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ぼくたちは世界の終わりに生きる〜『クォンタム・ファミリーズ』

●東浩紀著『クォンタム・ファミリーズ』/新潮社/2009年12月発行

ぼくたちは世界の終わりに生きる〜『クォンタム・ファミリーズ』_b0072887_1842917.jpg 今、小説を書こうとすればSF小説のようなものにならざるをえない。柄谷行人がそのような意味のことを話していたのはいつのことだったか。その柄谷に認められて論壇にデビューした東浩紀が初めて単独で小説をものした。当然ながら(?)それはSF小説のような体裁の作品となった。もっとも本人の弁によれば「僕は元々がSF読者。その上に現代思想が乗っている」(毎日jp)ということらしいのだが。

 大学教師で芥川賞候補にもなったことのある作家のもとに、娘と名乗る人物から「未来からのメール」が送られてくる。モニタの彼方にはまったく異なる世界のまったく異なるわたしの人生がある——。アリゾナの砂漠、郊外のショッピングモール、寂れた日本の廃村……舞台が目まぐるしく変転していくなかで「量子家族」のいくつもの物語が語られていく。

 『クォンタム・ファミリーズ』はまず二人の村上を意識した作品であるように思われる。
 村上春樹という固有名詞は作中においても登場人物によって何度か言及されているように、これは『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の世界の二一世紀的な展開といえるのではないか。そしてこの世界ではない別の世界の存在という点では「五分のずれで現れたもう一つの日本」を描いた村上龍の『五分後の世界』を思い起こさせる。

 もちろん物語の構造は両者に比べ数段複雑化していることはいうまでもない。近未来と現代が錯綜する多層的な構成をもつこの作品では、量子力学や精神医学、情報工学などの知識がフル動員されている。タイムトラベリングや並行世界といったSFの世界ではおなじみの仕掛けを採りながらも決して陳腐な印象を与えないのはそのためだろう。

 現代思想の先人の認識も当然ながら随所に織り込まれている。
 現実と虚構の曖昧化という本作の基本構造はボードリヤールのシミュラークル論に依拠したものであろうし、複数の世界がグリッドをずらしつつ重なりあっていくような多層世界は、いうまでもなくジャック・デリダに発する脱構築的なスタイルを強く感じさせるものだ。

 叙述が全般的に状況説明に追われてしまい、「文学の言葉」に触れているという愉悦感を覚える場面には乏しいうらみは残る。しかしながらSF的枠組みと現代思想の先行知を借りながらこれまでの東の問題意識を巧みに小説という形式に仮託して、高度情報化社会の空虚感や家族の解体という今日的な問題とどう向きあっていくべきなのか、私たちに再考を促す労作といえるだろう。
by syunpo | 2010-02-16 18:51 | 文学(小説・批評) | Comments(0)
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