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ブックラバー宣言

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謎をもらえる人が重要なのである〜『謎床』

●松岡正剛、ドミニク・チェン著『謎床 思考が発酵する編集術』/晶文社/2017年7月発行

b0072887_20162378.jpg 起業家であり情報学の研究者でもあるドミニク・チェンが編集工学を提唱する松岡正剛と語りあう。オシャレな横文字コトバが乱舞し、現代の高度情報化社会を語るにあえて古典的なテクストが参照される。──縦横無尽、変幻自在な言葉の交歓。さながら知の万華鏡のような対話とでもいえばよいか。

 華厳思想が描く重々帝網とインターネットに相似を見出したり、空海とローレンス・レッシグが結びつけられたり。なるほど「編集術」の妙を随所に見出すことができる。二人の博覧強記には感心した。

 ただ正直な感想をいえば、紹介される概念や技術用語を駆使した議論はしばしば私の理解できる次元を超えていて、何やら茫漠とした読後感。そんなわけでこれは読む人を選ぶ本なのだろう。
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# by syunpo | 2018-05-25 20:18 | クロスオーバー | Trackback | Comments(0)

近代日本を貫く基本精神〜『「五箇条の誓文」で解く日本史』

●片山杜秀著『「五箇条の誓文」で解く日本史』/NHK出版/2018年2月発行

b0072887_18541044.jpg 明治維新、ひいては近代日本の基本精神は「五箇条の誓文」に示されているのではないか。二〇一八年は明治維新一五〇年にあたるが、その全期間を貫くものとして、片山杜秀は「五箇条の誓文」に注目する。

 明治を代表する憲法学者の穂積八束は、五箇条の誓文こそ近代日本の最初の憲法であると述べた。また戦後、昭和天皇が「人間宣言」を発した時にも五箇条の誓文を引用し、この趣旨に則って「新日本を建設すべし」と語った。明治維新から一五〇年を経た現代日本の状況を、五箇条の誓文に照らして再考することに意義があると考える所以はそれらの事実にも求めることができるだろう。

 五箇条の誓文は、片山流に要約すれば以下のようになる。

 ・民主主義のすすめ
 
・金儲けと経済成長のすすめ

 ・自由主義のすすめ

 ・天皇中心宣言
 
・学問と和魂洋才のすすめ

 近代日本の歴史は、その五つの誓文のいずれかが強く押し出されたり弱められたりする政治力学の変動によって記述することができると片山は考える。

 第一条の民主主義や第三条の自由主義は明治で離陸して大正デモクラシーの時代にある程度実現される。第二条の経済発展も明治から大正までまずまず順当に運んだ。ただ大正期の一条や三条は、第四条の天皇と齟齬をきたす場面も出てくる。世界大恐慌でグローバリズムへの信任が下がると、第四条と第五条の中に眠っている「攘夷」が手を携えて、第一条や第三条を抑止するようになる──というのが大まかな推移といえるだろう。

 ところで、明治憲法下では徹底した権力分立が行われた。明治の元勲たちは「第二の江戸幕府」が生まれないように権力を分散したのだ。文言上は天皇に強大な権限が付与されているようにみえるが、実際には天皇が力をふるうことはなかった。天皇が有する「統帥権」についても人によって解釈はまちまちだったという。

 では、誰が政治を動かしていたのか。明治期には「元老」という超法規的存在が大きな役割を果たした。首相も内閣も元老が選ぶ時代がつづいたのである。


 しかし第一次世界大戦を経て、総力戦体制を築くためにデモクラシーの必要性が叫ばれると、元老中心の政治にも批判が向けられるようになった。当然ながら元老そのものもこの世から去っていく。元老に代わって役割を担ったのは、天皇機関説と政党政治を組み合わせた政治というのが片山の認識である。大正デモクラシーはそのようにして生まれた。

 大正デモクラシーに関する片山の解釈にはとくに教えられるところ大であった。大正デモクラシーは「諸個人から社会へ、社会から国家へ向けた運動と捉えるだけでは本質を把握できない」。もうひとつの重大な面があるという。「国家総動員体制のためのデモクラシー」という側面である。「デモクラシーは民衆の要求だけではない。国家がデモクラシーを願望した。そういう部分が強くあるのです」。

 どういうことか。第一次世界大戦では、専制政治の国が敗れ、民主政治の国が勝利した。軍事的勝負としてはほぼ互角に推移したが、消耗戦になって、より忍耐強い国が勝利したといえる。民主制の国家では、国民が選んだ政治家が参戦を決意する。つまりトップの決断は国民の決断という形をとる。「自分たちで決めたことだから、やり続けなければならないと納得せざるをえない」のである。「デモクラシーのほうが総力戦体制には適している」との指摘には一理あるだろう。

 そういう意味では大正デモクラシーは昭和の総力戦体制を準備した側面のあることを否めない。ただし普通選挙法と同時に治安維持法が同時に導入されたことは注意を要する。

 大正デモクラシーを見るとき、この普通選挙法と治安維持法はセットで捉えておくべきでしょう。国力増進のために民衆の政治参加は肯定された。しかし、その参加の仕方が、天皇中心の国体を壊す方向に働くことは許されません。(p120)

 五箇条の誓文に照らせば、大正期にあっては第四条のもとで第一条が追求されたということになるだろう。もっとも昭和維新期に入ると第一条の民主主義ははっきりと後景に退いていくのだが。

 五箇条の誓文とはダイレクトには結びつかないが、昭和維新へと続く大正維新では、大きく「アジア主義」「国家社会主義」「農本主義」の三つの思想が入り組んでいたことも述べられている。そのなかからアジア主義が残って、第二次大戦のスローガンとして浮上していく。

 昭和の戦争準備期に入ると、機能不全に陥った政党政治に代わる強力政治を実現する必要性が増大する。泥沼の日中戦争の只中で「強力政治」のかたちとして台頭したのが大政翼賛会運動である。しかしこれは右翼勢力の前に頓挫する。昭和維新の三大イデオロギーの中でダメージ少なく残っているのは、アジア主義のみだった。

 その後の議論は片山の『未完のファシズム』で展開された考察とも重なるが、幕末のスローガンであった「尊王攘夷」は「大東亜共栄圏」の建設理念となって蘇ったものの、結局は壮絶に散った。総力戦の時代には明治型の権力分立思想は、国家の意思統一をはかるには適切ではなかったといえよう。

 戦後日本が五箇条の誓文から再出発したことは冒頭でも紹介したとおりである。ただそれにしても、五箇条の誓文に照らしてみても、現代日本のありさまはとても及第点とはいえない。
 では、これからの日本に関してどのような構想を描けばよいのだろうか。片山は「昭和維新の応用」を提案している。

……国家社会主義の平準化思想を福祉と結び付け、同時に国家社会主義があわせ持つ成長志向や拡大志向の代わりに、縮み志向の農本主義の考え方を取り入れる。アジア主義からは帝国主義の成分を抜き取って連帯を模索し、アメリカ一辺倒の安全保障から日中、日露も込みにした安全保障環境へとシフトする。
 いわば「縮み志向の昭和維新」です。(p242)


 もちろん、このような総論的な処方にはさほど拘泥する必要もないだろう。片山が本書で展開してきた歴史的検証のなかにこそ、少なからぬ示唆が含まれているのではないかと思う。
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# by syunpo | 2018-05-23 19:08 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

単独者ぶるオッサンたちの欺瞞〜『おひとりさまvs.ひとりの哲学』

●山折哲雄、上野千鶴子著『おひとりさまvs.ひとりの哲学』/朝日新聞出版/2018年1月発行

b0072887_19145814.jpg『おひとりさま』シリーズで知られる社会学者の上野千鶴子と『「ひとり」の哲学』がベストセラーになった宗教学者・山折哲雄の対談集。「ひとり」をめぐって熱い対論が交わされるのだが、上野が一方的に山折につっこむ展開で、山折の対応がまったく冴えないのが残念。

 上野は、日本の思想史に連綿とつづいている「単独者の系譜」に終始厳しい見方を示す。世間から背を向ける世捨て人、流れ者、放浪者たちのことだ。西行、鴨長明、松尾芭蕉、尾崎放哉、種田山頭火といった固有名が挙げられている。彼らの営みと山折の『「ひとり」の哲学』(の読者)とは、上野のなかでは重なりあう。

「家族はあてにしていませんよ」「最期は野垂れ死にですよ」というのは、決まって男たち。彼らは鴨長明や漂泊の俳人たちに憧れるふりをしているが、絶対に実行はしないし、実行しようにも自分ひとりの身の回りの始末さえできない。上野は男たちのそのような欺瞞を徹底的に批判するのである。

 山折から説得力のある反論は最後まで聞かれない。山折が傾倒している一遍の話が出てくるが、一遍の魅力を再認識するまでにはいたらない。また江戸時代の歌舞伎芸能で使われるようになったという「親子は一世、夫婦は二世、主従は三世」というフレーズを持ち出すのもかえって議論を混乱させている。どう考えても「ひとりの哲学」とは相容れないものだと思われるから。

 そんなこんなで上野の独演会状態が続く。男の身勝手さが炙り出されるという点では興味深い内容かもしれないが、言葉の交歓によって「界面作用」が生まれるという対談の醍醐味が感じられる場面はほとんどなかった。
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# by syunpo | 2018-05-19 19:15 | 社会全般 | Trackback | Comments(0)

存在の複数性を認める新実在論〜『なぜ世界は存在しないのか』

●マルクス・ガブリエル著『なぜ世界は存在しないのか』(清水一浩訳)/講談社/2018年1月発行

b0072887_18422987.jpg 新しい実在論を唱える哲学者として世界的に注目を集めているらしいマルクス・ガブリエルが一般向けに平易に書いた哲学書の完全翻訳版。まず正直に告白しておけば、本書の内容を十全に理解できたと確言する自信はない。以下に掲げるものは素人の素朴な感想文レベルにとどまるものかと思う。

 二〇一一年、イタリアの哲学者マウリツィオ・フェラーリスとともにマルクスは新たな哲学を提唱する。「新しい実在論」とみずから呼ぶものである。それはポストモダン以後の新たな哲学的態度として企図された。

 新しい実在論とは何か。本書では「形而上学」と「構築主義」の二つを批判する形でそのすがたをあらわす。

 形而上学は、いかなる事象でも人間による認識から独立した唯一真正な本質が存在することを主張する。ひとつの事象がもつ複数の様相は、どれも認識主体の主観的な偏向による幻想であって、当の事象の本質に還元されうるとする考え方である。本質主義といってもいい。

 一方、構築主義は、いかなる事象にも唯一真正な本質が存在するという考えを否定する。ひとつの事象にはさまざまな認識主体によって見られた複数の様相しか存在せず、それらの諸様相の交渉から当の事象イメージが社会的に構築される、と考える。本質主義と対立する相対主義といえるだろう。

 ガブリエルの新しい実在論は、その両者を否定しつつ包み込む。さまざまな認識主体による対象の構築を認める。と同時に認識主体による構築作用とは別に対象それ自体の存在をも認めるのだ。「わたしたちの思考対象となるさまざまな事実が現実に存在しているのはもちろん、それと同じ権利で、それらの事実についてのわたしたちの思考も現実に存在している」。

 その考え方からすれば、宗教や芸術上の虚構的なものも自然科学が対象としている物質と同じ権利で「存在」するということになる。

 物事の実在は、特定の「意味の場」と切り離すことはできない。言い換えれば、世界全体を統べるような「意味の場」や原理などはありえない。自然主義によれば「自然科学の領域へと存在論的に還元されうるものだけが存在しうるのであり、それ以外のものはすべて幻想」にすぎないと考えるが、そのような態度をガブリエルは断固として斥けるのである。

 すべての出来事は宇宙のなかで起こるといった考えは、数ある対象領域のひとつを世界全体と見なすという間違いを犯しています。それはちょうど、植物学を研究しているからといって、およそ存在するものはすべて植物であると考えるようなものでしょう。(p44〜45)

「すべてを包摂する唯一の世界が存在する」というのは幻想である。かくして「世界は存在しない」というテーゼが新しい実在論の名のもとに提起されることとなった。もちろんそれはニヒリズムとは異なる。むしろ私たちの一元的で単調な思考から解放するものであるという。

 世界は存在しないということは、総じて喜ばしい知らせ、福音にほかなりません。そのおかげで、わたしたちが行なう考察を、解放的な笑いによって終えられるからです。わたしたちが生きているかぎり安んじて身を委ねることのできる超対象など存在しません。むしろわたしたちは、無限なものに接する可能性、それも無限に数多くの可能性に、すでに巻き込まれているのです。(p292)

 一元的な原理を否定するという点では、民主的な哲学といえるかもしれない。そのことをいささか通俗的な形で述べているくだりも引用しておこう。

 ほかの人たちは別の考えをもち、別の生き方をしている。この状況を認めることが、すべてを包摂しようとする思考の強迫を克服する第一歩です。じっさい、だからこそ民主制は全体主義に対立するのです。すべてを包摂する自己完結した真理など存在せず、むしろ、さまざまな見方のあいだを取り持つマネージメントだけが存在するのであって、そのような見方のマネージメントに誰もが政治的に加わらざるをえない──この事実を認めるところにこそ、民主制はあるからです。(p269)

 本書のオビにも推薦文を寄せている千葉雅也は、このようなガブリエルの哲学に対して、ドイツの歴史的位置を考慮に入れ、政治的文脈に置き直したうえで興味深い論評を加えている。

 ……ガブリエルの哲学は、ファシズム批判の哲学でもあると思う。ひとつの特権的な「意味の場」の覇権を拒否し、複数性を擁護するという意味において。それは、戦後ドイツの歩みを隠喩的に示しているとも言えるかもしれない。

 とはいうものの本書に対する評価は人によってはっきり賛否がわかれそうだ。日本ではどちらかといえば批判的な論考をみかけることが多いように思われる。私自身、「これも存在する、あれも存在する」という存在の多元性の認め方はかなり強引に感じられ、今ひとつ納得できなかった。新しい実在論を提起するにあたって自然主義や自然科学を戯画化したうえで批判しているように感じられるのも私の違和感を増幅するものである。

 そもそも自然科学者たちは本当にガブリエルが言うように自然科学的な方法のみをもって対象を理解しうると単純に考えているのだろうか。彼らが、小説における架空の登場人物が「現実に存在する」ことを認めるに消極的であったとしても、文学の価値や意義を貶めているわけではないだろうし、想像的なものの「存在」を否定する態度をもってただちに自然科学(的方法)のみを特権視していると断じるのは早計だろう。
 ホーキングが「哲学はすでに死んでしまいました」と言明しているのを引用して少しムキになって反論しているけれど、哲学に対するホーキングの偏見が自然科学を代表しているわけでもない。

「一角獣も、人が見る夢も、すべて存在しているのだ」という認識は「民主的」といえばいえるかもしれない。ガブリエル自身が「民主制」という言葉を持ちだして説明しているのは俗耳にも入り易いだろう。が、哲学的思考の精度という点からすれば、ずいぶん粗雑な提題との印象もまた拭い難い。
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# by syunpo | 2018-05-17 18:50 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

キリコの震える線のように〜『創造&老年』

●横尾忠則著『創造&老年 横尾忠則と9人の生涯現役クリエーターによる対談集』/SBクリエイティブ/2018年1月発行

b0072887_1012348.jpg「長生きするのも芸のうち」とは演芸界でしばしば口にされる格言(?)である。早逝の天才の系譜にも惹かれるものはあるけれど、なるほど長生きしている創作家にも別様の魔力が宿っているに違いない。

 横尾忠則が八十歳を越えた年長のクリエーターたちに会って対話を交わす。本書はその記録である。登場するのは、瀬戸内寂聴、磯崎新、野見山暁治、細江英公、金子兜太、李禹煥、佐藤愛子、山田洋次、一柳慧。

 前世とか死後の世界だとかに関して熱弁をふるう横尾の死生観にはまったく共感できないが、彼の場合、一種オカルト的な想念が創作活動にうまく昇華した稀有なケースであることは確かだろう。

 老年期におけるクリエーターのおもしろい実例として、横尾はジョルジョ・デ・キリコの晩年に着目している。手が震えて、線も震えていて弱々しいけれど、それが味になっている、という話を何度も繰り返しているのが印象的。

 全体的には対談相手の話が総じて凡庸で私的にはいささか退屈なトークがつづくが、メインテーマからは少しずれる挿話ながら、故人となった金子兜太の戦争中のトラック島での深刻な体験談を「アニミズム」なるキーワードで引き出しているくだりは興味深く読んだ。
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# by syunpo | 2018-05-13 10:17 | 文化全般 | Trackback | Comments(0)