●エドワード・W・サイード著『知識人とは何か』(大橋洋一訳)/平凡社/1998年3月発行
エドワード・W・サイードは、一九九三年、英国放送協会(BBC)からの依頼で、六週にわたってラジオ・テレビ講演(初代会長の名にちなんでリース講演と呼ばれている)を行なった。テーマは“Representations of the Intellectual(知識人の表象)”。簡単にいえば「知識人はいかにあるべきか」を論じたのである。本書はその記録である。 サイードはみずからの境遇をもとに、知識人とは何よりも亡命状態にあって思考する者だという。それには現実的な意味と同時に比喩的な意味合いも込められている。 ──知識人とは亡命者にして周辺的存在であり、またアマチュアであり、さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である。(p20) 知識人にとって、こうした比喩的な意味でいう亡命状態とは、安住しないこと、動きつづけること、つねに不安定な、また人を不安定にさせる状態をいう。(p93) サイードは以上のような基本認識について、様々な歴史的事実を引きながら時に理念的に時に具体的に述べていく。亡命知識人の実例として、ナイポールやスウィフト、アドルノらの名が挙げられる。 また《自由論》を著わして自由民主主義を説いたミルが植民地インドにおける自国の圧政については肯定したり、トクヴィルがアメリカ大陸の先住民族に対する差別を糾弾する一方で祖国フランスのアルジェリアにおける武力弾圧については積極的支持を表明したことなど、西洋「知識人」のダブルスタンダードについては批判を加えている。 サイードによれば、知識人のありようを特に脅かすのは、プロッフェショナリズム(専門主義)である。それは生活のために仕事をこなし、自分が波風をたてていないか、あらかじめ決められた規範なり限界なりを超えたところにさまよいでていないか、自分の売り込みに成功しているか……等々を気にかけるような心性をいう。 逆にいえば、アマチュアリズムが知識人の矜持を保つものとして顕揚される。専門家のように利益や褒賞によって動かされるのではなく、愛好精神と抑えがたい興味によって衝き動かされ、より大きな俯瞰図を手に入れたり、境界や障害を乗り越えてさまざまなつながりをつけたり、特定の専門分野にしばられずに専門職という制限から自由になって観念や価値を追求すること。知識人の独創性や意志を脅かす圧力に屈しないためには、アマチュアリズムこそが肝要なのだというのである。 サイードの発言はややもすると図式的にすぎ、国家や権力機構に対する思考の単純化を指摘することは可能だろう。サイードが無批判に使っている「正義」や「自由」という概念じたいも、今日それこそサイード自身が提起した「オリエンタリズム」批判と深く連関しながら再考を促されている諸価値の一つである。 とはいうものの、現実に今なおあからさまな不自由を強いられ、生存のための基本的条件が蹂躙されている人々が少なからず存在していることは紛れもない事実だ。それは政治哲学上の小難しい論争以前の問題である。またサイード自身が歩んだ文字どおり漂泊者的な生涯とそこでのリスクを厭わない果敢な言動を振り返るなら、むしろシンプルな主張ゆえの強さこそがサイードの「知識人」としての真価の一面をあらわしているように思う。
by syunpo
| 2011-02-07 18:52
| 思想・哲学
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