●ヒュー・ケナー著『機械という名の詩神』(松本朗訳)/上智大学出版/2009年1月発行
本書はメディア論の巨匠マーシャル・マクルーハンの弟子にあたるヒュー・ケナーが一九八七年に刊行したテクノ・モダニズム論《The Mechanic Muse》の本邦初訳版である。機械=テクノロジーがモダニズム文学に与えた多大なる影響を、T・S・エリオットやエズラ・パウンド、ジェイムズ・ジョイス、サミュエル・ベケットのテクストから具体的に読み取ろうとするもので、収録された論考のコンセプトはその点で一貫している。 本書にいう「機械」とは、単にモノとしての装置を意味するだけでなく、作家たちが生きた時代の生活や文化を支えたテクノロジー全般をカバーするものとして用いられている。それは具体的にいえば、エリオットにおいては地下鉄や電話、パウンドにおいては貨幣押型機やタイプライター、ジョイスにおいては印刷業者、ベケットにおいてはコンピュータ言語といったものだ。 私が初めてエリオットの詩(和訳)に触れたのは、ずいぶん昔、田村隆一が編んだ彌生書房の《エリオット詩集》だったと思うが、よく分からなかった、という記憶だけが残っている。代表的な詩集といわれる《荒地》から採られた詩編には古今の文学作品や神話から引用したフレーズで溢れているらしいということは、おびただしく付された注釈によって推察することはできたのだが。 そのエリオットの詩編が、同時代のテクノロジーに強い感化を受けていた、とする指摘(たとえばエリオットの詩句からは、地下鉄が運ぶ大量の通勤者や時計の普及によって分刻みの行動を強いられている都市生活者たちを観察して生まれた表現が明瞭にみてとれる)は、当時の英文学研究の世界にとっても画期的なものだったらしい。今となってはやや信じ難いことだが、訳者の解題によると、本書が刊行される少し前までは、モダニスト作家というものは「大衆文化とは袂を分かつ浮世離れした存在であり、また、その作品も同様に、〈外部〉の世界とは関連をもたない、個人の内面の意識のゆらめきを映し出す美的なものとみなされるのが普通であった」というのだ。 エリオットの詩を当時の新技術によって生み出された「生の新しい様式」の視点から読み直せば、(《荒地》におけるポリフォニーは中央の交換局で大規模なショートが発声しているせいである、という巧みな比喩)なるほどこれまでとは違った光景として眼前に広がってくるようでもある。 また、ベケットの作品《ワット》のある文章は「パスカル」と呼ばれるプログラム言語に即してチャート化できるという指摘などは、コンピュータや数学にも詳しかったらしいケナーの面目躍如たるものといえるかもしれない。
by syunpo
| 2009-03-27 20:05
| 文学(翻訳)
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