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社会の要請に応えるために〜『検察の正義』

●郷原信郎著『検察の正義』/筑摩書房/2009年9月発行

b0072887_19163859.jpg 西松建設事件では、大手マスコミの大半が検察の言い分を無批判に垂れ流し、未だに「検察の正義」とやらを信奉しているらしい立花隆ら検察御用達ライターがそれに程よく味付けをほどこすといった荒涼たる光景を呈していたなかで、郷原信郎は検察の言動を相対化する発言を繰り返して論客としての存在感を一躍高めた。
 本書は、最近の事件における検察の捜査を具体的に検証しながら、冒頭と後尾の章に著者個人の検察官時代の体験記を配して、これからの「検察の正義」のあり方を提起したものである。

 郷原の認識によれば、もともと刑事司法は社会の外縁部に発生する犯罪行為について社会からの逸脱者・異端者を排除する役割を果たしてきた。特捜検察は贈収賄や大型経済犯罪など社会の中心部に直接関わる事件の摘発を行なってきたという点で特殊な存在であったが、それでも民主政治や公正な経済活動を妨げる違法行為を処罰するという点で、検察の正義を自己完結的に判断していくことに大きな問題を生じることはなかった。

 しかし国会議員の活動の中心が「国会で質問したり、議決に加わったりするという本来の議員としての職務権限に基づくものから、関係省庁に働きかけたり口利きをしたりするという政治家としての活動、族議員としての活動中心に変わっていった。……そのため国会議員を贈収賄で立件することは容易ではなくなった。それに伴って、贈収賄を武器とする政界捜査という従来の特捜捜査は限界に近づいてきた」。
 それに加えて、社会が複雑化するに伴い、刑法犯などの伝統的犯罪だけでなく、独占禁止法や金融商品取引法などの経済活動に関するルール違反に関して制裁を科すことが必要になってきた。
 そうした環境の変化に対しては従来のような検察の組織内で完結した「検察の正義」中心の発想だけでは適切に対応できない、というのが郷原の認識である。

 そこで「検察の正義」が揺らいでいる昨今の具体的事例として、ライブドア事件、村上ファンド事件と西松建設事件が俎上にのせられる。
 さらに郷原は、特捜検察の「神話化」を強化した歴史的な事件として、造船疑獄事件とロッキード事件を取り上げている。前者は時の法務大臣による指揮権発動によって捜査が頓挫したと国民に受け取られ、以後、検察捜査は「絶対不可侵」なものと強く認識されるようになった。後者は「巨悪と対決する日本最強の捜査機関」というイメージを決定的なものにした。
 しかし、指揮権発動については、渡邊文幸や朝日新聞が当時の捜査関係者に対して行なった取材によって「検察が仕組んだ謀略」という説で決着をみているし、ロッキード事件での成功体験はその後長らく検察に「贈収賄の罪名」に固執させるという弊害を生んだ。いうまでもなく密室での犯罪である贈収賄による摘発のためには「自白」が不可欠になるのだが、それが昨今非難の的となっている「自白偏重主義」を蔓延させることにもつながった。

 検察の正義の再構築が求められているなかで、郷原は長崎地検時代にみずから手がけた自民党長崎県連事件の例を引いて一つの解答とする。その事案では捜査の対象者との間で対立軸を作らず、最終的には積極的に捜査協力してもらえる関係を築いたことなどが詳細に熱っぽく綴られている。

 このように内容を要約すると全体の構成としてはきれいにまとまっているようだが、どうもしっくりこない読後感が残るのはどうしてか。

 よくよく読めば、ライブドア事件はもともと軽微な違法行為を「劇場型捜査」のために市場を混乱に陥れたというものであり、また村上ファンド事件は証取法の第一五七条の包括条項を適用すべき事案だったのにインサイダー取引の禁止規定を適用したことの無理を述べたもので、ざっくりいえばいずれも捜査上の技術的な失敗を指摘したものである。西松事件の検証についても同様で、著者自身が「単純な特捜捜査の失敗事例」だと総括している。
 つまり、個々の事件の検証はそれぞれ説得力を感じさせるものだが、郷原が述べている歴史的な文脈にすんなり収まるような記述には必ずしもなっていない。
 また最終章における長崎地検の取り組みはそれなりに読ませるものの、いささか手前味噌的な内容で、本書の「まとめ」としてもやや筋違いという印象が否定できない。

 検察の権限行使を第三者がいかにチェックするか。その制度面での整備こそが多くの国民が関心を寄せている課題ではないか。その点では終章前で淡々と述べている見解の方こそ本書の総括にふさわしい内容だ。

 通常、不起訴処分という検察官の権限行使の消極面へのチェックは検察審査会が行なうことができる。二〇〇九年に施行された改正検察審査会法ではより監視機能が強化された。一方、不当な起訴という権限行使の積極面に対するチェックシステムはどうか。従来は裁判そのものがチェック機能を果たす、すなわち検察の起訴が不当なものであれば裁判所が無罪判決などを出して、そのなかで検察官の起訴の問題点を指摘すれば足りる、と考えられてきた。
 しかし現実には、強制捜査や起訴自体によって重大な社会的政治的影響を与える事例が多発している。そこで著者が持ち出すのは長らく封印されてきた法務大臣の指揮権発動である。もっとも政治家である法務大臣個人の判断に委ねることは独善に陥る危険があるということで、指揮権の行使について「何らかの民主的な意見の反映または専門的見地からの検証を行うシステムの構築」たとえば「高度の守秘義務を負う諮問機関」の設置を提案している。
 法相の指揮権発動については今なおアレルギー反応を示す者も少なくないので、当然こうした主張には異論も予想されるものの、検察OBによる一つの問題提起として興味深く読んだ。

 ただ、これからの「検察の正義」のあり方を占う上で極めて重要な「取調べの可視化」についてまったく言及していないのには少々ガッカリさせられた。また昨今の検察不信の大きな要因の一つにもなっている裏金問題についても完全スルー。やや皮肉っぽくいえば、検察の捜査や組織のあり方を根幹から見直すことになるような問題については周到に回避したように思われる。
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by syunpo | 2009-12-16 19:25 | 憲法・司法 | Trackback | Comments(0)
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