●井上ひさし著『ボローニャ紀行』/文藝春秋/2008年3月発行
ボローニャ・ソース(ミートソース)発祥の地。ヨーロッパ最古の大学ボローニャ大学がある学術の都。第二次大戦中にはナチスドイツとファシストの連合勢力を相手に戦ったレジスタンスの拠点。伝統的な建築様式ポルティコ(柱廊)で知られる古都。フィルムの修復と保存の複合施設チネテカを擁する映画の街。そして何よりも「ボローニャ方式」と呼ばれる独自の都市再生策を成功させ世界的にも注目を集めている誇り高き自治都市。 そんな多様な相貌をもつボローニャを井上ひさしが旅した。井上にとっては洗礼を施してくれたマリア・ヨゼフ神父が属していたドミニコ会の総本山サン・ドメニコ教会が建つ感慨深い聖地でもある。 この街の成り立ちのなかでも最も印象深いことの一つは、古い建物を決して壊したりせず、外観をそのままに内部を補強・改修した後、別の用途にして建物を使い続ける、という精神が徹底していることである。 日本とは建築素材が異なるので単純な比較論は慎まねばなるまいが、それにしても日本ではそのような発想が都市の再開発計画のなかに織り込まれることはほとんどない。怪しげな経済合理性に従って古くさい建物は簡単に新しい建造物にとって替わられるか、さもなくば歴史的に保存する価値があると踏まれれば、たちまち立入禁止の札がたてられて観光客の「拝観」の対象に祭り上げられてしまうことだろう。 ボローニャは「歴史」や「伝統」が博物館に収められるのではなく、現在や未来に活かされてある。 旧い家畜市場を老人と学生と幼児とが終日一緒にすごすことのできる施設に改造する。旧い証券取引所を座席数九百席の図書館に改造し、既存図書館と並存させる。女子修道院も女性図書館に改造し、さらにそこをヨーロッパの女性問題研究センターにする。旧い煙草工場を世界一の映像センターに仕立てあげる。 そんな街づくりの基本は「中央政府は信用ならん、だから自分の街がしっかりと自立しなくてはならんだのよ」という地方自治の精神である。それは社会的共同組合という仕組みに端的にあらわれている。市民が何らかのアイデアをもった時、共同組合を組織して公的セクターや企業からの援助を受けながら、その実現をはかるのだ。 本書では、そのようなボローニャの精神をそれぞれの立場で体現している人々の様子が活き活きとスケッチされているのだが、住民自治や地域コミュニティに対する井上の強い関心は最近になって示されたものではもちろんない。振り返れば、私の学生時代(一九八一年)に刊行された《吉里吉里人》は、東北地方のちっぽけな山村が独立を宣言してドタバタ劇を繰り広げるという長編であった。 もっとも本書はボローニャの自治都市としての姿だけに焦点をあわせたものでないことはすでに述べたとおりである。 これは「なんでもあり」の紀行文なのだ。都市文化論でもあり演劇論でもあり財政論でもあり地域経済論でもあり市民社会論でもあり社会福祉論でもあり労働論でもあり企業経営論でもあり宗教論でもありリサイクル論でもあり景観論でもあり、そして人間論でもあり……。 井上自身は巻末でここに綴られた感想が「美しい誤解」である可能性を但し書きとして添えてもいるのだけれど、あらゆる良書がそうであるように、本書が読者の関心領域に沿った多様な読みに開かれた面白い本であることは間違いない。
by syunpo
| 2009-12-18 21:55
| 文学(小説・批評)
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Comments(2)
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fujita@京都
at 2009-12-20 18:23
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すばらしい書評ですね。敬服しました。
ボローニャは物作りの街でもあります。バイクのDUCATI,車はフェラーリ。伊藤園のお茶パッケージマシンも当地産。 古さを生かし,新しさも兼ね備える。共同組合が大好きで,乞食組合まである。京都も似ているが,完全に負けています。 是非もう一度訪れたい都市です。
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syunpo at 2009-12-20 20:02
fujita@京都さん、
コメントを残していただき、ありがとうございます。 思えば井上ひさしの本を読んだのは久しぶりです。 >ボローニャは物作りの街でもあります ……そうでした。大事な点が一つ抜け落ちていましたね。とくに伊藤園のお茶パーケージマシンの話は面白かったです。 「古さを生かし、新しさも兼ね備える」という点では、京都はまだ日本のなかでは立派な部類ではありませんか。わが大阪はその点ではまったくダメです。 それにしても一度でもボローニャを訪れたことがあるとは羨ましいかぎり。私も是非街の面白さを体感したいと思いました。
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