●フランツ・カフカ著『ノート2 掟の問題』(池内紀訳)/白水社/2006年10月発行
本書はフランツ・カフカが残した手稿のうち一九一七年(カフカが喀血して結核との診断を受けた年)秋以降に記されたものを集めている。未完成のものがけっこう多く、〈父への手紙〉のような個人的な文書も収録されていて、『ノート1』に比べると面白味には欠けるが、カフカ研究者にとっては貴重なテクストも含まれていることだろう。 肉親への手紙にしては異常に長い〈父への手紙〉を読むと、カフカという異能の文学者がいかに父親の存在に困惑し父子関係に苦しんでいたかがよく伝わってくる。子供の頃の父親の態度をよく記憶していて、それがどれほど自分を抑圧し傷つけるものであったかをこれでもかこれでもかと指摘し続けるのである。成人してもなお父に対してこのような感情を抱き続けていたとはいささか異様にも感じられる。カフカ作品における不安や鬱屈した世界のありさまは、こうした幼少時からの父子関係を多分に反映したものでもあるのだろうか。 ちなみにこの手紙は標題どおり父に宛てて書かれたものだが、母があずかって一読し、夫に手渡すことはなかった。手紙は母から子に戻された。理由は「父さんが悲しむから」。 創作としては、末尾に収められている〈巣穴〉がなかなかおもしろい。アナグマらしき動物が独力でつくりあげた巣穴についてひたすらモノローグをつづけるという作品である。 安全に快適に暮らすために巣穴にどのような工夫をほどこしのか。迷路のような通路をつくったり、砦でもある大広場に食糧を備蓄したり……と巣穴の素晴らしさについてあれこれ言及される。しかしその後、食糧を一か所に集中させていることは危機管理の点で問題だとして小広場に食糧を分散させるのだが、その後また考えが変わり元に戻したりする。気晴らしに外に出て猟を楽しんだりもするけれど、巣穴が気になって長い時間入口付近で見守るはめになる。 このあと巣穴に帰ろうとするも、自分の知らない間に外敵が巣穴に入りこんでいることを妄想したりして、なかなか巣穴に戻る決心がつかない。躊躇の末に巣穴に戻るとどこからともなく物音が聞こえてきた。巣穴のどこにいても音は一定で変わらない。なんとも不気味だ。外敵が自分を狙っているのか、こちらのことは知らずに巣穴を掘っているだけなのか、あるいは幻聴なのか……。 ここには恐怖や不安の典型的なありようが描かれている。正体不明のもの。これは恐怖や不安の源泉だ。相手がどのような存在なのかわからない、いや実在しているものかどうかさえ判然としない。こうした状態ほど人をいらつかせ不安に陥れるものはないだろう。 〈巣穴〉の語り手「わたし」は、この恐怖に狼狽える可愛らしくも脆弱な存在である。興味深いのは、当初は生活上の不安や恐怖を和らげるために知恵を結集して構築したはずの巣穴がさらなる恐怖を生み出してしまう点にある。巣穴には自分の知恵や世界観までもが凝縮されているのだが、そのような拠点的なものがかえって懸念や不安の材料を増やしてしまうという逆説。 あえて凡庸な読みをすれば、語り手「わたし」とはまさしくカフカ自身ではあるまいか。半生を費やしてあれこれ軌道修正を繰り返しながら地下に築きあげた巣穴とはとりもなおさずカフカ自身が書き続けてきた文学作品そのものを暗喩しているようにも思える。当然「書く」という行為には、恐怖さらには畏怖のような想念も付随していることだろう。書きあげた作品には批判や中傷がつきものであることは、外敵が巣穴を攻撃目標とすることもありうる点で相似的である。巣穴の構築や維持をめぐる試行錯誤は文学の困難にも通じているに違いない。 目にみえぬ外敵とはいかなる存在なのか。「わたし」や巣穴はどうなってしまうのか。 カフカはこの作品の結末について主人公は近づいてくる外敵との闘いに敗北する予定であることを恋人に話していたらしい。けれどもそこまで描いてしまうとかえってつまらないのではないか。この作品が中途半端な形で途絶えているのは残念には違いないけれど、未完成という宙ぶらりんの状態こそがこのテクストにふさわしい気もする。
by syunpo
| 2011-07-22 19:27
| 文学(翻訳)
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