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ブックラバー宣言

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弾けた文体の辛口記事〜『仕方ない帝国』

●高橋純子著『仕方ない帝国』/河出書房新社/2017年10月発行

b0072887_9463520.jpg 著者の執筆当時の肩書は朝日新聞の政治部次長。肩書とのギャップを感じさせる今風のカジュアルな弾けた文体がひとつの持ち味といえそうだ。もっとも内容以前にそこが非難の的になったりもしているようだが。

 論題はさまざまだが、あえてキーワードを一つピックアップするなら「自由」ということになるだろうか。自由をめぐって自由を求めて思考し行動する著者のすがたが本書の随所ににじみ出ているように思う。自由の観点からすれば、安倍政権の強権的政治も、上司のマウンティングも、世間の掟も、おしなべて批判や懐疑の対象となる。もちろんその基本姿勢に異存はない。

 後半に収録されているインタビューは人選に明確なコンセプトが感じられず、良くも悪しくも多方向からオピニオンを汲み取ってくる新聞の性格を反映している。白井聡や片山杜秀らの発言は彼らの著作を読んでいる者にはほとんど新味はないが、そのなかで特定秘密保護法案に賛同した長谷部恭男との丁々発止のやりとりは読み物としては面白い。

 ただそれにしても、こうして本になったものを読んでみると、紙面で読んだ時と比べてなんだかインパクトが薄まったように感じられるのは何故だろう。紙面では他のありきたりな文体で書かれた記事の中で、彼女独特の文体が異彩を放っているように思えたものだ。しかしこうして一冊の書籍となると、比較の対象となるのは彼女の同僚記者の退屈な文章ではなく、世界に広がるあまたの本となる。このようなスタイルの文章なら、あのコラムニスト、この作家の方が……となってしまうのは避けがたい心理なのか。読者というのはまことに勝手な存在なのである。
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# by syunpo | 2018-11-18 09:47 | 政治 | Comments(0)

詩人がパフォーマーに近づくとき〜『対詩 2馬力』

●谷川俊太郎、覚和歌子著『対詩 2馬力』/ナナロク社/2017年10月発行

b0072887_19111969.jpg 谷川俊太郎と覚和歌子による詩のキャッチボール。連句・連歌の伝統をもつ日本の詩歌の歴史を振り返れば、連詩・対詩のような企ても自然なものと考えられ、実際、過去にもいろいろな試みがあったらしい。ただ現代詩の世界で書籍化できるレベルの完成度に達したのは本書が初めてかどうか知らないが珍しいのではないだろうか。

 谷川が、狭い読者層を対象にした難解な現代詩の世界に対する違和感から出発したことは折りに触れ本人が広言してきた。また詩の発表を活字媒体だけに限定せず、詩の朗読などライブ活動に注力してきたこともよく知られている。その意味では本書のようなスタイルの対詩集を出すことは谷川らしい実践ともいえよう。

 谷川はまえがきに次のように記している。

 詩はふつう独りで書くものですが、そのとき作者はどこかで読者を意識していると思います。独りで書く時には見えない読者が、ライブ対詩では目の前に見えている。その違いは小さなものではありません。(p3)

 本書は、そのようにして行なわれたライブ対詩の作品を収録するとともに、二人が取り交わしたいくつかの対談を挿入している。二人の創作活動とその舞台裏が一冊に凝縮されているといえばよいか。

 覚和歌子は詩人としてよりも作詞家としての印象が強いが、詩に関しては「朗読するための物語詩」というジャンルを開拓したことでも知られているらしい。谷川も対談のなかでそのことに言及して覚作品への関心の在り処を語っている。

 二人の詩のやりとりは、付かず離れず、絶妙の間合いをとりながら展開されていく。「相手の言葉に触発されて自分でも思いがけない言葉が出てくる」(覚)ことも詩の作り手にとっては対詩の醍醐味の一つなのだろう。

 ちなみに詩をつなげていくには、相手の一つの言葉を受けるような方法だけでなく、前句と対向する視点で付ける〈向付〉を用いたり、雰囲気でつなげる〈匂い付け〉をやったり、いろいろな技法があるらしい。

 末尾の作品にはフレーズごとに作者のコメントも付されていて、読解のヒントが示されている。現代詩の難解さに辟易している読者に対しても詩の可能性を感じさせるに違いない、ユニークな詩集といえるだろう。

 1 ランチタイムのざわめきの中に

   もつれている意味と無意味

   はるか遠くにたたずむ山々に向かって

   幼児がむずかっている (俊)

 2 山はいつもここにある

   森の呼吸を忘るるなかれ

   経済危機も温暖化も基地問題も

   高天原から見れば解決はちょろいのだが (覚)

 3 久しぶりの祖父の大言壮語の愛嬌に

   カナダの大学で学ぶ孫は生真面目に反論している (俊)

 4 ドミトリーのセントラルヒーティングが

   調子の良かったためしはなくて

   あっちからもこっちからも

   聞こえてくるパイプを叩く音

   それが宿題するときのBGM (覚)
   (p106〜107、〈駒沢通りDenny's Ⅰ〉より抜粋)

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# by syunpo | 2018-11-17 19:17 | 文学(詩・詩論) | Comments(0)

無神論の立場から個の自律を説く〜『初期仏教』

●馬場紀寿著『初期仏教 ブッダの思想をたどる』/岩波書店/2018年8月発行

b0072887_1295926.jpg 仏教がインドに誕生したのは、紀元前五世紀頃のことである。
 その後、四〇〇〜五〇〇年の間に南アジア各地に伝播して、この地域を代表する宗教に成長していった。発祥の地であるガンジス川流域から大きく飛躍した仏教には紀元前後に重大な変容が起こった。それは南アジアと西方との関係が影響している。本書ではこの変容以前の仏教を「初期仏教」と定義する。

 初期仏教は、近代西欧で作られた「宗教」概念に照らせば「宗教」にあてはまるのかはなはだ疑わしいと著者はいう。そもそも初期仏教は全能の神を否定した。その意味では無神論である。人間の願望をかなえる方法を説くのではなく、むしろ自分自身すら自らの思いどおりにならないことに目を向ける。また宇宙の真理や原理を論じることもない。人間の認識を超えて根拠のあることを語ることはできないと初期仏教は主張する。

 初期仏教は有神論や宇宙の真理を説く代わりに「個の自律」を説く。超越的存在から与えられた規範によってではなく、一人生まれ、一人死んでゆく「自己」に立脚して倫理を組み立てる。そして生の不確実性を真正面から見据え、自己を再生産する「渇望」という衝動の克服を説いたのだ。

 仏教誕生以前に成立していたアーリヤ人社会では、ガンジス川流域に都市化が起こり、都市化を背景として唯物論やジャイナ教などの思想が生まれていた。仏教の出家教団は、誕生直後から他の思想や信仰と競合し、様々な議論が交わされていた。仏教は、バラモン教やジャイナ教、唯物論と一部で共有する考え方をもっていたが、同時にそれらに対する批判をもって差別化をはかった。

 ところで、初期仏教からその後の段階へと進むことになった紀元前後の「変容」とは何だったのか。そのひとつとして挙げられるのは「口頭で伝承されていた仏典が書写されるようになったこと」である。

 口頭で、または後に書写して、仏典の伝承を担ったのは「部派」と呼ばれる出家教団の諸派である。そのため、部派の仏典を通さなければ初期仏教の思想を知ることはできない。

 ブッダは、自分が没した後は「法と律」を師とするように命じ、解脱した出家者たちは「法と律」をまとめ、仏典として伝承してきた、と仏教教団は主張している。それらは「結集仏典」と呼ばれる。結集とはブッダの教えを「共に唱えること」をいう。

 そのような「結集仏典」が後に「三蔵」として体系化され今日まで伝承されてきたわけである。結集仏典のなかでは、上座部大寺派、化地部、法藏部、説一切有部、大衆部の五部派のヴァージョンがすべてではないにせよ現存している。本書が依拠しているのは、いうまでもなくそのような結集仏典や諸部派の三蔵である。

 先に記したように、「主体の不在」あるいは「生存の危うさ」という視点で「自己の再生産」を批判的にとらえる仏教は、その究極目標として「自己の再生産」からの解放(解脱)を掲げる。いわゆる「輪廻」からの解放である。「再生しない者」こそが真に「高貴な者」だと教えたのだ。その詳しい内容についてここで安易に要約するのは控えるが、いずれにせよ、その点が先行する宗教との決定的な相違であり、仏教の核心といえる。「高貴な者」という言葉の意味を刷新して、新たな生き方を示したことが仏教の拡大する原動力になったのだ。

 本書では最新の仏教学の研究成果を盛り込みながら、丁寧な足取りで初期仏教をたどっている。前半は学問研究上の考証手続きをめぐる記述に紙幅を割いていてお勉強モードの読み味だが、そのような研究方法の記述ゆえに本書に説得力をもたらしていることもまた疑いえない。
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# by syunpo | 2018-11-16 12:12 | 宗教 | Comments(0)

高校倫理を侮るなかれ!?〜『試験に出る哲学』

b0072887_18161333.jpg「倫理」のセンター試験に出された問題を引用して、それをもとに西洋哲学の歩みを復習する。本書のコンセプトは明快である。著者によれば、高校で学ぶ倫理という科目では「西洋哲学の部分を取り出すと、入門的な内容がじつにバランスよく配置されて」いるという。この種の企画では、とかく問題の内容を批判したり皮肉ったりするようなことが多くなりがちだが、本書ではそのような態度はとらない。

 古代ギリシャ哲学から始まり、中世のキリスト教神学を経て、近代哲学へと至る道筋を手際よくまとめていく筆致は、参考書の執筆で鍛えられた著者ならではのものといえるだろう。

 ソクラテスのエイロネイア(アイロニー)を説明するのに千葉雅也の『勉強の哲学』を参照していたり、巻末のブックガイドで國分功一郎の『中動態の世界』にも言及していたり、最新の研究動向にも目配りがきいている。筒井康隆の『誰にもわかるハイデガー』までリストアップしているのも一興。とくに目新しいことが書かれているわけではないけれど、一般読者向けの哲学入門としては面白いやり方ではないだろうか。
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# by syunpo | 2018-11-13 18:20 | 思想・哲学 | Comments(0)

学際化がすすむ “社会科学の女王”〜『現代経済学』

b0072887_19275770.jpg 二〇世紀半ば以降、急速に多様化がすすんだ経済学はそれゆに複雑さを増してきたともいえる。基礎知識のない者がいきなり現代の経済学の専門書を読んでもチンプンカンプンだろう。

 本書は現代の経済学の多様なあり方を初学者向けにわかりやすく解説。ミクロ・マクロ経済学はいうに及ばず、ゲーム理論、行動経済学や実験経済学、制度論、経済史などなど、経済学の最前線をコンパクトにまとめている。著者の瀧澤弘和は、ゲーム理論・経済政策論などを専門とする研究者である。

 市場が経済にとって決定的に重要だという問題意識は、交換と分業が文明の根底にあるとするアダム・スミスの洞察にあった。以降の経済学は、消費者や生産者の選択という形で人間行動を具体的にモデル化し、同時に市場のモデルを提示することで、分権的市場経済のすばらしさを証明することができた。それは二〇世紀半ばのことである。

 二〇世紀の主流派経済学として世界を席巻した新古典派経済学の市場メカニズムの理論では、経済主体が合理的であると仮定され、方法論的個人主義が採用されてきた。

 けれどもその後、経済主体が合理的であるという仮定には利点もあるけれど限界もあることが明らかになってきた。以下に紹介される研究分野はいずれもそうした限界を見据えたところから出発したものといえよう。

 ゲーム理論は、従来の経済学が市場を経由した主体間の相互作用に焦点を当ててきたのに対して、プレーヤーの行動が直接的に他のプレーヤーに影響を与えあう「ゲーム的状況」の経済分析へと経済学を拡張するものである。これにより「神の見えざる手」の論理が働く市場の世界とは異質の世界を分析の俎上に載せることになった。

 ゲーム理論によって、人間行動における規則性を説明する際に、信念と行為の組み合わせという観点が導入されたのである。その結果として、われわれは異なる複数の均衡が存在しうることを理解できるようになった。

 ゲーム理論はマクロ経済学にも影響を与えた。経済システムの内部にいる人々が将来の予想を形成しつつ行為を選択するという「期待」概念の導入によって、その後のマクロ経済学は大きく理論的な変貌を遂げてきたのだ。

 行動経済学は、それまでの経済学の理論体系のなかで「公理」として前提されてきた現実の人間行動の分析にまで経済学を拡張することに成功した。そこでは、心理学、認知科学、脳科学、進化生物学との間で垣根を越えた交流がみられ、これが経済学全般の学際化にも寄与することになったという。

 行動経済学が「人間の不合理性を明らかにすることによって、逆に人間にとってどうしても手放すことができない『合理性』への問いを際立ったものにしているように思われる」との逆説的な指摘はまことに興味深い。

 実験経済学は、従来の経済学でまったく価値のないものとみなされていた「実験」という発想を導入することで経済学の多様化をうながした。今日の実験は、主にゲーム理論の文脈で、行動経済学と連携して人間行動の社会性を解明するために用いられている。また、実験研究の成果は政策決定の場面でも大きな役割を果たしているという。

 もっぱら市場制度を対象としてきた二〇世紀の経済学は、市場以外の制度の重要性に着目するようになった。とりわけ企業に注目した研究など、種々の「制度の経済学」が台頭してきたことは最近の経済学における注目すべき動向の一つといえそうだ。

 経済史は人類が実際に辿ってきた経路を事実の側面から見るものである。歴史的時間を考慮することができない経済理論に対して、応用の素材を提供したり、新理論へのインスピレーションを与えたりすることで、理論と歴史との新しい対話の可能性を追求するものともいえる。

 社会理論家のヤン・エルスターは、社会科学は普遍的に成立する法則を把握する段階にはなく、社会現象を説明するために、小規模あるいは中規模のメカニズムを解明することに専心すべきであると述べたが、瀧澤もこの考え方に共感を示している。本書のなかで紹介されている経済学研究は、すべてこのようなメカニズムの探求とみなすことができるのだ、と。

……一つのメカニズムで経済現象全体を網羅することは到底不可能であり、われわれは多くのメカニズムを提案することによって現実の経済現象をカバーしようとしている。研究者は自分が関心を持つ現象について、その現象に対応したメカニズムを探求しているのである。(p248〜249)

 本書の記述は初学者にはやや難しい箇所もあるものの、総じて簡潔な解説がほどこされていて、現代経済学の最前線を知るうえでは最適の入門書といえるだろう。
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# by syunpo | 2018-11-09 19:30 | 経済 | Comments(0)