●イマヌエル・カント著『純粋理性批判2』(中山元訳)/光文社/2010年5月発行
カントは人間の認識を成立させる二つの能力として「感性」と「知性」を取り出した。本シリーズ第一巻では感性論を扱ったが、第二巻では知性を分析する論理学を俎上にのせる。感性一般の規則の学が感性論(エステティーク)であるとすれば、知性一般の学は論理学(ローギク)である。本書ではそのうちの概念の分析論を取り扱う。具体的には〈超越論的な分析論〉の第一篇〈概念の分析論〉が収められている。 カントは概念には経験的な概念と純粋(アプリオリ)な概念があると考えた。後者が「カテゴリー」と呼ばれるもので、本書では「量」「性質」「関係」「様態」に分類されて列挙されている。これが人間の認識のすべての領域をカバーするのである。このカテゴリーをいかに根拠づけるかが本書のメインテーマといってもいい。ちなみにこれまでは「演繹論」と訳されてきた語句が本書においては「根拠づけ」と訳されているのが注目される。 〈感性〉による直観が可能であるための最高の原則は、直観に含まれるすべての多様なものが、空間と時間という形式的な条件にしたがうということだった。そして〈知性〉に関するすべての直観が可能であるための最高の原則は、直観に含まれるすべての多様なものが、自己統合の意識の根源的で統一の条件にしたがうということである。(p123) ここで言われている〈自己統合の意識〉とは、従来〈統覚〉と訳されてきたものである。この自己統合の意識こそが「わたしは考える」という像を生みだす自己意識なのである。自己統合の意識の超越論的な統一が客観的なものであることは、カテゴリーの適用によって保証される。 主体が論理的な判断という形式で対象を認識したときには、すでにさまざまなカテゴリーが働いている。すなわち「与えられた直観のうちに含まれる多様なものもまた、必然的にカテゴリーにしたがう」ことになる。 かくしてカントのコペルニクス的転回といわれる次のような命題が成立することとなる。 ──自然が必然的な法則をそなえているのは、自然がそうした法則にしたがって運動しているからではなく、人間がカテゴリーに基づいて、自然に必然的な法則を与えたからである。自然を認識することができるのは、カテゴリーの働きによってのみなのである。 ちなみに原書第一版では、知性と感性を結びつける根源的な役割をはたすものとして〈超越論的な想像力〉が強調されていた。「多様なものを総合する別の能力」として想像力が働く必要があるとされたのだ。この場合の想像力はあくまで感性に属するものとしてある。 しかし第二版になると想像力の役割はやや後退した。自己統合の意識が「直観に与えられたすべての多様なものを、客体についての概念と結合する役割を果たす」のだという。いわば想像力は知性に属する自己統合の意識にふさわしい形で、感性に属する感覚能力を規定するのである。 このあたりのカントの書きぶりは(その改訂も含めて)一般読者には必ずしも理解しやすいものではない。訳者の中山元もカントの想像力という概念の取りだし方は「どこか手品のようにみえる」と解説している。 また黒崎政男は『カント『純粋理性批判』入門』において、そもそもカントの〈想像力=構想力〉なるものは「感性的な面と悟性的な面の両面を未分化の形で有しており、感性・悟性のいずれか一方に吸収されることのできないもの」と考えるべきだと述べていて、参考になった。
by syunpo
| 2012-11-13 18:38
| 思想・哲学
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