●隈研吾著『自然な建築』/岩波書店/2008年11月発行
二〇世紀の大きなテーマの一つはグローバリゼーションであった。物流、通信、放送、あらゆる領域でグローバリゼーションが達成されたが、建築の領域でそれを可能にしたのがコンクリートという素材であった、と著者はいう。 コンクリートは世界を画一化し不可視なものにし、さらには表象と存在の分裂を加速化した。コンクリートとは「消えゆく不安定なもの達の、断末魔の叫び声」なのだ。 そうした認識に基づいて隈研吾は「自然な建築」を主張してきた。それは「どう見えるか」ではなく「どう生産するか」に着目する建築である。「その大地を、その場所を材料として、その場所に適した方法に基づいて建築は生産されなければならない」。 その意味では、日本の大工は驚くほどラジカルだという。 しばしば、家を建てるならその場所でとれた木材を使うのが一番よいと語り伝えてきた。機能的にも、見かけも一番しっくりくると伝えた。それを一種の職人の芸談として、神秘化してはいけない。場所に根の生えた生産行為こそが、存在と表象とをひとつにつなぎ直すということを、彼らは直感的に把握していたのである。(p15〜16) その方法の現代における可能性を探ってきた隈がこれまで手がけた建築を具体例にして、その建築思想を語ったのが本書である。 紹介されているのは、栃木県那須町の石の美術館、宝積寺駅前のちょっ蔵広場、那珂川町の広重美術館、中国・万里の長城「グレート・ウォール・コミューン」の竹の家、下関市の安養寺木造阿弥陀如来座像収蔵施設、愛媛県亀老山展望台などなど。 石の美術館では、地元で採れる芦野石という地味な石を使い、直接職人たちと相談しながら古典的な「組積造」に挑戦した。それは「物質の直接性を取り戻す」ような試みであった。 安養寺では、地元の「日干し煉瓦」の伝統にヒントを得て、土のブロックを積み上げる方法を採用した。 個々の建築と自身による解説はいずれも興味深いものではあるものの、釈然としない記述も散見される。たとえば、熊本の古い醤油蔵を保存・増築するプロジェクトでは、最も主要となる材料にコスタリカ産の竹「グァドゥア」を使用して計画を進めているという。隈が繰り返し強調している「地産地消」の理念に反しているのは明らかなのに、何の注釈もなく喜々としてその建築のあらましを語っているのをどう理解すればよいのか。 隈自身の手になる建築の論理的矛盾については、これまでにもいくつか指摘を受けたことを認めながら「そもそも、一〇〇パーセント胸をはれるような建築があるだろうか」と議論を一般化してしまい、「胸をはれない現実を認めた上で、そこに対して現実的な解決策を練り上げていくことである」と終結部で述べている。 たしかに建築は物理的制約の多いジャンルであるが故に現実的な妥協はつきものには違いない。だとするなら、建築家が大仰な理念を大上段に振りかざすことにも慎重さが求められるだろう。冒頭での二〇世紀建築批判がことのほか切れ味鋭いものであっただけに、筆が進むにつれて業界の現状へのボヤキが増えてくる本書の記述ぶりにはいささか尻すぼみの感を禁じえない。
by syunpo
| 2009-03-19 20:33
| 建築
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