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国家的でも市場的でもない〜『闘争のアサンブレア』

●廣瀬純、コレクティボ・シトゥアシオネス著『闘争のアサンブレア』/月曜社/2009年3月発行

 国家的でも市場的でもない〜『闘争のアサンブレア』_b0072887_19352679.jpgアルゼンチンというと日本のジャーナリズムでは、二〇〇一年のデフォルト宣言に象徴されるようなもっぱら政治経済上の破綻や混乱ばかりが伝えられてきた。しかし本書ではまったく別の視点からその時期の動向が吟味に付される。

 政治経済の破綻と反比例するかのように、アルゼンチンでは主に首都郊外の失業労働者を中心とした社会運動が顕在化するようになり、ついには二〇〇二年一二月一九、二〇日に同時的な蜂起となって爆発した。
 それに先立つ一週間ほど前から、政府の統治能力は麻痺状態に陥っていた。様々な規模のストライキやデモが各地で発生し、一九日には政府が戒厳令を宣言。ブエノス・アイレスの住民たちは自宅の窓から身を乗り出して、あるいはバルコニーに出て、鍋を打ち鳴らし始める。「カセロラソ」と呼ばれる抗議行動である。鍋叩きの音やリズムを通じて互いに呼びかけあう行為はまもなく路上へと解き放たれる。かくして住民たちは「いかなる召集を受けることなく、ひとりひとりが自分自身の判断で街路へと繰り出し」て「みんな去れ、ひとりも残るな!」とのスローガンを叫んで政府関係者全員の退場を訴えるとともに、自律的でオルターナティヴな社会の構築を目指すことになる一連の運動の端緒を切り開いたのである。
 政治的にも文化的にも運動のスタイルでみても多様なバリエーションをもつ社会的実践へとつながっていくことになるこの蜂起は、ごく大雑把にいえば米国と国際通貨基金が主導する資本制経済のあり方と代表民主政に対する根源的な不信に発するものであった。

 本書の共著者としてクレジットされているコレクティボ・シトゥアシオネスとは、一九九九年、「運動としての調査」グループとしてブエノス・アイレスで結成された集団のことである。廣瀬純はアルゼンチンの社会動向に強い関心をもって、コレクティボ・シトゥアシオネスの人々と電子メールで対話を行なった。本書はその記録である。

 民衆蜂起を契機として様々な近隣住民グループが生み出され、それらの多くはその場限りで終わることはなかった。アサンブレアとはそうした近隣住民グループによる集会をさすもので、この時期の社会運動の核心ともいうべきものである。
 廣瀬は、このアサンブレアについて三つの意義を指摘している。ネオリベラリズムによってばらばらに断片化された社会を下から再構築する試みであること。代表制政治システムに代わるオルターナティヴを模索する試みであること。都市に暮らす中産階級を中心とした運動であるということ。以上の三点である。

 アサンブレア運動は、失業者のグループをはじめ、オルターナティヴ医療、民衆教育、オルターナティブ経済ネットワークの拡大……などを目指す運動体と水平的な連携を実現しながら、国家や資本制経済に統合されず、搾取関係や従属関係を拒否するような形で運動を展開していった。労働者による工場の占拠といった問題でも積極的なサポートを行なった。

 しかしながら、当然予想されたことではあるが、その後、一連の社会運動は時の経過とともにしだいに勢いを失っていく。
 とりわけペロニスタ左派の学生活動家として七〇年代の闘争を経験したネストル・キルシネルが大統領に就任し、アルゼンチンの再統合に向けた政策を次々と打ち出していく過程で、社会運動は体制派と反体制派に二分されていった。反体制派においても既存の左派政党や労働組合などの枠組みに吸収されみごとに整流されてしまう。コレクティボ・シトゥアシオネスの総括によれば「国家が運動のアクションの中心に何らかのかたちで新たに位置付けられることによって、運動内部での分極化・細分化が決定的なものとなり、そのために地域に結び付いた運動のアクションは根底から弱体化」(p159)する状態へと立ち至ったのである。

 廣瀬は本橋哲也との対論においてアルゼンチンで生じた蜂起の問題点や限界をもはっきり指摘したうえで次のように述べている。

 ……ただ、そうした蜂起の経験を人間の身体・精神がとりうる可能性として記録しておくことには意味があると思います。ぼくたちの身体に何ができるのか、ぼくたちの脳に何ができるのか、そうした目録をつねに更新していくことは後世の人々に勇気と希望を与えるものだとぼくは信じています。(本橋哲也編『格闘する思想』p127)

 おそらく本書はそのような「目録」の実践例の一つとみていいのだろう。なお本書には、イタリアのボローニャ大学で教員をしているサンドロ・メッザドラがコレクティボ・シトゥアシオネスに対して行なった二つのインタビュー記録も収められている。
by syunpo | 2011-01-19 19:56 | 思想・哲学 | Comments(0)
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