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ブックラバー宣言

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若き俊英の挑発的労働論〜『「労動」の哲学』

●濱本真男著『「労動」の哲学 人を労働させる権力について』/河出書房新社/2011年5月発行

b0072887_1714996.jpg 労働ではなく「労動」。書名に採られたこの言葉にまず留意しよう。なぜこのような区別が必要なのか。労働権力(文字どおり人を労働させる権力をさす)が実際的な労働問題の要因となっていることを説明づけるためである。本書の企図もその一点に尽きる。たとえば「過労死」の根本的要因をグローバリゼーションや日本的「会社主義」に求めるような考えを否定し、労働権力そのものに探ろうとするのだ。
 ここでの権力とは、諸々の闘争の場であることを意味する。フーコーが定義づけた「無数の力関係であり、それらが行使される領域に内在的で、かつそれらの組織の構成要素であるようなもの」として捉えられる。

 労働権力の作動を分析するにあたって濱本は、ハンナ・アレントの『人間の条件』を批判的に参照しながら、労働概念にみる二つの側面を分離させ、別々の概念として提示する。すなわち〈job〉としての「労働」と〈labor〉としての「労動」である。前者は近代の産業社会に包摂された生産的活動として規定されるのに対して、後者は人間の条件としての活動まさに「生そのもの」としての活動を指す。

 「生そのもの」は「思考」を引き起こす。それは人びとを労働へと駆り立てる権力に対して政治力を発揮する契機となりうる。逆にいえば著者は「『労動』の政治力を不可視化し包摂しようとする労働権力に加担してしまっていることについての批判的姿勢がみられない理論に対しては、そのことをもって批判する立場に立つ」(p105)ことになる。
 したがって、イタリア・フェミニズムや「障害者の解放の中に全人間的解放の内容を見出していかなければならない」と宣言した「青い芝の会」の基本理念なども批判の対象となる。結論的にいえば、彼らの実践のみならず理論そのものが「労働のなかに参入しよう、参入させるべきだ」という視点を維持するかぎりにおいて労働権力を補完するものでしかないからだ。

 もっとも、そうした分析じたいはとくに斬新さを感じさせるほどのものではない。
 濱本の分析がおもしろくなるのは、後半、過労死という極めてアクチュアルな問題に対したときである。濱本は、過労死の問題を日本的な現象ととらえて日本特有の要因から過労死の発生を説明しようとする類の社会学的な分析を断固として斥ける。かりに米国流の個人主義の導入をはかってみたところで、当の米国でも「過労死」が発生しているのだから無効といわざるをえない。
 人を死ぬまで働かせてしまうほど苛酷な労働条件が生み出されているとしても、その潮流を表面的に読んでいるかぎり、根本的な原因に行き当たることはない。水面下にある「社会の論理」とその力動をみなければならない。

 詳細は省くが、その視点にたって社会の諸層で作用している労働権力と力同士の葛藤を見出していく著者の手際は鮮やかである。国家と企業の葛藤、企業に内在する葛藤、家庭において働く力の作用をみているのだが、とりわけ「労働が家族という社会的生命の必要によって据えつけられた義務」であることを確認し、過労死をめぐる裁判に触れて「死してなお人を労働させる」ことを指摘するに至る考察には説得力が感じられた。

 時代の潮流から「過労死」問題を読み解こうとしている論者たちは、しばしば最も単純な見解を正当化する努力を怠るばかりか、それを顧みさえしない。すなわち、死ぬまで働かされるのが嫌なら労働を止めてしまえばよい、ということを殆ど念頭におかない。念頭におかないのは、当の論者たちが「人を労働させること」を目的とする社会の論理につき従っているからであろうか。いや、おそらくそうではなく、労働をやめてしまえば生きることができない、という半ば自明の事実を受け容れているだけなのだろう。しかし、その事実もまた社会の論理の産物である、と疑ってみるべきではないだろうか。(p127)

 とはいえ「社会の論理」をたずさえた労働権力への対抗は生易しいものではない。濱本はひとまず次のように述べる。

 労働(=認識)によって阻害されていた「労動」の精神的側面としての思考を「ただ生きていること」の下に取り戻すこと、それによって充足される「労動」の完全なる定義は、アレントの声を借りたソクラテスによれば「十全に生きること」であり、意味の探求である。(p148)

 だが、この後段では留保の言葉が付け加えられる。

 意味の探求としての思考自体は無駄であり、「過労死」問題はおろか、どんな問題にも解答を与えることは不可能である、と結論付けてもよいといいたいのである。その上で、「過労死」を典型とする諸問題に解答を与える可能性は思考自体ではなく思考に関連して「開かれる」何かに存するのだ、といいたい。(p153)

 思考に関連して「開かれる」何かの一例として、本書ではアレントを引いて「芸術」に言及しているのだが、それにしても「芸術という逆説的な力動についての理解を発展させたときに見えてくるはずの意味の全体像とはいかなるものなのか、ということについては明らかになっていない」と今後の課題を示す形で終わっている。

 この本を読んでもあまり元気はでない。むしろヘタに元気をふりしぼることを戒めている本なのだ。しかしだからといって本書が単なるシニシズムやニヒリズムに堕した思索の跡を披瀝したものでないことも明らかである。「労動」=生そのものが簡単に実現できるものなら、誰も苦労しない。
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by syunpo | 2011-06-22 20:05 | 思想・哲学 | Comments(0)
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