●ジャン-ポール・サルトル著『嘔吐』(鈴木道彦訳)/人文書院/2010年7月発行
サルトルを初めて読んだのは高校生の時だった。新潮文庫に入っている短編集『水いらず』は思いの外スラスラ読めた(ような気がした)。とくに偶然性の問題に触れた《壁》は面白く読んだ記憶がある。当時は今以上に何でもかんでも因果論で語ってしまおうとする考え方に嘘っぽさを感じていたので、とりわけ私には親しみやすく思われたのかもしれない。ただしそれ以外の本はチンプンカンプンだった。 さて『嘔吐』である。白井浩司が訳して以来、六〇年ぶりの新訳らしい。鈴木道彦の訳なので読む気になった、というのが実際のところだ。 本作は主人公ロカンタンの手記という形式をとる。彼は、浜辺の小石をひろって吐き気をもよおし、避難所たるべきカフェに入って吐き気をもよおす。最初に吐き気を感じた時、恐怖を伴ってはいたが、何に恐怖を感じたのかはわからない。それは身体の不調というよりも、ある種の精神疾患の発症を思わせる。ロカンタン自身「自分が狂ったとは一向に思えない」と記しながら、そのすぐ後段では「狂気の発作だったのだろう」と書きつける。彼はそれを契機に物の存在をめぐってデカルト的さらには現象学的な思索へとずぶずぶと嵌っていく。 やがて公園でマロニエの木──黒い節くれだった塊──と劇的に対面する。一挙にしてヴェールは割かれ、そこで存在についての万人には理解しがたい天啓を得る。普段、存在は隠れているが、しかし存在は私のまわりに私たちのうちにある、すなわち存在は私たちである、と。「もう〈吐き気〉を耐え忍んでいるわけではない。それはもはや病気でもなければ、一時の気まぐれな発作でもない。私自身なのだ」。 かつての恋人アニーと再会したり、図書館でABC順に本を読んでいる「独学者」とランチタイムを過ごした後に、ロカンタンは小説を書こうと決意する。 拍子抜けするような唐突なエンディングを含めてこの作品は異様である。あまりに異様なのでいっそすがすがしい。 鈴木は「実存」「実存する」と訳されてきた“existence” “exister”を「存在」「存在する」と改めた。「実存主義の小説化」「実存主義の聖書」という読解が一般化している本作から「実存」という語句を追い出しただけでも新訳を出す意義があったといえるのではないか。 無論、翻訳の巧拙は私にはわからない。日本語としての読みやすさという点では旧訳も悪くないと思うが、鈴木の訳文はさらに明晰で読みやすい。またロカンタンの想念のうちに紛れ込むフィジカルな表現をより強調したような訳文も面白い。 私は性器に強い失望感を、長く続く不快なむずがゆさを覚えた。(p34) 私は軽い頭痛を感じ始めたが、彼だったらそのかわりに、両のこめかみに治療される権利を痛いほど感じたことだろう。(p149) 私はかすかな熱のように、彼を鳩尾に感じていた。(p159) ロカンタンと独学者は食事の席で対立してしまうのだが、この両者のいずれにもサルトル自身の考えやキャラクターが反映されているように思えた。とりわけ独学者の言葉──「まず行動し、一つの企てのなかに身を投じなければならない。しかる後に反省すれば、すでに賽は投げられており、人は束縛(アンガジェ)されている、というのです」──には、戦後のサルトルの思想の萌芽がみられるのではないか。 鈴木は読売新聞のインタビューに答えて、ロカンタンや独学者の孤独は「今の引きこもりやニートが持っている孤独と通じるものがある」と述べている。とすれば『嘔吐』を古典としてでなく現在進行形のテクストとして、これに今一度向き合うのも一興というべきだろう。
by syunpo
| 2010-11-23 18:35
| 文学(翻訳)
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