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二〇世紀を肯定するために〜『映画への不実なる誘い』

●蓮實重彦著『映画への不実なる誘い 国籍・演出・歴史』/NTT出版/2004年8月発行

二〇世紀を肯定するために〜『映画への不実なる誘い』_b0072887_1993730.jpg 二〇世紀を肯定しなければいけない。蓮實重彦はそう宣言する。その根拠の一つとして映画が召喚される。

 ……人類はあまり二〇世紀が好きではなさそうです。音楽会に行けば、やっているレパートリーはほとんど一九世紀のものばかりです。展覧会でも、一九世紀の絵画ばかりに人が集まります。典型的に一九世紀の娯楽であるオペラやバレエがいまでも平然と上演されていながら、二〇世紀の音楽や絵画は集客能力において明らかに劣るという現象が存在しております。文学においても、人々は一九世紀文学のほうが好きであるようです。……
 ……未来に生きる人たちに、二〇世紀はどのように評価されるでしょうか。自分の生きてきた世紀には視線を向けず、もっぱら前世紀の文化遺産ばかりを食いつぶしていた時代と思われるのでしょうか。(p9〜10)


 映画は一九世紀の終わりに一九世紀のテクノロジーを総合するかたちでできあがりながら、二〇世紀に入ってからその全容を人類の前に披露することになった、映画はまさに二〇世紀になって人類が初めて手にすることになった未知の資産である、と蓮實はいう。ところが「人類はいまだに映画の二〇世紀的な役割と機能を充分に理解するにはいたっていない」。

 二〇世紀について考えるにあたって、また二〇世紀が誇りうる何かとして、私は孤独に映画を擁護せざるをえないと思っております。映画が存在したからこそ二〇世紀が好きなのだと公言する私は、まだ少数派でしかありません。しかし、戦争の時代でもあった二〇世紀が映画の時代でもあったという視点がやがては定着することでしょう。それまでの過渡的な言説にすぎないとしても、孤独に言葉を発し続けねばなりません。(p13)

 以上のような認識に基づき、蓮實は二〇〇二年から翌年にかけてせんだいメディアテークで「映画への不実なる誘い」と題する三回の連続講演を行なった。本書はその記録に加筆・修正をほどこしたものである。

 第一章では、映画における国籍という概念がいかに曖昧なものかを明らかにしていく。
 映画においては、良い題材であればどこからでも入手し対価を支払うことがふつうに行なわれる。小説の翻案、リメイクなどは映画作法として常態化している。そこではオリジナルの作品がもっているかにみえる文化的・社会的文脈はいかなる文脈への置き換えも可能である。そのことだけをみても「映画の国籍がいかに危うく、脆いものであるか」理解しうるのだ。
 蓮實はモーパッサンの小説《脂肪の塊》が世界各国でいかに翻案されたかを紹介する。溝口健二の《マリヤのお雪》、旧ソ連のミハイル・ロムによる《脂肪の塊》、米国のロバート・ワイズが撮った《マドモワゼル・フィフィ》、フランスのクリスチャン=ジャックの手になる《脂肪の塊》、朱石鱗が映画化した《花姑女》……といった作品だ。
 すぐれてフランス的と思われていた小説が各国で映画化され、しかも蓮實にいわせるとフランス本国でつくられた作品が最もつまらないという皮肉な結果を生んでいる。
 蓮實はいう。複製であるが故に持ちうる迫力というものが映画にはある、それは唯一無二の正統的な芸術作品が誇る他を圧した輝きではない、類似したものがあたりに氾濫している環境のなかでの、類似を否定することのない差異の迫力といったものなのだ、と。

 第二章では映画の演出を問題にする。
 「映画はごく僅かなもので成立する」という原則をアルフレッド・ヒッチコックの《汚名》を例にとって分析する。そこでは「男と女と階段」(これは「映画とは、女と銃である」というD・W・グリフィスの言葉をもじったフレーズ)だけで映画が成り立っていることが鮮やかに証したてられる。
 階段のシーンは七回でてくるのだが、ヒッチコックはすべて演出を変えており、その都度、登場人物たちの思いや状況がきちんと描きわけられている。この映画において階段の場面をいかに撮るかは、単に演出上のテクニックという次元にとどまらず、そこにこそ映画の生命ともいうべきものが賭けられているのである。

 ジャン=リュック・ゴダールの《映画史》を読み解く第三章は、まさに映画の二〇世紀を語るにふさわしい題材を扱っているかもしれない。もっともゴダールはそこで万人向けの映画史を語っているわけではないのだけれど。
 《映画史》においてはゴダールによって選ばれたフィルムやスチールの断片がモンタージュされている。蓮實はゴダールによる断片化を持続によって回復する試みを披露する。
 ここでの蓮實の語りを簡潔に要約することは困難ではあるが、少なからぬ観客が《映画史》を観た時に感じるであろう「苦悩」を緩和し、あわよくば「悦楽」へと向かわせるような平易な語りがなされているというにとどまらず、《映画史》を観ていない大半の読者にとっても一つの映画論として充分に面白く読めるものである。
by syunpo | 2010-02-07 19:19 | 映画 | Comments(0)
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