をダブらせて印象深いし、〈一九六八年のイラストレーターたち〉と題された文章は、表題どおり政治の季節に活躍していたイラストレーターや画家たち——横尾忠則、中村宏、粟津潔——を論じて、当時の時代思潮をみごとに浮かび上がらせる。
 坂東玉三郎の写真集について一文を認めているかと思うと、ビートルズの曲をジョージ・マーチンが巧みにコラージュしたアルバム『LOVE』についても関心を示す。また、日本の公共空間に偏在している裸体彫刻の「奇怪」さを指摘した〈女性の裸体彫刻は「芸術」か〉など、なかなかに鋭い。
 四方田犬彦の知的好奇心の守備範囲の広さをあらためて認識させる一冊ではないかと思う。
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by syunpo | 2010-08-23 20:20 | 文化全般 | Trackback | Comments(0)