●四方田犬彦著『女神の移譲——書物漂流記』/作品社/2010年3月発行
テオドール・W・アドルノは《文学ノート》において、エッセイという形式をアカデミズムの論文と比較対照しながら称揚している。当時のドイツにおけるアカデミズムが著しい排他性を帯び、認識と叙述をめぐる抑圧的傾向を強めていたことをアドルノは強く批判した。また実証主義は対象に向かい合うに際して形式と内容を平然と分割してしまい、人間の生きて活動している意識を追放してしまった、ともいう。これに対してエッセイは端的にいって精神に自由を促進させる運動にほかならないとして擁護されるのである。 四方田犬彦は〈アドルノへの接近〉と題した一文のなかで以上のようなアドルノの考えを肯定的に紹介して、本書の末尾を飾っている。四方田自身の執筆姿勢にもなるほどアドルノ的なエッセイを志向している面が強く感じられる。すなわち本書は四方田の「精神に自由を促進させる運動」の最近の成果をおさめたもの、とみることができるだろう。 ここでは著者が短くない年月をかけて拘泥してきたり直に付き合ったりしてきた文筆家や映画作家、漫画家たちが取り上げられている。あまたみられる仲間うちでの「贈答品の交換」のような通り一遍の紹介文にとどまらない、一定のボリュームをもってクリティカルに綴られた文章だ。いつものことながら、国境やジャンルの垣根を涼しげに飛び越えて発動される奔放な想像力・思考力にはやはり驚嘆させられる。 冒頭におかれた〈連合赤軍の映像〉は、連合赤軍を題材にした過去の映像作品——熊切和嘉の《鬼畜大宴会》や高橋伴明の《光の雨》を脇に並べつつ、若松孝二の《実録・連合赤軍》について論述したものである。「敗者は映像を持たない」というあの大島渚の名言を引きながら「現在の日本社会における映像の不均衡に果敢にも異を唱え、かつて存在していなかった『総括』と『銃撃戦』の映像を、徹底して当事者の側、敗者の側から築きあげている」と高く評価して、いきなり読者を熱い批評圏域のうちに招き入れる。 インドネシアやタイを訪問し、元活動家や編集者たちと対話した記録〈アチェの浜辺に立つまで〉〈森からの帰還——タイ活動家との対話〉は、彼の地の政治や文化に対する新たな視座を提供してくれる秀逸な論考だ。 また、シオニズムに基づいて建国されたイスラエルと満洲国をダブらせて締め括る〈イスラエル建国と民族浄化〉や、映画作家ラシード・マシュラーウィについての〈ガザから遠く離れて〉には、著者の中東地域に対する見識が明瞭にあらわれていて、とりわけアラブやパレスチナの文化への著者の深い共感が読みとれる。 〈赤塚不二夫の母親〉は表題どおり母親との関係から赤塚不二夫の作品を分析するもので「谷崎潤一郎から寺山修司へといたる日本的なプエル・エテルヌス(永遠の少年)の眷族」に位置づけようとする批評はちまたにあふれている凡庸な漫画論・赤塚論とは次元を異にする面白さだ。 吉本隆明と鶴見俊輔の追悼文を集めた書物を比較検討して、追悼の政治学を抉り出した〈追悼の諸相〉は、題材のユニークさや視点の独自性であらためて批評とは何かということを再考させる。二人を論じる前にボルタンスキーやトリュフォー、デリダの仕事をマクラに振って「友愛」なる概念を仕込んでおくあたりが嫌味なほどに芸達者というべきか。 アルテミスの神話をめぐって歴史的な考察を加える〈女神の移譲〉や、田川建三の《新訳聖書》を論評した〈マタイ福音書の余白に〉は大学で宗教学や比較文学を専攻した著者ならではのエッセイで、ヨーロッパの古代神話やキリスト教に関心の薄い私でもさほど退屈することはなかった。 ディヴィッド・キャラダインの死から韓国映画《いい奴、悪い奴、変な奴》へと飛んで韓国版西部劇ともいえるこの作品を世界映画史の文脈で論じた〈西部劇の舞台としての満洲〉、魔術的なるものに取り憑かれた異色の映画作家をめぐって書かれた〈ダニエル・シュミットあるいは楽園の終焉〉などには映画史研究者としての四方田の本領が遺憾なく発揮されている。
by syunpo
| 2010-06-08 19:38
| 文化全般
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